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深層
急転変革
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宇津井翔人という人間は決して頭のキレる人間ではなかった。どちらかと言うならば平々凡々を絵に描いたような人物であった。魔術と出会うまで。
悪い友人を持ってしまったが故に高校を中退してしまった宇津井は、その後すぐに付き合いのあった友人の父親が営む建築関係の仕事に就いた。先輩から怒鳴られる毎日であったが、彼なりに充実した日々に違いはなかった。
そんなある日の出勤時、宇津井は社長室へと呼ばれた。アクリル板越しに事務所の様子が伺える簡素な社長室に宇津井が入るや否や、友人の父親でもある社長は親しみのある声音で告げてきた。「翔人くん、君は会社の金を奪った」
唐突に告げられたは、謂れのない事実だった。あまりに突然のことで鈍っていた思考がようやく追いすがってくると、宇津井は軽い笑いを以って返す。「なんの冗談ですか」
しかし、「冗談ではないよ」社長の顔に笑みは浮かばない。「君は会社の金を奪って逃走した」
不意にアクリル板の向こうへ目をやると、社長室の様子を遠目に見ていた友人が咄嗟に目を逸らして俯いたのが見えた。ようやくそこで気付く。ハメられた。
急速に早まった心拍数は功を奏し、スムーズに踵を返して走る動作に移行できた。一刻も早くこの場から逃げ出さなければならない。ドアを開け事務所へと飛び出る。
逃すな。背後から社長の怒声が聞こえてくる。何事かと戸惑っている他の社員たちがその命令に従事しようとするよりも早く、宇津井は出入り口へと向かう。幸い、そう広い事務所でもない。椅子に収まっていた社員が立ち上がる頃には戸はもう目前へと迫っていた。
スライド式のドアに手を掛けようとした際、作業着の背を乱暴に掴まれた。瞬時に横目で確認すると、友人の複雑そうな表情があった。だが、ドアは大仰な音を立てて開き切っていた。
ごめん。そんな呟きが聞こえた気がした次の瞬間、掴まれていた感覚が弱まった。勢いに任せて再び走り出そうとすると、いとも容易く外界へと逃げ果せた。そのまま走り行く途中、振り返った先に見えた宇津井の背を見送る友人の目は空虚に覆われていた。
後に聞いた話では、友人の父親の会社の経営難の程はかなりのものだったらしい。窃盗による保険金を目当てに始めから友人と親しい間柄の宇津井を雇ったのだった。
実家を出てアパート暮らしをしていた宇津井は、自宅のアパートに戻ると強迫観念に駆られるまま必要最低限の荷物を持ってアパートを後にした。
駅へと向かう途中、幾度となく実家へ戻る選択肢が脳裏にチラついた。が、その都度あたまを振ってそんな考えを払い除けた。友人やその父親に居場所がバレる可能性はできるだけ減らすに限る。
駅に辿り着いた宇津井はとりあえず最低運賃の切符を買い、ちょうど入って来ていた上りの電車に飛び込んだ。当て所もない旅の開始である。出来るだけ遠くへ。ただそれだけを念頭に空いている手近な座席へと腰を下ろした。
ぼんやりと過ごしている内、終点を告げるアナウンスが宇津井を認め難い現実へと連れ戻す。
とりあえず電車を降りる。閑散としたホームのベンチに腰を下ろし、頭を抱えるようにして思考の迷路へと没入する。
これからどうする。頻りに頭の中を巡り揺蕩う言葉に辟易としてきた頃、ふと顔を上げた宇津井の視界に見知らぬ少女の顔が大きく映り込んできた。「うわっ」
驚きに合わせて仰け反った宇津井の様子を眺めながら、その少女はくすくすと笑う。見た目から推察される歳の頃は十歳前後だろうか。黒くてしなやかな長い髪を左右で二つに結わいている。年相応の幼い顔付きだが、輪郭がシャープなせいか素の表情に戻った際、どこか大人びた雰囲気を醸す瞬間がある。
「お兄さんも、人生の終わりを経験したんだね」
笑みを沈めた少女は呟くようにして言う。お兄さんも。その一言が意味するところとは、少女の身の上が悲惨なものであるという事に他ならない。
待て。宇津井の警戒心が不意に鋭さを増す。「どうして知ってる?」
