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Ⅲ
櫻井嘉人(斗真の弟)編②
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クラスメイト
「今日は、猫、触りに来る?」
遠慮がちに聞いてくる友人。夏休みに少しこいつの家に遊びに行った。全部猫の毛のためだ。猫は、興味ない。こいつも、興味ない。
「もう、いい」
そっけなく返事をする。もう利用価値はない。いかにもお坊ちゃま風な男子。名前は、佐久間。苗字しか覚えていない。中学生なら平均的な身長に、真面目な文化部。全然タイプが違うけれど、櫻井と佐久間の出席番号が前後で当番が一緒。その縁で色々話しかけてくる。大人しそうなのに、意外と積極的に話題を振る。クラスでも、そこそこ友人がいる。少しあこがれの目線を俺に向ける佐久間。運動部で身体が大きいことが羨ましいと言っていた。佐久間は、勉強はできるが運動音痴だ。走り方がギャグかと思うくらい。スポーツが出来る事への単純な憧れだろうな、と思う。
何事もなく毎日が過ぎた。冬に近づいたころ、担任の先生から、呼ばれた。児童相談所の人から、連絡がいったようだ。知られたことに、ものすごいショックが走った。どうやら、学校で暴力を振るわないか、確認されたようだ。サッカー部でトラブルを起こしたこともあり、俺は教師から要注意人物になっていた。そうすると、徐々に噂が回る。チラチラと、家庭内暴力をふるったらしい、と言われるようになった。友人も離れていく。サッカー部から退部してほしい、と母に連絡が行った。ずっと練習に行っていないことも伝えられた。
全てが、崩れていった。クラスでも孤立した。周囲が怖がって、面白がって噂ばかり流される。家では、母が笑わなくなった。ただ、「大丈夫よ。嘉人は悪くないの。斗真なんていなければよかった。全部、あの子が悪いのよ」と暗い顔で繰り返す。どうにかなると思っていたのに、徐々に足元が狭くなる怖さ。恐怖と孤独と、どこにぶつけていいのか分からないイラつきが心を埋め尽くしていった。
中学三年になった。学校では俺は不良扱い。誰も声をかけない。家庭崩壊したらしい、とか、俺が夜中に街で暴れている、とか散々噂されている。気にしないように虚勢を張っているが、心が疲弊している。俺は平気だ、と思いながら、常に心がビクビクしている。その相反する気持ちに、イライラが募る。兄の首を絞めて、か細い呼吸を止めてしまいたくなる。心の中で、斗真とゆう兄が存在することが俺の不幸だったんだ、と繰り返す。
「また、一緒だね」
ふと、俺に声がかかる。久しぶりに俺に向けられた言葉。前の席の佐久間が、遠慮がちに声をかけてくる。驚いてしまった。久しぶりに近くに人を感じて、心が浮き立つ。
「あぁ」
佐久間を見ながら、返事をすると、少し頬を染めてニコリとする佐久間。すぐに前を向く。それから、佐久間の後姿を見つめるようになった。黒い真っすぐな髪。頭の形が丸くて綺麗。首が細い。耳の後ろにホクロ発見。佐久間は、そこそこ友人が多いが、集団にならない。ちょっとした会話を聞いていると、良い奴なのだと分かる。イヤミは言わないし、けっこう人の話を聞いている。相手を嫌な気持ちにしない会話。これなら、何となく皆話しかけるな、と思った。俺とは、違うタイプの人間だ。
「櫻井君、猫、触りに来る?」
遠慮がちに、佐久間が聞いてくる。クラスの誰も俺に声をかけず、存在しないモノになっている俺に挨拶もする。ま、佐久間なら噂とか気にしないか。しばらくコイツを見ていたから、分かる。
「俺が行ってもいいのか? お前が変な目で見られるぞ?」
