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下村 秋人
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プロローグ
目が覚めたら、一人だった。身体が痛くて、すぐに起き上がれなかった。その痛みに、これが現実だと突きつけられたようで涙が流れた。夢であって欲しかった。這いずるようにして、トイレに向かう。お腹を下していた。全身汚れた裸のまま、床に転がっていた。シャワーを浴びる間、汚さが気持ち悪くて、夜のことを受け入れられなくて、二度吐いた。
山奥のコテージに、一人で置き去りにされていた。
悲しさに、苦しさに、身体の痛みに、涙だけが溢れていた。僕の荷物が残されていたことが幸いだった。震える手で、着替えを出す。
ふと、ケータイを見ると、「片付けと鍵を返しておけ」とメッセージ。画面を見ただけで、全身が恐怖で震えた。写真が送られてきていた。卑猥な肌色が画面に広がる。怖くて、ケータイを触れない。呼吸が上手くできなくて、しばらく動けなかった。
泣きながら、片づけをした。ゴミをまとめて、管理人室に鍵返却。ケータイの電源は落とした。そのまま捨ててしまいたかった。
車で乗せてきてもらった山道を、痛む身体で歩いて下る。苦しさに、辛さに、途中何度も嘔吐した。眩暈がして山を下りるまで数時間かかった。目の前がぐらつく疲労だった。
友達に裏切られた苦しさに、泣くことしかできなかった。
下村 秋人
総合商社営業部。何より営業成績が大切。人に頭を下げる。上司は絶対。相手のいいところを見つけましょう、なんて学生時代の考えは砕け散った。社会で生きていくには要領の良さが大事だ。それこそ学校で教えて欲しかった。先輩に必死でついていくけれど、意地悪されても誰も助けてくれない。失敗すれば笑われる。事前準備した資料が抜き取られている、試算した数値が書き換えられている、そんな事ばかりだった。頑張っても営業成績が上がらず、二年で総務に配属。出来ないという烙印を会社で押されたようなものだった。そうなると、同期からもバカにして当然という扱いを受ける。働くって、学生のころ思っていたより夢のないモノだと分かった。なるべく目の前の一日を過ごすことに集中する。そうしていないと、普通から転げ落ちてしまいそうになる。きっと僕は、普通の道のギリギリに立っている。
勤務先の会社は総合商社で、総務部の中に秘書課がある。秘書課は、女子社員の中でも花形であり、営業部、海外事業部、経営企画部の出来る男性社員が女子目的に立ち寄る。書類の事や、福利厚生のことなど、どうでもいいことを聞きに来て、秘書課の女子を飲み会に誘っていく。営業部の知っている顔が、僕をダシにしてくることも多い。差を見せつけられるようで、とても苦痛。これくらいは役に立て、とかイヤミを言われるたびに心が疲弊する。特に、僕の教育をしていた営業部の高橋先輩が来ると、胃が痛む。
「しっかり教えているんですけれど、下村君は理解が出来なかったのかなぁ。丁寧に説明しているんだけどねぇ。どうして出来ないのかなぁ」
周りに聞こえるように、わざとアピールして大声で僕に注意する高橋先輩。顔を見ただけで、胃の痛む日々を思い出す。今だって、ほぼ毎日総務に来ては、どれだけ僕が使えないか、秘書部社員に笑い話をしていく。反論も出来ず、背中を丸めて、胃の痛みに耐える。それでも、営業にいたころよりはいい。毎日、僕はギリギリにいると実感する。
「下村君。出張の交通費精算お願いしていい?」
カウンターに営業部の榎本主任。さわやかな笑顔。この人は、また不思議な人だ。出張時の領収書提出や旅費精算をこまめに持参する。月に一度まとめて社内便やメール、郵送が主流なのに。高橋先輩と同期の二十八歳で、出世頭。女子社員の一番人気。二十歳台で主任は、うちの会社ではあり得ない出世だ。誰からも好かれる人格者。それに加えて高身長、顔好し、家柄も良いらしい。まぶしすぎて直視出来ないタイプの人。他部署との連携も任されて忙しいはずが、こうして総務にやってくる。榎本主任が来ると、秘書課女子社員が取り囲む。書類の受け渡しは女子社員が「やります」と目を輝かせて言うため、毎回任せている。出来たら、秘書課に顔を出してそのまま去って欲しい。僕を呼ばないで欲しい。ため息が出る。
「下村君、ありがとう」
書類のやり取りは秘書課の人がやっているのに、帰り際にはカウンターからわざわざ中に声をかけていく。僕は頭を下げて対応する。下っ端にも気を遣う出来る人だと思う。
「ね、下村さん。できたら榎本主任を飲み会に誘ってもらえないかしら?」
