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本能の目覚め
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買い物袋を手に、祐樹は夕暮れの街を歩いていた。薄紫色に染まる空を見上げながら、彼は過去の記憶から現実へと意識を引き戻す。二年間の留学で追いやっていた感情が、今また湧き上がってくる。
深いため息が、白い息となって冷えた空気に溶けていく。二年という時間は、姉への喪失感を少しだけ和らげてくれたかもしれない。しかし、だからこそ皮肉にも、一狼への想いは輪郭をよりはっきりと浮かび上がらせていた。むしろ、再会によってその感情はより強く、より入り組んだものとなっている。
マンションの入り口に立ち、祐樹は一瞬躊躇した。ガラスドアに映る自分の姿が、不安げに揺れている。この家で、この感情と共に生きていけるのだろうか。答えはわからなかったが、今は前に進むしかない。
「ただいま」
祐樹が部屋に戻ると、返事はなく、静寂だけが彼を迎えた。その静けさが妙に耳に残る。広いリビングは薄暗く、誰もいない空間は異様なほど冷たい。買い物袋をキッチンカウンターに置いたとき、LINEの通知音が静寂を破った。
画面を見ると、一狼からのメッセージ。
『思いのほか手術が長引きそうだ。今日は帰れそうにないから、俺のことは気にしないでくれ』
祐樹は何の感情もなく、ただ淡々と納得した。医師の仕事だから仕方ない。それは当然のこと。簡潔な返信を打ち、買い物袋から食材を取り出し始める。野菜の瑞々しさが指先に伝わってくる感触が、僅かに彼の気持ちを落ち着かせた。
「じゃあ、一人分だけ作ればいいか」
シンプルなクリームパスタを作りながら、祐樹は頭に軽い痛みを感じ始める。こめかみがズキズキと脈打ち、視界が僅かにぼやけた。時差ボケがまだ残っているのかもしれない。昨夜もあまり眠れず、何度も目を覚ましていたから。
完成した料理を前に、祐樹は箸を持ったものの、急に食欲がない。代わりに喉の渇きを強く感じる。まるで砂漠を歩いた後のような、異常な乾きだった。冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、一気に飲み干す。冷たい水が喉を通り、胃に落ちていく感覚が心地よかったが、それでも渇きは癒えない。
「なんか調子悪いな…」
食事を半分も食べずに片付け、祐樹は自分の部屋に向かった。階段を上るごとに、脚の力が抜けていくような感覚がある。体に鉛を詰め込まれたような重さを感じた。上着を脱ぐと、シャツが汗で背中に張り付いて、水を浴びたかのように濡れている。ベッドに横になると、すぐに熱が全身に広がった。
「風邪でも引いたかな…」
枕元に置いた水を飲もうとしたが、喉を通るとすぐに吐き気がこみ上げてきた。時間が経つにつれ、体は異常な熱さを帯び、息が荒くなる。まるで内側から焼かれるような感覚。そして突然、鼻に何かの匂いが強く感じられた。甘くて深みのある、清々しくも力強い、男性的な香り。
祐樹は無意識に体を起こした。その匂いが欲しい。その匂いが近くにあるはずだ。何かに導かれるように、彼は立ち上がった。
ふらつく足で部屋を出て、廊下を進む。壁に手をつきながら、まるで何かに引き寄せられるように、一狼の部屋のドアの前に立っていた。今までこの部屋に入ったことはなかった。ここは姉と一狼の聖域だったはずだ。
「なにしてるんだろう、僕…」
自問しながらも、手はドアノブを回していた。鍵はかかっていなかった。部屋に足を踏み入れた瞬間、一狼の匂いが波のように祐樹を包み込む。それは昨日感じた匂いよりも遥かに強く、祐樹の全身を熱く震わせた。脳髄まで染み込むような官能的な香り。
部屋の中央に大きなベッドがあり、整然と整理された書棚、そして窓際には医学書が積まれた机。全てが一狼らしい清潔さと秩序を感じさせる。壁には二枚だけ飾られた写真——姉と一狼の笑顔が収められたもの。祐樹はそれを一瞬見つめたが、すぐに目を逸らした。罪悪感が胸をちくりと刺したが、それすら今の祐樹の状態では遠い感覚だ。