「大丈夫だよ。帰り寄っていく?」
「あぁ」
些細な会話だけれど、人との接触が無くなっていたから心がソワソワする喜びを感じた。
学校の帰りに一緒に帰る。チラチラ見られる。そんな視線は気にせず一緒に歩く佐久間。
「もしかしたら、猫触らせてって連絡来るかと思っていたけど、携帯鳴らないし、声かけちゃった」
えへへ、と笑う。その普通な様子に、久しぶりに顔がほころんだ。つられて笑った俺を見て、また佐久間が微笑む。変な奴だ。
学校から出ると、二人で歩いていても、さほど見られない。「受験だね」「近くの高校?」など声をかける佐久間に、「うん」とか、「そうだな」とか答える。誰かと帰る道。横に友達がいる。それが、自然に頬が緩むほど嬉しかった。
「上がって。マル、おいで~」
「おじゃまします」
夕方まで佐久間の母はパートに出ている。リビングに上がらせてもらう。ふと、並ぶと兄が傍にいるようだと思う。同じような身長。体格は佐久間の方がいいか。佐久間の猫が、足元にすり寄る。佐久間が抱き上げて、身体を撫でる。愛おしそうな佐久間の顔と、甘えて鳴く猫のマルをみて、ずきりと心が痛んだ。
「お茶入れるよ。ちょっと待っていて」
マルを俺に引き渡し、キッチンに向かう佐久間。マルは俺が苦手だよな。俺が優しくなでずに、毛だけ集めるような触り方したもんな。色々と思い出し、心が重くなる。今日は、すり寄ってくるマルが可愛くて、初めてマルの様子を見ながら撫でた。気持ちよさそうに目を細めるマル。途端に心がほんわり温かくなった。可愛い。これは、可愛い。尻尾の動きも、たまらない。猫、可愛いな。気が付くと抱き上げて、膝の上に乗せていた。嫌がらずに俺に甘えるマル。身体が震えるような何かが、俺の中から沸き上がる。
そっとティッシュ箱が横に置かれる。なんだ? 横を見ると、佐久間が黙って俺を見ている。
「使って?」
何を言っているんだ? 顔を上げて初めて自分が泣いていることに気が付いた。涙が流れている。信じられない思いで、マルを撫でる手を止めた。不満そうにモゾリと動いて離れていくマル。恥ずかしくて直ぐにティッシュで涙と鼻水を拭きとる。
「櫻井君、聞いてもいい?」
無言で返事をする。
「櫻井君は、家で暴力をふるったの?」
「……噂、流れてんだろ」
「噂じゃなくて、櫻井君から聞きたい。僕は、マルを撫でてくれる櫻井君がそんなことするとは思えない」
佐久間は、知らないんだ。俺が、何を思ってマルを利用していたか。言いたくない。心臓が、締めつけられる。
「噂聞いて、よく俺を家に呼べるな、お前」
「話をそらさないで。これまで、櫻井君はクラスの中心で、皆を引っ張っていた。それなのに、急に皆手のひら返して、おかしいと思った。少なくてもクラスでは誰も被害に会っていないじゃないか。それなのに、おかしいよ」
佐久間を見る。佐久間は、よく考えている。一呼吸。
「兄を、殴った」
俺を見る真っすぐな目が、痛い。
「どうして、殴ったの?」
「兄は、斗真は、逃げようとしてズルかったんだ」
「お兄さんは、何から逃げようとしたの? それは、殴られるような悪い事だったの?」
ふと、考えた。兄は、何から逃げたんだ? 本当に逃げたのか? 殴られるような、悪い事だったのか? 虐げて当然だと思っていたから、何故と聞かれると答えられなかった。
「お兄さんを殴った理由って、なに?」
え? 理由? だんだん、分からなくなってくる。
「……だって、父さんも母さんも、兄は出来が悪くて、兄がいることが悪くて、ウチにはいらないって言ってたし……」
「え? それで、殴ったの? え?」
驚愕の表情の佐久間。よく頭が回らない。あれ? なんで、兄を殴っていいって、死んだっていいって思ったんだっけ?
