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散髪
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洗面台に新聞紙を広げていると、英が帰って来た。てっきり深夜まで戻らないと思っていたので、誤算に小さく舌打ちがこぼれる。
「…何やってるんだ?」
「気にするな」
面倒なことになりそうだったので片付けようとしたが、少し遅かった。
「そんなこと言われても気になるし。教えてくれないと、ケーキあげないよ?」
「ウザイ」
「えーひどい」
笑いながら、ケーキが入っているらしい箱を冷蔵庫に入れる。わざわざ買ってきたのかもらったのか、英自身は甘いものは好きでも嫌いでもないようだが、ちょこちょこ持ち帰って来る。
新聞をたたんで廃棄分の山に載せ、ハサミを戻していると、いつの間にかすぐ後ろに英が立っていた。
雪季は人の気配に敏感な方だと思っていたが、英は、妙に気配を消すのが上手い。びくりと身構えると、芝居がかった仕草で両手を広げてみせる。
「何もしないって。で、何しようとしてたんだ? そんなハサミあったっけ? なんで洗面所に?」
「…髪を切ろうとしてた」
言わなければずっとついて回りそうで、雪季はため息とともに言葉を押し出した。髪切りばさみも、新聞の定期購読も、雪季が持ち込んだものだ。
英はきょとんとして、え、と眼を瞠った。
表情筋が豊かだなとぼんやりしていた雪季は、髪先をつかまれて、反射的にその手を振り払っていた。
「あ。ごめん。え、でもそれ、自分で切ってたのか?」
「切りに行くのが面倒で」
「えー? 自分で切る方が面倒じゃないか?」
「中途半端に時間がかかって変に話を振られるのが好きじゃない」
よく聞く話を答えにするが、実のところ、無防備に首筋をさらすのに抵抗があるだけのことだ。
何も、だからといって髪を切る最中に刺されるようなことはないはずだが、落ち着かない。歪な元職業病というところなのかもしれない。だから雪季は、病院も好きではない。
英はと言えば、今度は触りはしないが、まじまじと毛先を見て来るので、つい、距離を取る。
「へー、器用だな。よくよく見たら確かにまばらだったりするけど、言われなきゃわからない」
「誰も、よほど変なことにでもなっていない限り、人の頭なんて熱心に見ないだろ」
「そうでもないと思うけど。凄いな、雪季は何でもできる」
「いや…それは買いかぶりすぎ…」
適当にハサミを入れているだけなので、こうも感心されるとむず痒い。そもそもの始めは節約だったので、更に威張れた話ではない。
いい加減話を切り上げたいのと、髪を切らないのであれば用事はないので部屋に戻ろうかと思ったが、袖を引かれる。
「じゃあさ、俺の髪も切れるか?」
「プロに頼め」
「えー。ケチ」
「人の髪形にまで責任が取れるか。大体、お前のそういうのは、社交も兼ねてるだろ」
「あー…まあそうだけど」
友人の友人といったつながりや、一度行っただけのカフェで隣り合わせた客や、店員や、雪季にしてみれば一体どうやったらそんなところからと思ってしまう人脈を、英は呼吸でもするように軽々と広げていく。それらは、会社として太く繋げていっている今でさえ、武器になる。
そのためには外出は半ば必要不可欠で、付き合わされて、週の半分くらいは雪季も外食になる。ヘアサロンで文庫本片手に英を待っていたことだってある。
今さら何を言っているんだと英を見遣ると、何故か、少しむくれたような顔をしていた。
「ていうか、なんでやめたんだ? 俺が帰って来たから? 気にしなくていいのに」
英が気にしようがしまいが、雪季が気になる。自室にでも引き上げてくれればいいが、この様子では、見物をはじめそうだ。
首を振って今度こそ部屋に戻ろうとすると、何を思ったのか、英に突き倒された。位置は狙ったのだろう、ソファーに倒れ込み、半ばのしかかられた状態で肩を抑え込まれる。
「…何のつもりだ?」
「こうなったら、反撃できないよな? そんなんでいいのか?」
何の遊びが始まったのだろうと、ため息を呑み込む。英に向ける視線が、ぐんぐん温度を下げるのを感じる。
「反撃。して、いいんだな」
腰と肩は押さえられているが、両手足は使えないわけではない。おまけに固定もされていないソファーの上なので、いくらでもやりようはある。これが手慣れた相手なら話は別だが、ただの素人よりは手強そうではあるが、プロではない。
英が何か言いかけたが無視して、雪季は、腕でソファーを突いた。横に、力一杯。
そろって床に転げ落ちて、英の手が緩む。その隙に体を入れ替えて、床に強く体を打ち付けた英の、喉笛を捉える。
「満足か?」
「…参りました」
床にのびたまま両手を上げる英に、手を放して立ち上がる。やはり多少なまって来ているようで、雪季も肘を打ち付けたようだった。地味に痛い。
それなのに英は、笑っている。雪季は、精神的な頭痛を堪えた。
「そもそも俺は、下調べを充分にして一撃必殺で行くようなやり方だったから、あまりこういうのは向いてない」
