英雄不朽

冲令子

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ガーデン・ローズ・フローラ

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「もう少し殿下と親睦を深めたらどうだ?」

 医務室での定期健診を終えたセベリノが、シャツの釦を嵌めながら尋ねる。ラミロは書類を書く手を止め、顔を上げた。

「……必要ありますか?」

 所詮は、公爵領を実質的な王領とするための政略婚である。アンブロシオとラミロは男同士で子を成すわけでもないのだから、夫婦仲の良し悪しなど、何の意味もない。

「あるだろう。少なくとも、殿下はそれを望んでおられる」
「そうでしょうか?」

 ラミロは口をへの字に曲げながら、所見の続きを書く。
 アンブロシオとは何回か食事を共にしたが、むっつりと押し黙ったまま淡々と食べ終えて解散するだけだった。ラミロとの会食を楽しみにしているようにはとても見えなかった。

「照れておられるだけなのでは?」
「まさかそんな──」

 思春期の子どもじゃあるまいし、と言いかけて、ラミロは口を噤んだ。自慰を覚えたばかりの、思春期の子どもだった。
 しかし、親睦を深めるといっても、男二人で何をしろと言うのか。女相手であればダンスや観劇にでも行くのだろうが、あの堅苦しい雰囲気のまま二人で出かけるのは、正直気が重い。

「無闇に外出するのも、警備の問題などでご迷惑をおかけすることになりますから……」
「では、殿下のお邸を訪ねてはどうだ?」

 やんわり断ったつもりが、とんだ藪蛇である。

「……本当に、わたしと殿下は結婚するのでしょうか?」

 瞬く間に訪問日を決めてしまったセベリノに若干呆れながら、おずおずとラミロが尋ねる。

「今さら何を言っている」
「いえ、結婚自体は受け入れておりますが、殿下のお気持ちは、本当にわたしに向いていらっしゃるのでしょうか。手コ……手淫の件で色々と思い違いなさっているだけで、女性と交際されればお考えも変わるのではないでしょうか」
「殿下が女を抱きたいとおっしゃるのであれば、その時は愛人でもなんでも作ればよかろう。そもそも、女を当てがって無邪気にお喜びになるような方なら、ここまで拗らせていない」

 セベリノに一蹴されて、ラミロは力なく項垂れた。

「あの……」
「まだ何かあるのか」

 若干面倒くさそうにしながらも、セベリノは根気強くラミロの話に耳を傾けた。

「……わたしの素行に問題はないのでしょうか」

 ラミロが不安げな視線を向けると、セベリノの表情には一瞬だけ翳りが浮かんだが、すぐにそれを消し去った。

「寄宿学校時代のことを言っているのであれば、結婚に支障が出るような話ではない。むしろ貴公は被害を被った側ではないか」
「……そうでしょうか」

 すでに身辺調査でラミロの過去を知っているはずのセベリノが言うのであれば、問題はないのだろう。
 婚約には影響がないと断言されて、ラミロはほっとするような、落胆するような気分になった。





「次はアンブロシオ殿下がお見えになります」

 助手にそう告げられたラミロは、無意識のうちに身構えた。
 ほどなくして医務室を訪れたアンブロシオは、ラミロの前に座るとぎこちなく軍服の釦を外し始めた。

「……お手伝いいたしましょうか?」

 アンブロシオは一瞬ギョッとした表情になったが、無言のまま手を下ろしてラミロに任せる。

 ──手伝うってだけで、全部俺がやるとは言ってないんだけど……。

「全て脱がなくていいのか?」

 前をはだけた状態で診察を始めたラミロへ、アンブロシオが不服そうな声で尋ねる。

「……前を開けていただければ充分でございます」
「脱いでも構わないが」

 アンブロシオの言葉を無視して、ラミロは淡々と診察を進めた。

「他の男にも、こういうことをするのか?」

 首筋の触診をしていたラミロは、はい? と顔を上げる。ラミロを見つめるアンブロシオの顔が、思いのほかすぐ近くにあった。

「……仕事ですので」
「仕事はいつ辞める?」

 ──結婚するとなれば、この仕事は辞めるのか……

 好きで就いた仕事ではないが、辞めるとなると複雑な心境だ。
 侯爵になったところで、領地経営はアンブロシオや王室が執り行うのだろうし、社交にも興味はない。せいぜい乗馬や狩りを楽しむ程度か。
 レネにとっては、狭い官舎暮らしなんかよりも余程楽しいだろうが……。

