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Ⅶ 二人のオメガと二人のアルファ
⑤
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ジャルル家に到着した。父と母と兄、それにマリーたち侍従が揃って出迎えてくれた。
リンを見て皆が驚愕の表情をした。兄は「リン……」と声に出していた。申し訳なくて皆の顔が見られなかった。リンは下を向いてカロール殿下に隠れるように歩いた。
「カロール王子殿下、ザザ国ドーラ王子殿下並びにリーン殿下、わがジャルル伯爵家へのお立ち寄りを心から歓迎いたします。わがジャルル邸には休息も含め二泊していただく予定でございます。心を込めておもてなしいたします」
リンの父が挨拶をする。父の後ろには兄、母が頭を低くしている。リンは居たたまれなくて床を眺めた。
「ジャルル伯爵家には世話になる。今回は視察もあるが、休息が第一目的だ。心休まる時間にしたいと思っている。よろしく頼む」
「かしこまりました」
丁寧な対応をする父が時折リンに視線を飛ばす。兄もチラチラとリンを見る。その視線が辛い。
「あぁ、そうだ。ジャルル伯爵。こちらのリーン殿下は最近不法の森でザザ国のドーラ王子殿下に保護されたそうだ。とても辛い事があったようで記憶喪失だと聞いている。伯爵家のご子息も行方不明だったよね。ぜひお話などされると、何か助けになる事があるかもしれん」
リンの事をアピールするように声をかけるカロール殿下。リンは冷汗が出て顔が上げられない。
「おいおい、カロール。やめてくれよ。これはわが国のリーンだって言っているじゃないか。まるで伯爵家のご子息がリーンではないかと疑っているようだ。リーンはオメガだ。男オメガでリーンほど美しいと欲しがるのは分かる。だけどリーンはザザ国の者だ。もう辛い思いはさせたくないんだよ」
「ドーラ、リーンをオメガとして奪うつもりは無い。信じてくれ。ただ、どうしても俺の愛するリンを諦めきれないんだ」
「そうか。それなら焦るなよ。カロールの焦りがリーンの不安を煽るんだよ。あまり追いつめるな。リンでもリーンでもいいじゃないか。こうして無事にリーンがここに居るだけじゃダメか? 記憶が戻るかどうかわからんが、これからどこで生きて行きたいかはリーンが決めれば良いことだろ?」
その場にいた全員がドーラ殿下の言葉に動きを止める。リンはその言葉に救われる思いがした。
「そうか。いや、ドーラには敵わないな。その通りだ。ジャルル伯爵、俺の言葉は忘れてくれ。ここで休ませてもらえたら十分だ。そしてリーン、ゴメン。俺が焦ってしまいリーンを悩ませてしまったかもしれない」
カロール殿下がドーラ殿下に向く。
「ドーラ、ありがとう」
「いや、お前たちが探り合ってギスギスするとセレスとの楽しい時間を邪魔されるから嫌だっただけだ。礼を言う暇があるなら俺のセレスに菓子の一つでも用意させろよ。おい、ジャルル家ってのは伯爵家だろうが。セレスのためのおもてなしはどうしたんだよ?」
「は、はぁ? セレスの、ですか?」
リンの父がポカンとドーラ殿下を見る。カロール殿下は下を向いて笑いを堪えている。
「ほら、隣同士の領地なんだろ? 好みは? セレスは何が好きとか、ないのかよ?」
「あ、えぇ? あの、セレスは我が家のリンと仲が良く、甘い焼き菓子と果実水を好んでおりまして……」
ドーラ殿下の迫力にリンの父がしどろもどろになる。
「ほらほら、分かっているじゃないか! すぐに菓子を出せ。果実水を出せ! 他には、セレスの情報は?」
「はぁ? いや、すぐに準備させます」
とんでもない態度のドーラ殿下に目を白黒させるリンの父。
「ドーラ殿下、僕に直接聞いてください」
セレスが困った表情でドーラ殿下の横から発言する。