「匂いがしたの」少女はまた小さく笑う。「絶望の匂い」
警戒心は不信感へと、そして困惑に姿を変容させて落ち着く。どことなく感じていた少女のあどけなさは薄れ始め、宇津井の目には大層に気味の悪い存在に映り出す。「君はいったい何者なんだ」
少女の黒い瞳がその彩りを深めた。魔術師だよ。
*
沙羅の足は樹津第一支部へと向いていた。第二支部の居住まいとは打って変わり、第一支部はこ洒落たデザインの三階建ての建物を一軒まるまる所有していた。入り口には例の如く偽装の為の社名が刻まれたプレートがあった。
サンティア株式会社。うちの支部長よりはマシなセンスね。沙羅は小さく鼻で笑うと、ガラス張りの自動ドアをくぐった。
内装の方は見た目に反して小ざっぱりとしている。中央を頭上の採光窓まで吹き抜けに造り、各部署をフロア毎に分けている。一階は表向きの仮部署だろう。入り口のすぐ脇に立てられた案内板に情報統括部と記されている。
再び内部へと目を向ける。受付のカウンターを除けば、左右に一つずつドアが連なり、壁は一面のガラス張り。中では非魔術師員と思しき数名が部屋の中央に設置される円形のテーブルに集い、楽しげに談笑している。かと思えば、もう一方の部屋では男がひとり同じような円形テーブルでパソコンと睨み合いあっているのが見える。
談笑していたグループのひとりがこちらに気付いたようで、笑みを残しつつ駆け足でドアをくぐってきた。「何か御用でしょうか?」
受付カウンターはそのままフェイクに違いないなかった。揶揄する意味も込めてカウンターの方を眺め見ながら沙羅は男へ告げる。「支部長に取り次いでくれる」
急ぎだから。言葉尻にそう付け加えると、男は怪訝な表情を向けてきた。「支部長とは、どう言った意味でしょうか」
非魔術師員に対して顔パスとはいかないか。沙羅は面倒に思いつつも、日本魔術師協会員に配られる彼岸花を模したバッチをポケットから取り出して、見せる。
男はようやく納得した様子を示したものの、尚も食い下がる。「支部長へのアポは取ってますか?」
沙羅の我慢は限界に達した。「もういい」男を置き去りにして奥に見える階段へと歩き進める。男が制して来るが、構うことはない。
二階を通り過ぎ、三階へと至った。造り自体は変わらないものの、吹き抜けの空間を挟んだ対面は左右で似ても似つかない空間が広がる。一方は魔術師たちの待機場所だと思われる。一階に比べて備品の質が一見しただけでその違いを理解できるレベルである。
目的の部屋は他と同じように一面がガラス張りであるは変わらないが、スモークガラスで内部が見えないようになっている。備え付けられた扉の方も他に比べてやや重厚感のある材質が用いられている。大企業の社長室そのものである。
依然として背後から制そうとする男声が止もうとしない。そして、それを意に介そうともしない沙羅の様相もまた然り。スモークガラスに沿って歩き、無駄に威厳を振りまくだけの扉をノックもせずに開け放つ。「お邪魔しまーす」
広い空間に余白を持たせるだけ持たせた支部長室は、良くも悪くもがらんとしている。木目の濃い大仰な机がひとつあるだけ。背後にはブラインドの降りた一枚張りのガラス。狙い通りなのがやたらと鼻について疎い沙羅ではあるが、この部屋を一見して荘厳な雰囲気を覚えたのは事実であった。
革張りの偉ぶったでデザインの椅子に深く腰を据えていた第一支部の支部長である恙木平和は、こちらを唖然とした表情で眺めている。やがて我に返ったように声を荒げた。「誰だ」
開けっ放しの扉から男がおっかなびっくりに覗いている姿を横目に、沙羅は微塵も臆すことなく恙木の方へと歩み進める。「この顔に見覚えがない?」
ブラインドの些細な隙間から射した光に照らし出された顔を確認した恙木が息を呑んだ。「黒瀬、纏」
痩身だがしっかりとした印象を覚える顔の恙木ではあるが、今し方に拵えるその表情は背後で震えているであろう非魔術師員の男と良い勝負である。
「単刀直入に訊くけど、こっちに入ってきてるノッカー関連の情報を渡して」
ノッカー。恙木はその単語を聞くや、意外そうな顔を浮かべる。「今度の狙いは連中か」