「お兄さん、悪い事何もしていないのに、殴られたって事?」
「だけど、兄はいらないって、存在価値がないって母さんが言ってるんだ。うちじゃ、それが当然なんだ。それが普通なんだよ!」
「じゃ、櫻井君のお母さんが僕のことも存在価値のない友人だ、殴って構わないと言ったら、僕のことも殴るの?」
「殴らない! 佐久間の事は、絶対に殴らないよ。佐久間は友人じゃないか。そんなことはしない」
「……お兄さんも、一人の人じゃないの?」
兄が、一人の人間。ぞっとした。簡単に卑下できる価値のないモノだと思っていた、兄が人間?
「お兄さんにしたこと、僕やクラスの皆にできる?」
今、目の前にいる佐久間を殴ることなんて、できない。まして、兄にしたような冷徹な事、出来ない。佐久間が泣き叫ぶ顔なんて、考えられない。手が震えた。とてつもなく、怖い事を俺はしたんじゃないか。虐げて、踏みつぶしていいと思っていた兄は、本当にそうしていい存在だったんだろうか?
「俺は、佐久間を殴らない。もう、誰も殴らない。本当だ」
下を向いたまま、心からの言葉を口にする。
「うん。分かってるよ。あの、余計なお世話かもしれないけれど、櫻井君は、お兄さんに謝ったのかな?」
俺が、兄に、斗真に謝る? 考えたこともなかったことに、心臓の音が、耳の傍でドクドク鳴り響いていた。
「……佐久間、たまに、話にきていいか? 佐久間と話して、ちょっと、何か分かった気がするんだ」
「うん。僕で良ければ」
こんな話をしたのに、動じずに笑顔を見せてくれる。その優しさに涙が流れた。「ありがとう」と感謝を告げた。マルが、すり寄ってニャアと鳴いた。
帰宅して、兄の部屋に行った。兄は、どんな兄だっただろう。その顔を思い出そうとしても、青白い無表情な顔しか思い出せない。どうして、兄なら虐げていいと思ったんだろう。
「お兄さんに謝ったの?」
佐久間の声が響く。兄は、ウチにいる頃、嫌われるような悪いことをしていただろうか? なぜ存在価値が無いと決めつけていたのか? 兄は、俺や両親に何か嫌な事をしたんだろうか?
考えても、兄が俺たちにした悪い事なんて一つも思い当たらない。俺が、あんなことをして、死んでしまえ、なんて言うほどの事は、何もしていないじゃないか。
考えて行きついた答えに、泣き崩れた。
俺は、兄に、斗真にとんでもない事をしたんだ。自分が怖くて、涙が流れる。身体が震える。俺がしたことは、犯罪だ。許されることじゃない。やっとそのことを理解できた。
その日から、毎日兄の部屋で考えた。父と母に存在を否定されていた兄。それを当然のように思っていたけれど、あの細い小さな体で全て受け止めて、どんな思いをしただろう。一緒に食事をすることは無かった。いつも、部屋に閉じこもり、勉強ばかりしていた。俺にご飯や弁当を用意する母は、兄の分は用意しなかった。兄は、どんな思いで俺たちを見ていたのだろう。兄が苦しむことを楽しんでいた俺。一言も優しい言葉をかけた覚えがない。兄の部屋には、本と勉強しかない。必要最低限の家具だけ。俺の部屋にあるテレビもゲーム機も漫画も、ない。心がズキリと痛んだ。
母さんに聞いてみた。
「母さんは、なんで斗真を嫌うわけ?」
母さんは、驚いた顔で俺を見た。
「なんでって、斗真は悪いでしょ?」
「だから、斗真の、兄さんのどこが悪いの?」
「どこって……。全部、でしょう?」
「コレが悪いって答えられないの? それなのに、斗真は悪いの?」
はっとしたように、俺を見つめる母。
「どうしたのよ、嘉人らしくないじゃない。嘉人は余計な事考えなくていいのよ。お母さんの言う通りにしていれば、大丈夫よ」
「俺は、斗真は何も悪いことをしていないと思うけど」
一言を伝える。母を見つめた。青い顔で、震えている。
