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文化祭
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「いやあ助かった」
「…自力でどうにかできたんじゃないのか」
望月邸を後にして、満足げな笑みを浮かべる英と並んで歩きながら軽く睨みつける。
拘束されていたという手足は、それほど時間が長くなかったからか、擦り傷さえなさそうだ。足取りも、危なげもない。
本当に一服盛られたのか、と思うが、雪季が目撃した時こそ足だけになっていたが、最初は完全にベッドに貼りつけられた状態だったというのだから、抵抗できればさすがにそこまで成すがままではなかっただろう。…そう願いたい、と、雪季は思ってしまう。
「そりゃまあどうにかはなっただろうけど、時間がかかっただろうから。来てくれてありがとう、雪季」
「大体、なんだあのメール。無視したらそれまでだろ」
「気づいてくれると思ったし、その通りだっただろ?」
「…よく怪しまれなかったな」
望月によれば、文面は英が口頭で伝えたが、実際に打ち込んだのは望月だったという。その前に、もう一人の同僚が携帯端末をいじっていたという。メールやメッセージの履歴くらいは、多少は目を通していたのではないか。
英はにこやかに首を傾げて見せた。
「雪季の着信も発信も多いし、メールもダミーはたっぷり保存してたし。雪季は俺にメールしないから、本物が紛れることもなくて、これだけ見て誤魔化すために今日みたいなメール送ったら、やっぱり雪季は気付いてくれるだろうなと思って」
見る?と携帯端末を示すが、やめておく。望月がメールの相手が男だったことに驚いたことからも推測がつくが、そして彼は英が付き合うのが男女関係ないことは知らなかったのだろうが、つまりはそういった関係を匂わせる文面なのだろう。
そこまで考えて、深々とため息が落ちた。
「…どこまでがお前の思い通りだったんだ」
「ん? 何のこと?」
さわやかな笑みを崩さない曲者に、溜息をつきたくなる。
望月は完全に偶然だと思い込んでいたようだが、雪季はそれには肯けない。いくら葉月が優秀であっても、あまりにも情報が揃いすぎていた。全てがとまでは言わなくとも、予め調べていたのでなければ、短時間であれだけの情報量は無理がある。
いくらなんでも、亡くなった息子と英の名前が被っていたのは偶然だろうし就職し損ねた望月が親戚の家に住み込みで働いていたのも英が関与したことではないだろう。
だが、近所のガーデンパーティーに出向いたところはどうだろうか。あるいは逆に、ガーデンパーティーに出席するからと近隣の情報を集めたのか。
何にしても、ただただ偶然が積み重なってあの状況になっていたとは考え難い。
「そもそも、何がしたかったんだ」
にこりと笑みを上乗せして、英は、舞台役者のように肩をすくめてみせた。胡散臭い。
「それよりも、人間っていうのは面白いな。礼子さん、絶対に俺の両手足が固定されてるのも、首輪すらかけられてたんだからそれも、ちゃんと見えてたはずなのに全然見てなかった。息子が使用人のベッドで寝てるのもおかしいはずなのに、全部華麗に無視を決め込んで、季節の変わり目で風邪ひいちゃったのかしらって、彼女の中ではそれが事実なんだよな。人間は見たいものしか見ないっていうけど、それにしたって凄い」
「…あの人、次にお前に会ったらどう認識するんだろうな」
結局雪季は、正攻法で望月邸を再度訪れた。ごく普通にインタホンを押し、取次に出て来た望月の同僚をやや強引に押し切ったのは「普通」ではないかも知れないが、当たり前のように主人に挨拶をして英とも話をした。
切っ掛けと退路さえ確保できれば、後は英の独壇場だ。
増してや、実質問題になるのは望月同僚のみ。主人は認知が歪んでいるだけの非力な女性で、望月は彼女を害することでもなければ基本的には英の味方だ。人を言いくるめるのは英の十八番、あるいは朝飯前の特技。
英を送り出す時に笑顔すら見せた彼女は、その時は果たして、英を誰だと思っていたのだろう。
「さあな。成長した息子なんだか、親戚の子どもの先輩なんだか。全然覚えてないかも知れないし。別に何だっていいさ」
また来ると言ったのに、それでいいのか。そう言ったのは、ただのその場凌ぎだったのか。
浮かんだ言葉を声には載せず、雪季は、到着した駅で次の時間を探して視線を彷徨わせる。このあたりは、都心只中のように数分と待たずに乗れるわけではない。
「あー疲れた。来てくれたお礼に何かおごろうか?」
「俺より葉月さんをねぎらった方がいいんじゃないか。何を考えて探らせてたのかは知らないが、今日も休みなのに付き合ってくれたんだから」
「何って、まあ、部活の後輩が大金持ちの推定相続人っぽいって風の噂に聞いたから、親交を温めておくのも悪くないと思って?」
下心しかなかった。
巻き込まれたというよりはむしろ巻き込まれに行ったらしいと知って、自業自得どころかむざむざ事件を起こしに行ったのではないかと思ってしまう。むしろ、英が望月家にとっての災厄だ。
「…後夜祭があるらしいから学校に戻る」
思っていたよりも時間がかからず夕飯にも余裕があるので結愛に連絡したところ、だから戻って来ないかと誘われた。そのまま、夕飯でも食べて帰れば多少問題はあったがほぼ当初の予定通りだ。
英を見れば、どこかぼんやりとした風だった。
「…後夜祭」
「三年の時だったか、始まったの。続いてたんだな」
「あー。篠原が生徒会長やって。色々丸め込んでやったんだよな。あの年だけで終わったかと思ってた」
感情の抜け落ちた声音に、雪季はやや訝しい思いで視線を注ぐ。
詳しく覚えていたことも意外だが、どこか上の空のように思えて、何か他に意識を取られるものがあるのだろうかと首を傾げる。周囲を見回しても、気を惹かれそうなものは目につかない。
「…さっきの、あの人。現実を見てないあの感じ、そういえば俺、知ってる」
唐突な言葉に、雪季はもう一度英をまじまじと見てしまった。「あの人」とは、望月の親戚で今は主人ともなっている彼女のことだろうが、何故、望月邸を後にした直後ではなく今なのか。
淡々と、英の言葉は続いた。
「兄が二人いるんだけど、その間に一人、姉もいたんだ。俺が河東の家に入った高二の時点で、下の兄が大学の一年で、姉が二十歳で、上の兄は新社会人。姉は俺と同じように外で生まれて転がり込んだ人で。河東の父と別れた後に再婚した男にレイプされて、母親に言ったら河東の家に押し付けられたとかで。それが、中学に上がる前後だとか」
ホームに他に全く人がいないわけではないが、雪季たちからは少し距離があり、それぞれ手に持った携帯端末に集中しているようだ。それでも、聞き耳を立てていないとも限らず、抑えた声ではあるが、こんなところでする話だろうかとは思う。
気にしていないのか、それとも、突然に思い出して吐き出したいのか。
後者だとすれば、珍しいのではないだろうか。いつだって、笑顔の下に様々なものを呑み込む男だと思っていた。吐露するにしても、充分に時と場所を選んでいると。
人当たりのいい笑顔を作ることもなく、空の向こうに何かを見ているかのように視線を遠くに投げたまま、英は感情のない言葉を続ける。
「何度か首を吊ろうとしたらしいけど、躊躇ってるうちに見とがめられたり早いうちに発見されたりで。手首は切らないのかって訊いたら、笑って、それじゃあ死ねないらしいよって言うような人だった。痛いのは厭だし、とか。…姉がようやく死ねたのは、後夜祭の夜だった。誰も何も気付かなくて、朝になって発見されて、完全に息絶えてた」
ああなるほどそれで思い出したのかと、ようやく納得がいく。
だがそこで英は、とっておきの怪談でも話すかのように、薄く笑った。
「俺が河東の家に引き取られてしばらくしてからは、姉の自殺未遂は一旦は治まってた。はみ出し者同士、話すこともあったからそれで落ち着いたんじゃないかとか藪医者が言ってた。だけど突然にちゃんと死んで、なんでだろうと思ったら、下の兄がやらかしてたんだ」
雪季は英を見上げるが、英はどこかに視線を投げたままでこちらを見ようとはしない。
「あの日はたまたま、姉と下の兄しか河東の人間はいなくて。下の兄は昼から酒を飲んでたらしい。それで気が大きくなったんだかなんだか。多分酔った勢いで、姉を襲ったらしくて。河東の父が引き取るときにDNA鑑定をしないはずがないんだから、正真正銘の血のつながったきょうだいだったっていうのに、正気の沙汰じゃないよな」
そこで一度言葉は途切れて、英は、雪季を見た。ビー玉のように、感情の窺えない眼だった。
下の兄と言えば、先日、結婚式で遠目に見た。あまり英と似た印象は受けなかったが、その後で受けたラッツの襲撃は、その兄の依頼だったはずだ。
「雪季が見た手って、もしかしたらあの姉じゃないかな」
「…どうしてそう飛躍する」
「話してて、そういえばあの人死んだんだから幽霊になっておかしくないかなって。河東の母も血のつながった方の母親も、まだ生きてるし。他に、死んでるような人って思いつかなくて。生霊って線も残ってるけど」
「そもそも見間違いや気のせいの可能性の方が。…幽霊よりは俺もお前も現実を受け容れられなくて歪めて認識しただけでお前が飛び下りようとしたとか俺が突き落とそうとしたとかの方がまだありそうな気もする」
瞬きすら止めていたような英が、眼を見開いて雪季を見つめたかと思うと、大きく吹き出した。唾が飛びそうで、軽く身を引く。
「なるほど、そう来るか! この前の漫画のあらすじから、俺の飛び降り分パワーアップしたな」
「…電車が来る」
乗車時刻が近付いたというアナウンスが流れる。だからといってすぐには来ないが、遅延もしていないようなのでそれほどは待たされないはずだ。
一人笑いする英は多少の注意を引いているようだが、関わり合いになりたくないと思われたのか、注視されるほどではない。
ひとしきり笑って落ち着いたのか、電車に乗る頃には、英はいつもの調子を取り戻していた。表情を削ぎ落した方が「素」なのかもしれないが、あるかなしかの微笑を湛えているような好青年の方が常態なのも確かだ。
座席が全て埋まっているわけではないが、並んで、出入り口の近くに立つ。
「後夜祭、俺も行こうかな」
「は?」
「いいだろ。邪魔しちゃったみたいだし、あの子もまとめて晩飯おごってやるよ」
結愛のお守りを押し付けてしまった計都も夕飯に誘っていたので、英の気まぐれに、雪季は頭を抱えたくなった。
英は、あまり真っ当な青少年に近づけたいような「大人」ではない。だが、こうやって言い出した英はそう簡単にはひかないだろう。
何とか回避法はないものかと言葉を探しているうちに雪季の携帯端末が着信し、友人と食べに行くからと計都に断られたのは、この際は朗報だった。結愛にもあまり近付けたくはないのだが、未成年者よりはましだろう。
「…もしも、あの手がお前の考えた通りだったとしても」
迷った後で口にしてから、やはりやめた方がいいだろうかとまだ躊躇する。だが、英がじっと続きを待っている。
「…お前を突き落とす機会なんていくらでもあったんだろうから…気の迷いのようなもの、なのかもしれない」
「…んん?」
「感情のムラみたいなものがあるのかどうかはわからないけど、人と同じようなものだとすれば…不意に寂しくなったりして、こっちに来てほしい、とでも…衝動に駆られることはあるのかも知れない」
それ以上に言うことはないのに英からの反応がなく、やはり言わなければ良かったかと軽く後悔する。慰めているつもりはないが、仮定に仮定を重ねたところでどうなるものでもない。
英がふっと、息だけで笑った。
「雪季って案外、ロマンチストだよな」
無言で足を踏みつけるが、笑みは崩れない。
「文学青年のが良かった?」
「帰れ」
「えー。折角だし俺も母校に行ったっていいだろー?」
「か、え、れ」
それこそ高校生男子のようなやりとりだなと思いながら、雪季は、もう一度英の足を踏みつけた。
避けようとしていたようだが、それを読んだ雪季がしっかりと踏みつける。英は、悲鳴は呑み込んだようだが恨みがましい眼を向けて来た。
電車が、静かに次の駅へと滑り込んでいった。
「…自力でどうにかできたんじゃないのか」
望月邸を後にして、満足げな笑みを浮かべる英と並んで歩きながら軽く睨みつける。
拘束されていたという手足は、それほど時間が長くなかったからか、擦り傷さえなさそうだ。足取りも、危なげもない。
本当に一服盛られたのか、と思うが、雪季が目撃した時こそ足だけになっていたが、最初は完全にベッドに貼りつけられた状態だったというのだから、抵抗できればさすがにそこまで成すがままではなかっただろう。…そう願いたい、と、雪季は思ってしまう。
「そりゃまあどうにかはなっただろうけど、時間がかかっただろうから。来てくれてありがとう、雪季」
「大体、なんだあのメール。無視したらそれまでだろ」
「気づいてくれると思ったし、その通りだっただろ?」
「…よく怪しまれなかったな」
望月によれば、文面は英が口頭で伝えたが、実際に打ち込んだのは望月だったという。その前に、もう一人の同僚が携帯端末をいじっていたという。メールやメッセージの履歴くらいは、多少は目を通していたのではないか。
英はにこやかに首を傾げて見せた。
「雪季の着信も発信も多いし、メールもダミーはたっぷり保存してたし。雪季は俺にメールしないから、本物が紛れることもなくて、これだけ見て誤魔化すために今日みたいなメール送ったら、やっぱり雪季は気付いてくれるだろうなと思って」
見る?と携帯端末を示すが、やめておく。望月がメールの相手が男だったことに驚いたことからも推測がつくが、そして彼は英が付き合うのが男女関係ないことは知らなかったのだろうが、つまりはそういった関係を匂わせる文面なのだろう。
そこまで考えて、深々とため息が落ちた。
「…どこまでがお前の思い通りだったんだ」
「ん? 何のこと?」
さわやかな笑みを崩さない曲者に、溜息をつきたくなる。
望月は完全に偶然だと思い込んでいたようだが、雪季はそれには肯けない。いくら葉月が優秀であっても、あまりにも情報が揃いすぎていた。全てがとまでは言わなくとも、予め調べていたのでなければ、短時間であれだけの情報量は無理がある。
いくらなんでも、亡くなった息子と英の名前が被っていたのは偶然だろうし就職し損ねた望月が親戚の家に住み込みで働いていたのも英が関与したことではないだろう。
だが、近所のガーデンパーティーに出向いたところはどうだろうか。あるいは逆に、ガーデンパーティーに出席するからと近隣の情報を集めたのか。
何にしても、ただただ偶然が積み重なってあの状況になっていたとは考え難い。
「そもそも、何がしたかったんだ」
にこりと笑みを上乗せして、英は、舞台役者のように肩をすくめてみせた。胡散臭い。
「それよりも、人間っていうのは面白いな。礼子さん、絶対に俺の両手足が固定されてるのも、首輪すらかけられてたんだからそれも、ちゃんと見えてたはずなのに全然見てなかった。息子が使用人のベッドで寝てるのもおかしいはずなのに、全部華麗に無視を決め込んで、季節の変わり目で風邪ひいちゃったのかしらって、彼女の中ではそれが事実なんだよな。人間は見たいものしか見ないっていうけど、それにしたって凄い」
「…あの人、次にお前に会ったらどう認識するんだろうな」
結局雪季は、正攻法で望月邸を再度訪れた。ごく普通にインタホンを押し、取次に出て来た望月の同僚をやや強引に押し切ったのは「普通」ではないかも知れないが、当たり前のように主人に挨拶をして英とも話をした。
切っ掛けと退路さえ確保できれば、後は英の独壇場だ。
増してや、実質問題になるのは望月同僚のみ。主人は認知が歪んでいるだけの非力な女性で、望月は彼女を害することでもなければ基本的には英の味方だ。人を言いくるめるのは英の十八番、あるいは朝飯前の特技。
英を送り出す時に笑顔すら見せた彼女は、その時は果たして、英を誰だと思っていたのだろう。
「さあな。成長した息子なんだか、親戚の子どもの先輩なんだか。全然覚えてないかも知れないし。別に何だっていいさ」
また来ると言ったのに、それでいいのか。そう言ったのは、ただのその場凌ぎだったのか。
浮かんだ言葉を声には載せず、雪季は、到着した駅で次の時間を探して視線を彷徨わせる。このあたりは、都心只中のように数分と待たずに乗れるわけではない。
「あー疲れた。来てくれたお礼に何かおごろうか?」
「俺より葉月さんをねぎらった方がいいんじゃないか。何を考えて探らせてたのかは知らないが、今日も休みなのに付き合ってくれたんだから」
「何って、まあ、部活の後輩が大金持ちの推定相続人っぽいって風の噂に聞いたから、親交を温めておくのも悪くないと思って?」
下心しかなかった。
巻き込まれたというよりはむしろ巻き込まれに行ったらしいと知って、自業自得どころかむざむざ事件を起こしに行ったのではないかと思ってしまう。むしろ、英が望月家にとっての災厄だ。
「…後夜祭があるらしいから学校に戻る」
思っていたよりも時間がかからず夕飯にも余裕があるので結愛に連絡したところ、だから戻って来ないかと誘われた。そのまま、夕飯でも食べて帰れば多少問題はあったがほぼ当初の予定通りだ。
英を見れば、どこかぼんやりとした風だった。
「…後夜祭」
「三年の時だったか、始まったの。続いてたんだな」
「あー。篠原が生徒会長やって。色々丸め込んでやったんだよな。あの年だけで終わったかと思ってた」
感情の抜け落ちた声音に、雪季はやや訝しい思いで視線を注ぐ。
詳しく覚えていたことも意外だが、どこか上の空のように思えて、何か他に意識を取られるものがあるのだろうかと首を傾げる。周囲を見回しても、気を惹かれそうなものは目につかない。
「…さっきの、あの人。現実を見てないあの感じ、そういえば俺、知ってる」
唐突な言葉に、雪季はもう一度英をまじまじと見てしまった。「あの人」とは、望月の親戚で今は主人ともなっている彼女のことだろうが、何故、望月邸を後にした直後ではなく今なのか。
淡々と、英の言葉は続いた。
「兄が二人いるんだけど、その間に一人、姉もいたんだ。俺が河東の家に入った高二の時点で、下の兄が大学の一年で、姉が二十歳で、上の兄は新社会人。姉は俺と同じように外で生まれて転がり込んだ人で。河東の父と別れた後に再婚した男にレイプされて、母親に言ったら河東の家に押し付けられたとかで。それが、中学に上がる前後だとか」
ホームに他に全く人がいないわけではないが、雪季たちからは少し距離があり、それぞれ手に持った携帯端末に集中しているようだ。それでも、聞き耳を立てていないとも限らず、抑えた声ではあるが、こんなところでする話だろうかとは思う。
気にしていないのか、それとも、突然に思い出して吐き出したいのか。
後者だとすれば、珍しいのではないだろうか。いつだって、笑顔の下に様々なものを呑み込む男だと思っていた。吐露するにしても、充分に時と場所を選んでいると。
人当たりのいい笑顔を作ることもなく、空の向こうに何かを見ているかのように視線を遠くに投げたまま、英は感情のない言葉を続ける。
「何度か首を吊ろうとしたらしいけど、躊躇ってるうちに見とがめられたり早いうちに発見されたりで。手首は切らないのかって訊いたら、笑って、それじゃあ死ねないらしいよって言うような人だった。痛いのは厭だし、とか。…姉がようやく死ねたのは、後夜祭の夜だった。誰も何も気付かなくて、朝になって発見されて、完全に息絶えてた」
ああなるほどそれで思い出したのかと、ようやく納得がいく。
だがそこで英は、とっておきの怪談でも話すかのように、薄く笑った。
「俺が河東の家に引き取られてしばらくしてからは、姉の自殺未遂は一旦は治まってた。はみ出し者同士、話すこともあったからそれで落ち着いたんじゃないかとか藪医者が言ってた。だけど突然にちゃんと死んで、なんでだろうと思ったら、下の兄がやらかしてたんだ」
雪季は英を見上げるが、英はどこかに視線を投げたままでこちらを見ようとはしない。
「あの日はたまたま、姉と下の兄しか河東の人間はいなくて。下の兄は昼から酒を飲んでたらしい。それで気が大きくなったんだかなんだか。多分酔った勢いで、姉を襲ったらしくて。河東の父が引き取るときにDNA鑑定をしないはずがないんだから、正真正銘の血のつながったきょうだいだったっていうのに、正気の沙汰じゃないよな」
そこで一度言葉は途切れて、英は、雪季を見た。ビー玉のように、感情の窺えない眼だった。
下の兄と言えば、先日、結婚式で遠目に見た。あまり英と似た印象は受けなかったが、その後で受けたラッツの襲撃は、その兄の依頼だったはずだ。
「雪季が見た手って、もしかしたらあの姉じゃないかな」
「…どうしてそう飛躍する」
「話してて、そういえばあの人死んだんだから幽霊になっておかしくないかなって。河東の母も血のつながった方の母親も、まだ生きてるし。他に、死んでるような人って思いつかなくて。生霊って線も残ってるけど」
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乗車時刻が近付いたというアナウンスが流れる。だからといってすぐには来ないが、遅延もしていないようなのでそれほどは待たされないはずだ。
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ひとしきり笑って落ち着いたのか、電車に乗る頃には、英はいつもの調子を取り戻していた。表情を削ぎ落した方が「素」なのかもしれないが、あるかなしかの微笑を湛えているような好青年の方が常態なのも確かだ。
座席が全て埋まっているわけではないが、並んで、出入り口の近くに立つ。
「後夜祭、俺も行こうかな」
「は?」
「いいだろ。邪魔しちゃったみたいだし、あの子もまとめて晩飯おごってやるよ」
結愛のお守りを押し付けてしまった計都も夕飯に誘っていたので、英の気まぐれに、雪季は頭を抱えたくなった。
英は、あまり真っ当な青少年に近づけたいような「大人」ではない。だが、こうやって言い出した英はそう簡単にはひかないだろう。
何とか回避法はないものかと言葉を探しているうちに雪季の携帯端末が着信し、友人と食べに行くからと計都に断られたのは、この際は朗報だった。結愛にもあまり近付けたくはないのだが、未成年者よりはましだろう。
「…もしも、あの手がお前の考えた通りだったとしても」
迷った後で口にしてから、やはりやめた方がいいだろうかとまだ躊躇する。だが、英がじっと続きを待っている。
「…お前を突き落とす機会なんていくらでもあったんだろうから…気の迷いのようなもの、なのかもしれない」
「…んん?」
「感情のムラみたいなものがあるのかどうかはわからないけど、人と同じようなものだとすれば…不意に寂しくなったりして、こっちに来てほしい、とでも…衝動に駆られることはあるのかも知れない」
それ以上に言うことはないのに英からの反応がなく、やはり言わなければ良かったかと軽く後悔する。慰めているつもりはないが、仮定に仮定を重ねたところでどうなるものでもない。
英がふっと、息だけで笑った。
「雪季って案外、ロマンチストだよな」
無言で足を踏みつけるが、笑みは崩れない。
「文学青年のが良かった?」
「帰れ」
「えー。折角だし俺も母校に行ったっていいだろー?」
「か、え、れ」
それこそ高校生男子のようなやりとりだなと思いながら、雪季は、もう一度英の足を踏みつけた。
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