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昼食を、宿の一階――宿代とは別料金で食事を作ってくれる――ですませると、シュムはカイを伴って宿を出た。
服は寝起きに慌ただしく着込んだものから変わらないが、髪はまとめて束ね、少ない荷もかばんに詰め込んで肩から掛けている。
いつもであれば宿の主人にでも預けるところだが、今は大金が詰めこんであるため、そうもいかない。そもそも、それでは意味がない。
しかし、本当に何もないところだ。
まだこれが、真冬の閑農期であれば保養地として名高いだけに客も多く、それを見込んだ商売人もいるのだが、今はそれには早すぎる。
貴族の中にはむしろそういう時期に来る者もいるらしいが、そんな人々は各自の別荘地を作っており、専用の温泉も引いている。旅人にすぎないシュムが、顔を合わせることはまずないだろう。
そうなると、ただの狭い田舎村。一周するのはすぐだし、回ってしまえば他に見るものもない。
「…長閑だねえ、カイ」
わかってはいたけど、とぼんやりと呟く。
閑なのは嫌いではないが、物足りない思いがするのも確かだ。小高い丘で若木に背を預けて膝の上に乗せたカイをなんとなく撫でながら、シュムは溜息をついた。
そして不意に思い出して、カイの頭をつついて注意を引く。
「あのさ、セレンと会った? この間会ったとき、カイと連絡取れないって淋しがってたよ」
「お嬢さん、動物と喋る癖があるのかい?」
背後からの声に、シュムは外には表さずに臨戦体勢をとっていた。張り詰めない程度に緊張し、警戒する。
後ろは森だ。夏という季節柄、虫も多い。例え野生の獣といえど、シュムに気配を悟られずに近付くのは困難なはずだった。それを易々と。
カイは、毛を逆立てて声のした方を睨みつけているようだった。
まだ若い。せいぜい、二十半ばの男だ。
声からそう判断して、シュムはゆっくりと振り返った。
「…なんだ」
呟いて、体を戻す。男は、断りもなくシュムの隣に腰を下ろした。
仕立てのいい、ふんだんに布を使った服が、ふわりと風をはらんですぐに、戻る。長い金髪をゆるく編んでいるさまからも、どこかの裕福な貴族のぼんくら息子だろうと予想がつく。
見覚えはないが、確実に知っている相手だ。姿を変えたところで、わかるものはわかる。
シュムよりも先に誰なのかに気付いていたカイは、まだ毛を逆立てて男を睨みつけていた。
しかし、男は冷たい二通りの対応にも一向にひるむことなく、にこりと笑いかけた。
普通に見れば、羨望と嫉妬を浴びそうなくらいには魅力的な笑顔だ。社交界では、さぞもてはやされることだろう。
もっとも、シュムには効かず、顔を背ける。
「ひどい対応だなあ。久々の再会だっていうのに」
「久々ねえ。ふうん、三日って、久々なのかあ」
「君に会えなければ、一日でも永遠のようだよ」
「それじゃあ、あたしに恋してるみたいだよ。薬飲ませて何かしようとした相手に言うことじゃないと思う」
「何?!」
嫌味たっぷりのシュムの言葉に、男よりも先にカイが反応する。
可愛らしいオレンジの小動物は、シュムの膝から跳ね上がると、空中で一回転して草地に着地した。ただし、人形の、長身でオレンジの髪を刈り上げた体で。
一瞬の変身に密かにシュムが眼を丸くして、驚きつつ感心していたのだが、男二人がそのことに気付いた様子はなかった。小さく拍手をしてみたが、あえなく無視される。
「何考えてんだ、テメェ!」
絞め殺しかねない勢いで、カイが男の襟首を掴む。男は、それでも笑みを浮かべたままだった。余裕のある態度が、余計にカイの神経を逆撫でする。
「ああ、君、いたんだ? 小さすぎて気付かなかったよ」
「テメェ…!」
「あー、はいはい。そこらへんでやめとこうね。無事だったんだし。それに多分、今アルを殺しちゃったら、ハーネット家ともめることになるんじゃないかな」
これ以上手が出る前にと、シュムは溜息を呑み込んで、カイを申し訳程度に押し留めた。力では敵うはずもないが、十分に意思表示にはなる。応じて、カイが一応勢いを緩める。
おや、とアルと呼ばれた男が不思議そうな表情をした。
「どうしてわかったんだい?」