「母さんは、斗真のご飯を作らなかった。斗真を大切にしなかった。それは、正しい事なの?」
「何言ってるの? だって、斗真じゃない!」
母を見て、やっと気が付いた。母は、少し前の俺だ。
この人は、おかしい。母は、それに気づいていない。周りからしたら、俺は母さんと同じ、オカシイ存在だったのか。青くなり震える母を見て、ぞっとした。
そりゃ、俺から友人も離れていくわけだ。目の前の母が、遠い存在に思えた。
放課後、佐久間の家に行く。「今日行っていい?」と聞くと、「いいよ」と応えてくれる。
学校で、時々二人で会話しても、それほど注目されなくなった。佐久間と話すことで、ほんのわずかにだけど、挨拶してくれるクラスメイトも出てきた。俺は皆に嫌われるような悪いことをした存在だと自分で認めたら、現状を前ほど苦痛に思わなくなった。イライラもしない。だって、嫌われて仕方ないだろう。虚勢を張っていた時よりも、過ごしやすい。気づかせてくれた、佐久間の存在。こいつはすごい。毎日、目で追った。遠くでも、笑っている佐久間を見ると、胸が温かくなる。数日に一回遊びに行くことが、楽しみになった。
佐久間の家で色々話す。俺は、兄にしたことを、すべては話せない。とても、言えない。マルの毛を利用したことも、言えない。でも、俺の家について、話す。決して佐久間以外には言えないと思う。
「母さんに、なぜ兄を大切にしないのか、聞いてみた」
「そうなんだ。怒られなかった?」
「怒られなかったけど、青くなって震えてた。母さんを傷つけたかも。でも、母さんは兄を虐げる理由を言えなかった。佐久間に問い詰められた時の俺と同じだった。俺は、なんで兄を人間以下みたいに思っていたのか、ちょっと分かった」
「そっか。絶対王政みたいな感じかな。コレが正しいって刷り込まれたのかもね。そこに気づけて良かったね。だけど、家族の中で櫻井君が辛い立場になる事は避けたほうが良いよ。僕たちは中学生なんだし」
「そうだな。これまで、父や母と同じ側に疑問を持たずにいた自分を怖いと思う。兄は今、養子に出たけれど、兄がココから逃げることが出来て良かったと思う」
「櫻井君も、逃げたい?」
「良く、分からない。俺は大切にされてきたし。兄の立場とは、違うと思う」
俺は、親と一緒になって、兄を虐げる側だった。そんな自分が恥ずかしい。
下を見て、マルを優しくなでる。俺の膝がお気に入りになってくれて、座ると必ず乗ってくる。可愛い。温かい可愛い顔のマル。心の中でマルに「ごめんな」と謝る。お前の毛を利用して、ゴメン。ちょっと前の俺は、マルの毛を集めて兄の喘息発作の誘発に使っていた。兄が夜中に苦しむことを、こっそり笑っている変態だった。歪んでいた。
ふと、佐久間を見る。佐久間は、まっすぐな人間だ。俺とは、違う。
「俺、兄にこれまで沢山悪いことをしたと思う。悪い事って思っていなかったから、すごく酷いことをしてきた。毎日、いなくなった兄の部屋で考えるんだ。なのに、兄に謝る勇気が持てない。佐久間に言われたように、謝ることが当然なのに。それは、分かるのに。兄と顔を合わせると思うと、怖いんだ」
「う~ん。お兄さんに向き合う時って、今じゃないのかもね。僕にもよく分からないけど。でも、少しずつ櫻井君が変わってきているのは、僕には分かるよ。焦らなくていいんじゃない?」
率直な言葉に救われる。穏やかに笑う佐久間。こいつと話すと、波だった心が静まる。不安を安心に変えてくれる。優しい人間だ。佐久間を見ていると、一緒に過ごすと、それだけで心が満たされる。
佐久間の家で、一緒に勉強するようになった。サッカーやスポーツだけで生きてきたから、受験勉強しないと高校生になれない。さすがにそれはマズイ。両親は、俺と目を合わせなくなっている。受験についてや、進路のことを俺の親に相談していいのか分からなくもなっている。担任の先生も俺に関わり合いたくないと距離を置いているのが分かる。俺には、信用できるのが佐久間だけだ。俺より小さい身体の佐久間が、とても大きな大木のような存在感を持っている。芯がぶれない安定感がある。佐久間は、特別な存在だ。一緒に過ごす時間だけが、俺が安心できる時間だ。
「今日は、猫、触りに来る?」
遠慮がちに聞いてくる友人。夏休みに少しこいつの家に遊びに行った。全部猫の毛のためだ。猫は、興味ない。こいつも、興味ない。
「もう、いい」
そっけなく返事をする。もう利用価値はない。いかにもお坊ちゃま風な男子。名前は、佐久間。苗字しか覚えていない。中学生なら平均的な身長に、真面目な文化部。全然タイプが違うけれど、櫻井と佐久間の出席番号が前後で当番が一緒。その縁で色々話しかけてくる。大人しそうなのに、意外と積極的に話題を振る。クラスでも、そこそこ友人がいる。少しあこがれの目線を俺に向ける佐久間。運動部で身体が大きいことが羨ましいと言っていた。佐久間は、勉強はできるが運動音痴だ。走り方がギャグかと思うくらい。スポーツが出来る事への単純な憧れだろうな、と思う。
何事もなく毎日が過ぎた。冬に近づいたころ、担任の先生から、呼ばれた。児童相談所の人から、連絡がいったようだ。知られたことに、ものすごいショックが走った。どうやら、学校で暴力を振るわないか、確認されたようだ。サッカー部でトラブルを起こしたこともあり、俺は教師から要注意人物になっていた。そうすると、徐々に噂が回る。チラチラと、家庭内暴力をふるったらしい、と言われるようになった。友人も離れていく。サッカー部から退部してほしい、と母に連絡が行った。ずっと練習に行っていないことも伝えられた。
全てが、崩れていった。クラスでも孤立した。周囲が怖がって、面白がって噂ばかり流される。家では、母が笑わなくなった。ただ、「大丈夫よ。嘉人は悪くないの。斗真なんていなければよかった。全部、あの子が悪いのよ」と暗い顔で繰り返す。どうにかなると思っていたのに、徐々に足元が狭くなる怖さ。恐怖と孤独と、どこにぶつけていいのか分からないイラつきが心を埋め尽くしていった。
中学三年になった。学校では俺は不良扱い。誰も声をかけない。家庭崩壊したらしい、とか、俺が夜中に街で暴れている、とか散々噂されている。気にしないように虚勢を張っているが、心が疲弊している。俺は平気だ、と思いながら、常に心がビクビクしている。その相反する気持ちに、イライラが募る。兄の首を絞めて、か細い呼吸を止めてしまいたくなる。心の中で、斗真とゆう兄が存在することが俺の不幸だったんだ、と繰り返す。
「また、一緒だね」
ふと、俺に声がかかる。久しぶりに俺に向けられた言葉。前の席の佐久間が、遠慮がちに声をかけてくる。驚いてしまった。久しぶりに近くに人を感じて、心が浮き立つ。
「あぁ」
佐久間を見ながら、返事をすると、少し頬を染めてニコリとする佐久間。すぐに前を向く。それから、佐久間の後姿を見つめるようになった。黒い真っすぐな髪。頭の形が丸くて綺麗。首が細い。耳の後ろにホクロ発見。佐久間は、そこそこ友人が多いが、集団にならない。ちょっとした会話を聞いていると、良い奴なのだと分かる。イヤミは言わないし、けっこう人の話を聞いている。相手を嫌な気持ちにしない会話。これなら、何となく皆話しかけるな、と思った。俺とは、違うタイプの人間だ。
「櫻井君、猫、触りに来る?」
遠慮がちに、佐久間が聞いてくる。クラスの誰も俺に声をかけず、存在しないモノになっている俺に挨拶もする。ま、佐久間なら噂とか気にしないか。しばらくコイツを見ていたから、分かる。
