月夜の猫屋

来条恵夢

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短編

蒼の空間

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 青い空が広がっていた。風は、雨上がりの涼やかさを保っている。私は、ゆっくりと空を見上げた。ヒトには到底真似できない、澄んだ青。
「ねえ、何してるの?」
 私の正面に立った子どもは、そう問い掛けてきた。短い髪とまだ細い手足。少女とも少年ともつかないそのかげりのない瞳は、真っ直ぐに私を射た。
「空を、見てるの」
「どうして?」
「懐かしいの。昔は、あそこにいたから」
「いいなあ。僕も行ってみたい。つれてってよ」
 期待に輝かせた瞳を軽く見張り、少年は言った。
 何の疑いも躊躇ためらいも持たずに、少年が私を見上げる。風が、わずかに大きくなった。
「ごめんなさい。できないの。もう、あそこには行けないの」
「どうして?」 
「翼を、無くしてしまったから」
「翼?」
「そう。真っ白な、大きな翼。もう、ないの。だから、何もできなくなってしまった」
 ふわり、と、身にまとっている布地がなびく。脆弱な肩。ただ長いだけの髪。何もつかめないような、細い腕。それでいて、飛び上がることのできないような細いからだ。
 青い空は、こんなにも近くにあるのに、決して触れることが叶わない。そこに、飛び込むこともできない。飛び回ることを、禁じられてしまった。
「どうして」
「飛ぶことが全てだったから。だから、他には何もないの。翼を無くしてしまったから、本当は生きている価値も意味も無いの」
「本当に?」
「ええ」
 風が、匂いを運んでくる。そろそろ戻らなければならないと、それが告げている。
「さよなら、あなたに会えて良かったわ」
「待って」
 少年は、匂いに呼ばれて歩き出そうとした私の腕をつかんだ。その瞳は、あまりに穏やかだった。
「翼が無くなっても、まだ終わりじゃない。それを、自分で終わらせてしまっていいの?」
 何も言えずにいる私を見つめたまま、少年は言った。
「僕は、君に会えて良かった。翼を無くした君が、僕にちからをくれた。全く何もできないなんてこと、無い」
「あなた…?」
「それだけは言いたかったんだ。君がいることで変わる何かがあるっていうことを」
 少年は、にっこりと微笑んで手を離した。そして、どこかへ行ってしまった。
 少年が去った後、私は自分が地に立っていないことに気付いた。なんだ。翼がなくても、飛べていたんだ。

 僕は、少年めいた風貌の少女にお礼を言った。僕の気持ちを、代わりに伝えてくれたお礼を。
「あれで良かったのかな。なるべく、そのまま伝えたつもりなんだけど」
 少し照れたように、少女は僕に言った。
 確かに、少し気恥ずかしい台詞だったかもしれない。でも、あれが僕の正直な気持ちだ。彼女のおかげで、僕は救われた。それを伝えておきたかった。伝えて、彼女が少しでも元気になってくれたら。
 だから、ありがとう。 

 空色の空間の中で、少女は軽く目をつぶった。そこは彼女の、そして彼の創った空間。
 足を動かせなくなり、寝起きしかしなくなっていた「彼」の。
「これくらいしかできないんだ、あたし…」
 呟きは、誰に聞かれることもなく風にまぎれていった。 

 その日ある病院で。
 今までいくら説得しても聞き入れなかった女性患者が、自分からリハビリを受けたいと言った。
 その病室の近くでは、一羽の鳩がひっそりと息絶えていた。
 それらは、何の変哲もないある日の出来事。  
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