「僕の家の爵位は伯爵家より低いのです。僕のために伯爵公が動くなど、申し訳なさ過ぎて僕の心臓が止まりそうです」
「はぁ? セレスの心臓が! ジャルル伯爵殿、今すぐに医者を!」
「は、はいぃ?」
驚きすぎて付いて行けないリンの父がおかしな返答をする。首をかしげるリンの父。見かねてカロール殿下が咳を一つする。
「おい、いい加減にしろ、ドーラ。冗談が通じる相手と通じない相手が居る。見極めろよ」
「分かっているって。だから、もっと早くに止めろよ、カロール! 空気読め! 伯爵が困っているだろうが」
「それはドーラのせいだろうが!」
カロール殿下がいさめると間髪入れずにドーラ殿下が言い返す。困り顔だったセレスは吹きだして笑うし、リンの父は笑いをかみ殺している。一気に部屋の空気が明るくなりリンはクスっと笑いを漏らす。さすがドーラ殿下だ。
「まぁ、いいや。ドーラはふざけているのか天才過ぎるのかよくわからん。分からんが面白いよ」
カロール殿下の言葉にリンは『確かに』と頷いた。
応接間で一休み。自分の家なのに接待されていてリンはムズ痒い思いをした。父たちはやはり勘づいている様子で、リンの飲み物、食べ物は全てリンが好んでいたものを出してきた。懐かしく、切なく感じた。
リンは国内で一体どんな立場になっているのかと疑問が浮かぶ。先ほどカロール殿下は『ご子息が行方不明』と表現していた。国外追放の罪人であればリンの事を話題にしないはず。意味が分からずリンは首を傾げた。
客間で一休みした後は、伯爵邸の部屋に案内された。殿下二人はそれぞれ客間へ。リンとセレスはもともとリンが使っていた部屋に案内された。懐かしさに心臓がドキドキした。
「ここは弟のリンが使っていた部屋です。どうぞ」
兄のライに誘導されて部屋に入る。リンが王都に出発した日と変わらない状態。嬉しくて深呼吸する。自分の部屋の空気に感動する。やはりどこより落ち着く。リンは気になっていたことを恐る恐る聞いた。
「あの、この部屋を使っていた弟さんは、どうされたのですか?」
兄が振り返ってリンを見る。
「リンは明るく無邪気な男性オメガでした。今、行方不明です。私は父の後継ぎとして王都に行くことが多くなり、つい『オメガの美しい弟がいる』とあちこちで話してしまいました。今では後悔しています。父と母が必死でリンを隠していたのに、そうと気づかず当家に貴族オメガがいると広めてしまいました。結果、権力争いに巻き込まれて弟は失踪してしまいました。弟にまた会えるのなら、心から謝りたい。私が考え無しだったばかりに、大変な事に巻き込んでしまって…‥。リンの事を思わない日は無いのです。どうか生きていますように。苦しんでいませんように。そう神に祈る日々です」
兄が声を震わせた。泣きそうな顔を見てリンの心が痛んだ。
「リーン殿下、セレス。当家でゆっくりお寛ぎください。只今荷物を運ばせます」
顔を隠すように兄が退室する。
「リン、大丈夫?」
セレスの声にすぐに応えることが出来ない。使い慣れたソファーに腰かけてリンは首をかしげる。
「僕は、失踪なの?」
「うん。表向きは」
セレスの言葉がよく理解できない。どういう事だろう。リンの苦しみが失踪ということは、国外追放ではないのだろうか。そんな事がありえるのだろうか。混乱すると背中が痛む。焼き印をされた時の激痛が戻ってくる。肉が焦げる苦しみ。臭い。蘇る苦痛にリンはうずくまる。呼吸が苦しくなり、冷汗が浮かぶ。
「リン? ちょっと、ちょっと待っていて! すぐにカロール殿下を呼ぶから!」
セレスがバタバタと部屋を駆け出る。
「セレス様? お荷物は……」
「まぁ! リン様! 大変でございます! お医者を!」
周囲のざわめきに不安が煽られる。裁判の時の嘲笑。鞭のしなる音。嫌な事が頭をよぎる。
ーーもう、嫌だ!