「俺が行ってもいいのか? お前が変な目で見られるぞ?」
「大丈夫だよ。帰り寄っていく?」
「あぁ」
些細な会話だけれど、人との接触が無くなっていたから心がソワソワする喜びを感じた。
学校の帰りに一緒に帰る。チラチラ見られる。そんな視線は気にせず一緒に歩く佐久間。
「もしかしたら、猫触らせてって連絡来るかと思っていたけど、携帯鳴らないし、声かけちゃった」
えへへ、と笑う。その普通な様子に、久しぶりに顔がほころんだ。つられて笑った俺を見て、また佐久間が微笑む。変な奴だ。
学校から出ると、二人で歩いていても、さほど見られない。「受験だね」「近くの高校?」など声をかける佐久間に、「うん」とか、「そうだな」とか答える。誰かと帰る道。横に友達がいる。それが、自然に頬が緩むほど嬉しかった。
「上がって。マル、おいで~」
「おじゃまします」
夕方まで佐久間の母はパートに出ている。リビングに上がらせてもらう。ふと、並ぶと兄が傍にいるようだと思う。同じような身長。体格は佐久間の方がいいか。佐久間の猫が、足元にすり寄る。佐久間が抱き上げて、身体を撫でる。愛おしそうな佐久間の顔と、甘えて鳴く猫のマルをみて、ずきりと心が痛んだ。
「お茶入れるよ。ちょっと待っていて」
マルを俺に引き渡し、キッチンに向かう佐久間。マルは俺が苦手だよな。俺が優しくなでずに、毛だけ集めるような触り方したもんな。色々と思い出し、心が重くなる。今日は、すり寄ってくるマルが可愛くて、初めてマルの様子を見ながら撫でた。気持ちよさそうに目を細めるマル。途端に心がほんわり温かくなった。可愛い。これは、可愛い。尻尾の動きも、たまらない。猫、可愛いな。気が付くと抱き上げて、膝の上に乗せていた。嫌がらずに俺に甘えるマル。身体が震えるような何かが、俺の中から沸き上がる。
そっとティッシュ箱が横に置かれる。なんだ? 横を見ると、佐久間が黙って俺を見ている。
「使って?」
何を言っているんだ? 顔を上げて初めて自分が泣いていることに気が付いた。涙が流れている。信じられない思いで、マルを撫でる手を止めた。不満そうにモゾリと動いて離れていくマル。恥ずかしくて直ぐにティッシュで涙と鼻水を拭きとる。
「櫻井君、聞いてもいい?」
無言で返事をする。
「櫻井君は、家で暴力をふるったの?」
「……噂、流れてんだろ」
「噂じゃなくて、櫻井君から聞きたい。僕は、マルを撫でてくれる櫻井君がそんなことするとは思えない」
佐久間は、知らないんだ。俺が、何を思ってマルを利用していたか。言いたくない。心臓が、締めつけられる。
「噂聞いて、よく俺を家に呼べるな、お前」
「話をそらさないで。これまで、櫻井君はクラスの中心で、皆を引っ張っていた。それなのに、急に皆手のひら返して、おかしいと思った。少なくてもクラスでは誰も被害に会っていないじゃないか。それなのに、おかしいよ」
佐久間を見る。佐久間は、よく考えている。一呼吸。
「兄を、殴った」
俺を見る真っすぐな目が、痛い。
「どうして、殴ったの?」
「兄は、斗真は、逃げようとしてズルかったんだ」
「お兄さんは、何から逃げようとしたの? それは、殴られるような悪い事だったの?」
ふと、考えた。兄は、何から逃げたんだ? 本当に逃げたのか? 殴られるような、悪い事だったのか? 虐げて当然だと思っていたから、何故と聞かれると答えられなかった。
「お兄さんを殴った理由って、なに?」
え? 理由? だんだん、分からなくなってくる。
「……だって、父さんも母さんも、兄は出来が悪くて、兄がいることが悪くて、ウチにはいらないって言ってたし……」
「え? それで、殴ったの? え?」
驚愕の表情の佐久間。よく頭が回らない。あれ? なんで、兄を殴っていいって、死んだっていいって思ったんだっけ?
