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深層
破壊と弛緩
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いつもそうだった。暗がりの通路を歩く沙羅は少し前の記憶を掘り起こしていた。魔術師狩りとして活動していた頃の記憶だった。
依頼のあった魔術師と接触する際、いつも心の中に空虚さが生まれていた。魔術師の世界に於いて他人の命を奪う行為は、表の世界と比べてずいぶんと軽視されがちなのが実情だった。司法の手によって裁かれる事は決してないからである。罪を罪として罰せられないまま放置される内、当人すらもその罪の認知が薄れるからなのだろうか。
不穏な静けさは通路を行くごとに強まる。表に停まっていた車の存在は同時に、この倉庫内に人間が存在している確かな証拠に相違ない。にも関わらず、静寂は深まる。
そんな刹那、沙羅の足がふと止まる。
「今日は来客が多い日だ」
暗がりの向こう、未だ顔の詳細は見出せない。近くの非常灯が照らすのは、朧な人影。そこに誰かが存在しているという曖昧な情報のみにとどまる。
しかし、沙羅は確信していた。「宇津木」男の名を呼んだ。
「君は彼女に比べて幾らか饒舌なようで助かる。若い女性をいたぶるのは趣味じゃないのでね」
心拍の昂進を自覚する。頭へ昇り詰めようとする熱い血液を首から下までに抑えることに徹する。身体が動けばそれでいい。敵対する魔術師を葬り去るのに必要なのは、冷静さ以外にない。瞬間湯沸かし器と化した頭ではヤれるものもヤれなくなる。
右肩に印した身体強化の術式に意識を向かわせる。正確には脳の機能系を一時的に麻痺させる為の電気信号を送る術法だが、沙羅は分かり易くそう呼称する。
頭に短くピリついた感覚を覚えると、地面を蹴った。が、「良いのかな」男の妙に余裕のある声音がその所作を滞らせる。
「私に構ってる暇があるなら、お友達の救出に精を出した方が賢明だと思うがね。あの連中の容赦のなさを目の当たりにした私が言うんだ。忠告は素直に聞いた方がいい」
あと一歩まで迫ろうかと言う距離にいる相手だが、周囲を包む暗闇がそう見せるのか。沙羅には果てしなく遠い存在に思えてくる。
「場所は」抑揚のない声で尋ねる。胸中に渦巻いていた感情の熱が急速に下がって行く。この牙を向ける相手は目の前の相手ではない。
「この先を行った場所だ。少し距離はあるが、行けば自ずと分かるだろう」
それだけ聞いて沙羅は男とすれ違うように駆け出す。その際、男の無感情な横顔をチラと見た。自分の判断は間違いではなかった。沙羅の足を淀ます要因はもはや、ここにはなかった。
男の言った通り、しばらく続いた暗がりを行くと閉め切ってばかりいた左右の扉の連なりの中、一箇所だけが半開きになっている所が見えた。
漏れ聞こえてくるのは複数の男の嘲笑。最悪の事態を想像し、軽く頭を振ってそれを払拭する。不安に駆られている暇はない。半開きになった扉に手を掛け、勢いよくそれを開け切る。乱雑な音が響いた。
室内は尚も暗がりの延長ではあったが、奥の一角にのみ灯った白色灯の弱々しい光がその凄惨を映し出す。視覚に映るのは地獄絵図。鼻をつく酸っぱい臭いが沙羅の感情を逆撫でる。
「誰だ」扉を乱暴に開けた音につられて振り返った顔は三つ。いずれにしても到底に堅気とは思えない顔つき。二人の男は立っていたが、もう一人は屈んでいる様子だった。
二人の男がこちらの存在を確認しきるよりも早く沙羅は一直線に駆け出し、そのままの勢いを保ってひとりの腹を射るように前蹴りする。「ぐっ」
蹴りを喰らった男が盛大に後方へと吹き飛んで見せたのは、なにも咄嗟のことに反応し切れなかっただけではない。無意識の内に脳が働きかける自己防衛の機能を排した沙羅の運動能力は、常人のそれを僅かに超越している。
スキンヘッドの男が一瞬まえまで隣り合っていた男の衝撃的とも称えられる姿を目にして浮かばせた動揺を、沙羅は見逃さない。同じように男の腹部をへと蹴りを見舞う。が、先に比べて勢いを活かせていない分、一撃では男の意識を刈り取るには至らない。くの字に折れて頭が下がるのみ。だが、それで十分だった。