「紋章」
一振りの剣に蛇が巻きついた意匠のカフスボタンを指し示す。
「物によっては出回ってるけど、その細工は違うでしょ。立派すぎる。小間使いが盗むとかってのも、いくつも使ってあって量として難しいだろうから、ハーネット家の内部の人が依頼主か協力者かなんでしょ」
「こんなもので判るとは。やはり君は、僕に相応しく聡明だ」
伸ばされた手を、カイを盾にしてするりとかわす。それを好機としてアルにつかみかかろうとしたカイに、「やめなって」と釘を刺すことも忘れない。
シュムは、うんざりとした目を向けた。
「今まで何回も言ってきたけど、あたしは子どもじゃないんだからね。アルの範疇からは外れてる」
「いや、問題は見掛けだからね。その外見で、子どもでないと言っても意味はないよ」
「そうだったのか…。じゃあ、聡明どうこうって関係ないじゃない」
溜息を一つ。
そして、にっこりと笑いかけた。
「最後の警告をしよう。もしも今度またあんな真似をしたら、再起不能にするよ?」
さらりとした言葉に、アルはもとより、その必要のないはずのカイまでもがかおを引きつらせた。シュムは、満面の笑みを張りつけた。
本当なら、三日前に言っておくべきだったのだ。だがあのときは、突然のことにシュムも気が動転していた。あまり認めたくはないが、事実だ。
いつ敵対することがあってもおかしくないとは思いながらも、裏切られたように感じたのだ。不意打ちのような真似でなければ、そうでもなかったはずなのだが。
硬直している二人を放置して、シュムは方々から向けられた視線の先を、軽く見渡した。
「うーん。人目引いてるなあ」
目立つオレンジ頭の男に、明らかに貴族の男。付け加えるなら、アルほどではないにしても、カイも見栄えは悪くはない。
いくら田舎とはいえ、いや、逆に田舎だからこそ、これで注目されない方が不思議だろう。
向けられる視線が好奇や好意なのを見取って、カイの変身は見られなかったらしいと、その点では胸を撫で下ろした。見られたら、どんな騒ぎになるか。得体の知れないものは、在るだけで十分に恐怖や排除の対象となる。
物足りないからといって、厄介事まで起こす趣味はない。
服は寝起きに慌ただしく着込んだものから変わらないが、髪はまとめて束ね、少ない荷もかばんに詰め込んで肩から掛けている。
いつもであれば宿の主人にでも預けるところだが、今は大金が詰めこんであるため、そうもいかない。そもそも、それでは意味がない。
しかし、本当に何もないところだ。
まだこれが、真冬の閑農期であれば保養地として名高いだけに客も多く、それを見込んだ商売人もいるのだが、今はそれには早すぎる。
貴族の中にはむしろそういう時期に来る者もいるらしいが、そんな人々は各自の別荘地を作っており、専用の温泉も引いている。旅人にすぎないシュムが、顔を合わせることはまずないだろう。
そうなると、ただの狭い田舎村。一周するのはすぐだし、回ってしまえば他に見るものもない。
「…長閑だねえ、カイ」
わかってはいたけど、とぼんやりと呟く。
閑なのは嫌いではないが、物足りない思いがするのも確かだ。小高い丘で若木に背を預けて膝の上に乗せたカイをなんとなく撫でながら、シュムは溜息をついた。
そして不意に思い出して、カイの頭をつついて注意を引く。
「あのさ、セレンと会った? この間会ったとき、カイと連絡取れないって淋しがってたよ」
「お嬢さん、動物と喋る癖があるのかい?」
背後からの声に、シュムは外には表さずに臨戦体勢をとっていた。張り詰めない程度に緊張し、警戒する。
後ろは森だ。夏という季節柄、虫も多い。例え野生の獣といえど、シュムに気配を悟られずに近付くのは困難なはずだった。それを易々と。
カイは、毛を逆立てて声のした方を睨みつけているようだった。
まだ若い。せいぜい、二十半ばの男だ。
声からそう判断して、シュムはゆっくりと振り返った。
「…なんだ」
呟いて、体を戻す。男は、断りもなくシュムの隣に腰を下ろした。
仕立てのいい、ふんだんに布を使った服が、ふわりと風をはらんですぐに、戻る。長い金髪をゆるく編んでいるさまからも、どこかの裕福な貴族のぼんくら息子だろうと予想がつく。