「お願いしますぅ」
榎本主任が来た後は、毎回秘書課の女子社員に囲まれる。
「すみません。僕は連絡先も知らないんです」
毎回下を向いて、頭を下げる。
「営業部に行って連絡先交換してきてくださいよ~」
「元営業の力を発揮するべきですよ~」
「おねがいしますぅ」
「あたしたちの誘いには乗ってもらえないんです~」
「一回でいいんです! 飲み会セッティングしてください!」
女子社員に責められるこの時間も、本当に苦痛だ。ひたすら「すみません」と謝り倒す。社会人って頭を下げまくる職業だな、と痛感する。「あ~もう、使えない」と遠くから聞こえる女子社員の声。本当に、すみません。心の中で謝り、背中を丸めてデスクに向かう。キリキリと胃が痛む。それでも、生きるためにこの仕事にしがみつくしかない。歯を食いしばって現状を受け入れる。
総務部のある十階フロア、この階の良いところは、女子社員が多いため男子トイレが空いている事。胃が痛くて、嘔吐しても誰にも気づかれない。これは、大変助かる。営業部のある十五階フロアは男性社員が多く、トイレで吐いていればすぐにバレた。我慢して、嘔吐袋をもって非常階段に向かった日々が懐かしい。大人しいなりに、友達もいて、こんな人生を歩むとは思わなかったのに。全ては、大学の卒業旅行の、あのことから狂った。
大学に合格した。極平凡のサラリーマン家庭で経済面から国立の大学に進学して、と親から切に願われていた。県外の国立大学、何とか合格した。親も喜んだし、新しい生活にワクワクした。少し名の知れた工学部。大学ですぐに友達も出来た。いつも友人と五人でつるんでいた。友達だと思っていた。大学四年の夏。僕は、五人の中で一番に内定が出た。一番大人しく、後ろをついてきていただけの僕が。嬉しさですぐに友達に報告した。僕以外の四人は内定が出ていなかったが、卒業旅行を秋にすることになった。キャンプ場のコテージ。そこで、バーベキューして僕の内定祝いでもしようと誘われた。優しい皆が嬉しかった。レンタカーを借りて、利用客の少ない人気のない平日キャンプ場。古いコテージ一棟を借りていた。行きの車は皆の会話を楽しく聞いていた。夕方からお酒を飲んで、いい気分だった。
「秋人って、ヤったことあんの?」
唐突に聞かれた。僕は、みんなの後ろにくっついていたけれど、消極的で彼女どころか女友達一人も出来たことがない。
「そんな話、やめようよ」
笑って流そうとしたけれど、何故か皆が食らいつく。
「気になるよ。聞きたい。秋人、もしかしてヤリチンだったりして」
ニヤニヤと顔を覗き込まれる。
「ないない。全然モテないし」
全否定するけれど、四人が迫ってきていてちょっと怖い。どうしたのかな。一回トイレに行って雰囲気変わるのを待とうかな、そう思った、けれど。急に腕を掴まれて、ソファーに押さえつけられる。背筋にゾワリと恐怖が走る。
「わかんないよね。内定も一人で出し抜いて取っちゃうし。アキトの事は、身体に聞いた方がいいいよね」
「そりゃそうだ」
僕を見下ろすみんなの顔が、笑っているのにゾッとするほど怖かった。
四人に手足を押さえられて、服を引き裂かれて裸にされた。喚き散らして暴れたけれど、頬を殴られ、腹を蹴られ抵抗する元気がなくなっていった。恐怖に涙が溢れた。
「アキト、良い顔するじゃん。その顔で就職合格したんじゃね?」
「ビッチかよ」
笑い声が頭に響く。首を振って否定するが、僕の声は聞いてもらえなかった。いつの間に用意していたのか、卑猥な道具が揃っていた。僕は同性のセックスどころか、女性とも経験がなかった。これから起こることに、震える事しかできなかった。
知らなかった。男性同士の場合、そんなところに挿れるなんて。痛みと苦しさに喘ぎ、悲鳴と涙が抑えられなかった。笑い声が頭に響く。泣き叫びながら、色々な体位で四人に犯されたあと、後腔に大人のおもちゃを挿れられて、ペニスに棒を差し込まれて、写真や動画をとられた。散々な痴態を強要された。これまでの人生で想像もできない恐怖だった。そのあとに、それぞれに数回犯され、僕の中がドロドロになるまで吐精された。意識を失えば叩き起こされて、明け方にやっと解放された。終わりが来た時、苦痛から解放される喜びで、「あ、ありがとう、ございます……」とつぶやいていた。それを大笑いされて、また何枚も写真を撮られた。顔も身体も、汚されつくしていた。
目が覚めたら一人だった。お腹の痛みにトイレに這った。全身が痛くて、たちあがれなかった。
