76 / 229
道草
1
しおりを挟む
ひらりと、白い雪片が舞い降りる。
風に容易く揺れるそれらは、しずかで儚げで、もろい。滅多に雪の積もることのない、この地方では尚更だ。地に降り立った瞬間には、地熱で溶ける。
「わー、降って来たー」
空を見上げて、シュムはぽつりと呟いた。足下には、目立たない色合いの服を着た、三十前後ほどの男が倒れ伏している。今し方、シュムに襲いかかり、返り討ちにあったばかりだ。
実のところ、そういったことは珍しくもない。王家の犬と罵られ、王の懐刀と狙われる。
どちらも、シュムにとっては言い掛かりか勘違いでしかないが、言って聞く相手はまずない。それなら、こうやって、丁重に諦めてもらうのが早い。
「あーあー。久しぶりに師匠たちに会おうと思ってたのに。新年の祝賀パーティーに紛れ込むのが手っ取り早いのに。妙なとこで道草喰うなあ。ねえ?」
くるりと、後ろを振り仰ぐ。そこには、短剣を持った、外見としてはシュムと同じくらいの、まだ幼い少女が立っていた。
シュムに見つめられて、少女は、振りかぶっていた手を下ろした。青ざめた顔に、焦りはない。
「…気付いてたの」
「特に隠すつもりもなかったんでしょ? あ、違うか。気配の隠し方も知らないんだね。違った?」
「全部お見通しなのね」
まさか。
心の中で呟いて、外面としてはにこりと微笑む。気配だけは気付いていたが、正体のはっきりしないそれが、何者なのかはさっぱりわかっていなかった。
そうでなければ、この寒空の中、城下町に入る門を見下ろすこの場所で、ぼんやりと空を見上げていたはずもない。王城には、会いたくない人も山ほどいるが、会いたい人たちがいるのだから。
妹と甥や姪、義理の弟――たち、それと、今では甥に教えている魔術の師。
「ナイフ、危ないよ」
そう言ったときには既に、少女の手からナイフを奪い去っていた。実のところシュムは、魔術は自己防衛に幾つか覚えた程度で、剣技や体術の方が、よほど得意だ。
少女は、驚くでもなく、ただ黙然と、シュムを見つめる。
幼さは残るものの、綺麗な少女だ。赤毛は三つ編みにして垂らされているが、柔らかで手触りも良さそうだ。目元がくっきりとしていて、まつげも長い。きつい感じがするが、笑えば、そんなものは吹き飛ぶだろう。
何も言ってくれないので、仕方ない無知をさらすかと、口を開く。
「この人の連れ?」
「ええ」
半ば以上当てずっぽうの言葉を肯定されて、驚きの声を上げかけた。どうにかそれは呑み込んだが、驚き自体は伝わったらしく、少女は、訝しげに目線を強めた。
「知ってて言ったんじゃないの?」
「いや、ほとんど勘。親子?」
「そうね。これから娼館に娘を売りに行こうって人も、親には違いないわね」
「それはまあ…」
完全に意識を失っている、どこにでもいそうな男を見遣りながら、シュムは言葉を探しあぐねていた。
男は、本当にどこにでもいそうな、見掛けだけは農民のようだった。しかし、よく見れば、そうではないと判る。おそらくは、暗殺業か密偵業といったところだろう。
だが、飛び道具の短刀は、ありふれた安物。腕も、さほどではない。あまりにも手応えのない相手だ、と思った。その程度で、シュムに刃向かうなど無謀だ。
「ん?」
あまりに当然なことに思い至って、首を傾げる。
「今から、売られるところだった?」
「そうよ」
「その途中に、人を襲うの? しかもその後を、娘に任せて?」
馬鹿げた話だ。それに、本人を前にしては言いたくないが、売り物ならば、傷が付くことを避けるはずだ。
しかし少女は、相変わらず感情を映さない瞳にシュムを映した。
「任されたわけじゃないわ。隠れてろって言われたもの」
「それじゃあどうして」
「――知らない」
「ああ。殺すと思った? お父さん」
どうやら当たったらしい。わずかな目線の揺らぎにそれを読み取って、シュムは、密かに溜息をついた。
推測するに、少女の父は、一流とは言い難い暗殺者か何かだったのだろう。そのまま落ちぶれたか、家族をもって廃業したか。しかしそれでは暮らしがもたず、娘を売る羽目になった。
シュムは、この頃では高くはないものの、裏ルートで賞金首になっているらしい。
