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本編
10 結ばれる夜
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某出版社の編集部ビルにて──。
「〝トップアイドル電撃移籍の裏に敏腕Pの私情? 千早芸能脱出劇を仕掛けたのは誰だ〟……ねぇ」
記事を一通り読み終え、本郷は紙束を机の上に置いた。
差し出された湯のみを手に取り、ひと口啜る。その仕草は落ち着き払っていて、まるで交渉に来た人間のものではない。
「本郷さんを敵に回すと怖いからねぇ。異論があるなら、聞くよ」
向かいに座る記者が、探るように笑う。
この出版社は、かつては千早芸能に都合のいい記事を量産していた。だが今は違う。金を積まれて、露骨なデマを流す時代ではない。実際この記事も、事実を土台にした、ただの憶測に過ぎなかった。
──インカムの件、社長の耳に入っただけで、ここまでは漏れていないようだ。ホッと胸を撫で下ろす。
「憶測に、嘘も何も無いけどさ」
本郷は肩をすくめた。
「俺が櫻井来夢への恋情を拗らせた挙句、待遇と将来のビジョンを餌に引き抜いて、今でも〝アレ〟の世話をさせてるって……」
「有り得ない話ではないでしょう?」
記者は悪びれもせず返す。
本郷は即座に否定しかけ──やめた。
恋情を拗らせたのは事実だ。寂しさを埋めるために、曖昧な距離を許し続けたのも事実だ。
外から見れば、酷い男だと思われても仕方がない。
「……そうだねぇ。外から見れば、その筋書きが一番分かりやすい」
「見に覚えがあるなら、変に否定しない方がいいよ」
記者は身を乗り出した。
「櫻井くんのためにもさ」
「櫻井くんのため、ね」
本郷はその言葉を反芻するように繰り返し、ふっと笑った。
「ああ。それなら──」
にっこりと、営業用の完璧な笑みを浮かべる。
「〝なぜ彼らは出て行ったのか 千早芸能・若手アイドル冷遇の実態〟なんて、どうです?」
記者の表情が、わずかに強張った。
「……まだ出てくるのか。千早芸能の闇は」
「まだまだ、これからですよ」
本郷は湯のみを置き、静かに立ち上がる。
「証拠は?」
「俺が、握ってないとでも?」
会議室を出て、廊下を歩き出す。本郷の隣に、小走りで記者が並んだ。
「あー、あの記事。どうしても出したいなら、止めないですけど」
本郷は歩調を緩めない。
「その場合、俺は他の出版社にこの話を持ち込みます」
「……悪い冗談はよしてくれ。俺と本郷さんの仲じゃないか」
焦りを滲ませる声に、本郷は軽く頷いた。
「俺、急ぎの用事があるんで。また連絡します」
エントランスの自動ドアが開き、外の光が差し込む。
逃げるなら、ここが最後だった。
けれど本郷の中には、もう〝逃げる〟という選択肢は残っていなかった。
打ち上げ会場。
大騒ぎするメンバーたちから少し離れたテラス席で、本郷は一人、夜風に当たっていた。
そこへ、グラスを二つ手にした櫻井がやってくる。
「待ちきれなくて、来ちゃいました」
その声に、思わず本郷の頬が緩んだ。
夜風が、櫻井の長い髪を揺らす。
何も言わないまま、櫻井は本郷の隣に腰を下ろした。
「……乾杯」
「……ああ」
軽く触れたグラスの音が、やけに大きく響いた。一口含んだだけで、櫻井は本郷の横顔をじっと見つめる。
「本郷さん」
「ん」
「……逃げないって、言いましたよね。ちゃんと、今日は、返事をくれるんですよね」
本郷は短く息を吐き、視線を夜の向こうへ逃がす。
それから、観念したように櫻井を見返した。
「……部屋、取ってある。行くぞ」
「はい」
交わす言葉など、それだけで十分だった。
部屋のドアが閉まる音が、妙に静かに響いた。照明はつけず、街の灯りだけがカーテン越しに滲んでいた。
本郷はスーツの上着を脱ぎ、ネクタイを緩める。その一連の動作を、櫻井は黙って見つめていた。
「……後悔するぞ」
低く掠れた声。櫻井は、迷いなく首を振った。
「するはずがない」
距離が、ゆっくりと縮まる。
触れる直前で、本郷の手が止まった。
「……もう、戻れなくなる」
「その瞬間を……ずっと、待ってたんです」
その言葉で、最後の理性がほどけた。
本郷は櫻井に向かい合い、腰を下ろす。頬に触れ、確かめるように親指を滑らせた。
逃げないか、拒まれないか──何度も確かめるように触れた、そのとき。櫻井の手が、静かに本郷の背へ回った。
「……櫻井」