半ばパニックになり、リンは持ってきていた抑制剤と精神安定剤をありったけ口に放り込んだ。とにかく楽になりたかった。
「ダメです! リン様、あぁ、カロール殿下! リン様が錠剤を多量に……」
「何だと! リン! ダメだ! 飲むな、吐け!」
力ずくで口を開けられそうになり、えずきながら錠剤を飲み下す。
「くそう! 医者を! 伯爵、湯とタオルを! 全部吐かせる!」
「これ、抑制剤と安定剤だ! 緊急用もあるから身体への吸収が早い。カロール、早く吐かせろ! この量だと致死量だ!」
「やだぁ! リン、ダメだ! そんなのダメだよ!」
周りの言葉が遠くに聞こえる。頭がグラグラ揺れる。
即効性のある緊急抑制剤も沢山飲んじゃったから効きが早いなぁ、と考える。心臓の音がドクン、ドクンと遅くなるのを体感する。リンの身体の力が抜ける。手足が重い。急に寒くなる。感覚がおかしい。
身体は自由がきかなくても、リンの目はカロール殿下を見ていた。リンを抱き留めながら何かを叫び続けて涙を流すカロール殿下。こんな顔は見たことが無いなぁ、と思った。
(アローラ国で死ぬわけにいかないのに)
心臓の音がどんどん遅くなり目を開けていられなくなる。身体が深く沈み込む感覚。目尻から熱い涙が流れる。息が出来なくなり、人生の終わりを意識する。
(まぁ死ねるのなら、どうでもいいか)
リンは少し微笑んで暗闇に入った。
『リン、愛しいリン。いつも肝心なときに守れなくてゴメン。こんなつもりじゃなかったって毎回思う。どうして俺は上手く出来ないのだろう。どうしてアルファなのにドーラのようにできないのだろう?』
リンの耳に届く声。カロール殿下だ。泣いているなぁ。カロール様は時々こうして弱いところを見せる。そんなときは『大丈夫ですよ』と頭を撫でて差し上げたいのに。リンの身体が沼の底に沈んだように動かない。目が開かない。
『カロール殿下、リン様の身体をお拭きしましょうか?』
懐かしいマリーの声だ。『マリー、元気にしていた?』そう言いたいのに声にならない。
『いや、俺がする。湯とタオル、着替えを用意してくれ』
『そんな、王子殿下がなさる事ではありません。薬を吐き出しておりますし、その、汚れなどがございますので』
『いい、俺がやる。汚れとかそんなことはどうでもいい。リンの全ては俺が世話したい』
ちょっと待って、とリンは焦る。焦ってもどうにも出来ないのだけど。まるで瓶に入った水の中にいるような感覚でもどかしい。背中は見られたくない。『マリーがやってよ~~』と届かない声をあげた。
『あぁ、リン。痛かったね。これほどに……。辛かったよな。こんなことになるならリンを連れて地方視察に行くべきだった。ごめん。本当に、ごめん。護ることも、幸せにすることさえできなくて』
カロール殿下の泣く声。嗚咽。それを聞いてリンはもう目覚めたくないと思った。きっと背中を見られたのだ。絶望に心が沈み込む。この瓶の中で閉じこもっていれば嫌なことを考えなくて済む。ここは感覚がないから痛みがない。苦しくない。ここにずっと居よう、リンはそう思い意識を閉じた。
今日は部屋に良い匂いが漂っている。若木の様な爽やかな匂い。何の匂いだろう。リンは布団の中で身体を伸ばし、「ん~~」と声に出す。周囲に人の気配がある。
「おはよう、マリー?」
傍にいる人が一瞬緊張するのが伝わってくる。マリーじゃないのか。リンが布団から顔を出すと知らない男性がいた。驚いて目を見開く。なぜ、リンの部屋にいるのだろう。ハニーブロンドの髪が目を引く。瞳が緑の男性だ。人間離れした美しさに息を飲む。リンは警戒しながら身体を起こした。
「おはよう、リーン。どこか、辛いところはない?」
優しい声を出す人。リンの名前を知っている? いや、リーンと言ったように聞こえた。意味が分からずリンはその人を見つめた。
ここはリンの部屋だ。部屋を見渡すがいつもの部屋。恐怖にリンの心臓がドキドキと速くなる。緊張するリンに手を伸ばしてくる男性。リンはベッドの端まで逃げた。
