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二章 大切なものほど秘められる
二章 11
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視線を感じて隣りを見ると、「そろそろ、あの話題を出せ」と美優が目力で訴えてきた。
はいはい、わかってるよ。
身体的な内容の扱いは、慎重にならざるを得ない。
「失礼ですが、ご主人は左半身に少し麻痺がありますか?」
「ええ」
冴子はうなずく。美優の観察眼は確かだったようだ。
「どんなことがあったのか、お聞きしてもいいでしょうか」
冴子は口角を上げて薄く笑った。
「それを聞かれるんじゃないかと思っていたんです。夫は出かける前に、匿名だから記者さんになんでも話してしまっていい、とわざわざ言い残すものですから」
冴子はお茶で喉を湿らせた。リップのついた湯呑を指先で拭う。
「主人は十二年前、四十二歳のときに脳梗塞になりました」
徹也が倒れたのは、愛人との逢瀬の最中だったという。
「主人が多趣味であることは間違いないのですが、ときに女性も伴うことは気づいていました。あの人はもてましたからね。でも、私に隠しているということは、別れる気はないのだと判断しました。仕事をきちんとして、生活費も入れてくれていましたから、そのほかの時間やお金をどう使おうと、それは彼の自由だと考えていました」
「それは……つらかったですね」
美優がつぶやくように言った。
「若いころは私も浮気をし返してやろうと思いましたが、できませんでした。やっぱり私は、夫が好きなんですよね」
浮気を責め立てると、余計に夫婦関係がこじれると聞いたこともあった。ならば居心地のいい家を整えて、頻繁に帰って来たいと思わせるしかない。
そう考えた冴子は、家事も、育児も、仕事も手を抜かずに生きてきた。
そんななかでの、徹也の脳梗塞だった。
「病院から電話がかかってきて駆けつけたら、病室に愛人がいたんです。ピチピチの二十代ですよ。もう、怒る気にもなりませんでした」
冴子は苦笑しながら首を振った。
当時の担当医から「病院に運ばれてきたのが早かったので、後遺症があったとしてもリハビリ次第で重くはならないだろう」と言われたという。
「手術の終わった夫も、若い愛人も、お通夜みたいな顔をしていました。当然、私が激怒すると思ったんでしょうね」
冴子はその日のことを思い出すように、クスリと笑った。
「私は愛人の子に、頭を下げました」
「謝ったんですか?」
なぜだと貴之の頭に疑問が浮かんだ。頭を下げるべきなのは不倫をしていた二人の方だろう。
「いえ、夫をすぐに病院に連れて行ってくれてありがとうと、私は礼を言ったんです。もし不倫がばれたらどうしようなんて躊躇して、救急車を呼ばなかったら、夫は生きていなかったかもしれませんからね」
冴子が礼をしたことに二人はぽかんとしたあとに、愛人は申し訳ないと泣き出した。
「泣きたいのはこっちなんですけどね」
冴子はまた苦笑する。
「でも、感謝の気持ちは本心でした。夫に死なれたら困ります。私は夫から別れを切り出されない限り、離婚をするつもりはありませんでした。どうしてそこまでと問われると困るのですが、私はどうしようもなく夫が好きなんです」
自由奔放で、時代を切り取る感性と才能がある。自分と正反対の人だからこそ、冴子は徹也に惹かれた。
「私は詰まっていた仕事のスケジュールをすべてキャンセルして、夫の介護に専念することにしました。初期のリハビリが大事だと医師に聞いていたからです」
冴子の献身もあり、担当医が驚くほど徹也の後遺症は軽度ですんだ。
「なにが功を奏するのかわかりませんね。それから夫の浮気はピタリとなくなりました。少なくても、私の知る限りでは」
この件で徹也は、妻の愛情がどれほど深いものだったのか、やっと実感したのだろう。
はいはい、わかってるよ。
身体的な内容の扱いは、慎重にならざるを得ない。
「失礼ですが、ご主人は左半身に少し麻痺がありますか?」
「ええ」
冴子はうなずく。美優の観察眼は確かだったようだ。
「どんなことがあったのか、お聞きしてもいいでしょうか」
冴子は口角を上げて薄く笑った。
「それを聞かれるんじゃないかと思っていたんです。夫は出かける前に、匿名だから記者さんになんでも話してしまっていい、とわざわざ言い残すものですから」
冴子はお茶で喉を湿らせた。リップのついた湯呑を指先で拭う。
「主人は十二年前、四十二歳のときに脳梗塞になりました」
徹也が倒れたのは、愛人との逢瀬の最中だったという。
「主人が多趣味であることは間違いないのですが、ときに女性も伴うことは気づいていました。あの人はもてましたからね。でも、私に隠しているということは、別れる気はないのだと判断しました。仕事をきちんとして、生活費も入れてくれていましたから、そのほかの時間やお金をどう使おうと、それは彼の自由だと考えていました」
「それは……つらかったですね」
美優がつぶやくように言った。
「若いころは私も浮気をし返してやろうと思いましたが、できませんでした。やっぱり私は、夫が好きなんですよね」
浮気を責め立てると、余計に夫婦関係がこじれると聞いたこともあった。ならば居心地のいい家を整えて、頻繁に帰って来たいと思わせるしかない。
そう考えた冴子は、家事も、育児も、仕事も手を抜かずに生きてきた。
そんななかでの、徹也の脳梗塞だった。
「病院から電話がかかってきて駆けつけたら、病室に愛人がいたんです。ピチピチの二十代ですよ。もう、怒る気にもなりませんでした」
冴子は苦笑しながら首を振った。
当時の担当医から「病院に運ばれてきたのが早かったので、後遺症があったとしてもリハビリ次第で重くはならないだろう」と言われたという。
「手術の終わった夫も、若い愛人も、お通夜みたいな顔をしていました。当然、私が激怒すると思ったんでしょうね」
冴子はその日のことを思い出すように、クスリと笑った。
「私は愛人の子に、頭を下げました」
「謝ったんですか?」
なぜだと貴之の頭に疑問が浮かんだ。頭を下げるべきなのは不倫をしていた二人の方だろう。
「いえ、夫をすぐに病院に連れて行ってくれてありがとうと、私は礼を言ったんです。もし不倫がばれたらどうしようなんて躊躇して、救急車を呼ばなかったら、夫は生きていなかったかもしれませんからね」
冴子が礼をしたことに二人はぽかんとしたあとに、愛人は申し訳ないと泣き出した。
「泣きたいのはこっちなんですけどね」
冴子はまた苦笑する。
「でも、感謝の気持ちは本心でした。夫に死なれたら困ります。私は夫から別れを切り出されない限り、離婚をするつもりはありませんでした。どうしてそこまでと問われると困るのですが、私はどうしようもなく夫が好きなんです」
自由奔放で、時代を切り取る感性と才能がある。自分と正反対の人だからこそ、冴子は徹也に惹かれた。
「私は詰まっていた仕事のスケジュールをすべてキャンセルして、夫の介護に専念することにしました。初期のリハビリが大事だと医師に聞いていたからです」
冴子の献身もあり、担当医が驚くほど徹也の後遺症は軽度ですんだ。
「なにが功を奏するのかわかりませんね。それから夫の浮気はピタリとなくなりました。少なくても、私の知る限りでは」
この件で徹也は、妻の愛情がどれほど深いものだったのか、やっと実感したのだろう。
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