やっとの思いで帰宅した。意識がもうろうとしていた。携帯電話は解約した。もう友達と呼べない人たち。怖くて顔も見たくない。大学は行くのをやめた。単位は取ってあったから卒業は問題ない。晩秋に卒論だけ担当教授に提出した。卒業式も出なかった。いつも五人で居たから、他に友人もいない。消え入るように大学を卒業した。
そんな気持ちで入社した就職先。上手くいくはずもなかった。特になぜか高橋先輩にキツく当たられる。男性に苦手意識が芽生えてしまった僕に、どうすることも出来なかった。
なんで、こんな上手くいかないんだろう。総務部に移動の荷物をまとめながら胃の痛みに耐える。榎本主任が「手伝うよ」と声をかける。些細な優しさが、胸をぐさりと刺す。惨めになる。小さな笑い声が上がる。ほっといて欲しかった。下を向いたまま「大丈夫です」と一言伝えて、「ありがとうございました」と退出した。
総務部総務課は、単調な毎日。僕には向いていた。他の部署で僕のように使えない判定をされた男性職員が三名。のんびりな課長と、五つ上の先輩、僕。あとは契約職員さんが四名。海外勤務に行く人の書類や手続き、福利厚生、出張旅費や休職、出産手当、結婚手当、扶養、健康診断など様々。これまでのように外回りがなく、じっとデスクにいる。僕には合っている。ずっと誰と話すこともなく、一人で生きていたい。
「おーい、お荷物く~ん、間違えちゃったよ、下村く~ん」
いつもの笑い顔で、僕を呼ぶ。休暇申請の事を聞きに来た、と言いながら、秘書課の若い子を呼ぶ。
「ねぇ、下村君ってさ、みんなのお荷物になってない? 見た目通りに出来ない君だからさ、秘書課の皆が困ってないか心配なんだよ。営業じゃ、大変だったんだよ~」
「え~? そうなんですかぁ?」
「こいつの教育がおれでさぁ……」
秘書課の数人の女子を呼び、大声で僕の失敗をひけらかす。いつもの事だけれど、今日はちょっと調子が悪くて、胃がいつもより痛んだ。高橋先輩、早く帰ってくれないかな。唇をかみしめて、苦痛に耐える。冷汗が滲む。
「あれ? 高橋。お前も申請?」
榎本主任が来る。途端に、バツが悪そうに去っていく高橋先輩。本気で助かったと思った。我慢の限界だった。榎本主任の対応ができず、口を押えて、とにかくトイレに駆け込む。個室に入り、胃の中のモノを吐き戻す。吐いても、胃の痛みがひどくなる。背中をくの字にして丸め、痛みに耐える。小さく呻きが漏れる。こらえきれず、数回胃液を吐く。
「下村君? 大丈夫?」
何で? 名前を呼ばれて、ゾッとする。調子が悪いことが、バレてしまう。吐き気を、こらえて返事をしようとした。けれど、口を押えた手に、グボっと吐いてしまった。あれ? これ、血? 自分の手の汚れを見つめた。痛む胃と、ガチャガチャ鳴るトイレのドア。隠さなきゃ。大丈夫ですって、言わなきゃ。だけど、座り込んで壁に寄りかかった姿勢から、動くことが出来ない。胃が痛い。目がグラグラする。ガチャリとドアが開く。なんで? 鍵かけたじゃんか。ぼんやりと見上げる。榎本主任。どうして?
「下村君!!」
声が頭に響く。途端に、胃の痛みが戻ってくる。だめだ、耐えられない。グポっとまた吐き戻す。手で口を押えたいのに、間に合わなかった。身体が重い。鉄の匂い。胃が痛い。胃液と混じって、自分が臭い。榎本主任に見られたくなかった。主任を見上げながら、意識がだんだん遠くなる。視界がぼんやりして、目が開けていられない。自然と流れる涙。何か言われている気がしたが、よく分からなかった。
目が覚めたら、病院だった。自分の腕につながる点滴を見つめる。胃の痛みがだいぶ楽になっている。多分、拭きとっただけの手。乾いた血が少し残っている。腕を動かすにも自分の身体の重さに苦労する。自分の腕を見る。こんなにやせ細ったのに、この腕を重く感じるなんて。ただ、ぼんやりと天井を見上げた。
「あ、目が覚めた?」
榎本主任が、カーテンを開けて入ってくる。ナースコールを押して「目覚めました」と報告している主任。それを、ただ見つめていた。主任、スーツのズボンに、白のTシャツ。珍しくアンバランスな服装ですね、少し笑いが漏れた。
「え? なに?」
優しく頭を撫でる主任。大きな手だ。身体が冷えていて、手の温度が嬉しい。
「少し、休むといいよ。よく頑張ったね」
優しい手と、穏やかな僕を見る顔。あぁ、夢か。夢なら、一言くらい、言ってもいいか。頭を撫でる手に心を委ねて、目を閉じた。
「……僕は、もう、楽になりたい……」
息を吐くように、声にしてみた。声に出すと涙が溢れた。目が熱い。嫌なことばかりで、もう耐えられない。心の底にあった、生きる事が辛いと言う気持ち。向き合うことが怖かった、気持ち。嗚咽を漏らして、泣いた。夢の中の榎本主任は、僕が眠るまでずっと頭を撫でていてくれた。優しい夢だった。
