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風邪
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「――はい、休み明けからは通常通りで」
『雪季君もうつらないように気を付けて。社長だけ元気に出社してきたら、また中原君の胃が痛むから』
「…それ、どんな脅しですか…?」
『脅しじゃなくて事実よ』
笹倉にきっぱりと言い切られ、雪季は頭を掻いた。
以前雪季が一週間ほど入院していた間は他の社員が分担して英の補佐をしていたようだが、機嫌が悪かったこともあって色々と大変だったらしい。取り分け、素直すぎる中原とは相性が悪いようで、中原が一方的に被害を被っている。
さんざん重ねた謝罪の言葉はもう呆れられてしまっているので呑み込んで、雪季は、いくらかよろめきながら部屋を出た英の姿を視界の端に捉えた。トイレに行くのだろう。
『ごめんね、雪季君に全部任せちゃって。会社にも来てるのに。でも、明日は李さんとの会談が終わったら帰ってもらって大丈夫だし、体調戻させることだけに専念してね』
「…俺、ホームドクターとかじゃないんですけど」
『わかってるけど、今のところ君の言うことを一番聞くでしょ。よろしくね』
通話を終え、雪季は深々と息を吐いた。果たして、これも信頼と言えるのか。
流行が終わった後のインフルエンザを拾った英は、ようやく熱も下がったところだ。それでも周囲へのばらまきを恐れて、週末が絡むこともあって今日を入れて五日間は丸々の休日と決まった。
明日には平熱に戻っていそうだから、英は退屈がるかも知れない。
昨日は病院に行き引き返して英を寝かせ、その間会社の面々と連絡を取り続けて英のスケジュールを調整し、調整しきれなかった分のサポートのために出社し、今日は今日で変更できなかった予定の顔つなぎのために四十万や三浦が対応するのに同席し。明日は二件ほど済ませたら、あとはむしろ連絡係のために英を見張っていてほしいと言われてしまった。
結局、社員たちにとってもお目付け役という認識なのかもしれない。
「…みず」
「生姜湯でも作るか?」
「うん」
「布団に戻ってろ」
英はのろりと頷いて、トイレとキッチンに近い一部屋に敷いた布団に潜り込む。
ワクチンを打っていたにも拘らず発症した上にかなりの高熱を出したせいか、消耗して、やたらと素直だ。それが不気味だ、と言うのはさすがに悪いだろう。
とろみをつけた生姜湯と麦茶を盆に載せ、スポーツドリンクのペットボトルも追加する。
「ふろ入りたい…からだがべとべとしてきもちわるい…」
「熱は?」
「だいぶん下がった」
数値を言わないので体温計を見ると、リセットされている。
そうしたところで、商談中に話の流れでもらった非接触式の体温計は二秒もあれば計れるので、有無を言わさずスイッチを入れる。
「まだ高めではあるが…それ飲んでからにしとけ」
「んー」
「また倒れるなよ」
「だいじょうぶだってー」
「…体調悪いの隠して風呂場でひっくり返ってた奴に言われてもな」
夜中に派手な音がして駆け付けてみれば、浴槽から出たところで足がもつれたのか、英が倒れていた。
酔っているのかと思ったが起き上がる様子もなく、頭でも打ったかと触れて、湯上りとはいえさすがに熱すぎるのと意識が半ば朦朧としていることで熱があると気付いた。
朝を待って病院に叩き込むと、見事にインフルエンザとの判定。
もっと早い段階で体調不良の自覚はあったのだろうから寝込むのも自業自得とも言えるが、半月ほど前に雪季が退院したばかりなので、そこを気にしていたとすれば雪季にも責任の一端はある。
ふと気づくと、英がこちらを見ていた。
「…なんだ」
「これって、しょうが湯だったんだーって」
「は?」
「むかし。つくってもらったことがあって」
熱のせいか、言葉が少したどたどしい。頬が上気していて目も潤んでいるせいか、妙に子どものようで不思議な気分になる。いつもはあれだけ喰えない感じがあるというのに。
ぼんやりとした英の言葉は、具体的な昔語りだった。
小学一年生の時に、おたふくかぜの高熱で身動きが取れなくなったことがあったのだと言う。母親はその時点で二日ほど帰宅しておらず、無断欠席で保護者とも連絡の取れなかったために教師が訪れて病院に運び込まれた。
「センセーがおみまいにつくってくれて」
先生、と英は言ったが、訪れた担任教師とは別人だという。
彼女は、当時英たちの住んでいたアパートの大家で、自身も一階に住んでいた元教諭。
入居時から英のことを気にかけていたようで、半ば義務と何かあった時の建前のために訪れた担任教師を引き止め、大家権限で部屋の鍵を開けたのも彼女だった。
以来、何かと英やその母親に声をかけるようになった。ただ、母は煙たがったため、すぐにその目を盗んでの交流になったが。
そうして、英は世の中のことを知っていった。
それまでは保育園や幼稚園に通うこともなく、英の世界はほとんど小さな部屋の中だけが全てだった。テレビもラジオも新聞もなく、人が訪れるでもなく、世間のことなど何を知ることもできなかった。検診や予防接種も、無料なのに知らずに忌避されていた。
小学校に通うようになって世界は広がったが関わりようがよくわからずにいたが、「先生」のおかげでいろいろと学べた。
「かんがえたら、あのハハオヤより、ずっと、おやみたいな人だった。ほんとのかぞくとは、うまくいってなかったみたいだけど」
英が中学半ばで「先生」は呆気なく亡くなり、それならもうこの場所にこだわる必要もないかと、英はそれまで母に対していた演技も終えた。
それが父の元へ「捨てられる」原因となったのは、結果さえ見ればよかったことになるのかもしれない。
「センセーにはほんとに助けてもらった。こうやってみかたつくれば、生きていけるんだなって。ひさびさにおもいだした」
熱でうるんだ眼で、ぼんやりと笑う。
そうして、長い話に疲れたのか、気付くと目を閉じていた。すぐに、規則正しい寝息が聞こえてくる。麦茶のグラスは空いていて、生姜湯も半分ほどは英の胃に収まっている。
風呂に入りたがっていたが、わざわざ起こすよりもこのまま寝かせた方がいいだろう。
雪季は、起こさないように空のグラスを手にリビングに引き上げた。
風呂場で倒れている英を見つけたのが一昨日の夜で、そこからずっと高熱に寝込んでいて、元々大食ではないが食欲も乏しい。快復には向かっているようだが、今夜もこの調子を覚悟しておくか、と、雪季は息を吐いた。
この二晩、夜中に起きてトイレにでも立った英がひっくり返ることを警戒して、雪季はリビングのソファーで寝ていた。どこでも眠れるが、元々眠りは浅い上に英の様子を気にかけながらということもあるのであまり寝た気分にはならなかった。
『社長ちゃんと生きてる?』
『言葉の選択』
音を消した携帯端末に葉月からのメッセージが着信し、雪季は額を押さえた。心配してはいるのだろうが、もうちょっと言いようがあるだろうに。
『熱は下がって来てる。予定通り休み明けには出社できると思う』
敬礼したパンダのイラストが返る。
『見舞いに来るつもりがあるなら、明日以降』
『ヤダ。手負いの獣のとこに行きたくない。またね!』
逃げるようにやり取りが終わり、懐いている様子の葉月でこれかと嘆息する。一体、今までに何をやらかして来たのか。
ただ、雪季も人のことは言えない。
弱っているときに他人を近付けたくないと思うのは、半ば本能のようなものだろう。葉月がどこまで理解しているのかはともかく、「手負いの獣」という言葉はあながち間違いではないのかも知れない。
とりあえず夕飯にしようと冷蔵庫を開ける。
定時で帰って来たとはいえ手の込んだものを作る気にもなれず、丼で済ませるかと卵と残り物の小松菜とジャコの炒め物を出す。玉ねぎを薄切りにして火を通し、炒め物とあわせてだしで軽く煮込んで、卵でとじて丼に入れたご飯にかぶせて終わり。
ご飯は、英が食べるかもしれないと昼くらいには炊けるようにセットして出たが、丸々保温状態で残っていた。
それどころか、レトルトのおかゆもゼリーやプリンも手つかずだ。かろうじて、朝作っておいたスープだけが空になっていた。