「え? リーン?」
「だ、誰? ここは、僕の部屋だ!」
「え?」
無言になる男性と一定の距離を保ちながらリンは緊急ブザーを押した。
「どうしました!」
いち早く駆け付けた兄のライを見てリンはベッドから飛び出してライに抱き着いた。
「は、はぁ?」
困惑した声を出すライ。
「兄さん! 侵入者だ! 知らない人がいる!」
「はぁ?」
兄を盾にするように知らない男から距離をとるリン。
「何があったのですか!」
次に部屋に入って来た父。
「お父様、警備兵を! 変な人がいるんだ!」
「はぁ?」
その場の皆が、「はぁ?」と変な声を出した。
リンも意味が分からず首をかしげて「はぁ?」と言ってしまった。
リンを見て皆が驚愕の表情をした。兄は「リン……」と声に出していた。申し訳なくて皆の顔が見られなかった。リンは下を向いてカロール殿下に隠れるように歩いた。
「カロール王子殿下、ザザ国ドーラ王子殿下並びにリーン殿下、わがジャルル伯爵家へのお立ち寄りを心から歓迎いたします。わがジャルル邸には休息も含め二泊していただく予定でございます。心を込めておもてなしいたします」
リンの父が挨拶をする。父の後ろには兄、母が頭を低くしている。リンは居たたまれなくて床を眺めた。
「ジャルル伯爵家には世話になる。今回は視察もあるが、休息が第一目的だ。心休まる時間にしたいと思っている。よろしく頼む」
「かしこまりました」
丁寧な対応をする父が時折リンに視線を飛ばす。兄もチラチラとリンを見る。その視線が辛い。
「あぁ、そうだ。ジャルル伯爵。こちらのリーン殿下は最近不法の森でザザ国のドーラ王子殿下に保護されたそうだ。とても辛い事があったようで記憶喪失だと聞いている。伯爵家のご子息も行方不明だったよね。ぜひお話などされると、何か助けになる事があるかもしれん」
リンの事をアピールするように声をかけるカロール殿下。リンは冷汗が出て顔が上げられない。
「おいおい、カロール。やめてくれよ。これはわが国のリーンだって言っているじゃないか。まるで伯爵家のご子息がリーンではないかと疑っているようだ。リーンはオメガだ。男オメガでリーンほど美しいと欲しがるのは分かる。だけどリーンはザザ国の者だ。もう辛い思いはさせたくないんだよ」
「ドーラ、リーンをオメガとして奪うつもりは無い。信じてくれ。ただ、どうしても俺の愛するリンを諦めきれないんだ」
「そうか。それなら焦るなよ。カロールの焦りがリーンの不安を煽るんだよ。あまり追いつめるな。リンでもリーンでもいいじゃないか。こうして無事にリーンがここに居るだけじゃダメか? 記憶が戻るかどうかわからんが、これからどこで生きて行きたいかはリーンが決めれば良いことだろ?」
その場にいた全員がドーラ殿下の言葉に動きを止める。リンはその言葉に救われる思いがした。
「そうか。いや、ドーラには敵わないな。その通りだ。ジャルル伯爵、俺の言葉は忘れてくれ。ここで休ませてもらえたら十分だ。そしてリーン、ゴメン。俺が焦ってしまいリーンを悩ませてしまったかもしれない」
カロール殿下がドーラ殿下に向く。
「ドーラ、ありがとう」
「いや、お前たちが探り合ってギスギスするとセレスとの楽しい時間を邪魔されるから嫌だっただけだ。礼を言う暇があるなら俺のセレスに菓子の一つでも用意させろよ。おい、ジャルル家ってのは伯爵家だろうが。セレスのためのおもてなしはどうしたんだよ?」
「は、はぁ? セレスの、ですか?」
リンの父がポカンとドーラ殿下を見る。カロール殿下は下を向いて笑いを堪えている。
「ほら、隣同士の領地なんだろ? 好みは? セレスは何が好きとか、ないのかよ?」
「あ、えぇ? あの、セレスは我が家のリンと仲が良く、甘い焼き菓子と果実水を好んでおりまして……」
ドーラ殿下の迫力にリンの父がしどろもどろになる。
「ほらほら、分かっているじゃないか! すぐに菓子を出せ。果実水を出せ! 他には、セレスの情報は?」
「はぁ? いや、すぐに準備させます」