はっきりと目が覚めたのは、翌日だった。僕は、出血性胃潰瘍で総合病院の消化器科に入院になっていた。ストレス性の胃炎が原因と言われた。今日で入院三日目。出血もとを、胃カメラを使い止血処置してあるらしい。数日は絶飲食。点滴に胃の薬も、栄養剤も、炎症止めも入っている。食べなくていいのは楽ちんだ。胃が痛くても食べなくてはいけない日々を思うと、点滴持ち帰りしたいと思う。ぼんやりと点滴を見つめていると、コンコンとドアを叩く音。すっとスライドドアが開き、榎本主任が入ってくる。
「……お疲れ様です」
「お疲れさま。調子どう? 痛みはない?」
「はい」
昨日と同じ会話。穏やかな表情。あの日、榎本主任が救急車を呼んで病院に付き添ってくれていた。ぼんやりとしか覚えていなくて、倒れた日の事はどこまでが夢か、正直分からない。あれから、夕方必ず顔を出す主任。会社で倒れたため、様子を確認して報告しているらしい。そう言いながら、榎本主任は、何も聞かない。顔を見て、傍にいて、時々僕の頭を撫でて、穏やかな表情のまま僕を見つめて、帰る。頭を撫でるって訳が分からない。主任が帰った後、撫でられた頭をそっと自分で触る。僕の手より大きいと実感する。
入院手続きなども榎本主任が行ってくれた。会社は病気休暇の扱いで給料も出るから、気にしなくていいと言われた。手続き関係をしてくれたのは助かった。僕の両親は、僕が社会人一年目の夏に、交通事故で他界している。入院保証人など、僕には頼れる人がいない。入院中の必要なモノも、いつの間にか榎本主任が買ってきてくれた。個室代は払えないから、大部屋にと伝えたけれど、ベッドに空きがないから仕方ないと言われた。その場合の個室代はかからない、と。起き上がる元気もなく、全部榎本主任にお願いしてしまった。穏やかな笑顔で「俺に任せていいよ」と言う主任。友達に裏切られ、両親と死に別れ、誰にも頼ることなくギリギリを歩いていたから、この温かさに少し安心する。ちょっとだけ、入院中だけなら、頼って許されるかな。優しさに飢えている心が、揺れる。
入院から五日。胃カメラで、胃の中の炎症の確認と、出血した潰瘍部分が治癒できているか確認があった。結果は問題なし。数日休んだことで、胃の粘膜は回復してきていた。胃の痛みも軽くなっている。明日から柔らかい食事を開始する。問題なく経過すれば、あと数日で退院。仕事に戻ることを考えると、気のせいか胃がシクシクする。
コンコン、とノック。今日も穏やかな顔の榎本主任。
「今日の検査、良かったみたいだね」
「はい。明日から食べられそうです。本当にお世話になりました」
「ストレス性の胃潰瘍は、慢性的な胃炎が原因なんだって。退院しても、胃炎が完全に良くなるまで仕事を休んだらいいよ」
そんなこと、僕が決められない。困ってしまい、下を向く。
「俺の家に来ない?」
「……え?」
榎本主任を見つめる。相変わらず穏やかな微笑みを絶やさない。
「退院したら、一か月、休もう。その間、俺のところにおいで」
営業部のころ両親が事故死したから、榎本主任は僕が孤独だって知っている。でも、部署が一緒だっただけで、一緒の仕事をしたこともない。どうして僕に優しいのだろう。
「下村君が、どこかに消えてしまいそうで怖いんだ」
主任の一言に、心臓がドクリと鳴った。見透かされているような気がした。僕は、ギリギリのラインから落ちてしまえば、楽になれるかも、と考えていた。どこか、遠くへ。
「当たったかな。とにかく、俺は下村君の面倒を見ると決めた。分かったね?」
口元は穏やかなまま、目線が鋭くなっている。何となく、拒否が出来ない迫力があった。主任の顔を見たまま、コクリと頷いていた。
「うん。それでいい。少し、俺に甘えてごらん」
柔らかい目線に戻って微笑んでいる。この人は、何を言っているんだろう。いい大人が、甘えるなんて。ふわりと頭を撫でられる。慣れてきた、大きな手。温かい。警戒心も無くなっていた。されるままに頭を預ける。するりと、頬まで降りてくる手。包み込むように顔を持ち上げられて、唇にふわりと主任の体温を感じた。僕より、温かい。あまりにも自然な流れだった。僕から離れて、頭をポンポンされて「また明日」と主任が帰る。その動きをポカンと目で追っていた。
榎本主任は、顔色を変えることもなく、終始穏やかな笑顔を浮かべていた。しばらくしてから、あぁ、からかわれたのか、と思い至った。そっと、口に触れてみる。僕の、ファーストキス。唇を触る手が震える。
榎本先輩は、簡単にこんなことが出来る人なんだ。男同士でも。ふと、辛い記憶が過る。違う、と思う。榎本先輩は、あいつらとは違う。でも、考え出すと、指の震えが止まらなかった。
