39 / 73
短編
月夜の猫屋 活動日記2
しおりを挟む
――よりにもよって?
正義は、わずかに口の端を持ち上げた。口元に、皮肉めいた笑みが浮かぶ。陰のある笑みに、彰やロクダイが居合せれば、どのような表情をしただろうか。
一つ息を吐いて、目的地へ向かう。交差点の中央。そこには、大学生くらいの男が一人、立ち尽くしていた。
見覚えがある。そのはずだ、数年前まで、厭というほど付き合わせていた顔。多少変わったとはいえ、見間違えるはずがない。
「うわすっげー、芸術品! なんでこんなの作れんの?」
艶やかに光る飴色のアップルパイに目を輝かせ、正義は歓声を上げた。焼き立てなので、香ばしい匂いがする。尊敬の眼差しを送るかのように美月を見つめると、照れたような笑顔がそれに応えた。
「どこの班も似たようなものだよ。パイ生地だって、市販のシートだったし」
「ちょっとセイギ、勝手に食べたら殴るわよっ」
少し離れた位置で紅茶を蒸らしている祐子が、拳を見せつける。
「なんだよ、ほとんど美月ちゃんが作ったようなもんじゃないか。お前が威張って言うなよ」
「班行動。授業中だってこと忘れてるでしょ、アンタ」
「出来たら食べていーって言ってたじゃん」
「紅茶がまだ」
きっぱりと言いきられて、首を竦める。
「ちぇ。…なあなあ、美月ちゃん、こんど俺に差し入れ作ってきてよ。今週末、試合だし」
「おい」
机越しに身を乗り出していたところを、襟首をつかんで引き戻される。正義は、「ぐえっ」と、多少大袈裟に声を上げた。
「…んだよ、パン屋」
「人の彼女に手ぇ―出すなって」
仏頂面を作っている友人がいた。長い付き合いの正義には、それが、実は笑いを噛み殺しているのだということが判る。
元々、この男と美月は、正義が引き合わせたようなものだった。
「なんだ、自信ないのか? ま、しょーがねーよな―。俺のがずっと、優しくてかっこいいんだからな」
「バカがほざいてら」
正義は、交差点の中央で、体をすりぬけていく車に戸惑っている男を、歩道まで引っ張っていった。その必要はないのだが、気分の問題だ。
「車に体すり抜けられて、楽しいか?」
「なっ………おま…っ……! 成仏してなかったのか!?」
本心から、苦笑する。
もっとこだわりを感じると思ったが、こうなってみると、一気に時間が引き戻される。記憶よりも多少大人びた友人に、正義は、彰を真似て人の悪い笑みを浮かべた。
「俺、信仰心ないからな。仏教徒じゃないし。成仏は出来ないよ」
成仏というのは、仏教用語だ。だから、仏教徒でなければできはしない。だが相手には、その意は伝わらなかったようだった。肩をつかみ、真剣な表情で。
「寺行こう、寺! お祓い代くらい、俺が出すから」
「お前、自分もその状況だってことわかってっか?」
はっとして立ち止まる姿に、本気で忘れてたなコイツ、と心中呟く。頭を抱えて黙り込む友人を、正義は複雑な思いで眺めていた。
――いっそ、死んでりゃ楽だったんだけどな。
胸中を、昏い感情がよぎる。
今、この男は危ういところにいる。死ぬ予定ではないが、このままの状態でいれば、一日ともたないだろう。自分が、何も言わずにいれば――…。
「こうなったら、一緒に探そう。古典とかであるだろ、お経読んでたぼーさんのおかげで成仏できたとかって」
そういえば国語好きだったんだよな、コイツ。で、数学系全然駄目で、生物の簡単な計算も出来なくて。よく、二人がかりで教えていた。
「なあ、美月ちゃん、今どうしてる? ついでに祐子も」
一瞬驚いたように、正義を見る。その表情は、全くと言っていいほどに変わっていなかった。
「…あいつ、泣くかな。――まだ付き合ってたんだよ、俺達。…祐子とは、大学離れてろくに会ってないんだけど…」
「光秀」
恥ずかしいから呼ぶな、と言われていた下の名前に、呼ばれた方は眉をひそめる。でもせめて、これくらいの嫌がらせはしてやりたい。
「お前、帰れよ。見えるだろ。道」
光秀のそれは、道というよりも割れ目に似ていた。大きい。それだけ、生命力が強い。
正義は、光秀をそこに突き落とした。見開かれた瞳に、今、自分はどう映っているだろう。
「皆によろしくな、光秀」
届いただろうか。それ以前に、ここでのことを覚えているだろうか。大半は、こういったときの記憶は、残っていないものだ。
割れ目が閉じるのを確認すると、正義は伸びをした。
「さーて」
帰ろう。
紅玉でも買って、久々に生地からのアップルパイを作ろうか。小麦粉は十分にあったはずだが、バターは買わないとな。そんな計画を素早く立てながら、正義の口元には微笑が浮かんでいた。あのときは、見ているだけだったのに。
――変わったな。
時間は、誰にも平等に。いつか、あの昏い想いさえ、懐かしめるようになるだろうか。
正義は、信号を待って道路を渡った。
正義は、わずかに口の端を持ち上げた。口元に、皮肉めいた笑みが浮かぶ。陰のある笑みに、彰やロクダイが居合せれば、どのような表情をしただろうか。