引いた右足を浮かせたまま下がってきた坊主頭の脳天に向け、二段蹴りの要領で渾身のひと蹴りを入れる。確かな手応えと共に男の身体は自然の流れのまま仰け反りながら後方へと沈んでいった。
「アニキッ」
屈んでいた男の焦った声が室内に響く。最後の獲物を狩ろうと沙羅の目が男の方を向くと、自分の中の大切な何かが轟音を伴い崩れ落ちて行くのを感じた。
慌てて身を上げようとする男の剥き出しになった下半身。その向こうでぐったりと床に伏せる女性の方は服は愚か、下着の一切も身に付けていなかった。それが意味するところを分からない沙羅ではなかった。
完全に身を起こすよりも早く、その脳天に踵落としを決める。次いでふらつき、倒れそうになる男の側頭部に回し蹴りを入れる。横っ飛びの要領で床へと突っ伏した男はそのまま伸びきった。
僅かに痙攣する男の元へと歩くと、沙羅は無言のまま、無表情のまま、何度もその頭をブーツの底で力任せに踏み砕こうとした。やがて、嫌な感触が足に伝うと、肩で息をしている自分を自覚する。
静寂の中、忙しない呼吸を整えようとするよりも早く沙羅は寝ている女性の元へと駆け寄った。否定したかった現実がそこに横たわっていた。
「瀬奈……」
丸くなるように身を縮こませているその両肩が頻りに震えている。声もなく、涙を流し続けるその姿を前に、悲痛さ以外の感情が湧いてこない。伸ばし掛けていた手が虚空を彷徨い、やがて行き場を失うと脱力した。
目を背けようとして瀬奈の後ろ姿から視線を逸らすと、テーブルの上に彼女の物と思しき服が雑に乗っけられているのを見つけた。
それら全てを抱え持つと、瀬奈の横にそっとそれを据える。「動ける?」
返事はなかった。服の存在を知ると、今度はそれを抱きしめながら肩を震わせる。「あっち、見てるから」
それから暫く、沙羅は男たちが起き出さないか注視することだけに努め、やがて服を着て立ち上がった瀬奈と共に部屋を出た。
*
戻ってきた沙羅に駆け寄ろうとした和馬は、その後ろを危なっかしい足取りで付いてくる女性の姿を見て、その足を止めた。
「白河さん、その子は?」
直後、沙羅は和馬の存在そのものを介そうとしない向きを見せた。歩き去ろうとしている。咄嗟に和馬が声をかけ直そうと身体の向きを変えようとする。と、
「ごめん。うまく切り替えられてなかった」
再びこちらへと向いてくれた顔には、先までの和馬が知る沙羅の顔が戻っていた。
少しの安堵を覚えつつもそれを悟られぬようにして和馬は、未だ覚束ない足取りでこちらへ向かって来ている俯き加減の女性の方を見る。「彼女は」
「私の同僚」そう告げたあと僅かな間を空けてから続ける。「捕まってた」
すぐ近くまで迫っていた女性は沙羅の言葉を耳にして小さな反応を見せたように見えたが、すぐに歩みを再開させる。尚も女性と視線が合うことはない。
いまいち状況の把握に努めきれない和馬ではあったが、沙羅が足早にプリウスの方へ向かおうとしていたことから、とりあえず移動したがっている旨を汲み取った。いま開ける。和馬は愛車へと歩を急かした。
樹津第二支部へ向かうように指示を受けた和馬は、行きと比べてやや広々とした視界に少しの寂しさを覚える。と同時に、車内に蔓延する重苦しい沈黙に窒息しかけていた。
沙羅が後部座席で先ほど救出したと思しき女性と隣り合って座ったのは、彼女なりの気遣いに違いなかった。けれど、それにしては先から会話のひとつも交そうとしないどころか、互いに視線を合わそうとする素振りさえも見せていない。
妙に思っていると、不意に女性の方が口を開いた。
「どうして分かったの」
声のトーンは低く、酷く衰弱しきっているのがうかがえる。捕まっていたと称えられた以上、何らかの危害が加えられていたに違いなかった。
「第一支部の魔術師に場所の情報を聞いた。けど、清川がいたのは予想外だった」
沙羅は淡々と事実のみを述べていた。現に、その一部始終を和馬は隣で拝聴拝見していた身である。彼女の証言については自身が証人である。「本当だよ」思わずか、それとも窒息寸前に陥ったが為の息継ぎだったのか。そんな一言が和馬の口を突いて出た。
誰。女性の訝しげな声が向けられる。「第一支部の非魔術師員」沙羅はまたも淡々と事実だけを告げた。
そう。それを聞いた女性は呟くと、「笑いたければ笑えば」やや投げやりな口調でそう続けた。彼女のことをよく知らない和馬だったが、次第に女性が本来の調子が戻り始めているのだろう、とぼんやり思ってそれを聞いた。
「笑えないし、笑うべきとも思えない」
沙羅の声には依然として感情が芽生える気配はない。敢えてなのか、その裁量を和馬は察し得られなかった。未だそれ程までに彼女のことを知らない。
「ひとりで意気込んで独断専行した結果がこれじゃ、笑い話にもならないって?」
目前の信号機が赤に変わる。車体は些細な揺れすらも許すことなく穏やかに停車した。
「言ってない」
「思ってるんでしょ」
「思ってない」
「正直に言えよっ」
青に変わると、車体は再び動き出した。
ふと和馬がバックミラーを覗き見ると、女性の両目から涙が溢れ出ているのが見えた。対して、沙羅の方は無表情のまま前方だけを、いや、どこか遠くを眺めているのみだった。
「ただ」静かに目を閉じた沙羅は開眼の折に続ける。「頼って欲しかった」ここへ来て初めてその声に感情が宿る。取り返しの効かない過去への哀愁だった。
和馬はバックミラーを覗くことをやめて、運転に集中することにした。ここから先は二人の問題だ。飽くまで僕は部外者に過ぎない。静かにハンドルを握り直した。
*
瀬尾万里子の動揺を先ず誘ったのは、清川瀬奈の心身ともに衰弱しきった姿だった。デスクに収まったまま普段から大きかった目をひときわに見張っている結菜も同じようだった。
「すみませんでした」
頭を下げてきた瀬奈に次いで、その横に立っている白河沙羅も同様に頭を下げてくる。
「いったい」万里子の困惑は深まる。「どう言った了見よ」
「私の身勝手でノッカー幹部である宇津木に逃げられてしまいました」
瀬奈の声にやたらと震えがまとわり付いている。万里子の前に現れた瀬奈の真っ赤な目のことを思えば、その余韻を引きずっているのは容易に察しがついた。が、
「私の未熟さも原因です」
瀬奈よりも一層に深く頭を下げている沙羅の姿にこそ、万里子の困惑は根ざしていた。「雪でも降りそうね」
思い返してみても、沙羅が自分へ頭を下げてきた記憶などは皆無だった。ましてや、こんな殊勝な態度を示されたことすらも数えるに至らないことだった。
「とりあえず、事情は分かった。けど、二人のその態度に納得がいかないんだけど」
万里子は頰を掻きながら告げた。
頭を上げた瀬奈の目にはまだ涙が残っている。沙羅の方も涙こそないものの、捨て猫のような表情が浮かんでいる。思わず笑いそうになったことを伏せる為、万里子は咳払いをひとつ挟む。
「瀬奈の相方だったのに、私は瀬奈をひとりにした」
反して、尚も殊勝さを崩さない沙羅の姿に、万里子の中で広がっていた違和感は急速に薄れてゆく。代わって、感慨にも近い感情が満ちてきた。
変わったわね。誰にも聞こえることのない、小さな呟きが漏れた。
「私は」やや落ち着きを取り戻したような瀬奈の声が続く。「万里子さんを疑ってました」
こちらに関して万里子は意外に思わなかった。やはりか。しかし、胸には遣る瀬のない感情が湧き上がる。
「白河」瀬奈はそう言いかけ、すぐに「沙羅を」と言い直す。
「信じられず、掴んでいた情報を支部長にすら挙げずに、ひとりで潜伏していると思われた場所へ単独で赴いてしまいました。結果、宇津木に逃げられただけでなく……」
その先を淀ませたのは、やはりその憔悴しきった顔の所以か。万里子は片手で制し、暫し腕を組んで思慮を巡らせる素振りを見せてから説き始めた。
「分かっての通り、清川が私への不信感を募らせてたのは承知してた。にもかかわらず、沙羅と組ませようとしたのはひとえに私の判断ミスだった。認めざるを得ない事実だよ」
すまなかった。二人に対して頭を下げる。先に二人が見せたものよりも気持ちだけ深く、それを意識した。「だが」そう言って顔を上げて続ける。
「私は沙羅なら、と期待していたんだ。二人はどことなく通じるモノがあると思ってね。今の二人の様子を見れば、そこだけは間違っていなかったと思ってもいいかな?」
言うと、沙羅と瀬奈は互いに顔を見合わせてから気恥ずかしそうにこちらへ向き直った。笑みの程は小さいが、それが現状に於いて目一杯の肯定であると万里子は汲んだ。
新しい予感を感じさせる二人の向こう。ひとり静かに号泣している結菜の姿が目に入り、万里子はふと暖かな笑みが溢れたのを感じた。
依頼のあった魔術師と接触する際、いつも心の中に空虚さが生まれていた。魔術師の世界に於いて他人の命を奪う行為は、表の世界と比べてずいぶんと軽視されがちなのが実情だった。司法の手によって裁かれる事は決してないからである。罪を罪として罰せられないまま放置される内、当人すらもその罪の認知が薄れるからなのだろうか。
不穏な静けさは通路を行くごとに強まる。表に停まっていた車の存在は同時に、この倉庫内に人間が存在している確かな証拠に相違ない。にも関わらず、静寂は深まる。
そんな刹那、沙羅の足がふと止まる。
「今日は来客が多い日だ」
暗がりの向こう、未だ顔の詳細は見出せない。近くの非常灯が照らすのは、朧な人影。そこに誰かが存在しているという曖昧な情報のみにとどまる。
しかし、沙羅は確信していた。「宇津木」男の名を呼んだ。
「君は彼女に比べて幾らか饒舌なようで助かる。若い女性をいたぶるのは趣味じゃないのでね」
心拍の昂進を自覚する。頭へ昇り詰めようとする熱い血液を首から下までに抑えることに徹する。身体が動けばそれでいい。敵対する魔術師を葬り去るのに必要なのは、冷静さ以外にない。瞬間湯沸かし器と化した頭ではヤれるものもヤれなくなる。
右肩に印した身体強化の術式に意識を向かわせる。正確には脳の機能系を一時的に麻痺させる為の電気信号を送る術法だが、沙羅は分かり易くそう呼称する。
頭に短くピリついた感覚を覚えると、地面を蹴った。が、「良いのかな」男の妙に余裕のある声音がその所作を滞らせる。
「私に構ってる暇があるなら、お友達の救出に精を出した方が賢明だと思うがね。あの連中の容赦のなさを目の当たりにした私が言うんだ。忠告は素直に聞いた方がいい」
あと一歩まで迫ろうかと言う距離にいる相手だが、周囲を包む暗闇がそう見せるのか。沙羅には果てしなく遠い存在に思えてくる。
「場所は」抑揚のない声で尋ねる。胸中に渦巻いていた感情の熱が急速に下がって行く。この牙を向ける相手は目の前の相手ではない。
「この先を行った場所だ。少し距離はあるが、行けば自ずと分かるだろう」
それだけ聞いて沙羅は男とすれ違うように駆け出す。その際、男の無感情な横顔をチラと見た。自分の判断は間違いではなかった。沙羅の足を淀ます要因はもはや、ここにはなかった。
男の言った通り、しばらく続いた暗がりを行くと閉め切ってばかりいた左右の扉の連なりの中、一箇所だけが半開きになっている所が見えた。
漏れ聞こえてくるのは複数の男の嘲笑。最悪の事態を想像し、軽く頭を振ってそれを払拭する。不安に駆られている暇はない。半開きになった扉に手を掛け、勢いよくそれを開け切る。乱雑な音が響いた。
室内は尚も暗がりの延長ではあったが、奥の一角にのみ灯った白色灯の弱々しい光がその凄惨を映し出す。視覚に映るのは地獄絵図。鼻をつく酸っぱい臭いが沙羅の感情を逆撫でる。
「誰だ」扉を乱暴に開けた音につられて振り返った顔は三つ。いずれにしても到底に堅気とは思えない顔つき。二人の男は立っていたが、もう一人は屈んでいる様子だった。
二人の男がこちらの存在を確認しきるよりも早く沙羅は一直線に駆け出し、そのままの勢いを保ってひとりの腹を射るように前蹴りする。「ぐっ」
蹴りを喰らった男が盛大に後方へと吹き飛んで見せたのは、なにも咄嗟のことに反応し切れなかっただけではない。無意識の内に脳が働きかける自己防衛の機能を排した沙羅の運動能力は、常人のそれを僅かに超越している。
スキンヘッドの男が一瞬まえまで隣り合っていた男の衝撃的とも称えられる姿を目にして浮かばせた動揺を、沙羅は見逃さない。同じように男の腹部をへと蹴りを見舞う。が、先に比べて勢いを活かせていない分、一撃では男の意識を刈り取るには至らない。くの字に折れて頭が下がるのみ。だが、それで十分だった。
引いた右足を浮かせたまま下がってきた坊主頭の脳天に向け、二段蹴りの要領で渾身のひと蹴りを入れる。確かな手応えと共に男の身体は自然の流れのまま仰け反りながら後方へと沈んでいった。