目が覚めたら、一人だった。身体が痛くて、すぐに起き上がれなかった。その痛みに、これが現実だと突きつけられたようで涙が流れた。夢であって欲しかった。這いずるようにして、トイレに向かう。お腹を下していた。全身汚れた裸のまま、床に転がっていた。シャワーを浴びる間、汚さが気持ち悪くて、夜のことを受け入れられなくて、二度吐いた。
山奥のコテージに、一人で置き去りにされていた。
悲しさに、苦しさに、身体の痛みに、涙だけが溢れていた。僕の荷物が残されていたことが幸いだった。震える手で、着替えを出す。
ふと、ケータイを見ると、「片付けと鍵を返しておけ」とメッセージ。画面を見ただけで、全身が恐怖で震えた。写真が送られてきていた。卑猥な肌色が画面に広がる。怖くて、ケータイを触れない。呼吸が上手くできなくて、しばらく動けなかった。
泣きながら、片づけをした。ゴミをまとめて、管理人室に鍵返却。ケータイの電源は落とした。そのまま捨ててしまいたかった。
車で乗せてきてもらった山道を、痛む身体で歩いて下る。苦しさに、辛さに、途中何度も嘔吐した。眩暈がして山を下りるまで数時間かかった。目の前がぐらつく疲労だった。
友達に裏切られた苦しさに、泣くことしかできなかった。
下村 秋人
総合商社営業部。何より営業成績が大切。人に頭を下げる。上司は絶対。相手のいいところを見つけましょう、なんて学生時代の考えは砕け散った。社会で生きていくには要領の良さが大事だ。それこそ学校で教えて欲しかった。先輩に必死でついていくけれど、意地悪されても誰も助けてくれない。失敗すれば笑われる。事前準備した資料が抜き取られている、試算した数値が書き換えられている、そんな事ばかりだった。頑張っても営業成績が上がらず、二年で総務に配属。出来ないという烙印を会社で押されたようなものだった。そうなると、同期からもバカにして当然という扱いを受ける。働くって、学生のころ思っていたより夢のないモノだと分かった。なるべく目の前の一日を過ごすことに集中する。そうしていないと、普通から転げ落ちてしまいそうになる。きっと僕は、普通の道のギリギリに立っている。
勤務先の会社は総合商社で、総務部の中に秘書課がある。秘書課は、女子社員の中でも花形であり、営業部、海外事業部、経営企画部の出来る男性社員が女子目的に立ち寄る。書類の事や、福利厚生のことなど、どうでもいいことを聞きに来て、秘書課の女子を飲み会に誘っていく。営業部の知っている顔が、僕をダシにしてくることも多い。差を見せつけられるようで、とても苦痛。これくらいは役に立て、とかイヤミを言われるたびに心が疲弊する。特に、僕の教育をしていた営業部の高橋先輩が来ると、胃が痛む。
「しっかり教えているんですけれど、下村君は理解が出来なかったのかなぁ。丁寧に説明しているんだけどねぇ。どうして出来ないのかなぁ」
周りに聞こえるように、わざとアピールして大声で僕に注意する高橋先輩。顔を見ただけで、胃の痛む日々を思い出す。今だって、ほぼ毎日総務に来ては、どれだけ僕が使えないか、秘書部社員に笑い話をしていく。反論も出来ず、背中を丸めて、胃の痛みに耐える。それでも、営業にいたころよりはいい。毎日、僕はギリギリにいると実感する。
「下村君。出張の交通費精算お願いしていい?」
カウンターに営業部の榎本主任。さわやかな笑顔。この人は、また不思議な人だ。出張時の領収書提出や旅費精算をこまめに持参する。月に一度まとめて社内便やメール、郵送が主流なのに。高橋先輩と同期の二十八歳で、出世頭。女子社員の一番人気。二十歳台で主任は、うちの会社ではあり得ない出世だ。誰からも好かれる人格者。それに加えて高身長、顔好し、家柄も良いらしい。まぶしすぎて直視出来ないタイプの人。他部署との連携も任されて忙しいはずが、こうして総務にやってくる。榎本主任が来ると、秘書課女子社員が取り囲む。書類の受け渡しは女子社員が「やります」と目を輝かせて言うため、毎回任せている。出来たら、秘書課に顔を出してそのまま去って欲しい。僕を呼ばないで欲しい。ため息が出る。
「下村君、ありがとう」
書類のやり取りは秘書課の人がやっているのに、帰り際にはカウンターからわざわざ中に声をかけていく。僕は頭を下げて対応する。下っ端にも気を遣う出来る人だと思う。
「ね、下村さん。できたら榎本主任を飲み会に誘ってもらえないかしら?」
「お願いしますぅ」
榎本主任が来た後は、毎回秘書課の女子社員に囲まれる。
「すみません。僕は連絡先も知らないんです」
毎回下を向いて、頭を下げる。