 ラミロはそんなことを考えながら、ふとあることに気づいた。
 もしレネに番ができて、妖獣が繁殖したら?
 境界地以外に妖獣が出現するのは、さすがにまずい。かといって、レネを置いていくわけにもいかないし……。

 悶々と考え込んでいると、視界の端にアンブロシオの下半身が映った。
 間近にあるアンブロシオの顔を見上げると、決まりの悪そうな表情で視線を逸らす。

「あの……生理現象ですのでお気になさらず」

 ラミロは極力反応を示さないようにしながら、診察を続けた。触診の感度を上げるために指先に魔力を込めているせいで、脈拍の早さが直に伝わってくる。

「回数が……」

 アンブロシオが言いづらそうに呟いた。

「自分でする回数が、多すぎる気がするのだが……」

 自慰の回数のことを言っているのだろう。
 ドッドッと激しい心音が伝わってくる。

「適度な回数というのは人それぞれです。それに、覚えたては皆、そういうものかと」

 ラミロがチラッとアンブロシオの様子を窺うと、こちらを見つめる視線とぶつかった。
 努めて事務的に答えたつもりだったが、その眼差しの熱さに、ラミロの心臓もどくどくと音を立てる。
 不意に、厚い胸板に触れたままの手が気になった。ただ診察しているだけなのに、手のやり場に困ってしまう。
 ラミロが顔を赤くして俯いているうちに、アンブロシオはラミロの手をそっと払うと、服の釦を留めた。

「そのままでは、お務めに差し障りがあるのでは?」
「……問題ない」

 アンブロシオは立ち上がると、ラミロから距離を置き、気持ちを落ち着かせるようにフーッと深呼吸した。自分を避けるようなアンブロシオの態度に胸がチクリと痛み、ラミロはその反応にも戸惑った。

「週末に邸に来ると聞いた。楽しみにしている」

 全く楽しくなさそうに言い残して部屋を出ていくアンブロシオを、ラミロは複雑な気持ちで見送った。






 アンブロシオの私邸を訪問する日、迎えを寄こすと言われていたにも関わらず、家を出なければならない時間になっても、迎えの馬車は一向に来なかった。
 約束に遅れるわけにもいかず、ラミロは辻馬車で私邸を訪ねた。
 いきなり訪れて入れてもらえるのかと不安に思いながら取り次ぎを願うと、中年の執事が現れる。

「ようこそお越しくださいました」

 執事はにこやかにラミロを出迎えた。
 しかし、ラミロとて曲がりなりにも高位貴族の子息である。執事の態度の僅かな違和感に、自分がやらかしたことを悟った。

「どうやら時間を間違えたようです。迎えを用意していただけると聞いていたのに申し訳ない。出直してきます」
「いえ、よろしければお食事でもお召し上がりください」

 初めて訪ねる邸でひとり食事をするのは気まずすぎるが、ラミロを帰したとなれば、執事が叱責される可能性もある。

「お気遣いは不要ですが、せっかくなのでお庭を拝見しても?」
「もちろんでございます。ちょうどバラが見頃ですので、ぜひご覧ください」

 案内された庭は手入れが行き届いていて、さすがは殿下の私邸と思わせる美しさだった。
 ぶらぶらと園路を散策していると、生垣の向こうに邸が見える。窓ガラス越しに、アンブロシオが初老の男と話をしていた。
 客が来ているなら、ラミロの突然の訪問はますます迷惑だろう。

 気まずさから、庭園の奥へと行こうとしたところで、不意にアンブロシオと目が合った。
 アンブロシオは一瞬固まった後、焦った様子で立ち上がった。その勢いで、いかにも重厚そうな椅子が後ろに倒れ、離れたところにいるラミロにまでガタン! という音が聞こえる。
 目が合った以上、無視するわけにもいかず、ラミロは邸へと戻った。

