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結婚
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『ユキちゃん助けて。本気でやばい。たすけて』
「すみません早退させてください」
驚いた声や止めるようなものが聞こえたが、雪季は振り切るように駆け出していた。
* * *
「真柴っ」
扉を開け放つと、男が待ち構えていた。
雪季や結愛と同年代、身長は雪季よりは高いが、英よりは少し低いくらいか。肩幅が広く、体には厚みがある。武闘家とは言わずとも、それなりに体力を使う日々を過ごしていそうだ。
正面から組み合うには雪季は体格分不利だが――と攻略法を考えかけたところで、ぴょこぴょこと後ろで飛び跳ねる手に気付いた。
「ユキちゃんっ、ごめんっありがとうっ、でもこの人一応身内だからっ撃退してほしいけどしちゃダメっ」
どうも、男の後ろで跳ねながら喋っているようだ。舌を噛まないかと心配になる。
そして冷静になれば、うっすらと見覚えのある顔だった。お互いによく知っているわけではないが、一度、こうやって顔を突き合わせたことがある。もう、十年以上も前のことだ。
「ちぃ兄どいてっ、もういいでしょ帰って!」
「駄目だ。こいつがどういうつもりでお前と付き合ってるのかわかったものじゃない」
「だからっ、私ユキちゃんと付き合ってるからお見合いなんてする気ないからっ!」
「…とりあえず、入って、扉閉めていいか?」
玄関先で言い合って、何もかも周囲にぶちまけていると気付いているのだろうか、このきょうだいは。
平日の昼間だから不在の住人も多いだろうが、後で妙な噂が広がりかねない。ただでさえ、ストーカー騒ぎがあったせいで結愛はこの近辺ではやや有名になってしまっているというのに。
「上がって! ちぃ兄じゃまっどいてっ」
おそらく背後から服を引っ張っているのだろう結愛に気を取られている隙に、さっさと狭い靴脱ぎに入り込んで靴を脱ぎ捨て上がり込む。ドアも鍵もしっかりと閉めて、半身を背後の結愛に向けかけていた男の脇を抜けた。
そのまま、結愛の腕を取って仕事に使っている部屋へと足を運ぶ。男が、慌てたように声をあげて追いかけて来た。
「どういう状況だ?」
「ユキちゃんっ」
真正面から抱き付かれて、内心、のけぞる。
身長差があるから鎖骨のあたりに結愛の額が当たった。普段あまりこういった接触はないだけに、必死さは伝わる。泣いているのか、服が湿る気配もあった。
やや躊躇いつつも、手を背に回してなだめるように軽くさする。そっと、結愛の耳元に口を寄せた。
「名前で呼んだ方がいいか?」
囁きに強い頷きが返されて、抱き付いたままなのでシャツの生地が引っ張られる。スーツのボタンを閉めていなくて良かった、と思った雪季は、混乱しているのかいつも通りなのか、自分の思考をはかり損ねる。
「離れろ」
思い切り険を含んだ声に、肩をつかまれた。そのまま引っ張られると結愛がくっついたままでバランスを崩しそうなので、肩を後方に捻って力を流す。
そうして、結愛の背を軽く叩く。
「結愛。もう、大丈夫だから。座って」
「…うん」
いつものローテーブルの前に腰を落とした結愛の隣に、雪季も座る。やや間を置いて、テーブルを挟んだ正面に、男も腰を下ろした。
結愛は、命綱をつかむように雪季の腕にしがみつく。
「…中原雪季と申します。結愛の、下のお兄さんですね? ご無沙汰しています」
「は? …ああっ! お前!」
せっかく座ったのに立ち上がる。テーブルをひっかけそうだったので、雪季が素早く自分たちの側に引いた。
人を指さしてはいけませんとは習わなかったのだろうかと、やや疲れた思いで心中で呟いてみる。そう長い時間話したわけではないが、そういえばこんな人だったような気がする。良く言って直情。悪く言えば単純。
高二の夏休み手前に、結愛の件で呼び出されたことがある。結愛は今も知らないままだろう。
「…ちぃ兄、ユキちゃんを知ってるの? なんで?」
「え。あ。それは…よくつるんでただろ、お前ら。たまたま目に入っただけだ」
苦しい言い訳だな、と思うが黙っておく。あの時は、結愛と付き合っているのかと問い質されたのだった。おそらく、今も似たような状況になっているのだろうと、雪季は溜息を呑み込んだ。
いや、あのときとは逆なのか。先ほど、結愛は見合いと言っていた。
「知ってるなら。わかったでしょ、私たちずっと付き合ってるの。知らない人とお見合いなんてするだけ無駄なの」
「…中原君。仕事は何をしてるんだ。こんな平日に駆け付けられるなんて、」
「ちぃ兄だってこんな平日にここにいるじゃない!」
「俺は今日休みなんだよ! 知ってるのに混ぜっ返すな!」
男の大声に、びくりと、結愛が身をすくめた。雪季の腕に縋りつくように体を密着させているせいで、それほど大きなものではなくても判った。
そっと、雪季の腕を力一杯につかんでいる結愛の指に触れる。こんな事で傷めたら、漫画を描く時に困るだろうに。
「小さな人材会社の、社長秘書をしています。上司の許可さえあれば、多少は融通の利く職場です」
「…結愛とのことは。どう考えてるんだ」
また、結愛が身を強張らせるのがわかった。
家族になりたいと言ってくれた結愛に、ちゃんと返事をしていなかったことを思い出す。直接会って話そうと思っているとなかなか機会がなく、そのままになっていた。
今ここで何を言っても、結愛は庇うためについた嘘だと取るだろう。それでも、これほどに竦むのかと、雪季はほろ苦い気持ちを持て余す。それは結局は、信用していないということではないのだろうか。
「俺にとって結愛は、何よりも大切な人です。二人で一緒に考えていきます」
「――っ」
「結愛に見合い話が来ているなら、断ってください。渡すつもりはありませんし、結愛も嫌がっています」
「嫌がってるったって…お前に、気を使ってるだけってことだって…」
「普段、仕事をしている時間帯に呼び出すことなんてありません。その上で、これだけあなたを警戒しています。それでも、ちょっとした気遣いだと?」
結愛には、両親と兄が二人、弟が一人いる。ただ、小学校の半ばくらいまでは、母親との二人きりだった。父と兄二人ができて、弟が生まれて。
中学生だった結愛が漫画の原稿を学校に持って来ていたのは、家では描く場所も安心して置いておける場所もなかったからだった。
家族仲が悪いわけではない。義父を父と呼ぶことにも、血のつながりのない義兄二人を兄と呼ぶことにも、抵抗はないのだという。一回り近く年下の弟もかわいいと言う。
それでも、何かと結愛の優先事項と家族の「常識」はぶつかり合う。
結愛は高校入学に前後して漫画家としてデビューしていて、高二の夏休みをほぼ丸々説得に費やし、三学期からずっと一人暮らしをしている。家族のいる実家に帰らないわけではないが、日々を暮らしているのはこの部屋だ。
「ねえ。私、何回も言ったよね。お見合いなんてしないって。必要ないって。どうして聞いてくれないの」
雪季の腕をつかんだまま、顔も上げず、いつもよりも低い声を押し出す。男は、やや気づかわし気に結愛を見遣る。それでも、気付きはしない。
「だって…大学出ても、漫画ばっかり描いてて。こんな事、いつまで続けられるかもわからないだろ? それなら、せめてちゃんと結婚して…」
「だから!」
「出ましょう。これ以上そういったことを言うつもりなら、俺が聞きます。結愛に聞かせる必要はない」
「は? そういったことってなんだよ」
本当にわかっていないのだと、「常識」の差にいっそ驚く。むしろ、真柴家の中では結愛が異端だったのだろう。
無理やり言葉を呑み込ませた結愛の強張った指になだめるように自分の手を重ねて、雪季は男を見据えた。ずっとつかまれている腕の感覚がいささか怪しい。
「先ほど今日はお休みと言われていましたが、ご職業は?」
「なんで言う必要があるんだ」
「俺には訊きましたよね?」
「…整備士。車の」
「いい年をして機械いじりばかりして」
「なっ」
「と言われれば、怒りますよね。怪我でもして体が不自由になれば続けられないかも知れない。だから先を見据えて、お金を持っている女の人と結婚すればいいのに。そう言われて、納得できますか? 結婚指輪をされているようですが、そういった理由で結婚されましたか?」
