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胎動
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「どういうことだ、エバンス!」
怒鳴り込むようにして駆け込んできた兄を、エバンスは、荷物をまとめる手を止めた状態でぽかんと見上げた。
兄は今、たかだか地方の豪農の出でしかない女性を妻とするべく奔走し、その傍らで父王の政務の補佐を勤めており、多忙を極めていたはずだ。しかも、少し前まではエバンスの魔導師への転向を認めさせるためにも尽力してくれて、少しでも時間があれば休みたいはずだが。
怒鳴られる理由もわからず、ぼんやりと見つめる。
「名を捨てるなんて、どういうつもりだ!?」
「兄上、魔導師ではよくあることですよ。家柄よりも実力ですから、姓を捨てた方がいいときも…」
「俺はっ、お前を追い出すつもりで協力したんじゃない!」
「誰もそんなこといってませんよ」
まだ十には届いていないエバンスは、あっさりと言い返した。兄が、エバンスの望みを叶えるためだけに手を貸したことは、疑いようもない。そこまでの恩知らずではない。
そもそも、エバンスはこの歳にして、権力にびくつき群がる人々に嫌気がさしており、もしも兄が競争相手を蹴落とすために説得を手伝ってくれたとしても、喜んで感謝しただろう。
それなのに、兄は顔を真っ赤にして睨みつける。
「名を捨てるなんて、聞いてない!」
「こだわるようなことですか? 僕は僕ですよ?」
人にとっての名は、区別するための記号に過ぎない。それなら、詐称詐欺でも行わない限り、どう名乗ろうと問題はないのではないか。正直なところ、王家などという大層なものとの縁が遠くなりそうで、助かったと思わないでもないが、どうでもいいことだと思うのも本当だ。
どうしてもエバンスが理解できないでいることに気付き、兄は、いよいよ怒りを募らせた。
「っ、頭を冷やせ! それまで、修行に出るのは禁止だ!」
「兄上!」
言うだけ言って、出て行ってしまう。頭を冷やす必要があるのは、どう考えても兄の方だと思うのだが。大体、宮廷魔導師の任についているエドモンドが一旦職を退くのはエバンスのためだけといっても過言ではないのだから、わがままで遅らせられるものでもない。
一体兄は何を考えているのかと、幼いエバンスは呆然とした。
「少し、よろしいですか?」
閉まりきっていなかったらしい扉から、ひょこりと、若々しい女性が姿を現す。エバンスはまた、仰天した。
「義姉上!?」
「あら、そのお言葉は少し早いです。よろしかったら、アンジーとお呼びください」
「で、でも…」
「お茶を頂いてきました。一緒に飲みませんか?」
可愛らしく穏やかな女性に、エバンスは鼓動が早くなるのを感じた。
兄がお忍びで城を抜けて出会った軽食屋の看板娘は、同様にして抜け出していたエバンスの、憧れの人でもある。あの兄のことだから最後には妻と認めさせてしまうだろうが、そう思っても、こうして二人きりでいると、恥ずかしくて嬉しい。
もちろん部屋の扉は、完全な二人きりを避けるために開け放してあるのだが。
結婚対策として兄は、はじめは無難に、一旦侯爵家の養子にでもして身分を整える策をとろうとしていたようだが、アンジーが今の姓を養子入りで捨てるつもりがないと明言したために、一層問題は硬化した。それなのに、渦中の人はのほほんとしている。
「さっきあの人、怒鳴り込んだでしょう。淋しいのよ」
「え?」
きょとんとして、湯気をくゆらせる未来の義姉を見る。
彼女は、穏やかに微笑んでいた。
怒鳴り込むようにして駆け込んできた兄を、エバンスは、荷物をまとめる手を止めた状態でぽかんと見上げた。
兄は今、たかだか地方の豪農の出でしかない女性を妻とするべく奔走し、その傍らで父王の政務の補佐を勤めており、多忙を極めていたはずだ。しかも、少し前まではエバンスの魔導師への転向を認めさせるためにも尽力してくれて、少しでも時間があれば休みたいはずだが。
怒鳴られる理由もわからず、ぼんやりと見つめる。
「名を捨てるなんて、どういうつもりだ!?」
「兄上、魔導師ではよくあることですよ。家柄よりも実力ですから、姓を捨てた方がいいときも…」
「俺はっ、お前を追い出すつもりで協力したんじゃない!」
「誰もそんなこといってませんよ」
まだ十には届いていないエバンスは、あっさりと言い返した。兄が、エバンスの望みを叶えるためだけに手を貸したことは、疑いようもない。そこまでの恩知らずではない。
そもそも、エバンスはこの歳にして、権力にびくつき群がる人々に嫌気がさしており、もしも兄が競争相手を蹴落とすために説得を手伝ってくれたとしても、喜んで感謝しただろう。
それなのに、兄は顔を真っ赤にして睨みつける。
「名を捨てるなんて、聞いてない!」
「こだわるようなことですか? 僕は僕ですよ?」
人にとっての名は、区別するための記号に過ぎない。それなら、詐称詐欺でも行わない限り、どう名乗ろうと問題はないのではないか。正直なところ、王家などという大層なものとの縁が遠くなりそうで、助かったと思わないでもないが、どうでもいいことだと思うのも本当だ。
どうしてもエバンスが理解できないでいることに気付き、兄は、いよいよ怒りを募らせた。
「っ、頭を冷やせ! それまで、修行に出るのは禁止だ!」
「兄上!」
言うだけ言って、出て行ってしまう。頭を冷やす必要があるのは、どう考えても兄の方だと思うのだが。大体、宮廷魔導師の任についているエドモンドが一旦職を退くのはエバンスのためだけといっても過言ではないのだから、わがままで遅らせられるものでもない。
一体兄は何を考えているのかと、幼いエバンスは呆然とした。
「少し、よろしいですか?」
閉まりきっていなかったらしい扉から、ひょこりと、若々しい女性が姿を現す。エバンスはまた、仰天した。
「義姉上!?」
「あら、そのお言葉は少し早いです。よろしかったら、アンジーとお呼びください」
「で、でも…」
「お茶を頂いてきました。一緒に飲みませんか?」
可愛らしく穏やかな女性に、エバンスは鼓動が早くなるのを感じた。
兄がお忍びで城を抜けて出会った軽食屋の看板娘は、同様にして抜け出していたエバンスの、憧れの人でもある。あの兄のことだから最後には妻と認めさせてしまうだろうが、そう思っても、こうして二人きりでいると、恥ずかしくて嬉しい。
もちろん部屋の扉は、完全な二人きりを避けるために開け放してあるのだが。
結婚対策として兄は、はじめは無難に、一旦侯爵家の養子にでもして身分を整える策をとろうとしていたようだが、アンジーが今の姓を養子入りで捨てるつもりがないと明言したために、一層問題は硬化した。それなのに、渦中の人はのほほんとしている。
「さっきあの人、怒鳴り込んだでしょう。淋しいのよ」
「え?」
きょとんとして、湯気をくゆらせる未来の義姉を見る。
彼女は、穏やかに微笑んでいた。
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