一つ息を吐いて、目的地へ向かう。交差点の中央。そこには、大学生くらいの男が一人、立ち尽くしていた。
見覚えがある。そのはずだ、数年前まで、厭というほど付き合わせていた顔。多少変わったとはいえ、見間違えるはずがない。
「うわすっげー、芸術品! なんでこんなの作れんの?」
艶やかに光る飴色のアップルパイに目を輝かせ、正義は歓声を上げた。焼き立てなので、香ばしい匂いがする。尊敬の眼差しを送るかのように美月を見つめると、照れたような笑顔がそれに応えた。
「どこの班も似たようなものだよ。パイ生地だって、市販のシートだったし」
「ちょっとセイギ、勝手に食べたら殴るわよっ」
少し離れた位置で紅茶を蒸らしている祐子が、拳を見せつける。
「なんだよ、ほとんど美月ちゃんが作ったようなもんじゃないか。お前が威張って言うなよ」
「班行動。授業中だってこと忘れてるでしょ、アンタ」
「出来たら食べていーって言ってたじゃん」
「紅茶がまだ」
きっぱりと言いきられて、首を竦める。
「ちぇ。…なあなあ、美月ちゃん、こんど俺に差し入れ作ってきてよ。今週末、試合だし」
「おい」
机越しに身を乗り出していたところを、襟首をつかんで引き戻される。正義は、「ぐえっ」と、多少大袈裟に声を上げた。
「…んだよ、パン屋」
「人の彼女に手ぇ―出すなって」
仏頂面を作っている友人がいた。長い付き合いの正義には、それが、実は笑いを噛み殺しているのだということが判る。
元々、この男と美月は、正義が引き合わせたようなものだった。
「なんだ、自信ないのか? ま、しょーがねーよな―。俺のがずっと、優しくてかっこいいんだからな」
「バカがほざいてら」
正義は、交差点の中央で、体をすりぬけていく車に戸惑っている男を、歩道まで引っ張っていった。その必要はないのだが、気分の問題だ。
「車に体すり抜けられて、楽しいか?」
「なっ………おま…っ……! 成仏してなかったのか!?」
本心から、苦笑する。
もっとこだわりを感じると思ったが、こうなってみると、一気に時間が引き戻される。記憶よりも多少大人びた友人に、正義は、彰を真似て人の悪い笑みを浮かべた。
「俺、信仰心ないからな。仏教徒じゃないし。成仏は出来ないよ」
成仏というのは、仏教用語だ。だから、仏教徒でなければできはしない。だが相手には、その意は伝わらなかったようだった。肩をつかみ、真剣な表情で。
「寺行こう、寺! お祓い代くらい、俺が出すから」
「お前、自分もその状況だってことわかってっか?」
はっとして立ち止まる姿に、本気で忘れてたなコイツ、と心中呟く。頭を抱えて黙り込む友人を、正義は複雑な思いで眺めていた。
――いっそ、死んでりゃ楽だったんだけどな。
胸中を、昏い感情がよぎる。
今、この男は危ういところにいる。死ぬ予定ではないが、このままの状態でいれば、一日ともたないだろう。自分が、何も言わずにいれば――…。
「こうなったら、一緒に探そう。古典とかであるだろ、お経読んでたぼーさんのおかげで成仏できたとかって」
そういえば国語好きだったんだよな、コイツ。で、数学系全然駄目で、生物の簡単な計算も出来なくて。よく、二人がかりで教えていた。
「なあ、美月ちゃん、今どうしてる? ついでに祐子も」
一瞬驚いたように、正義を見る。その表情は、全くと言っていいほどに変わっていなかった。
「…あいつ、泣くかな。――まだ付き合ってたんだよ、俺達。…祐子とは、大学離れてろくに会ってないんだけど…」
「光秀」
恥ずかしいから呼ぶな、と言われていた下の名前に、呼ばれた方は眉をひそめる。でもせめて、これくらいの嫌がらせはしてやりたい。
「お前、帰れよ。見えるだろ。道」
光秀のそれは、道というよりも割れ目に似ていた。大きい。それだけ、生命力が強い。
正義は、光秀をそこに突き落とした。見開かれた瞳に、今、自分はどう映っているだろう。
「皆によろしくな、光秀」
届いただろうか。それ以前に、ここでのことを覚えているだろうか。大半は、こういったときの記憶は、残っていないものだ。
割れ目が閉じるのを確認すると、正義は伸びをした。
「さーて」
帰ろう。
紅玉でも買って、久々に生地からのアップルパイを作ろうか。小麦粉は十分にあったはずだが、バターは買わないとな。そんな計画を素早く立てながら、正義の口元には微笑が浮かんでいた。あのときは、見ているだけだったのに。
――変わったな。
時間は、誰にも平等に。いつか、あの昏い想いさえ、懐かしめるようになるだろうか。
正義は、信号を待って道路を渡った。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される
clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。
状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる