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結婚
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平日日中の穏やかなざわめきをしばらく聞いてから、ようやく結愛が雪季の腕から手を放し、青ざめた。
「ユキちゃん…ごめんなんかこれ凄く痣にっていうか…血出てない?!」
「ああ、ちょっと爪が食い込んでた。絆創膏あるか?」
「ごめん、ごめん! ほんっとにごめん!」
常備されている薬箱を丸ごと抱えて来ると、上着を脱いでシャツの袖をまくった雪季の腕を、泣き出しそうな顔で見つめる。確かに多少血はにじんでいるが、服について汚れることさえ気にしなければ大したものでもない。
真剣な表情で絆創膏を貼る結愛の頭を、雪季は気付けば撫でていた。
「…お疲れさま」
「…ユキちゃん。ごめん。ほんとにごめん。こんな事巻き込んで。嘘までつかせて」
「どうせ嘘をつくなら、もっと上手くやればよかったな。結婚を前提に付き合ってますって言えば安心しただろうし」
「ごめん」
必死にこらえているのだろうが、うつむいた結愛の声は涙に濡れている。雪季は撫でる手を止めて、結愛の背に移した。そのまま、小さな体を抱き寄せる。一度湿ったシャツが、また濡れる。
「呼んでくれてよかった。あれに一人で対抗するのは難しいだろ。身内だから余計に。充分頑張った」
結愛の暖かな体温を感じて、雪季は少し、笑みをこぼす。結愛にはきっと、気付かれていないだろう。
「知らないだろう。お前が俺にとって、何よりも大切だって。あの時お前に出会えたのは、ちょっとした奇跡だったって。あの漫画を読ませてくれて、頼ってくれて、色々と話もして。それがどれだけ俺を助けてくれたか、気付いてもなかっただろう?」
ずっと、言うつもりはなかった。
結愛が救ってくれたのだと。中学のあの三年間でさえ十分だったのに、ただ一人漫画の話ができるというだけの立ち位置が終われば切れると思っていた縁をつないでくれたことを、どれだけ感謝しても足りないのだと。
ひっそりと抱えておくつもりだったその想いを、だが、伝えた方がいいのだろう。どうすれば伝わるのかはわからないが。
「真柴のことが大切だよ。俺自身よりも、ずっと」
「…ユキちゃん、それは駄目なやつだよ」
抱き付いたまま、結愛は顔を上げた。あまりに近い位置にある結愛の顔に、雪季はやや身を引いてしまう。
「ユキちゃんのことはちゃんとユキちゃんが大切にしないと駄目だよ。そういうのは、私をかばってユキちゃんが死んじゃうとかになっちゃうから駄目だよ」
「真柴…漫画じゃないからな?」
「わかってますー。そんなこと混同しません。でもユキちゃん、そういうとこあるよね。漫画のキャラクター地で行っちゃいそうなとこ。実は裏で世界のために戦ってたり殺し屋やってたりとかしない?」
「…ない」
本当に、どれだけ見抜いているのだろうと雪季は密かに冷や汗をかく。殺し屋だったと知った時、結愛はどんな顔をするだろう。ちらりと脳裏をかすめた考えを、慌てて打ち消す。決して、知られてはならない。
結愛は、一度雪季を軽く抱きしめると、体を離した。涙の痕をこすりそうになって止める。それでは腫れる元になってしまうので、顔を洗った方がまだいい。
素直に頷いて洗面所に去った結愛を見送り、雪季は頭を抱えた。一体何をどうすれば。
「改めて。本当に、ごめんなさい。ありがとう」
顔を洗ってさっぱりとした結愛は、正座して深々と頭を下げた。すぐに顔を上げさせる。
「…言いすぎてないか、俺」