沙羅は経緯を説明する手間を省こうと、先程から握り持っていた協会員のバッチを恙木の方へ投げた。「今の私は第二支部所属の魔術師」
「第二支部……なら白黒はお前ではないという事か」
万里子の言っていたことは本当だったのか。沙羅は自らの魔術師協会に置かれた微妙な立場を改まって理解した。
「そんな事より、早く情報が欲しいんだけど」
「情報も何も、第二支部が保有している以上の情報はないぞ。協会内の情報は一次元的に共有する規則なんでな」
表情から審議を確かめられる要素はない。紛いなりにも支部の長であるということか。沙羅は焦ったさを覚えてなお、退く姿勢を示さないことに努めた。「あれだけで?」
「そう思うのなら」恙木の内に芽生えていた動揺もここに至って鎮静されてしまったようで、声音に余裕の色が燈る。「君自身で調べればいい」
これ以上の駆け引きは分が悪くなるだけだ。沙羅は不本意ながら暫し恙木を睨んだ後、踵を返した。
「うちの魔術師にひとり」歩き去ろうとした際、恙木が独り言のように呟いた。「仕事不熱心な奴がいて困っている」
思わず振り返ってみるも、恙木はすでに椅子を回転させた後であった。豪奢な椅子の後ろ姿だけが確かな荘厳さを以ってそこに在った。
支部長室を後にした沙羅は、未だドアの側でそわそわと落ち着かない様子でいた男に声をかける。「今日、ここの所属の魔術師は全員いる?」
恐らくは。覇気がなく、うわ言のような返事を耳にすると沙羅は歩みを再開させて向かいの部屋へと向かう。男の靴音がその後に続く。
「支部長と知り合いだったんですね」
男の声に、沙羅は足を止めた。
「むしろ、私を知らないのはアンタだけじゃない?」
向かい合い、敢えてマジマジと自らの顔を見せてやる。が、何故か男は気まずそうに目を逸らす。「確かに、一度見たら忘れられない顔かも」
頰がやたらと紅潮して見える。そこで沙羅は思い至る。「アンタ童貞?」
「な」男は急に慌てた様子で向き直ってくる。「違うよ」
図星だったか。他人のデリケートな問題を土足で踏み躙ってしまった自覚が小さな罪悪感となり沙羅の口から漏れ出す。「なんか、ごめんね」
しかし男は、返って顔を紅潮させた。「謝るなよ」
人付き合いは難しい。改めて沙羅はそう思った。
悪い友人を持ってしまったが故に高校を中退してしまった宇津井は、その後すぐに付き合いのあった友人の父親が営む建築関係の仕事に就いた。先輩から怒鳴られる毎日であったが、彼なりに充実した日々に違いはなかった。
そんなある日の出勤時、宇津井は社長室へと呼ばれた。アクリル板越しに事務所の様子が伺える簡素な社長室に宇津井が入るや否や、友人の父親でもある社長は親しみのある声音で告げてきた。「翔人くん、君は会社の金を奪った」
唐突に告げられたは、謂れのない事実だった。あまりに突然のことで鈍っていた思考がようやく追いすがってくると、宇津井は軽い笑いを以って返す。「なんの冗談ですか」
しかし、「冗談ではないよ」社長の顔に笑みは浮かばない。「君は会社の金を奪って逃走した」
不意にアクリル板の向こうへ目をやると、社長室の様子を遠目に見ていた友人が咄嗟に目を逸らして俯いたのが見えた。ようやくそこで気付く。ハメられた。
急速に早まった心拍数は功を奏し、スムーズに踵を返して走る動作に移行できた。一刻も早くこの場から逃げ出さなければならない。ドアを開け事務所へと飛び出る。
逃すな。背後から社長の怒声が聞こえてくる。何事かと戸惑っている他の社員たちがその命令に従事しようとするよりも早く、宇津井は出入り口へと向かう。幸い、そう広い事務所でもない。椅子に収まっていた社員が立ち上がる頃には戸はもう目前へと迫っていた。
スライド式のドアに手を掛けようとした際、作業着の背を乱暴に掴まれた。瞬時に横目で確認すると、友人の複雑そうな表情があった。だが、ドアは大仰な音を立てて開き切っていた。
ごめん。そんな呟きが聞こえた気がした次の瞬間、掴まれていた感覚が弱まった。勢いに任せて再び走り出そうとすると、いとも容易く外界へと逃げ果せた。そのまま走り行く途中、振り返った先に見えた宇津井の背を見送る友人の目は空虚に覆われていた。
