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一章 キライをスキになる方法

一章 17

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 貴之の字が上手いのは父親譲りだ。
 遺伝ではない。父の筆跡を模倣した。

 学童期の持ち物には名前を記さなければいけない。本人が嫌でも親が面倒でも、学校の決まりなので仕方がない。

 貴之の母親は、汚文字であることがコンプレックスだったようだ。提出用のプリントから貴之の荷物まで、文字を書くのはすべて父親の役目だった。

 父親はごく普通のサラリーマンで字を活かすような仕事ではなかったが、読みやすく美しい字を書いた。父方の叔父も達筆だったので、父の実家の教育だったのかもしれない。

「お父さん、上手!」

 父が字を書くたびに、母は大げさに褒めた。それは本音でもあったろうし、役割を担ってくれている夫への労いでもあったのだろう。
 思えば、美文字を書くと人に喜ばれるというのは、この頃に刷り込まれたに違いない。

 小学校の頃は、貴之はよく父の字を模写していた。
 いつしか、クラスメイトからも教師からも「字が上手い」と褒められるようになった。

 将来、この字で人を喜ばせるようになりたい。
 貴之はそう思っていた。

 しかし、中学一年の年末に――。

「氷藤さん、次は品川駅ですよ」
 美優に声をかけられた。

「ああ、そうか」
 思い出に浸っていたら、時間が過ぎていたようだ。残り少ない二本目のビールを飲み干して、三本目は鞄にしまう。家で冷やしてから飲もう。

「……っておい、なんだよそれは」
「駅弁ですよ。普段は買えないじゃないですか。冷蔵庫に入れていれば、二、三日は大丈夫です」

 机にのった白いビニール袋には、弁当が重なって入っていた。

「駅弁なんてここで買わなくても、いつでも家で取り寄せられるだろ」
「えっ、そうなんですか!?」

 美優は衝撃を受けたようにのけ反った。しっかりしているように見えて、かなり抜けている。

「今日はありがとう。おかげで依頼人は喜んでいた」
 貴之は美優に礼を言った。
 当然、社交辞令だ。

 迷惑以外の何物でもなかったが、大人の対応をしておく。もう二度と会うことはないだろうが、SNSであることないことを拡散されても困る。
 それに終わってみれば、悪い経験でもなかったような気もする。たぶん。

「わたしの名前、憶えていますか?」
 美優はずいっと、愛らしい小さな顔を近づけてきた。

 貴之は固まった。
 思い出せない。

 というよりも、そもそも覚える気がなかった。

「やっぱり、覚えていなかったんですね。おい、とか、おまえ、とか。全然名前を呼んでくれませんでしたもんね」
 バレていたか。

 名前を呼ばれたかったのなら、もっとはじめに確認すればよかったのに。こんな別れ際に文句を言っても仕方がないじゃないか。
 若干の罪悪感を抱えながらも、貴之はそう思った。

「わたしは新田美優です。はい」
 英語の授業の、「リピート・アフター・ミー」のような仕草だ。

 どうせ、もう少しでおさらばだ。気が済むまで付き合ってやろうではないか。

「にったみゅう……、みゅう。んん? み、ゆ、う。おまえの名前、呼びづらいな」
 アルコールも手伝って、舌が回らない。

「そうなんです、友達にも同じことを言われました。だからあだ名はミュウなんです。氷藤さんもミュウでいいですよ。わたしも貴之さんって呼んでいいですか?」

 こいつ、また距離を詰めて来やがった。
 貴之は得体の知れない生き物のように美優を見た。
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