台風の目(仮)

来条恵夢

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鼓動

4-1

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「リリー」
 そっと、名を呼ぶ。寝顔は安らかで、それだけが救いのように思えた。
 彼女には、まだ結婚を明らかにしていなかったときの義姉に対して抱いたのと同じ、あるいはそれ以上の、感情を持っていたのは本当だ。だから、結婚すると知ったときには、引き止めたいと思ったりもした。だがそんな権利はないと、努めて忘れようとした。
 結婚して数年、子どもが生まれないと見切りをつけた夫に離縁され、それだけでなく、騙されて娼館に売られた。そうして流れて、今はここにいるのだと言った。
 溜息を押し殺し、エバンスは立ち上がった。リリアをなだめどうにか眠らせることができたが、こちらは眠れそうにもない。
 本当は、相手の女性を薬か術で眠らせるか早々に相手をして休もうと思っていたのだが、こうなっては、相手が無防備な分、同じ部屋にいるだけでもきつい。
 自己嫌悪とわずかな苛立ちを抱えながら、エバンスは小屋を出た。
 もう大分日は長くなったと思っていたが、それとも思っていた以上に時間が経っていたのか、屋外は、闇に沈んでいた。そこかしこで声がもれ聞こえるかと思ったが、あの青年がいるところを除けば一番端にある小屋だったからか、それほどでもない。しかしやはり、それなりの空気は感じられた。
「はぁ」
 思わず、溜息がこぼれ落ちる。
 こんなことになるなら、青年の処分を決められずに考える時間がほしいなどと思って、徒歩にするのではかなった。決定を先送りにしなければ、今頃はうに、城の中だ。こんなところで、思いがけない再会もなかっただろう。知らなければよかった。多分、お互いにとって。
 気は進まないが、青年の寝る部屋を、隅でいいから間借りしようか。
 リリアの眠る小屋の裏手に広がる森での野宿と天秤にかけ、そんなことも考える。一日の徹夜くらいは慣れたものだが、歩き通しの数日の後でこれが更に数日続くと考えると、しかもその間、青年の処分を考えつつ見張るとなれば、せめて横にでもなっていなければ危なそうだ。
「?」
 不意に、何かを感じた。
 魔物――あるいは、魔族、悪魔、契約の獣。俗称も全てあわせると数十には上りそうなそれは、とにかく、人ならざる者たちの総称だ。それらは、人の命を担保に、力を貸すこともする。
 エバンスも一度、不本意ながら、契約を交わしたことがある。
 その際、代価を支払うときに感じたのと同じ気配だった。命が引き出される動き。契約者がここにいるのかと、エバンスは意識を凝らし、このさびれた集落を見渡した。
「あそこか」
 エバンスがいるのとは逆向きに、老婆と女たちがいたのとは離れた小屋から、気配がする。
 思わず駆け出してから、どうするつもりかと自問した。以前なら、気付くこともなかっただろうが気付いたとしたら、魔物を殺すなり元の世界へ戻すなりしただろう。今となっては、躊躇いがある。
 騙されて命を落とすものは論外として、それもシュムなら自業自得と言い切ってしまうかもしれないが、とにかくこういったことも、真っ当な取引ではないかとも思えてしまう。
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