とんでもない態度のドーラ殿下に目を白黒させるリンの父。
「ドーラ殿下、僕に直接聞いてください」
セレスが困った表情でドーラ殿下の横から発言する。
「僕の家の爵位は伯爵家より低いのです。僕のために伯爵公が動くなど、申し訳なさ過ぎて僕の心臓が止まりそうです」
「はぁ? セレスの心臓が! ジャルル伯爵殿、今すぐに医者を!」
「は、はいぃ?」
驚きすぎて付いて行けないリンの父がおかしな返答をする。首をかしげるリンの父。見かねてカロール殿下が咳を一つする。
「おい、いい加減にしろ、ドーラ。冗談が通じる相手と通じない相手が居る。見極めろよ」
「分かっているって。だから、もっと早くに止めろよ、カロール! 空気読め! 伯爵が困っているだろうが」
「それはドーラのせいだろうが!」
カロール殿下がいさめると間髪入れずにドーラ殿下が言い返す。困り顔だったセレスは吹きだして笑うし、リンの父は笑いをかみ殺している。一気に部屋の空気が明るくなりリンはクスっと笑いを漏らす。さすがドーラ殿下だ。
「まぁ、いいや。ドーラはふざけているのか天才過ぎるのかよくわからん。分からんが面白いよ」
カロール殿下の言葉にリンは『確かに』と頷いた。
応接間で一休み。自分の家なのに接待されていてリンはムズ痒い思いをした。父たちはやはり勘づいている様子で、リンの飲み物、食べ物は全てリンが好んでいたものを出してきた。懐かしく、切なく感じた。
リンは国内で一体どんな立場になっているのかと疑問が浮かぶ。先ほどカロール殿下は『ご子息が行方不明』と表現していた。国外追放の罪人であればリンの事を話題にしないはず。意味が分からずリンは首を傾げた。
客間で一休みした後は、伯爵邸の部屋に案内された。殿下二人はそれぞれ客間へ。リンとセレスはもともとリンが使っていた部屋に案内された。懐かしさに心臓がドキドキした。
「ここは弟のリンが使っていた部屋です。どうぞ」
兄のライに誘導されて部屋に入る。リンが王都に出発した日と変わらない状態。嬉しくて深呼吸する。自分の部屋の空気に感動する。やはりどこより落ち着く。リンは気になっていたことを恐る恐る聞いた。
「あの、この部屋を使っていた弟さんは、どうされたのですか?」
兄が振り返ってリンを見る。
「リンは明るく無邪気な男性オメガでした。今、行方不明です。私は父の後継ぎとして王都に行くことが多くなり、つい『オメガの美しい弟がいる』とあちこちで話してしまいました。今では後悔しています。父と母が必死でリンを隠していたのに、そうと気づかず当家に貴族オメガがいると広めてしまいました。結果、権力争いに巻き込まれて弟は失踪してしまいました。弟にまた会えるのなら、心から謝りたい。私が考え無しだったばかりに、大変な事に巻き込んでしまって…‥。リンの事を思わない日は無いのです。どうか生きていますように。苦しんでいませんように。そう神に祈る日々です」
兄が声を震わせた。泣きそうな顔を見てリンの心が痛んだ。
「リーン殿下、セレス。当家でゆっくりお寛ぎください。只今荷物を運ばせます」
顔を隠すように兄が退室する。
「リン、大丈夫?」
セレスの声にすぐに応えることが出来ない。使い慣れたソファーに腰かけてリンは首をかしげる。
「僕は、失踪なの?」
「うん。表向きは」
セレスの言葉がよく理解できない。どういう事だろう。リンの苦しみが失踪ということは、国外追放ではないのだろうか。そんな事がありえるのだろうか。混乱すると背中が痛む。焼き印をされた時の激痛が戻ってくる。肉が焦げる苦しみ。臭い。蘇る苦痛にリンはうずくまる。呼吸が苦しくなり、冷汗が浮かぶ。
「リン? ちょっと、ちょっと待っていて! すぐにカロール殿下を呼ぶから!」
セレスがバタバタと部屋を駆け出る。
「セレス様? お荷物は……」
「まぁ! リン様! 大変でございます! お医者を!」
周囲のざわめきに不安が煽られる。裁判の時の嘲笑。鞭のしなる音。嫌な事が頭をよぎる。
ーーもう、嫌だ!