祐樹は匂いに導かれるまま、クローゼットへと向かった。扉を開けると、一狼のスーツやシャツが整然と並んでいる。ハンガーごとに色が揃えられ、季節ごとに分類されていた。理性の残滓が「何をしているんだ」と叫んでいたが、それ以上に強い衝動が彼を支配している。
手を伸ばし、一狼のシャツを一枚、二枚と取り出す。その滑らかな生地を頬に当て、匂いを深く吸い込むと、全身が震えた。鳥肌が立ち、背筋に電流が走るような快感。もっと欲しい。もっと近くに感じたい。もっと強く、濃く。
次に祐樹の目に入ったのは、ベッドの上に置かれた一狼の白衣。毎日着用する何枚かあるスペアの一つだろう。祐樹はその白衣を手に取り、顔を埋める。刺激的な匂いに、脳が快楽物質で満たされていくような感覚。
「一狼くん…」
自分の声が、いつもと違う甘さと色気を帯びていることに、祐樹はうっすらと気づいていた。喉から漏れる声は低く、湿り気を含む。しかし、今はもう考えることができない。何かが足りない。体の奥から湧き上がる空虚感が彼を支配する。
祐樹は本能のままに行動し始めた。一狼のクローゼットからシャツ、セーター、時にはネクタイまで取り出し、ベッドの上に運ぶ。それらを丁寧に、しかし急ぐように並べていく。白衣を中心に、他の衣類でふちどるように、まるで巣を作るかのように。
この行為が何を意味するのか、祐樹自身は意識していなかった。しかし、彼の体は確かに知っていた。
これはオメガが本能的に行う「巣作り」だということを。
全ての準備が整うと、祐樹はその中心に体を丸め、一狼の白衣を抱きしめた。もはや理性は完全に溶け、本能だけが彼を導いていた。体の奥から湧き上がる熱と、下腹部の疼きが彼の脳内を溶かす。
シャツの前ボタンを外し、肌を露わにする。熱気を放出したい欲求と、一狼の匂いを全身で感じたい欲求。相反する感情が祐樹を混乱させる。
「はぁ…はぁ…」
荒い息と共に、祐樹は一狼の名を呟き続けた。汗で濡れた肌が白衣に触れ、その感触が新たな波の快感を送り込む。彼の匂いに包まれながら、自分の体に起きていることの意味を、薄れゆく意識の中でようやく理解し始めていた。
これは熱でも時差ボケでもない。
(発情期、ヒートだ)
祐樹は、ベータではなく、完全なオメガとして目覚めつつあった
深いため息が、白い息となって冷えた空気に溶けていく。二年という時間は、姉への喪失感を少しだけ和らげてくれたかもしれない。しかし、だからこそ皮肉にも、一狼への想いは輪郭をよりはっきりと浮かび上がらせていた。むしろ、再会によってその感情はより強く、より入り組んだものとなっている。
マンションの入り口に立ち、祐樹は一瞬躊躇した。ガラスドアに映る自分の姿が、不安げに揺れている。この家で、この感情と共に生きていけるのだろうか。答えはわからなかったが、今は前に進むしかない。
「ただいま」
祐樹が部屋に戻ると、返事はなく、静寂だけが彼を迎えた。その静けさが妙に耳に残る。広いリビングは薄暗く、誰もいない空間は異様なほど冷たい。買い物袋をキッチンカウンターに置いたとき、LINEの通知音が静寂を破った。
画面を見ると、一狼からのメッセージ。
『思いのほか手術が長引きそうだ。今日は帰れそうにないから、俺のことは気にしないでくれ』
祐樹は何の感情もなく、ただ淡々と納得した。医師の仕事だから仕方ない。それは当然のこと。簡潔な返信を打ち、買い物袋から食材を取り出し始める。野菜の瑞々しさが指先に伝わってくる感触が、僅かに彼の気持ちを落ち着かせた。
「じゃあ、一人分だけ作ればいいか」
シンプルなクリームパスタを作りながら、祐樹は頭に軽い痛みを感じ始める。こめかみがズキズキと脈打ち、視界が僅かにぼやけた。時差ボケがまだ残っているのかもしれない。昨夜もあまり眠れず、何度も目を覚ましていたから。
完成した料理を前に、祐樹は箸を持ったものの、急に食欲がない。代わりに喉の渇きを強く感じる。まるで砂漠を歩いた後のような、異常な乾きだった。冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、一気に飲み干す。冷たい水が喉を通り、胃に落ちていく感覚が心地よかったが、それでも渇きは癒えない。
