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河東英
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注意深く見守ると、雪季は見事にクラスに埋没していた。
浮くでもなく孤立するでもなく、適度に喋る相手もいるのにでは誰が一番親しいかと問えば、名乗りを上げる者はいないような、不思議な存在感。クラスが変わってしまえば、そのまま忘れ去られるのかもしれない。
そしてそれこそが、雪季が望んでいることではないだろうか。
そう気づいて、英はひどく感心した。注目を集める方が不自然にならない自分とは逆だとも思う。わざとなのかそれが雪季にとって自然体なのか。こうやって、聞きたいことがいくらでも増えていく。
はじめは、同類なのかとも思った。人を殺して平然と日常を日常を送るのは、そういうことなのかと。だがすぐに、違いそうだと気付いた。何かが違って、その何かを、英は知りたいと思っていた。
「あれ、帰るのー?」
「帰る帰る。帰って勉強する」
「マジメー」
けらけらと笑う「友人」たちを置いて、英は教室を後にした。
いつもなら放課後は部活があるが、今日から一週間は試験前の部活禁止期間になる。だからといって真っ直ぐに帰る生徒ばかりではなく、英も今までは適当にファミレスででも駄弁っていた。それが楽しいわけではないが、時間潰しにはなる。
だが今は、雪季をつける絶好のチャンスだ。
そう考えてうきうきとしていたのだが、自転車置き場でいきなり頓挫した。帰りのホームルームが終わったばかりの駐輪場はそこそこ混んでいて、軽く駆けてきた足音が自分を目指しているとは思わなかったが、間違いだった。
「英ー、駅まで付き合ってー」
「何、お前ももう帰るのか?」
「おう。で、二人だしちょっと奮発していいもん食べよーぜ」
視界の隅を、自転車に乗った雪季が掠めて行くのに内心舌打ちをして、英は大きく溜息をついた。
「わかった。ってお前、バス通だろ、まさか俺まで歩くのか?」
「まさか。校門出たら後ろ乗せて」
「ふざけんな、自転車貸すならお前がこげ」
傍で聞けば仲が良さそうに聞こえるだろうが、英の中には面倒臭さしかない。
篠原こそ、同類だ。おそらく互いに、同じクラスになって顔を合わせ、少し接したあたりで確信した。そうして、相手とどう付き合うべきかと頭の中でそろばんを弾いたはずだ。
他に人もいないのに教室の外でまで付き合う必要はなく、無視なり適当にあしらうなりしてもいいが、わざわざこうやって絡んで来たということは、向こうは見極めをつけたのだろうと付き合うことにした。
荒い走りの自転車を止めたのは、駅の裏側にある昔ながらの喫茶店だった。未だに喫煙可能で、英たちが入った時には喫っている客はいなかったが、かすかに煙が残っているような感じはある。
篠原が緩やかにジャズの流れる店内を突っ切り、奥まった席に座った。四人掛けなので空いた席にかばんを置いて、不本意ながらも向かい合う。
ビニールカバーの少々ねばつくメニューをめくれば、意外にも、種類によってはチェーンのコーヒーショップよりも安い。
「で、何の話だ?」
「うん?」
「誤魔化すな。別に、猫をかぶる必要もないだろう」
にやあと、篠原が笑う。逆に英は、笑みを引いた。
「まあ本題は、注文が届いてからってことで。あれそれとも本気で帰って勉強したかった?」
「別に」
「無愛想だなあ。教室ではいっつもにこにこしてるのに。知ってる? 微笑み王子とかセンスのない呼び名ついてたの」
「つけたのお前か?」
あまりにセンスがなさすぎる。マスコミの変に流れに乗った呼び名でもあるまいに。そして英自身は聞いたことがないので、実際に言葉として発されているわけではないだろう。せいぜいが、SNSやアプリの上でか。
注文したのは飲み物だけだったので、それほど待たずに出てきた。篠原がブレンドで、英はアーモンド・オ・レ。思った通りに甘い。
それで、と改めて篠原に視線を向ける。うっすらとした笑みは消えない。