漫画を描いて食べていくことがどれだけ不安定かなんて、当の結愛が一番自覚しているはずだ。部外者でしかない雪季でさえ、少し注意すれば出版業界の不況も、若年層の漫画離れも耳にする。印税だけで豪邸を立てられるような景気のいい話など滅多に聞かない。
それでも選び続けているものを、正論で揺さぶられて全く堪えないはずがない。
今にも殴り掛かって来そうな男を、雪季は静かに見つめる。どうにか自制できているのは、雪季が言った内容を理解しているからというよりは、声を荒げるでも暴れるわけでもない相手に一方的に暴力をふるうわけにはいかないとの考えがあるからだろう。
結愛と話していて、何度も聞いた。「悪い人ではない」のだ。
「同じことを言ったんですよ、あなたは。大学の費用も、ここの家賃も、結愛は自分で払っています。漫画を描いて。しっかりと自立して生活している人に対して、そんなものあてにならないから見知らぬ誰かに面倒を見てもらえと、言ったんですよ。結愛に対しても見合いをさせるつもりだった男性に対しても、失礼なことではありませんか」
一時、結婚というのはそういった制度だっただろう。身を寄せ合って生きていくための、生活の手段。幸福な組み合わせも不幸な組み合わせもあっただろうが、ある程度うまく機能していた制度。
しかし、そんなものは完璧でも絶対でもない。
「…帰って。無理にお見合いさせたって、ちぃ兄たちの顔に泥塗るだけになるよ。私、大人しく座って笑ってたりしないよ」
静かな結愛の言葉に、男は何か言いたげな顔をして、言えずに目をつぶる。
「俺は…ただ、お前には幸せになってほしくて…」
「知ってる。でも、ちぃ兄が言うそこに私の幸せはないよ。気持ちは嬉しいけど、必要ない。ありがとう、ごめんね」
「っ」
雪季も結愛も座ったまま、玄関の扉が閉まって、足音が聞こえなくなるまでそこにいた。
きっと、と、雪季は思う。高校の時に呼び出されたあれも、彼なりに結愛を想ってのことだったのだろう。彼自身、一歳しか離れていない突然できた妹に戸惑い、それでも大事にしようとはしていたのだろうから。幸せを想う気持ちに嘘はなくとも、それが幸せにつながるとは限らないという、ただそれだけのことで。
「すみません早退させてください」
驚いた声や止めるようなものが聞こえたが、雪季は振り切るように駆け出していた。
* * *
「真柴っ」
扉を開け放つと、男が待ち構えていた。
雪季や結愛と同年代、身長は雪季よりは高いが、英よりは少し低いくらいか。肩幅が広く、体には厚みがある。武闘家とは言わずとも、それなりに体力を使う日々を過ごしていそうだ。
正面から組み合うには雪季は体格分不利だが――と攻略法を考えかけたところで、ぴょこぴょこと後ろで飛び跳ねる手に気付いた。
「ユキちゃんっ、ごめんっありがとうっ、でもこの人一応身内だからっ撃退してほしいけどしちゃダメっ」
どうも、男の後ろで跳ねながら喋っているようだ。舌を噛まないかと心配になる。
そして冷静になれば、うっすらと見覚えのある顔だった。お互いによく知っているわけではないが、一度、こうやって顔を突き合わせたことがある。もう、十年以上も前のことだ。
「ちぃ兄どいてっ、もういいでしょ帰って!」
「駄目だ。こいつがどういうつもりでお前と付き合ってるのかわかったものじゃない」
「だからっ、私ユキちゃんと付き合ってるからお見合いなんてする気ないからっ!」
「…とりあえず、入って、扉閉めていいか?」
玄関先で言い合って、何もかも周囲にぶちまけていると気付いているのだろうか、このきょうだいは。
平日の昼間だから不在の住人も多いだろうが、後で妙な噂が広がりかねない。ただでさえ、ストーカー騒ぎがあったせいで結愛はこの近辺ではやや有名になってしまっているというのに。
「上がって! ちぃ兄じゃまっどいてっ」
おそらく背後から服を引っ張っているのだろう結愛に気を取られている隙に、さっさと狭い靴脱ぎに入り込んで靴を脱ぎ捨て上がり込む。ドアも鍵もしっかりと閉めて、半身を背後の結愛に向けかけていた男の脇を抜けた。
そのまま、結愛の腕を取って仕事に使っている部屋へと足を運ぶ。男が、慌てたように声をあげて追いかけて来た。
「どういう状況だ?」