「営業部に行って連絡先交換してきてくださいよ~」
「元営業の力を発揮するべきですよ~」
「おねがいしますぅ」
「あたしたちの誘いには乗ってもらえないんです~」
「一回でいいんです! 飲み会セッティングしてください!」
女子社員に責められるこの時間も、本当に苦痛だ。ひたすら「すみません」と謝り倒す。社会人って頭を下げまくる職業だな、と痛感する。「あ~もう、使えない」と遠くから聞こえる女子社員の声。本当に、すみません。心の中で謝り、背中を丸めてデスクに向かう。キリキリと胃が痛む。それでも、生きるためにこの仕事にしがみつくしかない。歯を食いしばって現状を受け入れる。
総務部のある十階フロア、この階の良いところは、女子社員が多いため男子トイレが空いている事。胃が痛くて、嘔吐しても誰にも気づかれない。これは、大変助かる。営業部のある十五階フロアは男性社員が多く、トイレで吐いていればすぐにバレた。我慢して、嘔吐袋をもって非常階段に向かった日々が懐かしい。大人しいなりに、友達もいて、こんな人生を歩むとは思わなかったのに。全ては、大学の卒業旅行の、あのことから狂った。
大学に合格した。極平凡のサラリーマン家庭で経済面から国立の大学に進学して、と親から切に願われていた。県外の国立大学、何とか合格した。親も喜んだし、新しい生活にワクワクした。少し名の知れた工学部。大学ですぐに友達も出来た。いつも友人と五人でつるんでいた。友達だと思っていた。大学四年の夏。僕は、五人の中で一番に内定が出た。一番大人しく、後ろをついてきていただけの僕が。嬉しさですぐに友達に報告した。僕以外の四人は内定が出ていなかったが、卒業旅行を秋にすることになった。キャンプ場のコテージ。そこで、バーベキューして僕の内定祝いでもしようと誘われた。優しい皆が嬉しかった。レンタカーを借りて、利用客の少ない人気のない平日キャンプ場。古いコテージ一棟を借りていた。行きの車は皆の会話を楽しく聞いていた。夕方からお酒を飲んで、いい気分だった。
「秋人って、ヤったことあんの?」
唐突に聞かれた。僕は、みんなの後ろにくっついていたけれど、消極的で彼女どころか女友達一人も出来たことがない。
「そんな話、やめようよ」
笑って流そうとしたけれど、何故か皆が食らいつく。
「気になるよ。聞きたい。秋人、もしかしてヤリチンだったりして」
ニヤニヤと顔を覗き込まれる。
「ないない。全然モテないし」
全否定するけれど、四人が迫ってきていてちょっと怖い。どうしたのかな。一回トイレに行って雰囲気変わるのを待とうかな、そう思った、けれど。急に腕を掴まれて、ソファーに押さえつけられる。背筋にゾワリと恐怖が走る。
「わかんないよね。内定も一人で出し抜いて取っちゃうし。アキトの事は、身体に聞いた方がいいいよね」
「そりゃそうだ」
僕を見下ろすみんなの顔が、笑っているのにゾッとするほど怖かった。
四人に手足を押さえられて、服を引き裂かれて裸にされた。喚き散らして暴れたけれど、頬を殴られ、腹を蹴られ抵抗する元気がなくなっていった。恐怖に涙が溢れた。
「アキト、良い顔するじゃん。その顔で就職合格したんじゃね?」
「ビッチかよ」
笑い声が頭に響く。首を振って否定するが、僕の声は聞いてもらえなかった。いつの間に用意していたのか、卑猥な道具が揃っていた。僕は同性のセックスどころか、女性とも経験がなかった。これから起こることに、震える事しかできなかった。
知らなかった。男性同士の場合、そんなところに挿れるなんて。痛みと苦しさに喘ぎ、悲鳴と涙が抑えられなかった。笑い声が頭に響く。泣き叫びながら、色々な体位で四人に犯されたあと、後腔に大人のおもちゃを挿れられて、ペニスに棒を差し込まれて、写真や動画をとられた。散々な痴態を強要された。これまでの人生で想像もできない恐怖だった。そのあとに、それぞれに数回犯され、僕の中がドロドロになるまで吐精された。意識を失えば叩き起こされて、明け方にやっと解放された。終わりが来た時、苦痛から解放される喜びで、「あ、ありがとう、ございます……」とつぶやいていた。それを大笑いされて、また何枚も写真を撮られた。顔も身体も、汚されつくしていた。
目が覚めたら一人だった。お腹の痛みにトイレに這った。全身が痛くて、たちあがれなかった。
やっとの思いで帰宅した。意識がもうろうとしていた。携帯電話は解約した。もう友達と呼べない人たち。怖くて顔も見たくない。大学は行くのをやめた。単位は取ってあったから卒業は問題ない。晩秋に卒論だけ担当教授に提出した。卒業式も出なかった。いつも五人で居たから、他に友人もいない。消え入るように大学を卒業した。