「お兄さん、悪い事何もしていないのに、殴られたって事?」
「だけど、兄はいらないって、存在価値がないって母さんが言ってるんだ。うちじゃ、それが当然なんだ。それが普通なんだよ!」
「じゃ、櫻井君のお母さんが僕のことも存在価値のない友人だ、殴って構わないと言ったら、僕のことも殴るの?」
「殴らない! 佐久間の事は、絶対に殴らないよ。佐久間は友人じゃないか。そんなことはしない」
「……お兄さんも、一人の人じゃないの?」
兄が、一人の人間。ぞっとした。簡単に卑下できる価値のないモノだと思っていた、兄が人間?
「お兄さんにしたこと、僕やクラスの皆にできる?」
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「俺は、佐久間を殴らない。もう、誰も殴らない。本当だ」
下を向いたまま、心からの言葉を口にする。
「うん。分かってるよ。あの、余計なお世話かもしれないけれど、櫻井君は、お兄さんに謝ったのかな?」
俺が、兄に、斗真に謝る? 考えたこともなかったことに、心臓の音が、耳の傍でドクドク鳴り響いていた。
「……佐久間、たまに、話にきていいか? 佐久間と話して、ちょっと、何か分かった気がするんだ」
「うん。僕で良ければ」
こんな話をしたのに、動じずに笑顔を見せてくれる。その優しさに涙が流れた。「ありがとう」と感謝を告げた。マルが、すり寄ってニャアと鳴いた。
帰宅して、兄の部屋に行った。兄は、どんな兄だっただろう。その顔を思い出そうとしても、青白い無表情な顔しか思い出せない。どうして、兄なら虐げていいと思ったんだろう。
「お兄さんに謝ったの?」
佐久間の声が響く。兄は、ウチにいる頃、嫌われるような悪いことをしていただろうか? なぜ存在価値が無いと決めつけていたのか? 兄は、俺や両親に何か嫌な事をしたんだろうか?
考えても、兄が俺たちにした悪い事なんて一つも思い当たらない。俺が、あんなことをして、死んでしまえ、なんて言うほどの事は、何もしていないじゃないか。
考えて行きついた答えに、泣き崩れた。
俺は、兄に、斗真にとんでもない事をしたんだ。自分が怖くて、涙が流れる。身体が震える。俺がしたことは、犯罪だ。許されることじゃない。やっとそのことを理解できた。
その日から、毎日兄の部屋で考えた。父と母に存在を否定されていた兄。それを当然のように思っていたけれど、あの細い小さな体で全て受け止めて、どんな思いをしただろう。一緒に食事をすることは無かった。いつも、部屋に閉じこもり、勉強ばかりしていた。俺にご飯や弁当を用意する母は、兄の分は用意しなかった。兄は、どんな思いで俺たちを見ていたのだろう。兄が苦しむことを楽しんでいた俺。一言も優しい言葉をかけた覚えがない。兄の部屋には、本と勉強しかない。必要最低限の家具だけ。俺の部屋にあるテレビもゲーム機も漫画も、ない。心がズキリと痛んだ。
母さんに聞いてみた。
「母さんは、なんで斗真を嫌うわけ?」
母さんは、驚いた顔で俺を見た。
「なんでって、斗真は悪いでしょ?」
「だから、斗真の、兄さんのどこが悪いの?」
「どこって……。全部、でしょう?」
「コレが悪いって答えられないの? それなのに、斗真は悪いの?」
はっとしたように、俺を見つめる母。
「どうしたのよ、嘉人らしくないじゃない。嘉人は余計な事考えなくていいのよ。お母さんの言う通りにしていれば、大丈夫よ」
「俺は、斗真は何も悪いことをしていないと思うけど」
一言を伝える。母を見つめた。青い顔で、震えている。
「母さんは、斗真のご飯を作らなかった。斗真を大切にしなかった。それは、正しい事なの?」