「アニキッ」
屈んでいた男の焦った声が室内に響く。最後の獲物を狩ろうと沙羅の目が男の方を向くと、自分の中の大切な何かが轟音を伴い崩れ落ちて行くのを感じた。
慌てて身を上げようとする男の剥き出しになった下半身。その向こうでぐったりと床に伏せる女性の方は服は愚か、下着の一切も身に付けていなかった。それが意味するところを分からない沙羅ではなかった。
完全に身を起こすよりも早く、その脳天に踵落としを決める。次いでふらつき、倒れそうになる男の側頭部に回し蹴りを入れる。横っ飛びの要領で床へと突っ伏した男はそのまま伸びきった。
僅かに痙攣する男の元へと歩くと、沙羅は無言のまま、無表情のまま、何度もその頭をブーツの底で力任せに踏み砕こうとした。やがて、嫌な感触が足に伝うと、肩で息をしている自分を自覚する。
静寂の中、忙しない呼吸を整えようとするよりも早く沙羅は寝ている女性の元へと駆け寄った。否定したかった現実がそこに横たわっていた。
「瀬奈……」
丸くなるように身を縮こませているその両肩が頻りに震えている。声もなく、涙を流し続けるその姿を前に、悲痛さ以外の感情が湧いてこない。伸ばし掛けていた手が虚空を彷徨い、やがて行き場を失うと脱力した。
目を背けようとして瀬奈の後ろ姿から視線を逸らすと、テーブルの上に彼女の物と思しき服が雑に乗っけられているのを見つけた。
それら全てを抱え持つと、瀬奈の横にそっとそれを据える。「動ける?」
返事はなかった。服の存在を知ると、今度はそれを抱きしめながら肩を震わせる。「あっち、見てるから」
それから暫く、沙羅は男たちが起き出さないか注視することだけに努め、やがて服を着て立ち上がった瀬奈と共に部屋を出た。
*
戻ってきた沙羅に駆け寄ろうとした和馬は、その後ろを危なっかしい足取りで付いてくる女性の姿を見て、その足を止めた。
「白河さん、その子は?」
直後、沙羅は和馬の存在そのものを介そうとしない向きを見せた。歩き去ろうとしている。咄嗟に和馬が声をかけ直そうと身体の向きを変えようとする。と、
「ごめん。うまく切り替えられてなかった」
再びこちらへと向いてくれた顔には、先までの和馬が知る沙羅の顔が戻っていた。
少しの安堵を覚えつつもそれを悟られぬようにして和馬は、未だ覚束ない足取りでこちらへ向かって来ている俯き加減の女性の方を見る。「彼女は」
「私の同僚」そう告げたあと僅かな間を空けてから続ける。「捕まってた」
すぐ近くまで迫っていた女性は沙羅の言葉を耳にして小さな反応を見せたように見えたが、すぐに歩みを再開させる。尚も女性と視線が合うことはない。
いまいち状況の把握に努めきれない和馬ではあったが、沙羅が足早にプリウスの方へ向かおうとしていたことから、とりあえず移動したがっている旨を汲み取った。いま開ける。和馬は愛車へと歩を急かした。
樹津第二支部へ向かうように指示を受けた和馬は、行きと比べてやや広々とした視界に少しの寂しさを覚える。と同時に、車内に蔓延する重苦しい沈黙に窒息しかけていた。
沙羅が後部座席で先ほど救出したと思しき女性と隣り合って座ったのは、彼女なりの気遣いに違いなかった。けれど、それにしては先から会話のひとつも交そうとしないどころか、互いに視線を合わそうとする素振りさえも見せていない。
妙に思っていると、不意に女性の方が口を開いた。
「どうして分かったの」
声のトーンは低く、酷く衰弱しきっているのがうかがえる。捕まっていたと称えられた以上、何らかの危害が加えられていたに違いなかった。
「第一支部の魔術師に場所の情報を聞いた。けど、清川がいたのは予想外だった」
沙羅は淡々と事実のみを述べていた。現に、その一部始終を和馬は隣で拝聴拝見していた身である。彼女の証言については自身が証人である。「本当だよ」思わずか、それとも窒息寸前に陥ったが為の息継ぎだったのか。そんな一言が和馬の口を突いて出た。
誰。女性の訝しげな声が向けられる。「第一支部の非魔術師員」沙羅はまたも淡々と事実だけを告げた。
そう。それを聞いた女性は呟くと、「笑いたければ笑えば」やや投げやりな口調でそう続けた。彼女のことをよく知らない和馬だったが、次第に女性が本来の調子が戻り始めているのだろう、とぼんやり思ってそれを聞いた。