昔のつてか何かでそれを知っていた男は、たまたまシュムを見掛けて、欲でも出したのだろう。それで、娘を売るのを止められると思ったのかも知れない。
しかし、向かう相手の力量を見定められない時点で、三流以下だ。
「お父さん想いだねえ」
「…こんな男。殺せるものなら、殺してやりたいわよ」
「じゃあ、殺せば? 今なら抵抗はないよ」
そう言って、取り上げたナイフを差し出すが、受け取ろうとはしない。倒れている男を見る少女の目を、涙が伝っていた。
「殺せるなら――殺してやりたい」
繰り返される言葉は、逆に、殺せないと語っている。その後ろにあるものをシュムは知らないが、それだけに強い絶望を、感じ取っていた。
「借金? 普通に働くのじゃ駄目なんだ?」
「額より、期限の問題よ」
「それなら解決可能だ。紹介状を書くから、少し待って」
凝然と、少女が目を見張る。シュムはそれに構わず、荷物の中から羊皮紙と筆記具一式を出して、少女の目の前で文を書く。途中、名前を訊くのに一度だけ顔を上げた。
ちなみに、羊皮紙も筆記具も王宮から支給されたもので、さりげなく王室の印が入っている。
書き上げたそれをひらひらと振って気休め程度に乾かして、少女に手渡す。
「それ持って、剣士のギルドを訪ねるといい。向こうで取り計らってくれるはずだよ」
「どうして――」
「気まぐれ。信用できなければ、捨てていいよ。言ってしまえば、ただの手紙だ。それに、いいことばかりじゃなくてね。あたしの知り合いと知られて、厄介事に巻き込まれる可能性もある。判断は任せるよ」
言い置いて、シュムは、身軽に立ち上がった。少女は、膝をついて、静かに泣いているようだった。
風に容易く揺れるそれらは、しずかで儚げで、もろい。滅多に雪の積もることのない、この地方では尚更だ。地に降り立った瞬間には、地熱で溶ける。
「わー、降って来たー」
空を見上げて、シュムはぽつりと呟いた。足下には、目立たない色合いの服を着た、三十前後ほどの男が倒れ伏している。今し方、シュムに襲いかかり、返り討ちにあったばかりだ。
実のところ、そういったことは珍しくもない。王家の犬と罵られ、王の懐刀と狙われる。
どちらも、シュムにとっては言い掛かりか勘違いでしかないが、言って聞く相手はまずない。それなら、こうやって、丁重に諦めてもらうのが早い。
「あーあー。久しぶりに師匠たちに会おうと思ってたのに。新年の祝賀パーティーに紛れ込むのが手っ取り早いのに。妙なとこで道草喰うなあ。ねえ?」
くるりと、後ろを振り仰ぐ。そこには、短剣を持った、外見としてはシュムと同じくらいの、まだ幼い少女が立っていた。
シュムに見つめられて、少女は、振りかぶっていた手を下ろした。青ざめた顔に、焦りはない。
「…気付いてたの」
「特に隠すつもりもなかったんでしょ? あ、違うか。気配の隠し方も知らないんだね。違った?」
「全部お見通しなのね」
まさか。
心の中で呟いて、外面としてはにこりと微笑む。気配だけは気付いていたが、正体のはっきりしないそれが、何者なのかはさっぱりわかっていなかった。
そうでなければ、この寒空の中、城下町に入る門を見下ろすこの場所で、ぼんやりと空を見上げていたはずもない。王城には、会いたくない人も山ほどいるが、会いたい人たちがいるのだから。
妹と甥や姪、義理の弟――たち、それと、今では甥に教えている魔術の師。
「ナイフ、危ないよ」
そう言ったときには既に、少女の手からナイフを奪い去っていた。実のところシュムは、魔術は自己防衛に幾つか覚えた程度で、剣技や体術の方が、よほど得意だ。
少女は、驚くでもなく、ただ黙然と、シュムを見つめる。
幼さは残るものの、綺麗な少女だ。赤毛は三つ編みにして垂らされているが、柔らかで手触りも良さそうだ。目元がくっきりとしていて、まつげも長い。きつい感じがするが、笑えば、そんなものは吹き飛ぶだろう。
何も言ってくれないので、仕方ない無知をさらすかと、口を開く。
「この人の連れ?」
「ええ」
半ば以上当てずっぽうの言葉を肯定されて、驚きの声を上げかけた。どうにかそれは呑み込んだが、驚き自体は伝わったらしく、少女は、訝しげに目線を強めた。