「あのくらい言わないと引いてくれないよ。ちぃ兄、今子ども二人いてね。幸せなのはいいんだけどだからって私までどうこうしようとするのはやめてほしいよ。お父さんやお母さんも、いいぞもっとやれとか思ってるし。この間もご飯に誘われて行ったら、明らかに合コンって言うか顔合わせみたいな感じだったし。大兄はちょっとわかんないけど。今、味方なのケイちゃんだけなんだよ」
「弟、今何歳だっけ?」
「中学生。写真部入って、がんがん写真送ってくれるから助かる。学校の資料とかほんと貴重」
このまま雑談に突入してしまいそうで、それはそれでいいような逃げる気持ちも湧いて来て、雪季が迷っていると携帯端末が震えた。見れば、会社からだ。
「ごめん、ちょっと電話」
まだ通話ボタンを押してもいないのに、結愛は、口を塞いでこくこくと頷いた。苦笑して、とりあえずキッチンのあたりへと移動する。
ついでに時間を確認すると、そろそろ会社に来客の来る時間だった。英をはじめ、社員が出向く方が多いので珍しい。
そこまで今日の予定を思い返して、まさかまた英が失踪しているのかと、ここまで追いかけてきていないかと急いで通話ボタンを押す。
「はい中原――」
『李さんの好物って何だった?!』
今日の来客の名を、笹倉がやや焦った声で口にする。虚を突かれた雪季は、数瞬言葉が出なかった。
『ユーハイムのっていうのしかメモ取ってなくて、バームクーヘン買ってたけど社長が違うって』
神戸に住んでいるという李さん。一度、雪季も会ったことがある。どうしてだったか、甘いものの話にもなった。
「フランクフルタークランツです、輪っかになったバタークリームの」
『ああ! わかった、ありがとう!』
今から買いに行くのか、すぐに切られてしまった。呆気に取られながらも、とりあえず英は社内にいるようで安堵する。
いきなり会社を飛び出てしまって、責められなかったのはそれだけの余裕がなかったのか。今更何ができるでもないが、怒られるためだけでも、一旦戻ろう。
「真柴、そろそろ帰る。…帰って、大丈夫か?」
「あ。うん。もう、大丈夫。ごめんね仕事中に」
「いや、これからも何かあれば呼んでほしい。この間、家族になりたいって言ってくれて嬉しかった。まだ籍は入れられないけど、本当に、嬉しかった」
脱いだ上着とかばんを手に、ついでのように聞こえないかとやや心配しながら言うと、結愛は大きく目を見開いた。そうして、ゆっくりと笑みを浮かべる。
「まだ、ってことはいつかはって期待していいの?」
「え」
脱いだ上着とかばんを拾いかけた姿勢のまま、そんなことを言ったかと硬直する。結愛は、そんな雪季に悪戯っぽく笑いかける。
「また訊くから、気が変わったら言ってね? そのうち、ユキちゃんに好きな人ができたり私も誰かを好きになるかも知れないけど、それまではずっと訊き続けるからね。それこそ、五十歳とか六十歳とかになっても」
「気の長い話だな」
「その時まで、こうやっていられたらいいね」
「…そうだな」
玄関先まで見送りに来て、そこで、あ、と結愛は声を上げた。
「ユキちゃん」
「うん?」
「さっきまでのあれは、本当に迷惑かけて悪いって思ってるし物凄く感謝もしてるんだけど、でもそれはそれとして! …あれ、いつか漫画に使ってもいい…?」
こういう奴だったなと、雪季は心の中で頷いた。
結愛が大学生だった頃に、男の子と付き合ってるんだよーと話を聞いたことがある。ただ、デートの約束をしていたのに思いついたネタを描き留めていたらいつの間にか夜になって着信がいくつも残っていたり、お茶をしていたら隣のカップルの会話が気になって完全に上の空になったりで、ことごとく去られてしまったらしいが。
雪季がしみじみとしながら実際に頷くと、喜んで両手を挙げ、少しして腕組みをした。
「少女漫画なら、あのあとベッドインするかキスまではいくんだけどね」
「…俺たちでそうなると思うか?」
「うーん。何が足りないんだろうね」