「なんか調子悪いな…」
食事を半分も食べずに片付け、祐樹は自分の部屋に向かった。階段を上るごとに、脚の力が抜けていくような感覚がある。体に鉛を詰め込まれたような重さを感じた。上着を脱ぐと、シャツが汗で背中に張り付いて、水を浴びたかのように濡れている。ベッドに横になると、すぐに熱が全身に広がった。
「風邪でも引いたかな…」
枕元に置いた水を飲もうとしたが、喉を通るとすぐに吐き気がこみ上げてきた。時間が経つにつれ、体は異常な熱さを帯び、息が荒くなる。まるで内側から焼かれるような感覚。そして突然、鼻に何かの匂いが強く感じられた。甘くて深みのある、清々しくも力強い、男性的な香り。
祐樹は無意識に体を起こした。その匂いが欲しい。その匂いが近くにあるはずだ。何かに導かれるように、彼は立ち上がった。
ふらつく足で部屋を出て、廊下を進む。壁に手をつきながら、まるで何かに引き寄せられるように、一狼の部屋のドアの前に立っていた。今までこの部屋に入ったことはなかった。ここは姉と一狼の聖域だったはずだ。
「なにしてるんだろう、僕…」
自問しながらも、手はドアノブを回していた。鍵はかかっていなかった。部屋に足を踏み入れた瞬間、一狼の匂いが波のように祐樹を包み込む。それは昨日感じた匂いよりも遥かに強く、祐樹の全身を熱く震わせた。脳髄まで染み込むような官能的な香り。
部屋の中央に大きなベッドがあり、整然と整理された書棚、そして窓際には医学書が積まれた机。全てが一狼らしい清潔さと秩序を感じさせる。壁には二枚だけ飾られた写真——姉と一狼の笑顔が収められたもの。祐樹はそれを一瞬見つめたが、すぐに目を逸らした。罪悪感が胸をちくりと刺したが、それすら今の祐樹の状態では遠い感覚だ。
祐樹は匂いに導かれるまま、クローゼットへと向かった。扉を開けると、一狼のスーツやシャツが整然と並んでいる。ハンガーごとに色が揃えられ、季節ごとに分類されていた。理性の残滓が「何をしているんだ」と叫んでいたが、それ以上に強い衝動が彼を支配している。
手を伸ばし、一狼のシャツを一枚、二枚と取り出す。その滑らかな生地を頬に当て、匂いを深く吸い込むと、全身が震えた。鳥肌が立ち、背筋に電流が走るような快感。もっと欲しい。もっと近くに感じたい。もっと強く、濃く。
次に祐樹の目に入ったのは、ベッドの上に置かれた一狼の白衣。毎日着用する何枚かあるスペアの一つだろう。祐樹はその白衣を手に取り、顔を埋める。刺激的な匂いに、脳が快楽物質で満たされていくような感覚。
「一狼くん…」
自分の声が、いつもと違う甘さと色気を帯びていることに、祐樹はうっすらと気づいていた。喉から漏れる声は低く、湿り気を含む。しかし、今はもう考えることができない。何かが足りない。体の奥から湧き上がる空虚感が彼を支配する。
祐樹は本能のままに行動し始めた。一狼のクローゼットからシャツ、セーター、時にはネクタイまで取り出し、ベッドの上に運ぶ。それらを丁寧に、しかし急ぐように並べていく。白衣を中心に、他の衣類でふちどるように、まるで巣を作るかのように。
この行為が何を意味するのか、祐樹自身は意識していなかった。しかし、彼の体は確かに知っていた。
これはオメガが本能的に行う「巣作り」だということを。
全ての準備が整うと、祐樹はその中心に体を丸め、一狼の白衣を抱きしめた。もはや理性は完全に溶け、本能だけが彼を導いていた。体の奥から湧き上がる熱と、下腹部の疼きが彼の脳内を溶かす。
シャツの前ボタンを外し、肌を露わにする。熱気を放出したい欲求と、一狼の匂いを全身で感じたい欲求。相反する感情が祐樹を混乱させる。
「はぁ…はぁ…」
荒い息と共に、祐樹は一狼の名を呟き続けた。汗で濡れた肌が白衣に触れ、その感触が新たな波の快感を送り込む。彼の匂いに包まれながら、自分の体に起きていることの意味を、薄れゆく意識の中でようやく理解し始めていた。
これは熱でも時差ボケでもない。
(発情期、ヒートだ)
祐樹は、ベータではなく、完全なオメガとして目覚めつつあった
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