一人分の汁物を作るのも面倒で、湯を沸かしてインスタントで済ませる。
それだけでは多少食べ足りない気もして、トマトとチーズを切って適当につまむことにした。そうなると酒も飲みたくなるが、ないとは思うが英の体調が悪化して車を出す事態にでもなると困るので諦める。
「いーにおいー」
「起きたか。何か食べるか?」
少し寝ただけでもいくらかすっきりしたのか、それでもやはりいつもと違ってのろりと動く英は、体を重そうに引きずってソファーに倒れ込んだ。
「たべるーけどふろはいってくるー」
「水分」
「ペットボトルのんだ」
「…気を付けて」
色々と怪しいが、意識ははっきりしているようなので見送る。急ぐわけではないが、その間に食事を済ませてしまおうと箸を取る。食べ終えて片付けも終えた後に、それを発見した。
ゴミ箱に、雪季は捨てた覚えのない栄養補助食の空き箱。ゼリー飲料ではなく、ビスケットタイプ。どこに隠していたのか。
何も食べてなかったよりはましか、と息を吐き、とりあえず固形でも大丈夫ということかと考える。
みじん切りの人参と玉ねぎにしっかりと火を通して水と顆粒スープの素を加え、片栗粉でとろみをつけて溶き卵を加えたたまごスープと、鮭の切り身を蒸し焼きにして醤油とみりんを少し足してほぐし、おにぎりの具にする。
「河東。寝てないか、大丈夫か?」
湯船に浸かると実はかなり体力を消耗するのだが、言い忘れていた。湯を溜めるような音はしていなかったと思うが、それならそれで、雪季が食べ終えて調理を終えるまで出て来ないというのは、長すぎる気がする。
踏み込んだ方がいいのかと迷っていると、ようやく返事があった。
「だいじょうぶー」
「…本当か?」
「しんぱいしょう」
風呂の戸が開く音がしたから、とりあえずは大丈夫だろうかと前を離れる。
看病をされたことはあってもした経験がないものだから、過保護になっているのか手を貸し損ねているのかすらよくわからない。されていた間の記憶は色々と曖昧なので、そこを頼ることもできない。
風呂上がりの英は、さっぱりとしたからか、相変わらず潤んではいるが眼もちゃんと焦点を結んでいる。
「おにぎりだ」
ぽつりと落とされた声。何とはなしに英の顔を見ると、一瞬涙かと思った雫が顔を伝っていた。髪が濡れたままだ。
「センセーのおにぎりは、みそぬって、やいて。おやつにって、よく食べたな」
「食う前に髪拭け」
バスタオルを首にかけているのに、何故髪を拭かないのか。言うのとほぼ同時に手が出ていて、首元のタオルを引き上げてマッサージでもするように髪を拭く。
為すがままなのでそのまま水分を取り切って、湿ったタオルを風呂場に戻すついでに毛布をつかんで、食べ始めている英にかける。
「…焼きおにぎりも、できるけど」
「そんなに食べられない」
小ぶりに作った鮭のおにぎりは五つ並んでいて、残ったならそれでもいいと思ったが、既に二つが消えていた。
「コロッケ食べたい」
「は?」
「まえ、つくってくれなかった。じかんかかるからって。あしたはせっきもやすみだろ」
そういえばそんなこともあったような気はするが、雪季はすっかり忘れていた。その後で英も言いはしなかったからお互い様だが、何故今になって思い出したのか。
弱っている胃に、衣が油をたっぷりと吸ったコロッケがいいはずがない。
「やめとけ。プリンでも食べるか?」
「なんでプリン?」
「…色味が似てる」
「ざつだなー。コロッケがいい」
にやにやと笑いながら、あっさりと却下する。冷蔵庫の、ゼリーは日持ちするはずだがプリンの消費期限はいつだったかと覚えてもいないことを考える。
「…明日も仕事だから。終わったら、あとはお前とセットで休みになったけど」
「えーなんでー」
「なんでって…木曾さん、学さん、弟の方。しばらく上海に行くからって挨拶に来られるんだけど、お前がいないならせめてみんなでお迎えしようかって。あとは、李さんの茶飲み相手と」
「李博史」
飲みかけの卵スープの器を叩きつけるように置いて、英は、雪季を睨みつけた。何事かと雪季は目を丸くする。
「それも他のやつらいるんだろうな」
「四十万さんと、李さんの定宿のホテルのティールームで待ち合わせ。何か問題が?」
「あの人がさがしてるのってそこそこ気がきいてあの人なみに立ちまわれるつきびととかじょしゅとかでしみたいなのだろ。ゼッタイ、せっきねらってる」
「…色々足りてない気がする。考えすぎだろ」
気働きには自信がないし、李が雪季と似たような前歴とはいえ、ほとんどが自己流の上に不意打ち勝負だったから徹底しては鍛え上げられていない雪季に対して、李は真っ当な武闘家の中でも名を知られるほどの域だ。
おまけに、年を重ねて最近では神戸と台湾の往復程度に収まっているとはいえ、本来世界規模で動く李に対して、雪季の語学力は全く及ばない。
勉強は続けていて接する機会もあることから何ヵ国語かは単語程度は拾えるようにはなっているが、きちんと聞き取れているわけではないし、喋る方はもっと厳しい。
「いままでになくあいに来るし、おれが寝こんでるって知ってめっちゃアピールしてくるにきまってる」
英の方こそ心配性なのではないか。呆れの混じった視線をどうとったものか、何かぶつぶつと呟いていた英は、いきなり、雪季の手をつかんだ。まだ熱っぽい。
「せっき、うらしゃかいぬけたいヤツとそういうのがほしいのとをむすびつけたらけっこううまくいかないかな!」
「また揉めそうなのを…」
「いーだろだいにのじんせい」
「…とりあえず、完全に熱下がってからにしろ。もっといろいろと考えて調べてからに」
言葉が途中で止まる。雪季の目の前で英が電話をかけた携帯端末は、いやに見覚えがある。シンプルなプラスチックカバーを嵌めただけの、鈍色の機械。
どう考えても雪季の個人端末で、先ほど手をつかんで来たのは注意を逸らすためのフェイクだったと悟る。伸ばそうとした手は英がつかんだままで、まだ発熱中だというのに振り払うのに時間がかかる。
「あ。こんばんはーかとうあきらといいます。はたのみねあきさんですよね? いちどおめにかかっておはなししたいことがあるんですが。あすにでも」
「ばっ…おまっ」
「くわしくはそのときに」
「馬鹿替われ!」
どうにか携帯端末を奪い返すが、もしもの時のためにと師の店の番号の登録を残していたことを後悔する。
店名だから他の居酒屋に紛れると思ったが、英が――おそらくは葉月が、その店名を押さえていないはずがなかった。
『にぎやかだな』
何を言うかも決めないまま耳にあてた携帯端末から聞こえた声に、息をのむ。耳慣れた、もう二度と聞くことはないかと思っていた声。電話越しのせいか、いつもよりもしわがれて聞こえた。
意味もなく、端末を握り直す。
「――ごめん、突然」
『いや。さっきの話は本気か? 酔っ払いのたわごとなら聞き流す』
与えられた選択肢に、迷う。このままなかったことにするか。
いや。思いついてしまった英は、このルートをそのままなり、他のルートを辿るなり、気の済むまで突き進んでしまうだろう。高熱に浮かされていたということで忘れてくれていたらいいが、ここで断ち切った方が面倒になりはしないか。
そんな考えを瞬時にめぐらせ、雪季は溜息を呑み込んだ。
「一度、聞くだけでいいので会ってやってもらえますか」
『わかった。明日でいいのか?』
「…今はインフルエンザに罹ってるから」
店の常連客の顔が脳裏に浮かぶ。裏稼業とは関係があったりなかったりする彼らは、概ね人生の後半に差し掛かっている。
たまに、ふらりと立ち寄って味の良さに定着する大学生やフリーターが混じったりもするが、大体は、インフルエンザどころかただの風邪でもぽっくり逝ってしまいそうな人たちだ。
会う場所に店を選ぶとは限らないが、師がウイルスに感染しただけでも危ない気がする。
『一週間後くらいか』
「時間と場所は指定してくれれば、調整する」
『上手くやってるみたいだな』
「…どうかな」
こぼれてしまった言葉に我に返り、雪季は、事務的に日時を決めた。英が休んだことでスケジュールは色々と変わっているが、今のところは大丈夫なはずだ。一応、変わる場合にはまた連絡すると言って通話を終える。
深々と息を吐き、こんなことになったのは誰のせいだと英を見ると、ローテーブルに突っ伏していた。
『雪季君もうつらないように気を付けて。社長だけ元気に出社してきたら、また中原君の胃が痛むから』
「…それ、どんな脅しですか…?」
『脅しじゃなくて事実よ』
笹倉にきっぱりと言い切られ、雪季は頭を掻いた。
以前雪季が一週間ほど入院していた間は他の社員が分担して英の補佐をしていたようだが、機嫌が悪かったこともあって色々と大変だったらしい。取り分け、素直すぎる中原とは相性が悪いようで、中原が一方的に被害を被っている。
さんざん重ねた謝罪の言葉はもう呆れられてしまっているので呑み込んで、雪季は、いくらかよろめきながら部屋を出た英の姿を視界の端に捉えた。トイレに行くのだろう。
『ごめんね、雪季君に全部任せちゃって。会社にも来てるのに。でも、明日は李さんとの会談が終わったら帰ってもらって大丈夫だし、体調戻させることだけに専念してね』
「…俺、ホームドクターとかじゃないんですけど」
『わかってるけど、今のところ君の言うことを一番聞くでしょ。よろしくね』
通話を終え、雪季は深々と息を吐いた。果たして、これも信頼と言えるのか。
流行が終わった後のインフルエンザを拾った英は、ようやく熱も下がったところだ。それでも周囲へのばらまきを恐れて、週末が絡むこともあって今日を入れて五日間は丸々の休日と決まった。
明日には平熱に戻っていそうだから、英は退屈がるかも知れない。
昨日は病院に行き引き返して英を寝かせ、その間会社の面々と連絡を取り続けて英のスケジュールを調整し、調整しきれなかった分のサポートのために出社し、今日は今日で変更できなかった予定の顔つなぎのために四十万や三浦が対応するのに同席し。明日は二件ほど済ませたら、あとはむしろ連絡係のために英を見張っていてほしいと言われてしまった。
結局、社員たちにとってもお目付け役という認識なのかもしれない。
「…みず」
「生姜湯でも作るか?」
「うん」
「布団に戻ってろ」
英はのろりと頷いて、トイレとキッチンに近い一部屋に敷いた布団に潜り込む。
ワクチンを打っていたにも拘らず発症した上にかなりの高熱を出したせいか、消耗して、やたらと素直だ。それが不気味だ、と言うのはさすがに悪いだろう。
とろみをつけた生姜湯と麦茶を盆に載せ、スポーツドリンクのペットボトルも追加する。
「ふろ入りたい…からだがべとべとしてきもちわるい…」
「熱は?」
「だいぶん下がった」
数値を言わないので体温計を見ると、リセットされている。
そうしたところで、商談中に話の流れでもらった非接触式の体温計は二秒もあれば計れるので、有無を言わさずスイッチを入れる。
「まだ高めではあるが…それ飲んでからにしとけ」
「んー」
「また倒れるなよ」
「だいじょうぶだってー」
「…体調悪いの隠して風呂場でひっくり返ってた奴に言われてもな」
夜中に派手な音がして駆け付けてみれば、浴槽から出たところで足がもつれたのか、英が倒れていた。
酔っているのかと思ったが起き上がる様子もなく、頭でも打ったかと触れて、湯上りとはいえさすがに熱すぎるのと意識が半ば朦朧としていることで熱があると気付いた。
朝を待って病院に叩き込むと、見事にインフルエンザとの判定。
もっと早い段階で体調不良の自覚はあったのだろうから寝込むのも自業自得とも言えるが、半月ほど前に雪季が退院したばかりなので、そこを気にしていたとすれば雪季にも責任の一端はある。
ふと気づくと、英がこちらを見ていた。
「…なんだ」
「これって、しょうが湯だったんだーって」
「は?」
「むかし。つくってもらったことがあって」
熱のせいか、言葉が少したどたどしい。頬が上気していて目も潤んでいるせいか、妙に子どものようで不思議な気分になる。いつもはあれだけ喰えない感じがあるというのに。
ぼんやりとした英の言葉は、具体的な昔語りだった。
小学一年生の時に、おたふくかぜの高熱で身動きが取れなくなったことがあったのだと言う。母親はその時点で二日ほど帰宅しておらず、無断欠席で保護者とも連絡の取れなかったために教師が訪れて病院に運び込まれた。
「センセーがおみまいにつくってくれて」
先生、と英は言ったが、訪れた担任教師とは別人だという。
彼女は、当時英たちの住んでいたアパートの大家で、自身も一階に住んでいた元教諭。
入居時から英のことを気にかけていたようで、半ば義務と何かあった時の建前のために訪れた担任教師を引き止め、大家権限で部屋の鍵を開けたのも彼女だった。
以来、何かと英やその母親に声をかけるようになった。ただ、母は煙たがったため、すぐにその目を盗んでの交流になったが。
そうして、英は世の中のことを知っていった。
それまでは保育園や幼稚園に通うこともなく、英の世界はほとんど小さな部屋の中だけが全てだった。テレビもラジオも新聞もなく、人が訪れるでもなく、世間のことなど何を知ることもできなかった。検診や予防接種も、無料なのに知らずに忌避されていた。
小学校に通うようになって世界は広がったが関わりようがよくわからずにいたが、「先生」のおかげでいろいろと学べた。
「かんがえたら、あのハハオヤより、ずっと、おやみたいな人だった。ほんとのかぞくとは、うまくいってなかったみたいだけど」
英が中学半ばで「先生」は呆気なく亡くなり、それならもうこの場所にこだわる必要もないかと、英はそれまで母に対していた演技も終えた。
それが父の元へ「捨てられる」原因となったのは、結果さえ見ればよかったことになるのかもしれない。
「センセーにはほんとに助けてもらった。こうやってみかたつくれば、生きていけるんだなって。ひさびさにおもいだした」
熱でうるんだ眼で、ぼんやりと笑う。
そうして、長い話に疲れたのか、気付くと目を閉じていた。すぐに、規則正しい寝息が聞こえてくる。麦茶のグラスは空いていて、生姜湯も半分ほどは英の胃に収まっている。
風呂に入りたがっていたが、わざわざ起こすよりもこのまま寝かせた方がいいだろう。
雪季は、起こさないように空のグラスを手にリビングに引き上げた。
風呂場で倒れている英を見つけたのが一昨日の夜で、そこからずっと高熱に寝込んでいて、元々大食ではないが食欲も乏しい。快復には向かっているようだが、今夜もこの調子を覚悟しておくか、と、雪季は息を吐いた。
この二晩、夜中に起きてトイレにでも立った英がひっくり返ることを警戒して、雪季はリビングのソファーで寝ていた。どこでも眠れるが、元々眠りは浅い上に英の様子を気にかけながらということもあるのであまり寝た気分にはならなかった。
『社長ちゃんと生きてる?』
『言葉の選択』
音を消した携帯端末に葉月からのメッセージが着信し、雪季は額を押さえた。心配してはいるのだろうが、もうちょっと言いようがあるだろうに。
『熱は下がって来てる。予定通り休み明けには出社できると思う』
敬礼したパンダのイラストが返る。
『見舞いに来るつもりがあるなら、明日以降』
『ヤダ。手負いの獣のとこに行きたくない。またね!』
逃げるようにやり取りが終わり、懐いている様子の葉月でこれかと嘆息する。一体、今までに何をやらかして来たのか。
ただ、雪季も人のことは言えない。
弱っているときに他人を近付けたくないと思うのは、半ば本能のようなものだろう。葉月がどこまで理解しているのかはともかく、「手負いの獣」という言葉はあながち間違いではないのかも知れない。
とりあえず夕飯にしようと冷蔵庫を開ける。
定時で帰って来たとはいえ手の込んだものを作る気にもなれず、丼で済ませるかと卵と残り物の小松菜とジャコの炒め物を出す。玉ねぎを薄切りにして火を通し、炒め物とあわせてだしで軽く煮込んで、卵でとじて丼に入れたご飯にかぶせて終わり。
ご飯は、英が食べるかもしれないと昼くらいには炊けるようにセットして出たが、丸々保温状態で残っていた。
それどころか、レトルトのおかゆもゼリーやプリンも手つかずだ。かろうじて、朝作っておいたスープだけが空になっていた。
一人分の汁物を作るのも面倒で、湯を沸かしてインスタントで済ませる。
それだけでは多少食べ足りない気もして、トマトとチーズを切って適当につまむことにした。そうなると酒も飲みたくなるが、ないとは思うが英の体調が悪化して車を出す事態にでもなると困るので諦める。
「いーにおいー」
「起きたか。何か食べるか?」
少し寝ただけでもいくらかすっきりしたのか、それでもやはりいつもと違ってのろりと動く英は、体を重そうに引きずってソファーに倒れ込んだ。
「たべるーけどふろはいってくるー」
「水分」
「ペットボトルのんだ」
「…気を付けて」
色々と怪しいが、意識ははっきりしているようなので見送る。急ぐわけではないが、その間に食事を済ませてしまおうと箸を取る。食べ終えて片付けも終えた後に、それを発見した。
ゴミ箱に、雪季は捨てた覚えのない栄養補助食の空き箱。ゼリー飲料ではなく、ビスケットタイプ。どこに隠していたのか。
何も食べてなかったよりはましか、と息を吐き、とりあえず固形でも大丈夫ということかと考える。
みじん切りの人参と玉ねぎにしっかりと火を通して水と顆粒スープの素を加え、片栗粉でとろみをつけて溶き卵を加えたたまごスープと、鮭の切り身を蒸し焼きにして醤油とみりんを少し足してほぐし、おにぎりの具にする。
「河東。寝てないか、大丈夫か?」
湯船に浸かると実はかなり体力を消耗するのだが、言い忘れていた。湯を溜めるような音はしていなかったと思うが、それならそれで、雪季が食べ終えて調理を終えるまで出て来ないというのは、長すぎる気がする。
踏み込んだ方がいいのかと迷っていると、ようやく返事があった。
「だいじょうぶー」
「…本当か?」
「しんぱいしょう」
風呂の戸が開く音がしたから、とりあえずは大丈夫だろうかと前を離れる。
看病をされたことはあってもした経験がないものだから、過保護になっているのか手を貸し損ねているのかすらよくわからない。されていた間の記憶は色々と曖昧なので、そこを頼ることもできない。
風呂上がりの英は、さっぱりとしたからか、相変わらず潤んではいるが眼もちゃんと焦点を結んでいる。
「おにぎりだ」
ぽつりと落とされた声。何とはなしに英の顔を見ると、一瞬涙かと思った雫が顔を伝っていた。髪が濡れたままだ。
「センセーのおにぎりは、みそぬって、やいて。おやつにって、よく食べたな」
「食う前に髪拭け」
バスタオルを首にかけているのに、何故髪を拭かないのか。言うのとほぼ同時に手が出ていて、首元のタオルを引き上げてマッサージでもするように髪を拭く。
為すがままなのでそのまま水分を取り切って、湿ったタオルを風呂場に戻すついでに毛布をつかんで、食べ始めている英にかける。
「…焼きおにぎりも、できるけど」
「そんなに食べられない」
小ぶりに作った鮭のおにぎりは五つ並んでいて、残ったならそれでもいいと思ったが、既に二つが消えていた。
「コロッケ食べたい」
「は?」
「まえ、つくってくれなかった。じかんかかるからって。あしたはせっきもやすみだろ」
そういえばそんなこともあったような気はするが、雪季はすっかり忘れていた。その後で英も言いはしなかったからお互い様だが、何故今になって思い出したのか。
弱っている胃に、衣が油をたっぷりと吸ったコロッケがいいはずがない。
「やめとけ。プリンでも食べるか?」
「なんでプリン?」
「…色味が似てる」
「ざつだなー。コロッケがいい」
にやにやと笑いながら、あっさりと却下する。冷蔵庫の、ゼリーは日持ちするはずだがプリンの消費期限はいつだったかと覚えてもいないことを考える。
「…明日も仕事だから。終わったら、あとはお前とセットで休みになったけど」
「えーなんでー」
「なんでって…木曾さん、学さん、弟の方。しばらく上海に行くからって挨拶に来られるんだけど、お前がいないならせめてみんなでお迎えしようかって。あとは、李さんの茶飲み相手と」
「李博史」
飲みかけの卵スープの器を叩きつけるように置いて、英は、雪季を睨みつけた。何事かと雪季は目を丸くする。
「それも他のやつらいるんだろうな」
「四十万さんと、李さんの定宿のホテルのティールームで待ち合わせ。何か問題が?」
「あの人がさがしてるのってそこそこ気がきいてあの人なみに立ちまわれるつきびととかじょしゅとかでしみたいなのだろ。ゼッタイ、せっきねらってる」
「…色々足りてない気がする。考えすぎだろ」
気働きには自信がないし、李が雪季と似たような前歴とはいえ、ほとんどが自己流の上に不意打ち勝負だったから徹底しては鍛え上げられていない雪季に対して、李は真っ当な武闘家の中でも名を知られるほどの域だ。
おまけに、年を重ねて最近では神戸と台湾の往復程度に収まっているとはいえ、本来世界規模で動く李に対して、雪季の語学力は全く及ばない。
勉強は続けていて接する機会もあることから何ヵ国語かは単語程度は拾えるようにはなっているが、きちんと聞き取れているわけではないし、喋る方はもっと厳しい。
「いままでになくあいに来るし、おれが寝こんでるって知ってめっちゃアピールしてくるにきまってる」
英の方こそ心配性なのではないか。呆れの混じった視線をどうとったものか、何かぶつぶつと呟いていた英は、いきなり、雪季の手をつかんだ。まだ熱っぽい。
「せっき、うらしゃかいぬけたいヤツとそういうのがほしいのとをむすびつけたらけっこううまくいかないかな!」
「また揉めそうなのを…」
「いーだろだいにのじんせい」
「…とりあえず、完全に熱下がってからにしろ。もっといろいろと考えて調べてからに」
言葉が途中で止まる。雪季の目の前で英が電話をかけた携帯端末は、いやに見覚えがある。シンプルなプラスチックカバーを嵌めただけの、鈍色の機械。
どう考えても雪季の個人端末で、先ほど手をつかんで来たのは注意を逸らすためのフェイクだったと悟る。伸ばそうとした手は英がつかんだままで、まだ発熱中だというのに振り払うのに時間がかかる。
「あ。こんばんはーかとうあきらといいます。はたのみねあきさんですよね? いちどおめにかかっておはなししたいことがあるんですが。あすにでも」
「ばっ…おまっ」
「くわしくはそのときに」
「馬鹿替われ!」
どうにか携帯端末を奪い返すが、もしもの時のためにと師の店の番号の登録を残していたことを後悔する。
店名だから他の居酒屋に紛れると思ったが、英が――おそらくは葉月が、その店名を押さえていないはずがなかった。
『にぎやかだな』
何を言うかも決めないまま耳にあてた携帯端末から聞こえた声に、息をのむ。耳慣れた、もう二度と聞くことはないかと思っていた声。電話越しのせいか、いつもよりもしわがれて聞こえた。
意味もなく、端末を握り直す。
「――ごめん、突然」
『いや。さっきの話は本気か? 酔っ払いのたわごとなら聞き流す』
与えられた選択肢に、迷う。このままなかったことにするか。
いや。思いついてしまった英は、このルートをそのままなり、他のルートを辿るなり、気の済むまで突き進んでしまうだろう。高熱に浮かされていたということで忘れてくれていたらいいが、ここで断ち切った方が面倒になりはしないか。
そんな考えを瞬時にめぐらせ、雪季は溜息を呑み込んだ。
「一度、聞くだけでいいので会ってやってもらえますか」
『わかった。明日でいいのか?』
「…今はインフルエンザに罹ってるから」
店の常連客の顔が脳裏に浮かぶ。裏稼業とは関係があったりなかったりする彼らは、概ね人生の後半に差し掛かっている。
たまに、ふらりと立ち寄って味の良さに定着する大学生やフリーターが混じったりもするが、大体は、インフルエンザどころかただの風邪でもぽっくり逝ってしまいそうな人たちだ。
会う場所に店を選ぶとは限らないが、師がウイルスに感染しただけでも危ない気がする。
『一週間後くらいか』
「時間と場所は指定してくれれば、調整する」
『上手くやってるみたいだな』
「…どうかな」
こぼれてしまった言葉に我に返り、雪季は、事務的に日時を決めた。英が休んだことでスケジュールは色々と変わっているが、今のところは大丈夫なはずだ。一応、変わる場合にはまた連絡すると言って通話を終える。
深々と息を吐き、こんなことになったのは誰のせいだと英を見ると、ローテーブルに突っ伏していた。
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