真面目に首を捻る結愛を置いて、雪季は部屋を後にした。
正直なところ、結愛に――というよりも案外女性らしいその体つきに、全く劣情を抱かないでもないので、そこまで信頼されるとつらいものがあるのだが。
「ユキちゃん…ごめんなんかこれ凄く痣にっていうか…血出てない?!」
「ああ、ちょっと爪が食い込んでた。絆創膏あるか?」
「ごめん、ごめん! ほんっとにごめん!」
常備されている薬箱を丸ごと抱えて来ると、上着を脱いでシャツの袖をまくった雪季の腕を、泣き出しそうな顔で見つめる。確かに多少血はにじんでいるが、服について汚れることさえ気にしなければ大したものでもない。
真剣な表情で絆創膏を貼る結愛の頭を、雪季は気付けば撫でていた。
「…お疲れさま」
「…ユキちゃん。ごめん。ほんとにごめん。こんな事巻き込んで。嘘までつかせて」
「どうせ嘘をつくなら、もっと上手くやればよかったな。結婚を前提に付き合ってますって言えば安心しただろうし」
「ごめん」
必死にこらえているのだろうが、うつむいた結愛の声は涙に濡れている。雪季は撫でる手を止めて、結愛の背に移した。そのまま、小さな体を抱き寄せる。一度湿ったシャツが、また濡れる。
「呼んでくれてよかった。あれに一人で対抗するのは難しいだろ。身内だから余計に。充分頑張った」
結愛の暖かな体温を感じて、雪季は少し、笑みをこぼす。結愛にはきっと、気付かれていないだろう。
「知らないだろう。お前が俺にとって、何よりも大切だって。あの時お前に出会えたのは、ちょっとした奇跡だったって。あの漫画を読ませてくれて、頼ってくれて、色々と話もして。それがどれだけ俺を助けてくれたか、気付いてもなかっただろう?」
ずっと、言うつもりはなかった。
結愛が救ってくれたのだと。中学のあの三年間でさえ十分だったのに、ただ一人漫画の話ができるというだけの立ち位置が終われば切れると思っていた縁をつないでくれたことを、どれだけ感謝しても足りないのだと。
ひっそりと抱えておくつもりだったその想いを、だが、伝えた方がいいのだろう。どうすれば伝わるのかはわからないが。
「真柴のことが大切だよ。俺自身よりも、ずっと」
「…ユキちゃん、それは駄目なやつだよ」
抱き付いたまま、結愛は顔を上げた。あまりに近い位置にある結愛の顔に、雪季はやや身を引いてしまう。
「ユキちゃんのことはちゃんとユキちゃんが大切にしないと駄目だよ。そういうのは、私をかばってユキちゃんが死んじゃうとかになっちゃうから駄目だよ」
「真柴…漫画じゃないからな?」
「わかってますー。そんなこと混同しません。でもユキちゃん、そういうとこあるよね。漫画のキャラクター地で行っちゃいそうなとこ。実は裏で世界のために戦ってたり殺し屋やってたりとかしない?」
「…ない」
本当に、どれだけ見抜いているのだろうと雪季は密かに冷や汗をかく。殺し屋だったと知った時、結愛はどんな顔をするだろう。ちらりと脳裏をかすめた考えを、慌てて打ち消す。決して、知られてはならない。
結愛は、一度雪季を軽く抱きしめると、体を離した。涙の痕をこすりそうになって止める。それでは腫れる元になってしまうので、顔を洗った方がまだいい。
素直に頷いて洗面所に去った結愛を見送り、雪季は頭を抱えた。一体何をどうすれば。
「改めて。本当に、ごめんなさい。ありがとう」
顔を洗ってさっぱりとした結愛は、正座して深々と頭を下げた。すぐに顔を上げさせる。
「…言いすぎてないか、俺」
「あのくらい言わないと引いてくれないよ。ちぃ兄、今子ども二人いてね。幸せなのはいいんだけどだからって私までどうこうしようとするのはやめてほしいよ。お父さんやお母さんも、いいぞもっとやれとか思ってるし。この間もご飯に誘われて行ったら、明らかに合コンって言うか顔合わせみたいな感じだったし。大兄はちょっとわかんないけど。今、味方なのケイちゃんだけなんだよ」