後に聞いた話では、友人の父親の会社の経営難の程はかなりのものだったらしい。窃盗による保険金を目当てに始めから友人と親しい間柄の宇津井を雇ったのだった。
実家を出てアパート暮らしをしていた宇津井は、自宅のアパートに戻ると強迫観念に駆られるまま必要最低限の荷物を持ってアパートを後にした。
駅へと向かう途中、幾度となく実家へ戻る選択肢が脳裏にチラついた。が、その都度あたまを振ってそんな考えを払い除けた。友人やその父親に居場所がバレる可能性はできるだけ減らすに限る。
駅に辿り着いた宇津井はとりあえず最低運賃の切符を買い、ちょうど入って来ていた上りの電車に飛び込んだ。当て所もない旅の開始である。出来るだけ遠くへ。ただそれだけを念頭に空いている手近な座席へと腰を下ろした。
ぼんやりと過ごしている内、終点を告げるアナウンスが宇津井を認め難い現実へと連れ戻す。
とりあえず電車を降りる。閑散としたホームのベンチに腰を下ろし、頭を抱えるようにして思考の迷路へと没入する。
これからどうする。頻りに頭の中を巡り揺蕩う言葉に辟易としてきた頃、ふと顔を上げた宇津井の視界に見知らぬ少女の顔が大きく映り込んできた。「うわっ」
驚きに合わせて仰け反った宇津井の様子を眺めながら、その少女はくすくすと笑う。見た目から推察される歳の頃は十歳前後だろうか。黒くてしなやかな長い髪を左右で二つに結わいている。年相応の幼い顔付きだが、輪郭がシャープなせいか素の表情に戻った際、どこか大人びた雰囲気を醸す瞬間がある。
「お兄さんも、人生の終わりを経験したんだね」
笑みを沈めた少女は呟くようにして言う。お兄さんも。その一言が意味するところとは、少女の身の上が悲惨なものであるという事に他ならない。
待て。宇津井の警戒心が不意に鋭さを増す。「どうして知ってる?」
「匂いがしたの」少女はまた小さく笑う。「絶望の匂い」
警戒心は不信感へと、そして困惑に姿を変容させて落ち着く。どことなく感じていた少女のあどけなさは薄れ始め、宇津井の目には大層に気味の悪い存在に映り出す。「君はいったい何者なんだ」
少女の黒い瞳がその彩りを深めた。魔術師だよ。
*
沙羅の足は樹津第一支部へと向いていた。第二支部の居住まいとは打って変わり、第一支部はこ洒落たデザインの三階建ての建物を一軒まるまる所有していた。入り口には例の如く偽装の為の社名が刻まれたプレートがあった。
サンティア株式会社。うちの支部長よりはマシなセンスね。沙羅は小さく鼻で笑うと、ガラス張りの自動ドアをくぐった。
内装の方は見た目に反して小ざっぱりとしている。中央を頭上の採光窓まで吹き抜けに造り、各部署をフロア毎に分けている。一階は表向きの仮部署だろう。入り口のすぐ脇に立てられた案内板に情報統括部と記されている。
再び内部へと目を向ける。受付のカウンターを除けば、左右に一つずつドアが連なり、壁は一面のガラス張り。中では非魔術師員と思しき数名が部屋の中央に設置される円形のテーブルに集い、楽しげに談笑している。かと思えば、もう一方の部屋では男がひとり同じような円形テーブルでパソコンと睨み合いあっているのが見える。
談笑していたグループのひとりがこちらに気付いたようで、笑みを残しつつ駆け足でドアをくぐってきた。「何か御用でしょうか?」
受付カウンターはそのままフェイクに違いないなかった。揶揄する意味も込めてカウンターの方を眺め見ながら沙羅は男へ告げる。「支部長に取り次いでくれる」
急ぎだから。言葉尻にそう付け加えると、男は怪訝な表情を向けてきた。「支部長とは、どう言った意味でしょうか」
非魔術師員に対して顔パスとはいかないか。沙羅は面倒に思いつつも、日本魔術師協会員に配られる彼岸花を模したバッチをポケットから取り出して、見せる。
男はようやく納得した様子を示したものの、尚も食い下がる。「支部長へのアポは取ってますか?」
沙羅の我慢は限界に達した。「もういい」男を置き去りにして奥に見える階段へと歩き進める。男が制して来るが、構うことはない。
二階を通り過ぎ、三階へと至った。造り自体は変わらないものの、吹き抜けの空間を挟んだ対面は左右で似ても似つかない空間が広がる。一方は魔術師たちの待機場所だと思われる。一階に比べて備品の質が一見しただけでその違いを理解できるレベルである。
