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邂逅
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「勘違い?」
「請ける前の調査の段階で、断るつもりだった」
「だった?」
「断る前に対象が死んだ。無茶苦茶な生活をしていたから、不摂生が祟ったとか事故とかだろう」
それだけ、白旗の母親は全てを投げていたのだろう。
通販を利用していたようで、日用品や食事のための買い物すらろくに出ることもなく、ほとんどこもりきりの生活だった。それでも健康的に生活することはできなくはないが、わずかに垣間見える様子では、程遠かった。
そんな生活がどのくらい続いていたのかはわからないが、いくら比較的若い年齢だったとはいえ、何かの拍子に急死しても何らおかしくはない。
「…それ、依頼人は」
「伝える前に依頼料が振り込まれた。一応連絡を取ろうとはしたが、どうしてもと言うほどでもなかったかな」
「丸儲け…」
「まあな。たまにそそっかしいのがいる」
たとえ後で何かおかしいと気付いたところで、元々後ろ暗いところがあるのだから、正面切って返せと迫って来るようなことはまずない。全くないとは言わないが。
白旗父の場合、そもそも完全に請けたわけではなかったのだが、そのあたりは混乱していたのかもしれない。調査段階の預かり金を、着手金と間違えたのかもしれない。その際、現金の受け渡しではなく振り込みだったのも途中で誤解を解く機会を潰してしまった。
英が、雪季に呆れたような眼差しを向ける。
「それ、全部ぶっちゃけたらスノーホワイトとの因縁もなくなるんじゃないのか?」
「…どうだろうな」
英のため息が、いやに大きく響く。雪季としても、何をどうすればいいのか戸惑っている。
そもそも、請けていない仕事がスノーホワイトの実績の一つに数え上げられてしまったことも、当時、どうすればいいのかと思ったものだ。
否定して回るのも妙なもので、そんなことになった理由の一つに、無残な女性の止めを刺したという誇れはしない仕事だとの悪評めいたものがあると気付いたところで、まあいいかと放り投げた。損をしたのは、あらかじめその程度の金を払うつもりだった夫だけだ。
そんな一件だったので、請けた仕事ほどにはっきりとではなかったが記憶に残っていた。
「…どちらでも、同じようなものかもしれない。初めから関わらなければ、不幸な事故で終わっていたかも知れないんだから」
「あのなあ。どう考えたって、秦野さんは対象を選んでた。なるべく、スノーホワイトが恨まれないように。後々スノーホワイトが足を洗うときに、それまでの仕事が極力障害にならないように。対象の関係者には、むしろ、感謝されててもおかしくない」
「…おかしいだろ。そんなの」
英は無言で立ち上がり、ワイングラスに氷を数個落とし入れると、カウンターの中に入って棚から適当に酒瓶を抜いたようだった。無造作に、透明に近い液体を注ぐ。
ぶどうの香りが広がった。
「秦野さんが雪季の叔父さんだからってのが、理由の一つだろうな。お母さんの兄だってさ」
「――――は…?」
雪季がおかしいと言ったのは、殺した人間の関係者から受ける感謝のことだった。だが英はそれを秦野の行動の方だと捉え、とんでもない爆弾をさらりと投げ込んだ。
「死んだ後で伝えてくれって言われてたけど、俺はあの人に義理も恩もないし、別にいいだろ。大体俺に託すのが悪いんだし。本当は、とっとと言ってほしかったんじゃないかとすら思うぜ」
雪季が呆然と向けた視線の先で、英は常と変わらずつまみと酒を無造作に口に放り込んでいく。
雪季は、色々なことが浮かんでは通り過ぎていくのを感じていた。
身内はいないと言った母の言葉や表情。両親が殺された日、眼が合ったような気がした時の秦野の顔。過ごした日々。母の手料理を思わせた味。仕事のやり取り。他愛ない会話。
「宗教ってさ、不条理を諦めるために発明されたと思うんだよな。自分ではどうにもならないことを、どうにもできない存在のせいだって思えば諦めやすいから。それなのに、そのうち反転していくんだ。到底変えられないと思った不条理なことが解決されたら、神が自分のために動いてくれたんだ、って。妄想の産物だったカミサマが、諦めるためだった口実が、何かしらの具体的な形を持って立ち上がる。その形は人それぞれで、既存の宗教に肉付けされたり新しく作り出したり、近くにいた人だったり」
「…紙を切るのは人で、ハサミじゃない」
「そう返すか。でも、ハサミを崇め奉る奴だっているだろうさ。使った人が問題なんじゃなくて、実際に切ったハサミが凄いとか、ハサミこそが切るために人を使ったんだとか。紙が切れたのは事実でも、そこに絡む思惑や結果は関わった数だけ好き勝手に創り出すものだから。そこにハサミは関与できない」
思考が空回りするのを、雪季は感じていた。かつてないほどに動いているのに、考えているのに、噛み合わない。捉えたいはずの何かではなく、別のものが浮かび上がる。
いつの間にか空になっていた雪季のグラスに、英が白ワインを注いだ。氷は、全て溶け切っていた。ぬるく、少しばかりべたついた甘みとほんの少しの酸っぱさが舌に貼りつく。
「葉月にも礼を言われただろ。あの程度で済んで、むしろ吃驚したくらいだ。あいつの中で、スノーホワイトは神様だったから。今も、神のままにするか一人の男だってするか、ぐらんぐらん迷ってる最中のはずだ」
「そんなわけない…」
威嚇するような見かけにそぐわず、初めから人懐っこく笑いかけてきた葉月の顔が浮かぶ。
同僚として多少は認めてもらっていると思っていた。あんなことをしても、彼女の父親を殺しても、雪季に感謝してしまうような危ういところはあっても、同僚として扱ってくれているのだと。
やはり、何かが高速で動いているのに、どうにも身動きが取れない。
「というかそもそも、最低二人は仲介に入ってるだろう稼ぎ頭がそうそう簡単に足抜けできる気がしないんだけどなあ。仲介人もそれで金もらってるんだろうからさ」
これは明音ちゃん情報、と軽く口にする。
どうやって連絡先を、と思ったが、彼女の主人の恋人が英の親戚だったと思い出す。思い出せたことに、やはりどこかで高速にただ動く頭を抱えながら、少しばかり安堵する。
空いたグラスに英が、即座に次を注ぐ。とろりとした琥珀色。
「ほら前、雪季にかかってきた電話俺が出ただろ? その時番号覚えて、風呂に入るときに登録しといた」
ぷつりと、何かが臨界点を超えた音がした気がした。他人のもののように動いた雪季の手は、ワイングラスを持ち上げ、傾け、意識することなく一息に呷っていた。
胃の腑に落ちた液体が強く熱を放ち、それが合図かのように、ふわりと雪季は意識を手放した。
「請ける前の調査の段階で、断るつもりだった」
「だった?」
「断る前に対象が死んだ。無茶苦茶な生活をしていたから、不摂生が祟ったとか事故とかだろう」
それだけ、白旗の母親は全てを投げていたのだろう。
通販を利用していたようで、日用品や食事のための買い物すらろくに出ることもなく、ほとんどこもりきりの生活だった。それでも健康的に生活することはできなくはないが、わずかに垣間見える様子では、程遠かった。
そんな生活がどのくらい続いていたのかはわからないが、いくら比較的若い年齢だったとはいえ、何かの拍子に急死しても何らおかしくはない。
「…それ、依頼人は」
「伝える前に依頼料が振り込まれた。一応連絡を取ろうとはしたが、どうしてもと言うほどでもなかったかな」
「丸儲け…」
「まあな。たまにそそっかしいのがいる」
たとえ後で何かおかしいと気付いたところで、元々後ろ暗いところがあるのだから、正面切って返せと迫って来るようなことはまずない。全くないとは言わないが。
白旗父の場合、そもそも完全に請けたわけではなかったのだが、そのあたりは混乱していたのかもしれない。調査段階の預かり金を、着手金と間違えたのかもしれない。その際、現金の受け渡しではなく振り込みだったのも途中で誤解を解く機会を潰してしまった。
英が、雪季に呆れたような眼差しを向ける。
「それ、全部ぶっちゃけたらスノーホワイトとの因縁もなくなるんじゃないのか?」
「…どうだろうな」
英のため息が、いやに大きく響く。雪季としても、何をどうすればいいのか戸惑っている。
そもそも、請けていない仕事がスノーホワイトの実績の一つに数え上げられてしまったことも、当時、どうすればいいのかと思ったものだ。
否定して回るのも妙なもので、そんなことになった理由の一つに、無残な女性の止めを刺したという誇れはしない仕事だとの悪評めいたものがあると気付いたところで、まあいいかと放り投げた。損をしたのは、あらかじめその程度の金を払うつもりだった夫だけだ。
そんな一件だったので、請けた仕事ほどにはっきりとではなかったが記憶に残っていた。
「…どちらでも、同じようなものかもしれない。初めから関わらなければ、不幸な事故で終わっていたかも知れないんだから」
「あのなあ。どう考えたって、秦野さんは対象を選んでた。なるべく、スノーホワイトが恨まれないように。後々スノーホワイトが足を洗うときに、それまでの仕事が極力障害にならないように。対象の関係者には、むしろ、感謝されててもおかしくない」
「…おかしいだろ。そんなの」
英は無言で立ち上がり、ワイングラスに氷を数個落とし入れると、カウンターの中に入って棚から適当に酒瓶を抜いたようだった。無造作に、透明に近い液体を注ぐ。
ぶどうの香りが広がった。
「秦野さんが雪季の叔父さんだからってのが、理由の一つだろうな。お母さんの兄だってさ」
「――――は…?」
雪季がおかしいと言ったのは、殺した人間の関係者から受ける感謝のことだった。だが英はそれを秦野の行動の方だと捉え、とんでもない爆弾をさらりと投げ込んだ。
「死んだ後で伝えてくれって言われてたけど、俺はあの人に義理も恩もないし、別にいいだろ。大体俺に託すのが悪いんだし。本当は、とっとと言ってほしかったんじゃないかとすら思うぜ」
雪季が呆然と向けた視線の先で、英は常と変わらずつまみと酒を無造作に口に放り込んでいく。
雪季は、色々なことが浮かんでは通り過ぎていくのを感じていた。
身内はいないと言った母の言葉や表情。両親が殺された日、眼が合ったような気がした時の秦野の顔。過ごした日々。母の手料理を思わせた味。仕事のやり取り。他愛ない会話。
「宗教ってさ、不条理を諦めるために発明されたと思うんだよな。自分ではどうにもならないことを、どうにもできない存在のせいだって思えば諦めやすいから。それなのに、そのうち反転していくんだ。到底変えられないと思った不条理なことが解決されたら、神が自分のために動いてくれたんだ、って。妄想の産物だったカミサマが、諦めるためだった口実が、何かしらの具体的な形を持って立ち上がる。その形は人それぞれで、既存の宗教に肉付けされたり新しく作り出したり、近くにいた人だったり」
「…紙を切るのは人で、ハサミじゃない」
「そう返すか。でも、ハサミを崇め奉る奴だっているだろうさ。使った人が問題なんじゃなくて、実際に切ったハサミが凄いとか、ハサミこそが切るために人を使ったんだとか。紙が切れたのは事実でも、そこに絡む思惑や結果は関わった数だけ好き勝手に創り出すものだから。そこにハサミは関与できない」
思考が空回りするのを、雪季は感じていた。かつてないほどに動いているのに、考えているのに、噛み合わない。捉えたいはずの何かではなく、別のものが浮かび上がる。
いつの間にか空になっていた雪季のグラスに、英が白ワインを注いだ。氷は、全て溶け切っていた。ぬるく、少しばかりべたついた甘みとほんの少しの酸っぱさが舌に貼りつく。
「葉月にも礼を言われただろ。あの程度で済んで、むしろ吃驚したくらいだ。あいつの中で、スノーホワイトは神様だったから。今も、神のままにするか一人の男だってするか、ぐらんぐらん迷ってる最中のはずだ」
「そんなわけない…」
威嚇するような見かけにそぐわず、初めから人懐っこく笑いかけてきた葉月の顔が浮かぶ。
同僚として多少は認めてもらっていると思っていた。あんなことをしても、彼女の父親を殺しても、雪季に感謝してしまうような危ういところはあっても、同僚として扱ってくれているのだと。
やはり、何かが高速で動いているのに、どうにも身動きが取れない。
「というかそもそも、最低二人は仲介に入ってるだろう稼ぎ頭がそうそう簡単に足抜けできる気がしないんだけどなあ。仲介人もそれで金もらってるんだろうからさ」
これは明音ちゃん情報、と軽く口にする。
どうやって連絡先を、と思ったが、彼女の主人の恋人が英の親戚だったと思い出す。思い出せたことに、やはりどこかで高速にただ動く頭を抱えながら、少しばかり安堵する。
空いたグラスに英が、即座に次を注ぐ。とろりとした琥珀色。
「ほら前、雪季にかかってきた電話俺が出ただろ? その時番号覚えて、風呂に入るときに登録しといた」
ぷつりと、何かが臨界点を超えた音がした気がした。他人のもののように動いた雪季の手は、ワイングラスを持ち上げ、傾け、意識することなく一息に呷っていた。
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