「今の生活、気に入ってる?」
「それなりに」
何を言うつもりだろうと考えながら、淡々と返す。当たり前だが、全てを馬鹿正直に言うつもりも必要もない。
篠原は、それを承知しているように笑みを崩さない。自分もこんな風に映るのかなとふと思い、英は面白くない思いを抱いた。お前も面白くない人間だと突き付けられたようで、気分が悪い。
「嘘だろ? 周りは馬鹿ばっかりでくだらない。退屈で、もっと面白いことがあればいいのにって、思うだろ?」
「ガキか」
「遊びをしないか、アキラ。例えば、俺たちでどれだけ世間を引っ掻き回せるか。連続殺人とか、ほいほい喰いつくだろうなあ」
何かの罠だろうかと首を捻る。英は嘘つきだが、篠原も嘘つきだ。そうやすやすと、厄介で危険だと見られるような本音をさらけ出すものだろうか。
それとも、篠原は英が思っていた以上に面倒臭い奴だったのだろうか。
英は、自分たちのような種類の人間に貼られているラベルを知っていたし、その中に、稀代のシリアルキラーが混じっていたりすることも把握している。篠原はどうなのだろうか。
「面白そうだと思わないか。人を殺すのは駄目だって言ったって、何が違うんだか。人を殺そうが鶏を殺そうが、隣にいるのがどんな奴かなんか誰も知らないのにさあ。一人くらい骨のある奴がいて、推理小説張りに頭脳戦になったら面白いと思わないか?」
推理小説を読むのか、とやや意外に思う。
英は、ある程度一般的な人の反応や感情を把握したくて漫画も小説も色々と読むが、篠原がそういったことをしているようには思えなかった。少なくとも、学校で教科書以外の本を手にしているのを見たことはないが、それは英も同じなので何とも言えない。
そんな英の考えを知ってか知らずか、篠原は機嫌良さそうに続ける。
「いいよなあ、ああいうヒリヒリした感じ。丁々発止のやり取りなんて、今の生活には全然ない」
「サッカー部じゃなくて野球部にでも入ればよかったんじゃないか? よく知らないけど、捕手とか、ゲーム展開読んで指示出してでめっちゃ頭使うって言うし。囲碁とか将棋は?」
「そういうのじゃないだろ。全然足りない」
「ふうん」
関わる気はないと、わかるように気のない相槌を打つ。
少し前であれば、と思う。夏休みの前であれば、そういうのも面白いかもしれないと、多少は乗り気になったかもしれない。互いに様子見をしていて、篠原は少し遅かったようだ。今の英の興味は、もうそこにはない。
馬鹿だなほんの少しの差だったのにと、皮肉な気分になる。篠原の言った通りだ。「隣にいるのがどんな奴かなんか誰も知らない」。篠原は、雪季を知らない。
「ここってフードメニューどう? どうせだから何か食べて帰ろ」
「興味ないのかよ」
「あんまり。まあお前は、せいぜい上手くやれ。テスト勉強の合間でいいなら、ちらっと祈ってやらないこともない。というかその場合、就職どうするんだ。警察官になるんじゃなかったっけ」
「え? もちろんなるけど?」
「ばれないようにうまくやれ」
古色蒼然とした喫茶店のメニューと、それほど高くもない値段。夏前まで一緒に暮らしていた母の料理の腕は壊滅的で、英は作ろうと思ったこともないので、基本的に「おふくろの味」はスーパーやコンビニのそれだ。さてこの店はどんなものだろうとメニューを眺める。
きょろきょろと見回すが、店員が気付く様子がない。声を上げて手を振ってようやく、のんびりと歩み寄って来た。
「ナポリタンとホットケーキ。そっちは?」
「…帰る。考えといて」
「はいはい」
立ち上がる篠原を見送るでもなく手を振ると、英は携帯端末を引き出して読書アプリを選ぶ。
そうして、もう一度考えてみた。
夏休みのあの日、雪季が人を殺すところを見た。
偶然の産物で、ほんの少し何かが違っただけで、きっと英も気付かずに通り過ぎただろう。そうすれば、英はさっきの篠原の誘いにも乗ったかもしれない。
その時はきっと、雪季との接点はなかっただろう。もしも何かの拍子に雪季が人を殺していると知ったとしても、取り込もうとしたか、巻き添えでの露見を恐れて徹底的に避けようとしたか。