「知ってて言ったんじゃないの?」
「いや、ほとんど勘。親子?」
「そうね。これから娼館に娘を売りに行こうって人も、親には違いないわね」
「それはまあ…」
完全に意識を失っている、どこにでもいそうな男を見遣りながら、シュムは言葉を探しあぐねていた。
男は、本当にどこにでもいそうな、見掛けだけは農民のようだった。しかし、よく見れば、そうではないと判る。おそらくは、暗殺業か密偵業といったところだろう。
だが、飛び道具の短刀は、ありふれた安物。腕も、さほどではない。あまりにも手応えのない相手だ、と思った。その程度で、シュムに刃向かうなど無謀だ。
「ん?」
あまりに当然なことに思い至って、首を傾げる。
「今から、売られるところだった?」
「そうよ」
「その途中に、人を襲うの? しかもその後を、娘に任せて?」
馬鹿げた話だ。それに、本人を前にしては言いたくないが、売り物ならば、傷が付くことを避けるはずだ。
しかし少女は、相変わらず感情を映さない瞳にシュムを映した。
「任されたわけじゃないわ。隠れてろって言われたもの」
「それじゃあどうして」
「――知らない」
「ああ。殺すと思った? お父さん」
どうやら当たったらしい。わずかな目線の揺らぎにそれを読み取って、シュムは、密かに溜息をついた。
推測するに、少女の父は、一流とは言い難い暗殺者か何かだったのだろう。そのまま落ちぶれたか、家族をもって廃業したか。しかしそれでは暮らしがもたず、娘を売る羽目になった。
シュムは、この頃では高くはないものの、裏ルートで賞金首になっているらしい。
昔のつてか何かでそれを知っていた男は、たまたまシュムを見掛けて、欲でも出したのだろう。それで、娘を売るのを止められると思ったのかも知れない。
しかし、向かう相手の力量を見定められない時点で、三流以下だ。
「お父さん想いだねえ」
「…こんな男。殺せるものなら、殺してやりたいわよ」
「じゃあ、殺せば? 今なら抵抗はないよ」
そう言って、取り上げたナイフを差し出すが、受け取ろうとはしない。倒れている男を見る少女の目を、涙が伝っていた。
「殺せるなら――殺してやりたい」
繰り返される言葉は、逆に、殺せないと語っている。その後ろにあるものをシュムは知らないが、それだけに強い絶望を、感じ取っていた。
「借金? 普通に働くのじゃ駄目なんだ?」
「額より、期限の問題よ」
「それなら解決可能だ。紹介状を書くから、少し待って」
凝然と、少女が目を見張る。シュムはそれに構わず、荷物の中から羊皮紙と筆記具一式を出して、少女の目の前で文を書く。途中、名前を訊くのに一度だけ顔を上げた。
ちなみに、羊皮紙も筆記具も王宮から支給されたもので、さりげなく王室の印が入っている。
書き上げたそれをひらひらと振って気休め程度に乾かして、少女に手渡す。
「それ持って、剣士のギルドを訪ねるといい。向こうで取り計らってくれるはずだよ」
「どうして――」
「気まぐれ。信用できなければ、捨てていいよ。言ってしまえば、ただの手紙だ。それに、いいことばかりじゃなくてね。あたしの知り合いと知られて、厄介事に巻き込まれる可能性もある。判断は任せるよ」
言い置いて、シュムは、身軽に立ち上がった。少女は、膝をついて、静かに泣いているようだった。
0
あなたにおすすめの小説
妻からの手紙~18年の後悔を添えて~
Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。
妻が死んで18年目の今日。
息子の誕生日。
「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」
息子は…17年前に死んだ。
手紙はもう一通あった。
俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。
------------------------------
老聖女の政略結婚
那珂田かな
ファンタジー
エルダリス前国王の長女として生まれ、半世紀ものあいだ「聖女」として太陽神ソレイユに仕えてきたセラ。