「ユキちゃんっ」
真正面から抱き付かれて、内心、のけぞる。
身長差があるから鎖骨のあたりに結愛の額が当たった。普段あまりこういった接触はないだけに、必死さは伝わる。泣いているのか、服が湿る気配もあった。
やや躊躇いつつも、手を背に回してなだめるように軽くさする。そっと、結愛の耳元に口を寄せた。
「名前で呼んだ方がいいか?」
囁きに強い頷きが返されて、抱き付いたままなのでシャツの生地が引っ張られる。スーツのボタンを閉めていなくて良かった、と思った雪季は、混乱しているのかいつも通りなのか、自分の思考をはかり損ねる。
「離れろ」
思い切り険を含んだ声に、肩をつかまれた。そのまま引っ張られると結愛がくっついたままでバランスを崩しそうなので、肩を後方に捻って力を流す。
そうして、結愛の背を軽く叩く。
「結愛。もう、大丈夫だから。座って」
「…うん」
いつものローテーブルの前に腰を落とした結愛の隣に、雪季も座る。やや間を置いて、テーブルを挟んだ正面に、男も腰を下ろした。
結愛は、命綱をつかむように雪季の腕にしがみつく。
「…中原雪季と申します。結愛の、下のお兄さんですね? ご無沙汰しています」
「は? …ああっ! お前!」
せっかく座ったのに立ち上がる。テーブルをひっかけそうだったので、雪季が素早く自分たちの側に引いた。
人を指さしてはいけませんとは習わなかったのだろうかと、やや疲れた思いで心中で呟いてみる。そう長い時間話したわけではないが、そういえばこんな人だったような気がする。良く言って直情。悪く言えば単純。
高二の夏休み手前に、結愛の件で呼び出されたことがある。結愛は今も知らないままだろう。
「…ちぃ兄、ユキちゃんを知ってるの? なんで?」
「え。あ。それは…よくつるんでただろ、お前ら。たまたま目に入っただけだ」
苦しい言い訳だな、と思うが黙っておく。あの時は、結愛と付き合っているのかと問い質されたのだった。おそらく、今も似たような状況になっているのだろうと、雪季は溜息を呑み込んだ。
いや、あのときとは逆なのか。先ほど、結愛は見合いと言っていた。
「知ってるなら。わかったでしょ、私たちずっと付き合ってるの。知らない人とお見合いなんてするだけ無駄なの」
「…中原君。仕事は何をしてるんだ。こんな平日に駆け付けられるなんて、」
「ちぃ兄だってこんな平日にここにいるじゃない!」
「俺は今日休みなんだよ! 知ってるのに混ぜっ返すな!」
男の大声に、びくりと、結愛が身をすくめた。雪季の腕に縋りつくように体を密着させているせいで、それほど大きなものではなくても判った。
そっと、雪季の腕を力一杯につかんでいる結愛の指に触れる。こんな事で傷めたら、漫画を描く時に困るだろうに。
「小さな人材会社の、社長秘書をしています。上司の許可さえあれば、多少は融通の利く職場です」
「…結愛とのことは。どう考えてるんだ」
また、結愛が身を強張らせるのがわかった。
家族になりたいと言ってくれた結愛に、ちゃんと返事をしていなかったことを思い出す。直接会って話そうと思っているとなかなか機会がなく、そのままになっていた。
今ここで何を言っても、結愛は庇うためについた嘘だと取るだろう。それでも、これほどに竦むのかと、雪季はほろ苦い気持ちを持て余す。それは結局は、信用していないということではないのだろうか。
「俺にとって結愛は、何よりも大切な人です。二人で一緒に考えていきます」
「――っ」
「結愛に見合い話が来ているなら、断ってください。渡すつもりはありませんし、結愛も嫌がっています」
「嫌がってるったって…お前に、気を使ってるだけってことだって…」
「普段、仕事をしている時間帯に呼び出すことなんてありません。その上で、これだけあなたを警戒しています。それでも、ちょっとした気遣いだと?」
結愛には、両親と兄が二人、弟が一人いる。ただ、小学校の半ばくらいまでは、母親との二人きりだった。父と兄二人ができて、弟が生まれて。
中学生だった結愛が漫画の原稿を学校に持って来ていたのは、家では描く場所も安心して置いておける場所もなかったからだった。