それはなんだか厭だなと、英は思った。
そう思ったことが面白くて、英は笑みをこぼしていた。
きっと今まで、これほどに人に興味を持ったことはない。一瞬ならあるかも知れないが、あの日からもう三か月ほどになる。
問い質すことができないからこれほどに続くのか、それとも、話してみてもこの興味は続くのか。
「ホットケーキお待たせしました」
「うん、ありがとう」
にこりと微笑みかけると、大学生くらいだろう店員は嬉し気に笑い返した。単純だ。
今時のパンケーキではなくホットケーキとメニューに書かれたそれは、ふにゃっとした生地が二枚重なっていた。四角いバターが載っていて、シロップは別に、白い小さな陶器に入っている。
英はそれらに、もしかしてと思いながらナイフを切り入れる。
一切れを口に入れて、思わず笑ってしまった。この味を知っている。
母と暮らしていた頃の英の家の冷凍庫には、色々な食品がぎっしりと詰まっていた。その中に常備されたホットケーキは、母曰く、「ご褒美」の「英の好物」。
実際には別段好きでも嫌いでもなかったのだが、妙な思い込みの強い人だった。
同じメーカーの同じものなのか、冷凍のホットケーキはどれも似たような味なのか、こんなところで再会するとは。感慨はないが多少の意外性はあって、英はさくさくと食べ進めた。
何かを炒めている音がするが、あれがナポリタンなら、出来上がる前に食べ終えたいところだ。
特別美味しいとは思わないし、好きだとも思わないが、食べたくないとも思わない。つまりは、どうでもいい存在。英にとって世の中のものの大半はそれに分類される。
例えば雪季と話をして、今までに知りたいと思ったことを訊いて、その後、彼をどこに分類するだろう。
ふわりと浮かんだ疑問に、英は首を捻り、考えてもわからないかと保留する。
わからないのであれば、今のこのわくわくする感じをもう少し続けてみようか。どうせ、あんなことを言い出した篠原の目があるので、しばらくは接触することもない。案外、この興味を突き詰めない方が、楽しみがあっていいのかもしれない。
我ながららしくない考えに苦笑して、英は、ホットケーキの最後の一口を呑み込んだ。
浮くでもなく孤立するでもなく、適度に喋る相手もいるのにでは誰が一番親しいかと問えば、名乗りを上げる者はいないような、不思議な存在感。クラスが変わってしまえば、そのまま忘れ去られるのかもしれない。
そしてそれこそが、雪季が望んでいることではないだろうか。
そう気づいて、英はひどく感心した。注目を集める方が不自然にならない自分とは逆だとも思う。わざとなのかそれが雪季にとって自然体なのか。こうやって、聞きたいことがいくらでも増えていく。
はじめは、同類なのかとも思った。人を殺して平然と日常を日常を送るのは、そういうことなのかと。だがすぐに、違いそうだと気付いた。何かが違って、その何かを、英は知りたいと思っていた。
「あれ、帰るのー?」
「帰る帰る。帰って勉強する」
「マジメー」
けらけらと笑う「友人」たちを置いて、英は教室を後にした。
いつもなら放課後は部活があるが、今日から一週間は試験前の部活禁止期間になる。だからといって真っ直ぐに帰る生徒ばかりではなく、英も今までは適当にファミレスででも駄弁っていた。それが楽しいわけではないが、時間潰しにはなる。
だが今は、雪季をつける絶好のチャンスだ。
そう考えてうきうきとしていたのだが、自転車置き場でいきなり頓挫した。帰りのホームルームが終わったばかりの駐輪場はそこそこ混んでいて、軽く駆けてきた足音が自分を目指しているとは思わなかったが、間違いだった。
「英ー、駅まで付き合ってー」
「何、お前ももう帰るのか?」
「おう。で、二人だしちょっと奮発していいもん食べよーぜ」
視界の隅を、自転車に乗った雪季が掠めて行くのに内心舌打ちをして、英は大きく溜息をついた。
「わかった。ってお前、バス通だろ、まさか俺まで歩くのか?」
「まさか。校門出たら後ろ乗せて」
「ふざけんな、自転車貸すならお前がこげ」