そんな気持ちで入社した就職先。上手くいくはずもなかった。特になぜか高橋先輩にキツく当たられる。男性に苦手意識が芽生えてしまった僕に、どうすることも出来なかった。
なんで、こんな上手くいかないんだろう。総務部に移動の荷物をまとめながら胃の痛みに耐える。榎本主任が「手伝うよ」と声をかける。些細な優しさが、胸をぐさりと刺す。惨めになる。小さな笑い声が上がる。ほっといて欲しかった。下を向いたまま「大丈夫です」と一言伝えて、「ありがとうございました」と退出した。
総務部総務課は、単調な毎日。僕には向いていた。他の部署で僕のように使えない判定をされた男性職員が三名。のんびりな課長と、五つ上の先輩、僕。あとは契約職員さんが四名。海外勤務に行く人の書類や手続き、福利厚生、出張旅費や休職、出産手当、結婚手当、扶養、健康診断など様々。これまでのように外回りがなく、じっとデスクにいる。僕には合っている。ずっと誰と話すこともなく、一人で生きていたい。
「おーい、お荷物く~ん、間違えちゃったよ、下村く~ん」
いつもの笑い顔で、僕を呼ぶ。休暇申請の事を聞きに来た、と言いながら、秘書課の若い子を呼ぶ。
「ねぇ、下村君ってさ、みんなのお荷物になってない? 見た目通りに出来ない君だからさ、秘書課の皆が困ってないか心配なんだよ。営業じゃ、大変だったんだよ~」
「え~? そうなんですかぁ?」
「こいつの教育がおれでさぁ……」
秘書課の数人の女子を呼び、大声で僕の失敗をひけらかす。いつもの事だけれど、今日はちょっと調子が悪くて、胃がいつもより痛んだ。高橋先輩、早く帰ってくれないかな。唇をかみしめて、苦痛に耐える。冷汗が滲む。
「あれ? 高橋。お前も申請?」
榎本主任が来る。途端に、バツが悪そうに去っていく高橋先輩。本気で助かったと思った。我慢の限界だった。榎本主任の対応ができず、口を押えて、とにかくトイレに駆け込む。個室に入り、胃の中のモノを吐き戻す。吐いても、胃の痛みがひどくなる。背中をくの字にして丸め、痛みに耐える。小さく呻きが漏れる。こらえきれず、数回胃液を吐く。
「下村君? 大丈夫?」
何で? 名前を呼ばれて、ゾッとする。調子が悪いことが、バレてしまう。吐き気を、こらえて返事をしようとした。けれど、口を押えた手に、グボっと吐いてしまった。あれ? これ、血? 自分の手の汚れを見つめた。痛む胃と、ガチャガチャ鳴るトイレのドア。隠さなきゃ。大丈夫ですって、言わなきゃ。だけど、座り込んで壁に寄りかかった姿勢から、動くことが出来ない。胃が痛い。目がグラグラする。ガチャリとドアが開く。なんで? 鍵かけたじゃんか。ぼんやりと見上げる。榎本主任。どうして?
「下村君!!」
声が頭に響く。途端に、胃の痛みが戻ってくる。だめだ、耐えられない。グポっとまた吐き戻す。手で口を押えたいのに、間に合わなかった。身体が重い。鉄の匂い。胃が痛い。胃液と混じって、自分が臭い。榎本主任に見られたくなかった。主任を見上げながら、意識がだんだん遠くなる。視界がぼんやりして、目が開けていられない。自然と流れる涙。何か言われている気がしたが、よく分からなかった。
目が覚めたら、病院だった。自分の腕につながる点滴を見つめる。胃の痛みがだいぶ楽になっている。多分、拭きとっただけの手。乾いた血が少し残っている。腕を動かすにも自分の身体の重さに苦労する。自分の腕を見る。こんなにやせ細ったのに、この腕を重く感じるなんて。ただ、ぼんやりと天井を見上げた。
「あ、目が覚めた?」
榎本主任が、カーテンを開けて入ってくる。ナースコールを押して「目覚めました」と報告している主任。それを、ただ見つめていた。主任、スーツのズボンに、白のTシャツ。珍しくアンバランスな服装ですね、少し笑いが漏れた。
「え? なに?」
優しく頭を撫でる主任。大きな手だ。身体が冷えていて、手の温度が嬉しい。
「少し、休むといいよ。よく頑張ったね」
優しい手と、穏やかな僕を見る顔。あぁ、夢か。夢なら、一言くらい、言ってもいいか。頭を撫でる手に心を委ねて、目を閉じた。
「……僕は、もう、楽になりたい……」
息を吐くように、声にしてみた。声に出すと涙が溢れた。目が熱い。嫌なことばかりで、もう耐えられない。心の底にあった、生きる事が辛いと言う気持ち。向き合うことが怖かった、気持ち。嗚咽を漏らして、泣いた。夢の中の榎本主任は、僕が眠るまでずっと頭を撫でていてくれた。優しい夢だった。