「笑えないし、笑うべきとも思えない」
沙羅の声には依然として感情が芽生える気配はない。敢えてなのか、その裁量を和馬は察し得られなかった。未だそれ程までに彼女のことを知らない。
「ひとりで意気込んで独断専行した結果がこれじゃ、笑い話にもならないって?」
目前の信号機が赤に変わる。車体は些細な揺れすらも許すことなく穏やかに停車した。
「言ってない」
「思ってるんでしょ」
「思ってない」
「正直に言えよっ」
青に変わると、車体は再び動き出した。
ふと和馬がバックミラーを覗き見ると、女性の両目から涙が溢れ出ているのが見えた。対して、沙羅の方は無表情のまま前方だけを、いや、どこか遠くを眺めているのみだった。
「ただ」静かに目を閉じた沙羅は開眼の折に続ける。「頼って欲しかった」ここへ来て初めてその声に感情が宿る。取り返しの効かない過去への哀愁だった。
和馬はバックミラーを覗くことをやめて、運転に集中することにした。ここから先は二人の問題だ。飽くまで僕は部外者に過ぎない。静かにハンドルを握り直した。
*
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「すみませんでした」
頭を下げてきた瀬奈に次いで、その横に立っている白河沙羅も同様に頭を下げてくる。
「いったい」万里子の困惑は深まる。「どう言った了見よ」
「私の身勝手でノッカー幹部である宇津木に逃げられてしまいました」
瀬奈の声にやたらと震えがまとわり付いている。万里子の前に現れた瀬奈の真っ赤な目のことを思えば、その余韻を引きずっているのは容易に察しがついた。が、
「私の未熟さも原因です」
瀬奈よりも一層に深く頭を下げている沙羅の姿にこそ、万里子の困惑は根ざしていた。「雪でも降りそうね」
思い返してみても、沙羅が自分へ頭を下げてきた記憶などは皆無だった。ましてや、こんな殊勝な態度を示されたことすらも数えるに至らないことだった。
「とりあえず、事情は分かった。けど、二人のその態度に納得がいかないんだけど」
万里子は頰を掻きながら告げた。
頭を上げた瀬奈の目にはまだ涙が残っている。沙羅の方も涙こそないものの、捨て猫のような表情が浮かんでいる。思わず笑いそうになったことを伏せる為、万里子は咳払いをひとつ挟む。
「瀬奈の相方だったのに、私は瀬奈をひとりにした」
反して、尚も殊勝さを崩さない沙羅の姿に、万里子の中で広がっていた違和感は急速に薄れてゆく。代わって、感慨にも近い感情が満ちてきた。
変わったわね。誰にも聞こえることのない、小さな呟きが漏れた。
「私は」やや落ち着きを取り戻したような瀬奈の声が続く。「万里子さんを疑ってました」
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「白河」瀬奈はそう言いかけ、すぐに「沙羅を」と言い直す。
「信じられず、掴んでいた情報を支部長にすら挙げずに、ひとりで潜伏していると思われた場所へ単独で赴いてしまいました。結果、宇津木に逃げられただけでなく……」
その先を淀ませたのは、やはりその憔悴しきった顔の所以か。万里子は片手で制し、暫し腕を組んで思慮を巡らせる素振りを見せてから説き始めた。
「分かっての通り、清川が私への不信感を募らせてたのは承知してた。にもかかわらず、沙羅と組ませようとしたのはひとえに私の判断ミスだった。認めざるを得ない事実だよ」
すまなかった。二人に対して頭を下げる。先に二人が見せたものよりも気持ちだけ深く、それを意識した。「だが」そう言って顔を上げて続ける。
「私は沙羅なら、と期待していたんだ。二人はどことなく通じるモノがあると思ってね。今の二人の様子を見れば、そこだけは間違っていなかったと思ってもいいかな?」
言うと、沙羅と瀬奈は互いに顔を見合わせてから気恥ずかしそうにこちらへ向き直った。笑みの程は小さいが、それが現状に於いて目一杯の肯定であると万里子は汲んだ。
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