44 / 66
第1章 明姫月高校女子硬式野球部の始まり
第37話 名将の“眼”
しおりを挟む「な、ナイスピッチ。陽野さん」
「ナイスピッチでした! 陽野先輩!」
ピンチを連続三振で切り抜け、マウンドを降りてきたエースをベンチにいた蘭華のチームメイトも皆笑顔で出迎えた。
「……あ? 話しかけんな」
しかし、肝心のエースの顔に笑みはなく、ハイタッチにも応じることなく早足でベンチの奥へ引っ込んでいってしまった。
「あー、ごめん! みんな。アイツのことはほっといてやって」
「大矢先輩……」
呆然とするチームメイトたちの前で矢面に立ったのは彼女の捕手である大矢優姫乃。
「アイツ、集中が深くなるとどうも激情的になりやすいみたいで……だからアレは、せめて味方には当たんないようにっていうアイツなりの気遣いのつもりらしいの」
「いや、別にそういうことなら……」
この日グランドに残っているメンバーに普段から涼や優姫乃と共にレギュラーとして試合に出場している選手は少なく、ましてやあの状態の陽野涼と接したことがあるのは優姫乃や柚希を含めたほんの一部の者だけであった。
「お前たち。打席のない者は皆、私の周りに集まってくれ」
「……っ、はいっ! 監督!」
多くのメンバーが涼の変貌に戸惑いを隠せずにいる中、ベンチの隅に腰を下ろしていた大柿紫が不意の一声でナインを集めた。
「────全員、目を上げろ。以上だ」
名将と呼ばれる彼女は開口一番、結論だけを手短に押し付けてすぐにまた口を閉ざしてしまった。
「えっと……何の? ですか?」
「そ、それだけ……ですか?」
選手たちが一様に困惑する中、常日頃から大柿紫と共に戦ってきた柚希が慣れた表情で彼女に声をかけた。
「カントクさん。また言葉足らずになっちゃってるよ! それじゃみんなに伝わってないって」
「……そうか。すまない」
女子高校野球界きっての名将と称される大柿紫だが、緊迫した試合の最中だと熱中するあまりつい言葉足らずになってしまう癖があった。
「なら順を追って説明しよう。前の回、全員にストレートを狙うよう指示したが、最後の打者はストレートを見逃して三振だった。あれはどうしてスイングできなかった?」
「あ、はい! あれは、その……ボールの軌道が一瞬スライダーに見えて」
「それこそがあのピッチャーのキモだ」
出し抜けに前の打席の失策について問われ、6番打者は恐る恐る返答したが、大柿紫が感情的に彼女を叱責するようなことはなかった。
「これは私の目測だが、あのスライダーは進行方向に向かってほとんど平行なジャイロ回転がかかっているのだろう。涼のスライダーのような横曲がりの回転が少ないために横曲がりが小さく、揚力を生み出す上向きの回転もないため重力に逆らえず小さく落ちる。人間の目は横の動きよりも縦の動きに弱い。ストレートと似たような軌道から鋭く縦に沈むあの球はちょうど視界から消えるように見えるだろう」
大柿紫の論が進むにつれて、蘭華の選手たちは今が試合中だということも忘れて聞き入っていた。
「加えて、ジャイロ回転は空気抵抗を受けにくいため軌道が安定し手元でもスピードが落ちないために打者はストレートだと誤認しやすい。お前はその球を警戒するあまり、同じような球速で同じような軌道からノビてくるストレートに手が出なかったのだろう」
その仮説に、見逃し三振を喫した彼女も腑に落ちたように頷いていた。
「つまり、あの投手のピッチングは“ストレートに見える球”が『スライダー』で、“スライダーに見える球”が『ストレート』になるよう構成されている。2つの球種がお互いに偽装し合っているために割り切って待っていても容易にはとらえきれない」
「な、なるほど……」
変化球主体のこの時代にこれだけシンプルな投球を組み立てる投手はほとんどいなかった。だからこそ、蘭華のような強豪チームの打者たちも直ぐには攻略することができずにいた。
「────ストライーク! バッターアウト!!」
この回先頭で打席に入った7番打者も低めいっぱいのストレートに手が出ず、見逃し三振に倒れた。
明姫月バッテリーのシンプルな配球に翻弄される様を見て、大矢優姫乃が不安そうな声を漏らした。
「けど、それじゃあ相手の失投を待つ以外に具体的な対策が取れないんじゃ……」
「いやいや、ヒメちゃん。そうと分かってれば攻め手はあるはずだよ」
優姫乃の質問に反応したのは、大柿紫のすぐ傍らに腰掛けていたチームの主砲だった。
「あのピッチャーの武器は打者の想像よりノビてくるストレートと、同じような軌道から小さく沈むスライダーな訳でしょ? その2つの球種を低めのゾーンで出し入れして錯覚を作ってるんだよ。ストライクになるストレートは振りたいけど、ボールになるスライダーは振りたくない。そんな打者心理を上手いこと利用されてる感じかな」
「それくらいはわかるけど、それがなかなか見極められないって話でしょ? みんながみんなアンタみたいに簡単に野球してる訳じゃないんだからね」