半ばパニックになり、リンは持ってきていた抑制剤と精神安定剤をありったけ口に放り込んだ。とにかく楽になりたかった。
「ダメです! リン様、あぁ、カロール殿下! リン様が錠剤を多量に……」
「何だと! リン! ダメだ! 飲むな、吐け!」
力ずくで口を開けられそうになり、えずきながら錠剤を飲み下す。
「くそう! 医者を! 伯爵、湯とタオルを! 全部吐かせる!」
「これ、抑制剤と安定剤だ! 緊急用もあるから身体への吸収が早い。カロール、早く吐かせろ! この量だと致死量だ!」
「やだぁ! リン、ダメだ! そんなのダメだよ!」
周りの言葉が遠くに聞こえる。頭がグラグラ揺れる。
即効性のある緊急抑制剤も沢山飲んじゃったから効きが早いなぁ、と考える。心臓の音がドクン、ドクンと遅くなるのを体感する。リンの身体の力が抜ける。手足が重い。急に寒くなる。感覚がおかしい。
身体は自由がきかなくても、リンの目はカロール殿下を見ていた。リンを抱き留めながら何かを叫び続けて涙を流すカロール殿下。こんな顔は見たことが無いなぁ、と思った。
(アローラ国で死ぬわけにいかないのに)
心臓の音がどんどん遅くなり目を開けていられなくなる。身体が深く沈み込む感覚。目尻から熱い涙が流れる。息が出来なくなり、人生の終わりを意識する。
(まぁ死ねるのなら、どうでもいいか)
リンは少し微笑んで暗闇に入った。
『リン、愛しいリン。いつも肝心なときに守れなくてゴメン。こんなつもりじゃなかったって毎回思う。どうして俺は上手く出来ないのだろう。どうしてアルファなのにドーラのようにできないのだろう?』
リンの耳に届く声。カロール殿下だ。泣いているなぁ。カロール様は時々こうして弱いところを見せる。そんなときは『大丈夫ですよ』と頭を撫でて差し上げたいのに。リンの身体が沼の底に沈んだように動かない。目が開かない。
『カロール殿下、リン様の身体をお拭きしましょうか?』
懐かしいマリーの声だ。『マリー、元気にしていた?』そう言いたいのに声にならない。
『いや、俺がする。湯とタオル、着替えを用意してくれ』
『そんな、王子殿下がなさる事ではありません。薬を吐き出しておりますし、その、汚れなどがございますので』
『いい、俺がやる。汚れとかそんなことはどうでもいい。リンの全ては俺が世話したい』
ちょっと待って、とリンは焦る。焦ってもどうにも出来ないのだけど。まるで瓶に入った水の中にいるような感覚でもどかしい。背中は見られたくない。『マリーがやってよ~~』と届かない声をあげた。
『あぁ、リン。痛かったね。これほどに……。辛かったよな。こんなことになるならリンを連れて地方視察に行くべきだった。ごめん。本当に、ごめん。護ることも、幸せにすることさえできなくて』
カロール殿下の泣く声。嗚咽。それを聞いてリンはもう目覚めたくないと思った。きっと背中を見られたのだ。絶望に心が沈み込む。この瓶の中で閉じこもっていれば嫌なことを考えなくて済む。ここは感覚がないから痛みがない。苦しくない。ここにずっと居よう、リンはそう思い意識を閉じた。
今日は部屋に良い匂いが漂っている。若木の様な爽やかな匂い。何の匂いだろう。リンは布団の中で身体を伸ばし、「ん~~」と声に出す。周囲に人の気配がある。
「おはよう、マリー?」
傍にいる人が一瞬緊張するのが伝わってくる。マリーじゃないのか。リンが布団から顔を出すと知らない男性がいた。驚いて目を見開く。なぜ、リンの部屋にいるのだろう。ハニーブロンドの髪が目を引く。瞳が緑の男性だ。人間離れした美しさに息を飲む。リンは警戒しながら身体を起こした。
「おはよう、リーン。どこか、辛いところはない?」
優しい声を出す人。リンの名前を知っている? いや、リーンと言ったように聞こえた。意味が分からずリンはその人を見つめた。
ここはリンの部屋だ。部屋を見渡すがいつもの部屋。恐怖にリンの心臓がドキドキと速くなる。緊張するリンに手を伸ばしてくる男性。リンはベッドの端まで逃げた。
「え? リーン?」
「だ、誰? ここは、僕の部屋だ!」
「え?」
無言になる男性と一定の距離を保ちながらリンは緊急ブザーを押した。
「どうしました!」
いち早く駆け付けた兄のライを見てリンはベッドから飛び出してライに抱き着いた。
「は、はぁ?」
困惑した声を出すライ。
「兄さん! 侵入者だ! 知らない人がいる!」
「はぁ?」
兄を盾にするように知らない男から距離をとるリン。
「何があったのですか!」
次に部屋に入って来た父。
「お父様、警備兵を! 変な人がいるんだ!」
「はぁ?」
その場の皆が、「はぁ?」と変な声を出した。
リンも意味が分からず首をかしげて「はぁ?」と言ってしまった。
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