見覚えはないが、確実に知っている相手だ。姿を変えたところで、わかるものはわかる。
シュムよりも先に誰なのかに気付いていたカイは、まだ毛を逆立てて男を睨みつけていた。
しかし、男は冷たい二通りの対応にも一向にひるむことなく、にこりと笑いかけた。
普通に見れば、羨望と嫉妬を浴びそうなくらいには魅力的な笑顔だ。社交界では、さぞもてはやされることだろう。
もっとも、シュムには効かず、顔を背ける。
「ひどい対応だなあ。久々の再会だっていうのに」
「久々ねえ。ふうん、三日って、久々なのかあ」
「君に会えなければ、一日でも永遠のようだよ」
「それじゃあ、あたしに恋してるみたいだよ。薬飲ませて何かしようとした相手に言うことじゃないと思う」
「何?!」
嫌味たっぷりのシュムの言葉に、男よりも先にカイが反応する。
可愛らしいオレンジの小動物は、シュムの膝から跳ね上がると、空中で一回転して草地に着地した。ただし、人形の、長身でオレンジの髪を刈り上げた体で。
一瞬の変身に密かにシュムが眼を丸くして、驚きつつ感心していたのだが、男二人がそのことに気付いた様子はなかった。小さく拍手をしてみたが、あえなく無視される。
「何考えてんだ、テメェ!」
絞め殺しかねない勢いで、カイが男の襟首を掴む。男は、それでも笑みを浮かべたままだった。余裕のある態度が、余計にカイの神経を逆撫でする。
「ああ、君、いたんだ? 小さすぎて気付かなかったよ」
「テメェ…!」
「あー、はいはい。そこらへんでやめとこうね。無事だったんだし。それに多分、今アルを殺しちゃったら、ハーネット家ともめることになるんじゃないかな」
これ以上手が出る前にと、シュムは溜息を呑み込んで、カイを申し訳程度に押し留めた。力では敵うはずもないが、十分に意思表示にはなる。応じて、カイが一応勢いを緩める。
おや、とアルと呼ばれた男が不思議そうな表情をした。
「どうしてわかったんだい?」
「紋章」
一振りの剣に蛇が巻きついた意匠のカフスボタンを指し示す。
「物によっては出回ってるけど、その細工は違うでしょ。立派すぎる。小間使いが盗むとかってのも、いくつも使ってあって量として難しいだろうから、ハーネット家の内部の人が依頼主か協力者かなんでしょ」
「こんなもので判るとは。やはり君は、僕に相応しく聡明だ」
伸ばされた手を、カイを盾にしてするりとかわす。それを好機としてアルにつかみかかろうとしたカイに、「やめなって」と釘を刺すことも忘れない。
シュムは、うんざりとした目を向けた。
「今まで何回も言ってきたけど、あたしは子どもじゃないんだからね。アルの範疇からは外れてる」
「いや、問題は見掛けだからね。その外見で、子どもでないと言っても意味はないよ」
「そうだったのか…。じゃあ、聡明どうこうって関係ないじゃない」
溜息を一つ。
そして、にっこりと笑いかけた。
「最後の警告をしよう。もしも今度またあんな真似をしたら、再起不能にするよ?」
さらりとした言葉に、アルはもとより、その必要のないはずのカイまでもがかおを引きつらせた。シュムは、満面の笑みを張りつけた。
本当なら、三日前に言っておくべきだったのだ。だがあのときは、突然のことにシュムも気が動転していた。あまり認めたくはないが、事実だ。
いつ敵対することがあってもおかしくないとは思いながらも、裏切られたように感じたのだ。不意打ちのような真似でなければ、そうでもなかったはずなのだが。
硬直している二人を放置して、シュムは方々から向けられた視線の先を、軽く見渡した。
「うーん。人目引いてるなあ」
目立つオレンジ頭の男に、明らかに貴族の男。付け加えるなら、アルほどではないにしても、カイも見栄えは悪くはない。
いくら田舎とはいえ、いや、逆に田舎だからこそ、これで注目されない方が不思議だろう。
向けられる視線が好奇や好意なのを見取って、カイの変身は見られなかったらしいと、その点では胸を撫で下ろした。見られたら、どんな騒ぎになるか。得体の知れないものは、在るだけで十分に恐怖や排除の対象となる。
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