「何言ってるの? だって、斗真じゃない!」
母を見て、やっと気が付いた。母は、少し前の俺だ。
この人は、おかしい。母は、それに気づいていない。周りからしたら、俺は母さんと同じ、オカシイ存在だったのか。青くなり震える母を見て、ぞっとした。
そりゃ、俺から友人も離れていくわけだ。目の前の母が、遠い存在に思えた。
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佐久間の家で色々話す。俺は、兄にしたことを、すべては話せない。とても、言えない。マルの毛を利用したことも、言えない。でも、俺の家について、話す。決して佐久間以外には言えないと思う。
「母さんに、なぜ兄を大切にしないのか、聞いてみた」
「そうなんだ。怒られなかった?」
「怒られなかったけど、青くなって震えてた。母さんを傷つけたかも。でも、母さんは兄を虐げる理由を言えなかった。佐久間に問い詰められた時の俺と同じだった。俺は、なんで兄を人間以下みたいに思っていたのか、ちょっと分かった」
「そっか。絶対王政みたいな感じかな。コレが正しいって刷り込まれたのかもね。そこに気づけて良かったね。だけど、家族の中で櫻井君が辛い立場になる事は避けたほうが良いよ。僕たちは中学生なんだし」
「そうだな。これまで、父や母と同じ側に疑問を持たずにいた自分を怖いと思う。兄は今、養子に出たけれど、兄がココから逃げることが出来て良かったと思う」
「櫻井君も、逃げたい?」
「良く、分からない。俺は大切にされてきたし。兄の立場とは、違うと思う」
俺は、親と一緒になって、兄を虐げる側だった。そんな自分が恥ずかしい。
下を見て、マルを優しくなでる。俺の膝がお気に入りになってくれて、座ると必ず乗ってくる。可愛い。温かい可愛い顔のマル。心の中でマルに「ごめんな」と謝る。お前の毛を利用して、ゴメン。ちょっと前の俺は、マルの毛を集めて兄の喘息発作の誘発に使っていた。兄が夜中に苦しむことを、こっそり笑っている変態だった。歪んでいた。
ふと、佐久間を見る。佐久間は、まっすぐな人間だ。俺とは、違う。
「俺、兄にこれまで沢山悪いことをしたと思う。悪い事って思っていなかったから、すごく酷いことをしてきた。毎日、いなくなった兄の部屋で考えるんだ。なのに、兄に謝る勇気が持てない。佐久間に言われたように、謝ることが当然なのに。それは、分かるのに。兄と顔を合わせると思うと、怖いんだ」
「う~ん。お兄さんに向き合う時って、今じゃないのかもね。僕にもよく分からないけど。でも、少しずつ櫻井君が変わってきているのは、僕には分かるよ。焦らなくていいんじゃない?」
率直な言葉に救われる。穏やかに笑う佐久間。こいつと話すと、波だった心が静まる。不安を安心に変えてくれる。優しい人間だ。佐久間を見ていると、一緒に過ごすと、それだけで心が満たされる。
佐久間の家で、一緒に勉強するようになった。サッカーやスポーツだけで生きてきたから、受験勉強しないと高校生になれない。さすがにそれはマズイ。両親は、俺と目を合わせなくなっている。受験についてや、進路のことを俺の親に相談していいのか分からなくもなっている。担任の先生も俺に関わり合いたくないと距離を置いているのが分かる。俺には、信用できるのが佐久間だけだ。俺より小さい身体の佐久間が、とても大きな大木のような存在感を持っている。芯がぶれない安定感がある。佐久間は、特別な存在だ。一緒に過ごす時間だけが、俺が安心できる時間だ。
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