家族仲が悪いわけではない。義父を父と呼ぶことにも、血のつながりのない義兄二人を兄と呼ぶことにも、抵抗はないのだという。一回り近く年下の弟もかわいいと言う。
それでも、何かと結愛の優先事項と家族の「常識」はぶつかり合う。
結愛は高校入学に前後して漫画家としてデビューしていて、高二の夏休みをほぼ丸々説得に費やし、三学期からずっと一人暮らしをしている。家族のいる実家に帰らないわけではないが、日々を暮らしているのはこの部屋だ。
「ねえ。私、何回も言ったよね。お見合いなんてしないって。必要ないって。どうして聞いてくれないの」
雪季の腕をつかんだまま、顔も上げず、いつもよりも低い声を押し出す。男は、やや気づかわし気に結愛を見遣る。それでも、気付きはしない。
「だって…大学出ても、漫画ばっかり描いてて。こんな事、いつまで続けられるかもわからないだろ? それなら、せめてちゃんと結婚して…」
「だから!」
「出ましょう。これ以上そういったことを言うつもりなら、俺が聞きます。結愛に聞かせる必要はない」
「は? そういったことってなんだよ」
本当にわかっていないのだと、「常識」の差にいっそ驚く。むしろ、真柴家の中では結愛が異端だったのだろう。
無理やり言葉を呑み込ませた結愛の強張った指になだめるように自分の手を重ねて、雪季は男を見据えた。ずっとつかまれている腕の感覚がいささか怪しい。
「先ほど今日はお休みと言われていましたが、ご職業は?」
「なんで言う必要があるんだ」
「俺には訊きましたよね?」
「…整備士。車の」
「いい年をして機械いじりばかりして」
「なっ」
「と言われれば、怒りますよね。怪我でもして体が不自由になれば続けられないかも知れない。だから先を見据えて、お金を持っている女の人と結婚すればいいのに。そう言われて、納得できますか? 結婚指輪をされているようですが、そういった理由で結婚されましたか?」
漫画を描いて食べていくことがどれだけ不安定かなんて、当の結愛が一番自覚しているはずだ。部外者でしかない雪季でさえ、少し注意すれば出版業界の不況も、若年層の漫画離れも耳にする。印税だけで豪邸を立てられるような景気のいい話など滅多に聞かない。
それでも選び続けているものを、正論で揺さぶられて全く堪えないはずがない。
今にも殴り掛かって来そうな男を、雪季は静かに見つめる。どうにか自制できているのは、雪季が言った内容を理解しているからというよりは、声を荒げるでも暴れるわけでもない相手に一方的に暴力をふるうわけにはいかないとの考えがあるからだろう。
結愛と話していて、何度も聞いた。「悪い人ではない」のだ。
「同じことを言ったんですよ、あなたは。大学の費用も、ここの家賃も、結愛は自分で払っています。漫画を描いて。しっかりと自立して生活している人に対して、そんなものあてにならないから見知らぬ誰かに面倒を見てもらえと、言ったんですよ。結愛に対しても見合いをさせるつもりだった男性に対しても、失礼なことではありませんか」
一時、結婚というのはそういった制度だっただろう。身を寄せ合って生きていくための、生活の手段。幸福な組み合わせも不幸な組み合わせもあっただろうが、ある程度うまく機能していた制度。
しかし、そんなものは完璧でも絶対でもない。
「…帰って。無理にお見合いさせたって、ちぃ兄たちの顔に泥塗るだけになるよ。私、大人しく座って笑ってたりしないよ」
静かな結愛の言葉に、男は何か言いたげな顔をして、言えずに目をつぶる。
「俺は…ただ、お前には幸せになってほしくて…」
「知ってる。でも、ちぃ兄が言うそこに私の幸せはないよ。気持ちは嬉しいけど、必要ない。ありがとう、ごめんね」
「っ」
雪季も結愛も座ったまま、玄関の扉が閉まって、足音が聞こえなくなるまでそこにいた。
きっと、と、雪季は思う。高校の時に呼び出されたあれも、彼なりに結愛を想ってのことだったのだろう。彼自身、一歳しか離れていない突然できた妹に戸惑い、それでも大事にしようとはしていたのだろうから。幸せを想う気持ちに嘘はなくとも、それが幸せにつながるとは限らないという、ただそれだけのことで。
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