大柿紫の話を聞いている時とは明らかに優姫乃の態度が違った。柚希も今更それを気にする様子もなかったが。
「だからさ、スライダーをストレートと見間違えるってことはスイングするまでのどこかで認識してるはずの“違い”があるってことだよ。ね? カントクさん」
「ああ。あの2球種を見分けるために重要なのは“投じた瞬間の角度”だ」
柚希の説明を引き継ぐ形で、大柿紫は論の核心に触れた。
「2つの球の軌道は似ているが全く同じではない。例えば、2つの球を全く同じ終着点に到達するように投じたとすれば、最後に沈むスライダーのほうが軌道としてはより高く膨らむ必要があるだろう」
「それは、確かに……」
「しかし、このわずかな軌道の差が打者の目を欺く“毒”となる」
ここまで聞いて、選手たちはようやく大柿紫が真っ先に口にした結論の意味に気づきつつあった。
「ストレートを狙っている打者にとってはこの僅かに浮く軌道が絶好球のように見えるが、実際にはそこからゾーン外へ沈んでいく。逆も然りで、低めのスライダーを振るまいとしている打者には低く沈み込む軌道が空振りを誘うスライダーのように見えるが、実際にはそこからゾーン内へノビ上がってくる。この軌道の変化がちょうど打者がスイングの要否を判断する地点から縦に別れ始めるから、打者の眼はたった2つの球種を真逆に誤認してしまうのだろう。先にも言及したが、人の眼は縦の変化には鈍いものだからな」
「────スイング! バッターアウッ!!」
その言葉通り、続く8番打者の彼女も鋭く沈むスライダーを空振りし、二者連続三振となった。
「ただし、このキモさえ分かってしまえば、対策を講じることは難しくない。あのストレートはかなり特殊な球質の球で初見で対応するのは骨が折れそうだが、スライダーはそういう訳でもない」
「……だから、甘めから落ちてくることを頭に入れた上でスライダーを狙えってことですか?」
「そうだ。打席で見ていない者でもベンチからスライダーの軌道はもう充分に確認できたろう」
「『はいっ!』」
大柿紫の論考がようやく最初と同じ結論に行き着き、今度は選手たちも皆納得して頷いた。
「もちろん、たった2つの球種を最大限機能するように組み立て、ここまで大きなコントロールミスもなく投げてきたあのバッテリーには敬意を表さなければならない。しかし、これでもうデータも対策も必要なものは全て整った」
────キィッッ!!
この回3人目の打者は初球のストレートを打ち上げセカンドフライ。この回もランナーすら出せず三者凡退に終わったが、指揮官の眼には揺るぎない確信が宿っていた。
「次の回、あの投手を捕まえる。試合の流れを変える先制点を取る。1点か2点、それだけあれば今日のお前には充分だろう? 涼」
そんな言葉で、大柿紫は入れ替わりでマウンドに上がろうとしていた“蘭華のエース”に発破をかけた。
エースの答えは、もう決まっていた。
「……当たり前だろ」
10
あなたにおすすめの小説
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
義姉妹百合恋愛
沢谷 暖日
青春
姫川瑞樹はある日、母親を交通事故でなくした。
「再婚するから」
そう言った父親が1ヶ月後連れてきたのは、新しい母親と、美人で可愛らしい義理の妹、楓だった。
次の日から、唐突に楓が急に積極的になる。
それもそのはず、楓にとっての瑞樹は幼稚園の頃の初恋相手だったのだ。
※他サイトにも掲載しております
セーラー服美人女子高生 ライバル同士の一騎討ち
ヒロワークス
ライト文芸
女子高の2年生まで校内一の美女でスポーツも万能だった立花美帆。しかし、3年生になってすぐ、同じ学年に、美帆と並ぶほどの美女でスポーツも万能な逢沢真凛が転校してきた。
クラスは、隣りだったが、春のスポーツ大会と夏の水泳大会でライバル関係が芽生える。
それに加えて、美帆と真凛は、隣りの男子校の俊介に恋をし、どちらが俊介と付き合えるかを競う恋敵でもあった。
そして、秋の体育祭では、美帆と真凛が走り高跳びや100メートル走、騎馬戦で対決!
その結果、放課後の体育館で一騎討ちをすることに。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
ツルギの剣
Narrative Works
青春
室戸岬沖に建設された海上研究都市、深水島。
舞台はそこに立つ女子校、深水女子高等学校から始まる。
ある日、深水女子高等学校の野球部に超野球少女が入部した。
『阿倍野真希』と呼ばれる少女は、ささいなことから本を抱えた少女と野球勝負をすることになった。
勝負は真希が勝つものと思われていたが、勝利したのは本の少女。
名前を『深水剣』と言った。
そして深水剣もまた、超野球少女だった。
少女が血と汗を流して戦う、超能力野球バトル百合小説、開幕。
※この作品は複数のサイトにて投稿しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる