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雪夜の母子

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『何も聞かずこの赤子をユーゴ・ウェンティア公爵まで届けよ』

 王宮のメイドであるマリアは細雪しんしんと降る中、眠る乳飲み子を腕に抱え城外に出た。
 赤子を引き渡しそう告げたのは、その服装から高位の文官であることは分かったが、一使用人である彼女が顔と名前を一致させることは叶わなかった。
 その声がやたら威厳のある響きだったことだけが印象に残った。

 理由も、この赤子が誰なのかも知らない。
 ただ1枚の毛布に包まれただけの赤子を突然渡され、すぐに出立するように言われたのだ。

 平民である自分が理由を問いただすことなど出来ない。
 もしかしたら、この子は王族の秘密に関わる尊い身分の子かもしれない。
 届ける先はユーゴ・ウェンティア公爵。

 この国の王位継承権を第二位に持つ王子だ。

 なぜ自分がそんなことをするのか疑問に思うことも出来ないような、不思議な強制力。  
 彼女は声に従わねばならないという使命感に駆られ、それほど温かくもないコートを着て赤子ごとショールを被ると街に出た。
 
 ユーゴ様は王室が持つ城下の邸宅のどこかにいらっしゃるとは聞いたことがある。
 それ以上は知らない。知りようもない。

「寒いね。ユーゴ様の所まで頑張ってね」

 眠る赤子にそう呟く彼女の方が、頬を真っ赤にし、雪に濡れ寒そうだった。
 
 ほのかな街灯を雪が照り返す中、彼女は何かに導かれるかのように歩き始めた。
 知らないはずの邸宅を目指し足がどんどん動く。
 寒いはずなのに気分は高揚し、ひたすらに歩いた。
 やがて目の前に他の住宅から少し外れるようにして佇む、古びた邸宅が1軒現れた。

「痛いっ」

 ふくらはぎの辺りに痛みを感じ我に返った。
 白い靴下に血が滲んでいる。スカートの裾が凍って切れてしまったようだった。
 痛みに眉をしかめると同時に、赤子が突然泣き始めた。

「しーっ、しー。いい子ね。ああ、どうしましょうきっとお腹が空いてるのよね。おしめも取り換えてあげないと…」

 雪の降る夜は静かで、そこで泣きわめく赤子の声はとても目立つ。
 マリアは雪を少しでも避けたくて邸宅の庭木に身を寄せた。
 しかし自分の乳が出るわけでもなく途方に暮れていると、間もなく邸宅の人間に見つかってしまった。

 彼女を見つけた男性使用人は鬼のような形相でマリアを睨み、素性も聞かぬまま邸宅の中に引きずり込んだ。
 乱暴な扱いに泣きわめく赤子を必死に抱きしめる。
 家人はもう休んでいたのか、使用人に無理矢理押し込められた1室で怯えているとしばらくしてから主と思しき1人の男性が現れた。

「煩い! 誰だ貴様は! まずはその赤子を黙らせろ!」

「申し訳ございません。この子はお腹が空いているのです。どうか、どうか乳を分けて下さいませんでしょうか」

 マリアは恐怖と寒さに震えながら訴えた。
 薄暗い部屋に浮かんだ男はマリアからすれば大きく、怒鳴る声は雷鳴のように聞こえた。
 だが赤子に対し大人のように「今日だけ我慢」というわけにはいかないし、おしめも濡れたままでは冷えて風邪をひかせてしまう。
 引き下がるわけにもいかなかった。

「貴様の身元を調べるにしてもまずは赤子を黙らせろ! 早く乳をやらぬか!」

「恥ずかしいことに私は乳が出ません。どうか貰い乳をさせていただける方はいらっしゃいませんでしょうか」

 私の子ではないと言うのは簡単だ。
 だがそれならこんな雪の降りしきる夜中に一体誰の赤子を抱え何をしているのか。
 不審な点を一つでも減らすために、咄嗟に彼女は乳の出ない母を装うことにした。

「貴様それでも母か!」

 散々ののしられたものの、乳の出る娘を持つハウスメイドがいた。
 庭師を夫に持ち、家族で厩舎の一角に住み込みで働いていたのだ。
 娘は寝ていたのにも関わらず叩き起こされるとすぐに連れて来られた。
 別室で娘が赤子を預かりおしめと乳の世話をする間、マリアはこの屋敷の主に取り調べを受けることになった。

「名は」

「マリアと申します」

 男は胡乱気なまなざしで目の前で縮こまる小汚い女を見た。
 雪にまみれた女のコートは使用人が慌ててつけた暖炉の熱で溶けてしまい彼女をじっとりと濡らしていた。
 小さな体は小刻みに震えている。
 
 男は一刻も早くこの薄汚れた女を追い出したかった。
 そうでなくても赤子の鳴き声で頭がガンガンする。
 邸宅に侵入した不審者だが、こんな女と赤子に何か目的があるとも思えない。

 取り調べなどいい。さっさと追い出してしまえ。

「面倒だ。屋敷に侵入したことは咎めない代わりに、赤子の世話が済んだら出て行くが良い」

 男は外の雪よりも冷たくそう言い放った。
 ちょうど世話の終わった娘が赤子を抱え戻って来た。
 おしめも取り換えてくれたらしく、赤子はまたスヤスヤとマリアのショールの中で眠っていた。