「こちらはファブロア大学のセルヴェート教授だ」

 明らかに不機嫌そうなアンブロシオから紹介されて、ラミロは居心地の悪さを感じながらセルヴェート教授と握手を交わした。

「お邪魔をしてしまい申し訳ございません。うっかり時間を間違えて訪問してしまいまして。わたしの用事はまたの機会で構いませんので、どうぞごゆっくりお話しください」

 暇乞いのきっかけを探るように愛想笑いを浮かべるラミロを、セルヴェート教授がまじまじと見つめる。

「こちらが噂の婚約者殿でございますか?」

 セルヴェート教授に尋ねられて、アンブロシオは眉間に皺を寄せながら頷いた。

「せっかくですから、婚約者殿にも同席いただいては?」

 迷惑そうな空気を発しているアンブロシオの手前、ラミロははいともいいえとも言い出しかねたが、セルヴェート教授はさっさと席に着いてしまった。

「本日は僭越ながら、殿下へ聖典の解釈について講義を申し上げておりました」

 仕方なくアンブロシオの隣に座ったラミロが横目で様子を窺うと、殿下はムスッと黙り込んで俯いている。

「どこまでが婚外交渉に含まれるかという殿下からのご質問がございまして──」

 ラミロは口にした紅茶を吹き出しかけて、思わず咽せた。

「クリスティアド教、特にフーデス派では、結婚前の性交渉は禁じられております。なぜだかおわかりですか?」

 突然質問されて、神学を真面目に勉強してこなかったラミロは、内心冷や汗をかいた。

「……風紀の乱れを防ぐため、でしょうか」

 ラミロの幼稚な回答に対して、セルヴェート教授は穏やかに微笑んだ。馬鹿な子どものように憐れまれている気がした。

「もちろん、そういった意味合いもございます。ですが父なる神は、性交渉を生涯の絆を紡ぐ高尚な営みとお考えなのです。本来であれば、心も体も一体となる行為を誰彼構わず行えるはずがないのです。逆に言うと、喜びも苦しみも生涯分かち合う覚悟のある二人であれば、性交渉の際に結婚の事実は問わないとも解釈できます」

 セルヴェート教授の講釈を聞き、ラミロは隣に座るアンブロシオをこっそりと見た。アンブロシオは眉を顰めて目を閉じ、聞いているのかどうかもわからなかった。

「……つまり?」
「生涯の伴侶となるご予定があるのであれば、羽目を外しすぎない程度にお楽しみくださいませ」

 ──セクハラじゃねえか。

 正直、神学に興味はなかったが、性交渉が愛し合う二人の絆を育む行為だという解釈には胸を衝かれた。
 ラミロは、この結婚に愛など必要ないと思っていたし、アンブロシオの気持ちも心の底からは信じられなかった。
 でもそれと同時に、兄の代わりではない、ラミロ自身として誰かの特別な存在でありたいと願っていた。
 時々感じるアンブロシオに触れたいという衝動が恋であるとすれば……。そして、アンブロシオが互いに真心を尽くし合える相手となってくれるとしたら……。

 セルヴェート教授が暇乞いをして二人きりになると、アンブロシオは片手で顔を覆って項垂れた。
 
「あの……お庭を拝見していた途中なので、よろしければご案内いただけますか」

 押し黙ったままのアンブロシオと二人きりで部屋にいるのが気詰まりで、ラミロは庭園へと誘った。
 初夏の眩い陽射しに煌めく庭園は、むせかえるほどの花の香りに満ちていた。

「本日は申し訳ございません。わたしが時間を間違えたばかりに……」
「いや、それは問題ない」

 アンブロシオは険しい表情のまま、俯いて歩いた。

「……先程の話だが、今日、邸に呼んだからと言って、そういうことをしようと思っていたわけではなく……」

 しどろもどろになって説明しようとするアンブロシオへ、ラミロは足を止めて向き合った。

「……わたしは、目に見えない愛情のようなものを信じない性質でして、正直なところ、この結婚はただの書類上の契約にすぎないと思っておりました。それでも……教授の解釈を聞いて、殿下と喜びも苦しみも分かち合うような関係になれればと……あの、性交渉の話はまた別ですが…………」

 話しているうちにだんだん気恥ずかしさが込み上げてきて、最後の方は尻すぼみになってしまった。
 アンブロシオはしばらくラミロを見つめたのち、徐に片膝をついて跪いた。

「わたしの人生をあなたと共に歩むことができれば、これ以上の幸福はない。わたしの全てをあなたに捧げよう。どうか、永遠にわたしのそばにいて欲しい」

 ラミロは差し出された手のひらの上に、自らの手を置いた。

「喜んで殿下の伴侶となります」

 アンブロシオは立ち上がると、おずおずとラミロの肩に両手を置いた。どちらからともなく二人の顔が近づく。
 バラのアーチの下、甘く濃厚な香りに包まれながら、二人は唇を重ねるだけの、子どものような拙い口づけを交わした。
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