傍で聞けば仲が良さそうに聞こえるだろうが、英の中には面倒臭さしかない。
篠原こそ、同類だ。おそらく互いに、同じクラスになって顔を合わせ、少し接したあたりで確信した。そうして、相手とどう付き合うべきかと頭の中でそろばんを弾いたはずだ。
他に人もいないのに教室の外でまで付き合う必要はなく、無視なり適当にあしらうなりしてもいいが、わざわざこうやって絡んで来たということは、向こうは見極めをつけたのだろうと付き合うことにした。
荒い走りの自転車を止めたのは、駅の裏側にある昔ながらの喫茶店だった。未だに喫煙可能で、英たちが入った時には喫っている客はいなかったが、かすかに煙が残っているような感じはある。
篠原が緩やかにジャズの流れる店内を突っ切り、奥まった席に座った。四人掛けなので空いた席にかばんを置いて、不本意ながらも向かい合う。
ビニールカバーの少々ねばつくメニューをめくれば、意外にも、種類によってはチェーンのコーヒーショップよりも安い。
「で、何の話だ?」
「うん?」
「誤魔化すな。別に、猫をかぶる必要もないだろう」
にやあと、篠原が笑う。逆に英は、笑みを引いた。
「まあ本題は、注文が届いてからってことで。あれそれとも本気で帰って勉強したかった?」
「別に」
「無愛想だなあ。教室ではいっつもにこにこしてるのに。知ってる? 微笑み王子とかセンスのない呼び名ついてたの」
「つけたのお前か?」
あまりにセンスがなさすぎる。マスコミの変に流れに乗った呼び名でもあるまいに。そして英自身は聞いたことがないので、実際に言葉として発されているわけではないだろう。せいぜいが、SNSやアプリの上でか。
注文したのは飲み物だけだったので、それほど待たずに出てきた。篠原がブレンドで、英はアーモンド・オ・レ。思った通りに甘い。
それで、と改めて篠原に視線を向ける。うっすらとした笑みは消えない。
「今の生活、気に入ってる?」
「それなりに」
何を言うつもりだろうと考えながら、淡々と返す。当たり前だが、全てを馬鹿正直に言うつもりも必要もない。
篠原は、それを承知しているように笑みを崩さない。自分もこんな風に映るのかなとふと思い、英は面白くない思いを抱いた。お前も面白くない人間だと突き付けられたようで、気分が悪い。
「嘘だろ? 周りは馬鹿ばっかりでくだらない。退屈で、もっと面白いことがあればいいのにって、思うだろ?」
「ガキか」
「遊びをしないか、アキラ。例えば、俺たちでどれだけ世間を引っ掻き回せるか。連続殺人とか、ほいほい喰いつくだろうなあ」
何かの罠だろうかと首を捻る。英は嘘つきだが、篠原も嘘つきだ。そうやすやすと、厄介で危険だと見られるような本音をさらけ出すものだろうか。
それとも、篠原は英が思っていた以上に面倒臭い奴だったのだろうか。
英は、自分たちのような種類の人間に貼られているラベルを知っていたし、その中に、稀代のシリアルキラーが混じっていたりすることも把握している。篠原はどうなのだろうか。
「面白そうだと思わないか。人を殺すのは駄目だって言ったって、何が違うんだか。人を殺そうが鶏を殺そうが、隣にいるのがどんな奴かなんか誰も知らないのにさあ。一人くらい骨のある奴がいて、推理小説張りに頭脳戦になったら面白いと思わないか?」
推理小説を読むのか、とやや意外に思う。
英は、ある程度一般的な人の反応や感情を把握したくて漫画も小説も色々と読むが、篠原がそういったことをしているようには思えなかった。少なくとも、学校で教科書以外の本を手にしているのを見たことはないが、それは英も同じなので何とも言えない。
そんな英の考えを知ってか知らずか、篠原は機嫌良さそうに続ける。
「いいよなあ、ああいうヒリヒリした感じ。丁々発止のやり取りなんて、今の生活には全然ない」
「サッカー部じゃなくて野球部にでも入ればよかったんじゃないか? よく知らないけど、捕手とか、ゲーム展開読んで指示出してでめっちゃ頭使うって言うし。囲碁とか将棋は?」
「そういうのじゃないだろ。全然足りない」
「ふうん」
関わる気はないと、わかるように気のない相槌を打つ。