「えーと…つまり?」
「次やったら、息の根を止めるつもりでいく。ちゃんとトレーニングをしているわけでもないからなまって来ているし、手加減ができるほどの余裕があるわけでもない。殺すより活かす方が大変なんだ」
「伝説の人斬りみたいなことを」
「とにかく、遊び半分で仕掛けて来るな。護衛を受けておいて悪いが、俺の技術も体力も、この先下がっていくばかりだろう。何かの拍子に、本気で全力で反撃することもあり得る。…護ることに関してもだな。そこは、わかっておいてほしい」
「つまり?」
いつまで寝転んだままでいるのだろうと思いつつ、雪季は、動いていない方のソファーに腰を落とした。
緩やかに劣っていくことを雪季は覚悟しているが、英がどう思っているのかはわからない。
そもそもが不意打ちを狙ったものが多かっただけに、ただ殺すだけならどうとでもなっても、護ったり無傷で相手を妨害するようなことができるのかも、実のところ自信はないままだ。
そんな不確かなままここにいていいのかと、思う。そのことをいくらか話したことはあるが、英がちゃんと理解しているのかは怪しい。もっとも根本的に、必要なのかが疑わしい立ち位置ではあるのだが。
「お前を護るとしても、相手を殺してしまって俺が行方を晦ましたり捕まったりすることがあるかも知れない」
「…それは厭だな」
「厭と言われても」
アスリート並みにトレーニングをすればある程度の維持はできるかもしれないが、それでは英の傍を離れる時間が増えて護衛にならない。そして、護衛技術を今から学ぶのもあまり現実的ではない。費用と時間がかかりすぎる。
「雪季は真面目だな。というか、実は社員としての給料しか払ってないって気付いてるか?」
「…ほとんど何もしてないのに社員分の給料を貰ってる時点で護衛料だろ」
「…俺の秘書って、結構大変らしいんだけど」
「ほとんど話し相手だって言ったのはお前だと思うが」
「…いや。雪季がそれでいいならいいんだけど…なんかごめんな…?」
「はあ?」
何を言っているんだろうと、今度こそ立ち上がる。夕飯の支度はもう二時間ほど後でいいから、図書部屋に寄って何か読もうかと考える。
「雪季」
「なんだ」
「反撃するなって言ってたらどうしてた?」
これは何を計る質問だろうと首を傾げながら、雪季は真面目に考える。
「理由がわかるまではあのままでも。別に、刺されたり首を締められたりしたわけでもないし」
「…雪季。俺、雪季にあんまり好かれてないかもって思ってたけど、実は案外信用されてる…?」
「くだらない理由か遊びでもなければ、一応は考えて動くだろう、お前は」
「えー…それって信用とどう違うのかわからない…」
「知るか」
それよりも、好かれていないとわかっていて何かとかまってくる英が謎だ。考えてもわかるわけがないなと放棄して、雪季は自分の部屋に向かった。
「…何やってるんだ?」
「気にするな」
面倒なことになりそうだったので片付けようとしたが、少し遅かった。
「そんなこと言われても気になるし。教えてくれないと、ケーキあげないよ?」
「ウザイ」
「えーひどい」
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雪季は人の気配に敏感な方だと思っていたが、英は、妙に気配を消すのが上手い。びくりと身構えると、芝居がかった仕草で両手を広げてみせる。
「何もしないって。で、何しようとしてたんだ? そんなハサミあったっけ? なんで洗面所に?」
「…髪を切ろうとしてた」
言わなければずっとついて回りそうで、雪季はため息とともに言葉を押し出した。髪切りばさみも、新聞の定期購読も、雪季が持ち込んだものだ。
英はきょとんとして、え、と眼を瞠った。
表情筋が豊かだなとぼんやりしていた雪季は、髪先をつかまれて、反射的にその手を振り払っていた。
「あ。ごめん。え、でもそれ、自分で切ってたのか?」
「切りに行くのが面倒で」
「えー? 自分で切る方が面倒じゃないか?」
「中途半端に時間がかかって変に話を振られるのが好きじゃない」
よく聞く話を答えにするが、実のところ、無防備に首筋をさらすのに抵抗があるだけのことだ。
何も、だからといって髪を切る最中に刺されるようなことはないはずだが、落ち着かない。歪な元職業病というところなのかもしれない。だから雪季は、病院も好きではない。
英はと言えば、今度は触りはしないが、まじまじと毛先を見て来るので、つい、距離を取る。
「へー、器用だな。よくよく見たら確かにまばらだったりするけど、言われなきゃわからない」
「誰も、よほど変なことにでもなっていない限り、人の頭なんて熱心に見ないだろ」
「そうでもないと思うけど。凄いな、雪季は何でもできる」
「いや…それは買いかぶりすぎ…」
適当にハサミを入れているだけなので、こうも感心されるとむず痒い。そもそもの始めは節約だったので、更に威張れた話ではない。
いい加減話を切り上げたいのと、髪を切らないのであれば用事はないので部屋に戻ろうかと思ったが、袖を引かれる。