目的の部屋は他と同じように一面がガラス張りであるは変わらないが、スモークガラスで内部が見えないようになっている。備え付けられた扉の方も他に比べてやや重厚感のある材質が用いられている。大企業の社長室そのものである。
依然として背後から制そうとする男声が止もうとしない。そして、それを意に介そうともしない沙羅の様相もまた然り。スモークガラスに沿って歩き、無駄に威厳を振りまくだけの扉をノックもせずに開け放つ。「お邪魔しまーす」
広い空間に余白を持たせるだけ持たせた支部長室は、良くも悪くもがらんとしている。木目の濃い大仰な机がひとつあるだけ。背後にはブラインドの降りた一枚張りのガラス。狙い通りなのがやたらと鼻について疎い沙羅ではあるが、この部屋を一見して荘厳な雰囲気を覚えたのは事実であった。
革張りの偉ぶったでデザインの椅子に深く腰を据えていた第一支部の支部長である恙木平和は、こちらを唖然とした表情で眺めている。やがて我に返ったように声を荒げた。「誰だ」
開けっ放しの扉から男がおっかなびっくりに覗いている姿を横目に、沙羅は微塵も臆すことなく恙木の方へと歩み進める。「この顔に見覚えがない?」
ブラインドの些細な隙間から射した光に照らし出された顔を確認した恙木が息を呑んだ。「黒瀬、纏」
痩身だがしっかりとした印象を覚える顔の恙木ではあるが、今し方に拵えるその表情は背後で震えているであろう非魔術師員の男と良い勝負である。
「単刀直入に訊くけど、こっちに入ってきてるノッカー関連の情報を渡して」
ノッカー。恙木はその単語を聞くや、意外そうな顔を浮かべる。「今度の狙いは連中か」
沙羅は経緯を説明する手間を省こうと、先程から握り持っていた協会員のバッチを恙木の方へ投げた。「今の私は第二支部所属の魔術師」
「第二支部……なら白黒はお前ではないという事か」
万里子の言っていたことは本当だったのか。沙羅は自らの魔術師協会に置かれた微妙な立場を改まって理解した。
「そんな事より、早く情報が欲しいんだけど」
「情報も何も、第二支部が保有している以上の情報はないぞ。協会内の情報は一次元的に共有する規則なんでな」
表情から審議を確かめられる要素はない。紛いなりにも支部の長であるということか。沙羅は焦ったさを覚えてなお、退く姿勢を示さないことに努めた。「あれだけで?」
「そう思うのなら」恙木の内に芽生えていた動揺もここに至って鎮静されてしまったようで、声音に余裕の色が燈る。「君自身で調べればいい」
これ以上の駆け引きは分が悪くなるだけだ。沙羅は不本意ながら暫し恙木を睨んだ後、踵を返した。
「うちの魔術師にひとり」歩き去ろうとした際、恙木が独り言のように呟いた。「仕事不熱心な奴がいて困っている」
思わず振り返ってみるも、恙木はすでに椅子を回転させた後であった。豪奢な椅子の後ろ姿だけが確かな荘厳さを以ってそこに在った。
支部長室を後にした沙羅は、未だドアの側でそわそわと落ち着かない様子でいた男に声をかける。「今日、ここの所属の魔術師は全員いる?」
恐らくは。覇気がなく、うわ言のような返事を耳にすると沙羅は歩みを再開させて向かいの部屋へと向かう。男の靴音がその後に続く。
「支部長と知り合いだったんですね」
男の声に、沙羅は足を止めた。
「むしろ、私を知らないのはアンタだけじゃない?」
向かい合い、敢えてマジマジと自らの顔を見せてやる。が、何故か男は気まずそうに目を逸らす。「確かに、一度見たら忘れられない顔かも」
頰がやたらと紅潮して見える。そこで沙羅は思い至る。「アンタ童貞?」
「な」男は急に慌てた様子で向き直ってくる。「違うよ」
図星だったか。他人のデリケートな問題を土足で踏み躙ってしまった自覚が小さな罪悪感となり沙羅の口から漏れ出す。「なんか、ごめんね」
しかし男は、返って顔を紅潮させた。「謝るなよ」
人付き合いは難しい。改めて沙羅はそう思った。
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