「弟、今何歳だっけ?」
「中学生。写真部入って、がんがん写真送ってくれるから助かる。学校の資料とかほんと貴重」
このまま雑談に突入してしまいそうで、それはそれでいいような逃げる気持ちも湧いて来て、雪季が迷っていると携帯端末が震えた。見れば、会社からだ。
「ごめん、ちょっと電話」
まだ通話ボタンを押してもいないのに、結愛は、口を塞いでこくこくと頷いた。苦笑して、とりあえずキッチンのあたりへと移動する。
ついでに時間を確認すると、そろそろ会社に来客の来る時間だった。英をはじめ、社員が出向く方が多いので珍しい。
そこまで今日の予定を思い返して、まさかまた英が失踪しているのかと、ここまで追いかけてきていないかと急いで通話ボタンを押す。
「はい中原――」
『李さんの好物って何だった?!』
今日の来客の名を、笹倉がやや焦った声で口にする。虚を突かれた雪季は、数瞬言葉が出なかった。
『ユーハイムのっていうのしかメモ取ってなくて、バームクーヘン買ってたけど社長が違うって』
神戸に住んでいるという李さん。一度、雪季も会ったことがある。どうしてだったか、甘いものの話にもなった。
「フランクフルタークランツです、輪っかになったバタークリームの」
『ああ! わかった、ありがとう!』
今から買いに行くのか、すぐに切られてしまった。呆気に取られながらも、とりあえず英は社内にいるようで安堵する。
いきなり会社を飛び出てしまって、責められなかったのはそれだけの余裕がなかったのか。今更何ができるでもないが、怒られるためだけでも、一旦戻ろう。
「真柴、そろそろ帰る。…帰って、大丈夫か?」
「あ。うん。もう、大丈夫。ごめんね仕事中に」
「いや、これからも何かあれば呼んでほしい。この間、家族になりたいって言ってくれて嬉しかった。まだ籍は入れられないけど、本当に、嬉しかった」
脱いだ上着とかばんを手に、ついでのように聞こえないかとやや心配しながら言うと、結愛は大きく目を見開いた。そうして、ゆっくりと笑みを浮かべる。
「まだ、ってことはいつかはって期待していいの?」
「え」
脱いだ上着とかばんを拾いかけた姿勢のまま、そんなことを言ったかと硬直する。結愛は、そんな雪季に悪戯っぽく笑いかける。
「また訊くから、気が変わったら言ってね? そのうち、ユキちゃんに好きな人ができたり私も誰かを好きになるかも知れないけど、それまではずっと訊き続けるからね。それこそ、五十歳とか六十歳とかになっても」
「気の長い話だな」
「その時まで、こうやっていられたらいいね」
「…そうだな」
玄関先まで見送りに来て、そこで、あ、と結愛は声を上げた。
「ユキちゃん」
「うん?」
「さっきまでのあれは、本当に迷惑かけて悪いって思ってるし物凄く感謝もしてるんだけど、でもそれはそれとして! …あれ、いつか漫画に使ってもいい…?」
こういう奴だったなと、雪季は心の中で頷いた。
結愛が大学生だった頃に、男の子と付き合ってるんだよーと話を聞いたことがある。ただ、デートの約束をしていたのに思いついたネタを描き留めていたらいつの間にか夜になって着信がいくつも残っていたり、お茶をしていたら隣のカップルの会話が気になって完全に上の空になったりで、ことごとく去られてしまったらしいが。
雪季がしみじみとしながら実際に頷くと、喜んで両手を挙げ、少しして腕組みをした。
「少女漫画なら、あのあとベッドインするかキスまではいくんだけどね」
「…俺たちでそうなると思うか?」
「うーん。何が足りないんだろうね」
真面目に首を捻る結愛を置いて、雪季は部屋を後にした。
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