 乳をくれた娘は無言で赤子をマリアの腕に押し付ける。
 マリアは小さく「ありがとう」と彼女に言ったが、娘はそそくさと部屋を出て行ってしまった。

「いつまでそこにいる。さっさと出て行くが良い」

 マリアは不安な表情のままちらりと外を見た。
 当たり前のようにまだ雪は降っている。
 厳しい寒さの中に、また赤子と2人放り出されてしまう。
 赤子のためにもせめて今夜1晩だけでも泊めてもらえないだろうか。

「あのっ」

「煩い。去れ」

 女は懇願するような瞳を向けたが、男は相も変わらず冷ややかな目に暖炉の炎を映しているだけだった。

「…夜分にご迷惑をおかけしました。赤子の世話の慈悲、感謝致します」

 女は哀しい目でそう言い頭を垂れると、赤子を抱いて立ち上がった。
 女が背を向ける寸前、男は赤子が目を開いているのに気づいた。
 赤子の澄んだ瞳は、男の心の奥底まで見透かすかのよう。
 その瞬間、男の頭に教会に反響する司祭のような声が聞こえて来た。

『我を覚えているか。我の約束を覚えているか』

「誰だ…いや、覚えている。俺の願いを叶えたものだ」

『さよう。覚えていたのか。幼き日の約束、今果たしに来た』

「約束ならあの日とうに果たしたではないか。願い通りお前は俺の心を無くしてくれた。お陰で余計な感情に厭う日も無くなった」

『いいや違うぞ。我は全ての心を奪い去ってなどいない。お前の望みに対し我はほんの少しだけ心を残した。お前が将来、つまり今感情を取り戻す礎となるようにな』

「何故そんな面倒なことを」

『言うたであろう。心無き者に王の資格などない。愛を忘れたお前の心は氷も同じ。心と同じく身も凍てつき、1人死んでいくのだ』

「元より王位などはく奪されたも同然。間もなく王位は弟が継ぐだろう。どうせ誰しもいつしか死ぬのだ。それが今であっても惜しくも怖くもない。愛など下らぬ。そんなもの見た事ないわ」

『その言葉、忘れるなよ』

 声が消えると同時に、男の胸の内側に吹雪が通り過ぎたような感覚が走った。
 背筋が凍るなどと言った表現があるが、そんなものよりずっと恐ろしい冷たさだった。
 だがそれも一瞬。
 男が気づいた時には、もう赤子を抱えた女は退室した後だった。

 あの声は男にしか聞こえてなかったらしい。
 暖炉に薪を足した使用人が飲み物が入用か聞いて来た。

「いやもう休む。お前も下がれ」

 男はそう言うと立ち上がり部屋を出た。
 肌寒い廊下の窓からは、今しがた追い出した女が門に向かってよろよろと歩いていく姿が見えた。

 女のコートは真冬の寒さには不向きに見えた。
 ショール1枚を必死に赤子に巻き付け、濡れたコートで雪の通路を歩いている。

 まただ。
 また胸が酷く冷たい。

 玄関のガス灯が、女の歩いた跡を照らしていた。
 女は積もった雪に足を取られよろめいたようだった。
 よく見れば雪に点々と赤い痕がある。

 あれは、血? なぜ?

 クソ、冷える。胸が酷く冷える。
 これか。
 あの声の言っていたことは。
 
 寒い。
 冷たい。
 何故だ。
 心を捨てたはずなのに、悲しみが蘇る。

「クソッ」

 男は悪態を1つついた後、大急ぎで女を追いかけた。
 玄関を開けた途端に猛烈な寒さが薄着の体に襲い掛かる。

 女はこの寒さの中をああしてずっと歩いてきたのか?

「待て、女、待つが良い」

 血の痕を追いかけると、女は門に手をかけようとするところだった。
 振り向いて驚く女に、男は気まずいのか語気を強めて話しかけた。

「屋敷の敷地で死なれても困る。朝までいることを許可する」

「それをわざわざ言いに来てくださったのですか? 夜着のままではありませんか。ご厚意はありがたく存じますが、これではご主人様がお風邪を召されます。早くお屋敷にお戻りください」

 今屋敷の主に追い出されたばかりの女が、己の運命よりも男のことを優先してそう言った。
 だが男はその言葉をどこか自分を非難するものに受け止めたらしかった。

「言われずともそうする! 貴様も早く屋敷に戻れ」

「ありがとうございます。あの、ご主人様のお名前をお伺いしてもよろしいでしょうか」

 男は振り返らず「ゲイル」と短く言うと先に屋敷に戻ってしまった。

 ゲイル様。なんて冷ややかな方だろう。

 言葉や態度だけでなく、もっと奥深くから感じる冷たさがある。
 マリアが再び屋敷に戻ると、ゲイルに言いつけられたのか男性使用人が面倒そうな顔で屋敷の地下にある1室を使わせてくれた。

 そこは使われていないのか物置のように雑然とした湿った部屋だったが、マリアはそれ以上雪の中をさ迷う心配がなくなりほっとした。
 濡れたコートは脱ぎ、不用品らしい古びたソファのカバーを外すとそれにくるまり、赤子を抱え込むようにして丸まった。
 灯りの1つもない部屋で、スヤスヤと眠る赤子の息遣いだけが彼女の心の支えとなった。
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