はっきりと目が覚めたのは、翌日だった。僕は、出血性胃潰瘍で総合病院の消化器科に入院になっていた。ストレス性の胃炎が原因と言われた。今日で入院三日目。出血もとを、胃カメラを使い止血処置してあるらしい。数日は絶飲食。点滴に胃の薬も、栄養剤も、炎症止めも入っている。食べなくていいのは楽ちんだ。胃が痛くても食べなくてはいけない日々を思うと、点滴持ち帰りしたいと思う。ぼんやりと点滴を見つめていると、コンコンとドアを叩く音。すっとスライドドアが開き、榎本主任が入ってくる。
「……お疲れ様です」
「お疲れさま。調子どう? 痛みはない?」
「はい」
昨日と同じ会話。穏やかな表情。あの日、榎本主任が救急車を呼んで病院に付き添ってくれていた。ぼんやりとしか覚えていなくて、倒れた日の事はどこまでが夢か、正直分からない。あれから、夕方必ず顔を出す主任。会社で倒れたため、様子を確認して報告しているらしい。そう言いながら、榎本主任は、何も聞かない。顔を見て、傍にいて、時々僕の頭を撫でて、穏やかな表情のまま僕を見つめて、帰る。頭を撫でるって訳が分からない。主任が帰った後、撫でられた頭をそっと自分で触る。僕の手より大きいと実感する。
入院手続きなども榎本主任が行ってくれた。会社は病気休暇の扱いで給料も出るから、気にしなくていいと言われた。手続き関係をしてくれたのは助かった。僕の両親は、僕が社会人一年目の夏に、交通事故で他界している。入院保証人など、僕には頼れる人がいない。入院中の必要なモノも、いつの間にか榎本主任が買ってきてくれた。個室代は払えないから、大部屋にと伝えたけれど、ベッドに空きがないから仕方ないと言われた。その場合の個室代はかからない、と。起き上がる元気もなく、全部榎本主任にお願いしてしまった。穏やかな笑顔で「俺に任せていいよ」と言う主任。友達に裏切られ、両親と死に別れ、誰にも頼ることなくギリギリを歩いていたから、この温かさに少し安心する。ちょっとだけ、入院中だけなら、頼って許されるかな。優しさに飢えている心が、揺れる。
入院から五日。胃カメラで、胃の中の炎症の確認と、出血した潰瘍部分が治癒できているか確認があった。結果は問題なし。数日休んだことで、胃の粘膜は回復してきていた。胃の痛みも軽くなっている。明日から柔らかい食事を開始する。問題なく経過すれば、あと数日で退院。仕事に戻ることを考えると、気のせいか胃がシクシクする。
コンコン、とノック。今日も穏やかな顔の榎本主任。
「今日の検査、良かったみたいだね」
「はい。明日から食べられそうです。本当にお世話になりました」
「ストレス性の胃潰瘍は、慢性的な胃炎が原因なんだって。退院しても、胃炎が完全に良くなるまで仕事を休んだらいいよ」
そんなこと、僕が決められない。困ってしまい、下を向く。
「俺の家に来ない?」
「……え?」
榎本主任を見つめる。相変わらず穏やかな微笑みを絶やさない。
「退院したら、一か月、休もう。その間、俺のところにおいで」
営業部のころ両親が事故死したから、榎本主任は僕が孤独だって知っている。でも、部署が一緒だっただけで、一緒の仕事をしたこともない。どうして僕に優しいのだろう。
「下村君が、どこかに消えてしまいそうで怖いんだ」
主任の一言に、心臓がドクリと鳴った。見透かされているような気がした。僕は、ギリギリのラインから落ちてしまえば、楽になれるかも、と考えていた。どこか、遠くへ。
「当たったかな。とにかく、俺は下村君の面倒を見ると決めた。分かったね?」
口元は穏やかなまま、目線が鋭くなっている。何となく、拒否が出来ない迫力があった。主任の顔を見たまま、コクリと頷いていた。
「うん。それでいい。少し、俺に甘えてごらん」
柔らかい目線に戻って微笑んでいる。この人は、何を言っているんだろう。いい大人が、甘えるなんて。ふわりと頭を撫でられる。慣れてきた、大きな手。温かい。警戒心も無くなっていた。されるままに頭を預ける。するりと、頬まで降りてくる手。包み込むように顔を持ち上げられて、唇にふわりと主任の体温を感じた。僕より、温かい。あまりにも自然な流れだった。僕から離れて、頭をポンポンされて「また明日」と主任が帰る。その動きをポカンと目で追っていた。
榎本主任は、顔色を変えることもなく、終始穏やかな笑顔を浮かべていた。しばらくしてから、あぁ、からかわれたのか、と思い至った。そっと、口に触れてみる。僕の、ファーストキス。唇を触る手が震える。
榎本先輩は、簡単にこんなことが出来る人なんだ。男同士でも。ふと、辛い記憶が過る。違う、と思う。榎本先輩は、あいつらとは違う。でも、考え出すと、指の震えが止まらなかった。
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