少し前であれば、と思う。夏休みの前であれば、そういうのも面白いかもしれないと、多少は乗り気になったかもしれない。互いに様子見をしていて、篠原は少し遅かったようだ。今の英の興味は、もうそこにはない。
馬鹿だなほんの少しの差だったのにと、皮肉な気分になる。篠原の言った通りだ。「隣にいるのがどんな奴かなんか誰も知らない」。篠原は、雪季を知らない。
「ここってフードメニューどう? どうせだから何か食べて帰ろ」
「興味ないのかよ」
「あんまり。まあお前は、せいぜい上手くやれ。テスト勉強の合間でいいなら、ちらっと祈ってやらないこともない。というかその場合、就職どうするんだ。警察官になるんじゃなかったっけ」
「え? もちろんなるけど?」
「ばれないようにうまくやれ」
古色蒼然とした喫茶店のメニューと、それほど高くもない値段。夏前まで一緒に暮らしていた母の料理の腕は壊滅的で、英は作ろうと思ったこともないので、基本的に「おふくろの味」はスーパーやコンビニのそれだ。さてこの店はどんなものだろうとメニューを眺める。
きょろきょろと見回すが、店員が気付く様子がない。声を上げて手を振ってようやく、のんびりと歩み寄って来た。
「ナポリタンとホットケーキ。そっちは?」
「…帰る。考えといて」
「はいはい」
立ち上がる篠原を見送るでもなく手を振ると、英は携帯端末を引き出して読書アプリを選ぶ。
そうして、もう一度考えてみた。
夏休みのあの日、雪季が人を殺すところを見た。
偶然の産物で、ほんの少し何かが違っただけで、きっと英も気付かずに通り過ぎただろう。そうすれば、英はさっきの篠原の誘いにも乗ったかもしれない。
その時はきっと、雪季との接点はなかっただろう。もしも何かの拍子に雪季が人を殺していると知ったとしても、取り込もうとしたか、巻き添えでの露見を恐れて徹底的に避けようとしたか。
それはなんだか厭だなと、英は思った。
そう思ったことが面白くて、英は笑みをこぼしていた。
きっと今まで、これほどに人に興味を持ったことはない。一瞬ならあるかも知れないが、あの日からもう三か月ほどになる。
問い質すことができないからこれほどに続くのか、それとも、話してみてもこの興味は続くのか。
「ホットケーキお待たせしました」
「うん、ありがとう」
にこりと微笑みかけると、大学生くらいだろう店員は嬉し気に笑い返した。単純だ。
今時のパンケーキではなくホットケーキとメニューに書かれたそれは、ふにゃっとした生地が二枚重なっていた。四角いバターが載っていて、シロップは別に、白い小さな陶器に入っている。
英はそれらに、もしかしてと思いながらナイフを切り入れる。
一切れを口に入れて、思わず笑ってしまった。この味を知っている。
母と暮らしていた頃の英の家の冷凍庫には、色々な食品がぎっしりと詰まっていた。その中に常備されたホットケーキは、母曰く、「ご褒美」の「英の好物」。
実際には別段好きでも嫌いでもなかったのだが、妙な思い込みの強い人だった。
同じメーカーの同じものなのか、冷凍のホットケーキはどれも似たような味なのか、こんなところで再会するとは。感慨はないが多少の意外性はあって、英はさくさくと食べ進めた。
何かを炒めている音がするが、あれがナポリタンなら、出来上がる前に食べ終えたいところだ。
特別美味しいとは思わないし、好きだとも思わないが、食べたくないとも思わない。つまりは、どうでもいい存在。英にとって世の中のものの大半はそれに分類される。
例えば雪季と話をして、今までに知りたいと思ったことを訊いて、その後、彼をどこに分類するだろう。
ふわりと浮かんだ疑問に、英は首を捻り、考えてもわからないかと保留する。
わからないのであれば、今のこのわくわくする感じをもう少し続けてみようか。どうせ、あんなことを言い出した篠原の目があるので、しばらくは接触することもない。案外、この興味を突き詰めない方が、楽しみがあっていいのかもしれない。
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