「じゃあさ、俺の髪も切れるか?」
「プロに頼め」
「えー。ケチ」
「人の髪形にまで責任が取れるか。大体、お前のそういうのは、社交も兼ねてるだろ」
「あー…まあそうだけど」
友人の友人といったつながりや、一度行っただけのカフェで隣り合わせた客や、店員や、雪季にしてみれば一体どうやったらそんなところからと思ってしまう人脈を、英は呼吸でもするように軽々と広げていく。それらは、会社として太く繋げていっている今でさえ、武器になる。
そのためには外出は半ば必要不可欠で、付き合わされて、週の半分くらいは雪季も外食になる。ヘアサロンで文庫本片手に英を待っていたことだってある。
今さら何を言っているんだと英を見遣ると、何故か、少しむくれたような顔をしていた。
「ていうか、なんでやめたんだ? 俺が帰って来たから? 気にしなくていいのに」
英が気にしようがしまいが、雪季が気になる。自室にでも引き上げてくれればいいが、この様子では、見物をはじめそうだ。
首を振って今度こそ部屋に戻ろうとすると、何を思ったのか、英に突き倒された。位置は狙ったのだろう、ソファーに倒れ込み、半ばのしかかられた状態で肩を抑え込まれる。
「…何のつもりだ?」
「こうなったら、反撃できないよな? そんなんでいいのか?」
何の遊びが始まったのだろうと、ため息を呑み込む。英に向ける視線が、ぐんぐん温度を下げるのを感じる。
「反撃。して、いいんだな」
腰と肩は押さえられているが、両手足は使えないわけではない。おまけに固定もされていないソファーの上なので、いくらでもやりようはある。これが手慣れた相手なら話は別だが、ただの素人よりは手強そうではあるが、プロではない。
英が何か言いかけたが無視して、雪季は、腕でソファーを突いた。横に、力一杯。
そろって床に転げ落ちて、英の手が緩む。その隙に体を入れ替えて、床に強く体を打ち付けた英の、喉笛を捉える。
「満足か?」
「…参りました」
床にのびたまま両手を上げる英に、手を放して立ち上がる。やはり多少なまって来ているようで、雪季も肘を打ち付けたようだった。地味に痛い。
それなのに英は、笑っている。雪季は、精神的な頭痛を堪えた。
「そもそも俺は、下調べを充分にして一撃必殺で行くようなやり方だったから、あまりこういうのは向いてない」
「えーと…つまり?」
「次やったら、息の根を止めるつもりでいく。ちゃんとトレーニングをしているわけでもないからなまって来ているし、手加減ができるほどの余裕があるわけでもない。殺すより活かす方が大変なんだ」
「伝説の人斬りみたいなことを」
「とにかく、遊び半分で仕掛けて来るな。護衛を受けておいて悪いが、俺の技術も体力も、この先下がっていくばかりだろう。何かの拍子に、本気で全力で反撃することもあり得る。…護ることに関してもだな。そこは、わかっておいてほしい」
「つまり?」
いつまで寝転んだままでいるのだろうと思いつつ、雪季は、動いていない方のソファーに腰を落とした。
緩やかに劣っていくことを雪季は覚悟しているが、英がどう思っているのかはわからない。
そもそもが不意打ちを狙ったものが多かっただけに、ただ殺すだけならどうとでもなっても、護ったり無傷で相手を妨害するようなことができるのかも、実のところ自信はないままだ。
そんな不確かなままここにいていいのかと、思う。そのことをいくらか話したことはあるが、英がちゃんと理解しているのかは怪しい。もっとも根本的に、必要なのかが疑わしい立ち位置ではあるのだが。
「お前を護るとしても、相手を殺してしまって俺が行方を晦ましたり捕まったりすることがあるかも知れない」
「…それは厭だな」
「厭と言われても」
アスリート並みにトレーニングをすればある程度の維持はできるかもしれないが、それでは英の傍を離れる時間が増えて護衛にならない。そして、護衛技術を今から学ぶのもあまり現実的ではない。費用と時間がかかりすぎる。
「雪季は真面目だな。というか、実は社員としての給料しか払ってないって気付いてるか?」
「…ほとんど何もしてないのに社員分の給料を貰ってる時点で護衛料だろ」
「…俺の秘書って、結構大変らしいんだけど」
「ほとんど話し相手だって言ったのはお前だと思うが」
「…いや。雪季がそれでいいならいいんだけど…なんかごめんな…?」
「はあ?」
何を言っているんだろうと、今度こそ立ち上がる。夕飯の支度はもう二時間ほど後でいいから、図書部屋に寄って何か読もうかと考える。
「雪季」
「なんだ」
「反撃するなって言ってたらどうしてた?」
これは何を計る質問だろうと首を傾げながら、雪季は真面目に考える。
「理由がわかるまではあのままでも。別に、刺されたり首を締められたりしたわけでもないし」
「…雪季。俺、雪季にあんまり好かれてないかもって思ってたけど、実は案外信用されてる…?」
「くだらない理由か遊びでもなければ、一応は考えて動くだろう、お前は」
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