六十歳となり、ついに若き姪へと聖女の座を譲り、静かな余生を送るはずだった。
しかし式典後、甥である皇太子から持ち込まれたのは――二十歳の隣国王との政略結婚の話。
相手は内乱終結直後のカルディア王、エドモンド。王家の威信回復と政権安定のため、彼には強力な後ろ盾が必要だという。
子も産めない年齢の自分がなぜ王妃に? 迷いと不安、そして少しの笑いを胸に、セラは決断する。
穏やかな余生か、嵐の老後か――
四十歳差の政略婚から始まる、波乱の日々が幕を開ける。
処刑された王女、時間を巻き戻して復讐を誓う
yukataka
ファンタジー
断頭台で首を刎ねられた王女セリーヌは、女神の加護により処刑の一年前へと時間を巻き戻された。信じていた者たちに裏切られ、民衆に石を投げられた記憶を胸に、彼女は証拠を集め、法を武器に、陰謀の網を逆手に取る。復讐か、赦しか——その選択が、リオネール王国の未来を決める。
これは、王弟の陰謀で処刑された王女が、一年前へと時間を巻き戻され、証拠と同盟と知略で玉座と尊厳を奪還する復讐と再生の物語です。彼女は二度と誰も失わないために、正義を手続きとして示し、赦すか裁くかの決断を自らの手で下します。舞台は剣と魔法の王国リオネール。法と証拠、裁判と契約が逆転の核となり、感情と理性の葛藤を経て、王女は新たな国の夜明けへと歩を進めます。
クラス転移したけど、皆さん勘違いしてません?
青いウーパーと山椒魚
ファンタジー
加藤あいは高校2年生。
最近ネット小説にハマりまくっているごく普通の高校生である。
普通に過ごしていたら異世界転移に巻き込まれた?
しかも弱いからと森に捨てられた。
いやちょっとまてよ?
皆さん勘違いしてません?
これはあいの不思議な日常を書いた物語である。
本編完結しました!
相変わらず話ごちゃごちゃしていると思いますが、楽しんでいただけると嬉しいです!
1話は1000字くらいなのでササッと読めるはず…
【完結】捨て去られた王妃は王宮で働く
ここ
ファンタジー
たしかに私は王妃になった。
5歳の頃に婚約が決まり、逃げようがなかった。完全なる政略結婚。
夫である国王陛下は、ハーレムで浮かれている。政務は王妃が行っていいらしい。私は仕事は得意だ。家臣たちが追いつけないほど、理解が早く、正確らしい。家臣たちは、王妃がいないと困るようになった。何とかしなければ…
(完結)醜くなった花嫁の末路「どうぞ、お笑いください。元旦那様」
音爽(ネソウ)
ファンタジー
容姿が気に入らないと白い結婚を強いられた妻。
本邸から追い出されはしなかったが、夫は離れに愛人を囲い顔さえ見せない。
しかし、3年と待たず離縁が決定する事態に。そして元夫の家は……。
*6月18日HOTランキング入りしました、ありがとうございます。
裏切られ続けた負け犬。25年前に戻ったので人生をやり直す。当然、裏切られた礼はするけどね
竹井ゴールド
ファンタジー
冒険者ギルドの雑用として働く隻腕義足の中年、カーターは裏切られ続ける人生を送っていた。
元々は食堂の息子という人並みの平民だったが、
王族の継承争いに巻き込まれてアドの街の毒茸流布騒動でコックの父親が毒茸の味見で死に。
代わって雇った料理人が裏切って金を持ち逃げ。
父親の親友が融資を持ち掛けるも平然と裏切って借金の返済の為に母親と妹を娼館へと売り。
カーターが冒険者として金を稼ぐも、後輩がカーターの幼馴染に横恋慕してスタンピードの最中に裏切ってカーターは片腕と片足を損失。カーターを持ち上げていたギルマスも裏切り、幼馴染も去って後輩とくっつく。
その後は負け犬人生で冒険者ギルドの雑用として細々と暮らしていたのだが。
ある日、人ならざる存在が話しかけてきた。
「この世界は滅びに進んでいる。是正しなければならない。手を貸すように」
そして気付けは25年前の15歳にカーターは戻っており、二回目の人生をやり直すのだった。
もちろん、裏切ってくれた連中への返礼と共に。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる