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短編
始めの一歩
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『こんな名前イヤだ』
名前でからかわれたことを愚痴ったのは、小学生の頃だっただろうか。それを聞いた兄貴は、はじめきょとんとして、爆笑した。
怒る俺を無視してひとしきり笑った後、今度はやけにまじめな表情をした。
『双海、知ってるか? おまえの名前をつけるとき、母さんも父さんも悩みに悩んで、危うくお前は名無しになるところだったんだぞ』
『…なんだよそれ』
『いいか? 出生届は生まれてから二週間以内に出さなきゃいけないんだ。これは、名前を書いて市役所に出すんだ。「この日にこういう名前の子供が生まれました」っていう証明だ。わかるな?』
『…うん』
『それを、二人はいい名前をつけようと悩んで、丸二週間考え続けてたんだよ。その間俺のことも自分達のことも全く考えてなかったせいで、三人そろって病院送りになったんだ』
『だから?』
『だから、そう思ってても母さん達の前では言うなよ。殴られるか泣かれるかするからな』
それ以来、俺は「うちうみ・ふたみ」なんていう韻を踏んだ名前に文句を言うことはなくなった。納得したとか感心したとかいうよりは、ただ単に呆れたのだ。
そんなことをしでかした両親とそれを真面目に語る兄とに、心底バカバカしくなった。
『まあ、頑固なところは両親譲りだから仕方ないにしても、お前はあそこまで無茶なことはするなよ。本当に、あの時は死にかけたんだからな』
そういう兄貴こそ、一度決めたことは何があってもやり通すという欠点は、俺以上だと思う。それこそ、途中でドクター・ストップがかかるほどに。
その日、起きたとき既に嫌な予感はしていた。
もっとも、それがあたったことはなくて、無視を決め込んでいた。だが、朝飯だか昼飯だかのご飯を掻き込みながら並べて置かれているメモを目にしたときは、それが的中したかと思った。
『親愛なる息子達へ
旅行に行ってきます。帰るまで、ちゃんと生き延びててね。
パパ&ママ』
『五時には帰れるらしいので、今日の夕飯は僕が作ります 鳴海』
「…誰が『パパ&ママ』だ…」
今に始まったことではないが、うちの両親には放浪癖がある。思いつきで旅立って、数日後には名産物なんかを引っさげて帰ってくる。…よく、俺たち生活できてるよなあ。
深々と溜息をつくと、そのまま家を出た。
午後からの入学式には少し早いけど、遅れるよりはいいだろうと思ったのだ。そしてそこで、思わぬ人物に声をかけられることになる。
「やっぱり早く来てる」
「…兄貴? 今日から仕事じゃなかったのか?」
「ああ、ここが仕事場なんだよ。それより頼みたいことが…」
「ここ?」
「うん。今日からここの先生。教師になるって言っただろ」
「それがここだなんて、一言も、聞いてないんだけど」
「…言ってなかった、かな?」
「『かな』、じゃねぇ…」
「内海先生ーっ」
「とにかく、帰りに月夜の猫屋っていう喫茶店に寄ってくれ。あ、それと、ご飯作るのは無理になった。ごめん」
それだけを口早に言うと、兄貴は後ろも見ずに走っていってしまった。呆然とそれを見送っていた俺は、結果として少しして戻ってくる姿も、逐一眺めることになった。
「これ、店の場所。よろしくな」
今度こそ戻ってこないことを確認するかのように、馬鹿みたいに兄貴が走っていった方向を見続けていた俺は、知り合いに声をかけられなければずっと立ちつくしていたかもしれない。一瞬、兄貴が透けて見えたのだ。…気のせい、だよな。
さびれた通りにある「月夜の猫屋」は、ひどく危なっかしく見えた。つついたら、そのまま倒れてしまうような雰囲気が漂っていたのだ。
「あ。いらっしゃい、待ってたよ」
店の前に立った途端、内側から扉が開いて、元気な子どもの声が耳に入った。
もっとも俺にその声の主を確かめる術はなく、真っ向からぶつかった扉のせいで後ろへ倒れかけていた。と、誰かが支えてくれる。
「大丈夫か?」
「…あんまり…」
「若い者が情けないことを言うでない」
「ロクダイ、それって無茶だよ。ごめん、ドアの開ける方向間違えちゃった」
「アキラ。どうやったら内開きの扉を外に開けられるんだ?」
「さあ。どうしてだろうね、セイギ?」
小学生、高校生、大学生といった年代の三人は、それぞれに猫耳のついた帽子、店名の入ったエプロン、着流しといった特徴的な格好で俺を見下ろしていた。
俺は、慌てて体勢を立て直すと改めて三人を見た。…胡散臭い人たちだ。
店名を尋ねると、三人は扉にかけられた「月夜の猫屋」のプレートを指差し、店内へ入るよう促した。中は雑多に物が置かれ、更に胡散臭かった。そして、聞かされた話はそれ以上だった。
二週間ほどして、兄貴は退院することになった。
入院の原因は「駅のホームを歩く猫に気を取られて階段から足を滑らせた」ためだった。…小学生以下の注意力だ。本当にこれで、俺より七つも年上なのか。
それよりも気になるのは、朝に足を滑らせ、病院に運ばれた兄貴が何故夕方まで平然と俺達の前にいたかということだ。先生たちの話では、兄貴は確かに五時頃まで学校にいたらしい。
「だから、朝ご飯を食べようと思って喫茶店に入ったら、戻らなきゃいけないって言われたんだよ。でも、あの日は入学式と着任式があったからさ」
「それで無理言って時間をもらったって?」
「そう」
何回聞いても納得できない。夢でも見たんじゃないだろうか。でもそうなると、夕方まで歩き回ってたことの説明ができない。
「そんなに疑ってばかりいたら、いつか胃に穴があくぞ」
「あいたら兄貴のせいだからな」
「そんなことは知らないな。ちゃんと説明もしてもらっただろう」
「そういう問題じゃないだろ」
「じゃあ、どういう問題なんだ?」
「…親父たち、今日退院祝いの大義名分掲げて飲み会するつもりらしいから。覚悟しといたほうがいいぜ」
「好きだなあ、あの人たちも」
「そんなことより、これからどうするんだよ」
「もちろん学校に行くよ。くびになんてなってないだろ?」
「……一応は」
兄貴は知らない。兄貴の身に起こった怪現象が学校中に知れ渡り、一気に有名人になってしまっていることを。
「なんだってこんなことになったんだ?」
「だって、最初の就任式ぐらい出たいじゃないか」
…それだけかよ…。
名前でからかわれたことを愚痴ったのは、小学生の頃だっただろうか。それを聞いた兄貴は、はじめきょとんとして、爆笑した。
怒る俺を無視してひとしきり笑った後、今度はやけにまじめな表情をした。
『双海、知ってるか? おまえの名前をつけるとき、母さんも父さんも悩みに悩んで、危うくお前は名無しになるところだったんだぞ』
『…なんだよそれ』
『いいか? 出生届は生まれてから二週間以内に出さなきゃいけないんだ。これは、名前を書いて市役所に出すんだ。「この日にこういう名前の子供が生まれました」っていう証明だ。わかるな?』
『…うん』
『それを、二人はいい名前をつけようと悩んで、丸二週間考え続けてたんだよ。その間俺のことも自分達のことも全く考えてなかったせいで、三人そろって病院送りになったんだ』
『だから?』
『だから、そう思ってても母さん達の前では言うなよ。殴られるか泣かれるかするからな』
それ以来、俺は「うちうみ・ふたみ」なんていう韻を踏んだ名前に文句を言うことはなくなった。納得したとか感心したとかいうよりは、ただ単に呆れたのだ。
そんなことをしでかした両親とそれを真面目に語る兄とに、心底バカバカしくなった。
『まあ、頑固なところは両親譲りだから仕方ないにしても、お前はあそこまで無茶なことはするなよ。本当に、あの時は死にかけたんだからな』
そういう兄貴こそ、一度決めたことは何があってもやり通すという欠点は、俺以上だと思う。それこそ、途中でドクター・ストップがかかるほどに。
その日、起きたとき既に嫌な予感はしていた。
もっとも、それがあたったことはなくて、無視を決め込んでいた。だが、朝飯だか昼飯だかのご飯を掻き込みながら並べて置かれているメモを目にしたときは、それが的中したかと思った。
『親愛なる息子達へ
旅行に行ってきます。帰るまで、ちゃんと生き延びててね。
パパ&ママ』
『五時には帰れるらしいので、今日の夕飯は僕が作ります 鳴海』
「…誰が『パパ&ママ』だ…」
今に始まったことではないが、うちの両親には放浪癖がある。思いつきで旅立って、数日後には名産物なんかを引っさげて帰ってくる。…よく、俺たち生活できてるよなあ。
深々と溜息をつくと、そのまま家を出た。
午後からの入学式には少し早いけど、遅れるよりはいいだろうと思ったのだ。そしてそこで、思わぬ人物に声をかけられることになる。
「やっぱり早く来てる」
「…兄貴? 今日から仕事じゃなかったのか?」
「ああ、ここが仕事場なんだよ。それより頼みたいことが…」
「ここ?」
「うん。今日からここの先生。教師になるって言っただろ」
「それがここだなんて、一言も、聞いてないんだけど」
「…言ってなかった、かな?」
「『かな』、じゃねぇ…」
「内海先生ーっ」
「とにかく、帰りに月夜の猫屋っていう喫茶店に寄ってくれ。あ、それと、ご飯作るのは無理になった。ごめん」
それだけを口早に言うと、兄貴は後ろも見ずに走っていってしまった。呆然とそれを見送っていた俺は、結果として少しして戻ってくる姿も、逐一眺めることになった。
「これ、店の場所。よろしくな」
今度こそ戻ってこないことを確認するかのように、馬鹿みたいに兄貴が走っていった方向を見続けていた俺は、知り合いに声をかけられなければずっと立ちつくしていたかもしれない。一瞬、兄貴が透けて見えたのだ。…気のせい、だよな。
さびれた通りにある「月夜の猫屋」は、ひどく危なっかしく見えた。つついたら、そのまま倒れてしまうような雰囲気が漂っていたのだ。
「あ。いらっしゃい、待ってたよ」
店の前に立った途端、内側から扉が開いて、元気な子どもの声が耳に入った。
もっとも俺にその声の主を確かめる術はなく、真っ向からぶつかった扉のせいで後ろへ倒れかけていた。と、誰かが支えてくれる。
「大丈夫か?」
「…あんまり…」
「若い者が情けないことを言うでない」
「ロクダイ、それって無茶だよ。ごめん、ドアの開ける方向間違えちゃった」
「アキラ。どうやったら内開きの扉を外に開けられるんだ?」
「さあ。どうしてだろうね、セイギ?」
小学生、高校生、大学生といった年代の三人は、それぞれに猫耳のついた帽子、店名の入ったエプロン、着流しといった特徴的な格好で俺を見下ろしていた。
俺は、慌てて体勢を立て直すと改めて三人を見た。…胡散臭い人たちだ。
店名を尋ねると、三人は扉にかけられた「月夜の猫屋」のプレートを指差し、店内へ入るよう促した。中は雑多に物が置かれ、更に胡散臭かった。そして、聞かされた話はそれ以上だった。
二週間ほどして、兄貴は退院することになった。
入院の原因は「駅のホームを歩く猫に気を取られて階段から足を滑らせた」ためだった。…小学生以下の注意力だ。本当にこれで、俺より七つも年上なのか。
それよりも気になるのは、朝に足を滑らせ、病院に運ばれた兄貴が何故夕方まで平然と俺達の前にいたかということだ。先生たちの話では、兄貴は確かに五時頃まで学校にいたらしい。
「だから、朝ご飯を食べようと思って喫茶店に入ったら、戻らなきゃいけないって言われたんだよ。でも、あの日は入学式と着任式があったからさ」
「それで無理言って時間をもらったって?」
「そう」
何回聞いても納得できない。夢でも見たんじゃないだろうか。でもそうなると、夕方まで歩き回ってたことの説明ができない。
「そんなに疑ってばかりいたら、いつか胃に穴があくぞ」
「あいたら兄貴のせいだからな」
「そんなことは知らないな。ちゃんと説明もしてもらっただろう」
「そういう問題じゃないだろ」
「じゃあ、どういう問題なんだ?」
「…親父たち、今日退院祝いの大義名分掲げて飲み会するつもりらしいから。覚悟しといたほうがいいぜ」
「好きだなあ、あの人たちも」
「そんなことより、これからどうするんだよ」
「もちろん学校に行くよ。くびになんてなってないだろ?」
「……一応は」
兄貴は知らない。兄貴の身に起こった怪現象が学校中に知れ渡り、一気に有名人になってしまっていることを。
「なんだってこんなことになったんだ?」
「だって、最初の就任式ぐらい出たいじゃないか」
…それだけかよ…。
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