名前を呼ぶ声が、微かに震えていた。
「はい。本郷さん」
「……キス、していいか」
「もちろん」
それ以上、言葉はいらなかった。
櫻井は本郷を抱き寄せ、ゆっくりとベッドへ導く。触れる指先は優しく、それでいて、もう迷いはない。
この夜が、自分たちで選んだ結果だと、互いに分かっていた。
夜のざわめきが、遠くへ引いていく。今、世界には、二人しかいないみたいだった。
目を覚ますと、人の温もりがあった。
まだ眠っているはずなのに、本郷がわずかに身体を動かすと、腰に回された腕の力が、きゅっと強くなる。
離れることを、許さないとでも言うように。
幸せな朝だった。これが、自分の欲しかったものなのだと──本郷は、はっきりと実感していた。
「〝トップアイドル電撃移籍の裏に敏腕Pの私情? 千早芸能脱出劇を仕掛けたのは誰だ〟……ねぇ」
記事を一通り読み終え、本郷は紙束を机の上に置いた。
差し出された湯のみを手に取り、ひと口啜る。その仕草は落ち着き払っていて、まるで交渉に来た人間のものではない。
「本郷さんを敵に回すと怖いからねぇ。異論があるなら、聞くよ」
向かいに座る記者が、探るように笑う。
この出版社は、かつては千早芸能に都合のいい記事を量産していた。だが今は違う。金を積まれて、露骨なデマを流す時代ではない。実際この記事も、事実を土台にした、ただの憶測に過ぎなかった。
──インカムの件、社長の耳に入っただけで、ここまでは漏れていないようだ。ホッと胸を撫で下ろす。
「憶測に、嘘も何も無いけどさ」
本郷は肩をすくめた。
「俺が櫻井来夢への恋情を拗らせた挙句、待遇と将来のビジョンを餌に引き抜いて、今でも〝アレ〟の世話をさせてるって……」
「有り得ない話ではないでしょう?」
記者は悪びれもせず返す。
本郷は即座に否定しかけ──やめた。
恋情を拗らせたのは事実だ。寂しさを埋めるために、曖昧な距離を許し続けたのも事実だ。
外から見れば、酷い男だと思われても仕方がない。
「……そうだねぇ。外から見れば、その筋書きが一番分かりやすい」
「見に覚えがあるなら、変に否定しない方がいいよ」
記者は身を乗り出した。
「櫻井くんのためにもさ」
「櫻井くんのため、ね」
本郷はその言葉を反芻するように繰り返し、ふっと笑った。
「ああ。それなら──」
にっこりと、営業用の完璧な笑みを浮かべる。
「〝なぜ彼らは出て行ったのか 千早芸能・若手アイドル冷遇の実態〟なんて、どうです?」
記者の表情が、わずかに強張った。
「……まだ出てくるのか。千早芸能の闇は」
「まだまだ、これからですよ」
本郷は湯のみを置き、静かに立ち上がる。
「証拠は?」
「俺が、握ってないとでも?」
会議室を出て、廊下を歩き出す。本郷の隣に、小走りで記者が並んだ。
「あー、あの記事。どうしても出したいなら、止めないですけど」
本郷は歩調を緩めない。
「その場合、俺は他の出版社にこの話を持ち込みます」
「……悪い冗談はよしてくれ。俺と本郷さんの仲じゃないか」
焦りを滲ませる声に、本郷は軽く頷いた。
「俺、急ぎの用事があるんで。また連絡します」
エントランスの自動ドアが開き、外の光が差し込む。
逃げるなら、ここが最後だった。
けれど本郷の中には、もう〝逃げる〟という選択肢は残っていなかった。
打ち上げ会場。
大騒ぎするメンバーたちから少し離れたテラス席で、本郷は一人、夜風に当たっていた。
そこへ、グラスを二つ手にした櫻井がやってくる。
「待ちきれなくて、来ちゃいました」
その声に、思わず本郷の頬が緩んだ。
夜風が、櫻井の長い髪を揺らす。
何も言わないまま、櫻井は本郷の隣に腰を下ろした。
「……乾杯」
「……ああ」
軽く触れたグラスの音が、やけに大きく響いた。一口含んだだけで、櫻井は本郷の横顔をじっと見つめる。
「本郷さん」
「ん」
「……逃げないって、言いましたよね。ちゃんと、今日は、返事をくれるんですよね」
本郷は短く息を吐き、視線を夜の向こうへ逃がす。
それから、観念したように櫻井を見返した。
「……部屋、取ってある。行くぞ」
「はい」
交わす言葉など、それだけで十分だった。
部屋のドアが閉まる音が、妙に静かに響いた。照明はつけず、街の灯りだけがカーテン越しに滲んでいた。
本郷はスーツの上着を脱ぎ、ネクタイを緩める。その一連の動作を、櫻井は黙って見つめていた。
「……後悔するぞ」
低く掠れた声。櫻井は、迷いなく首を振った。
「するはずがない」
距離が、ゆっくりと縮まる。
触れる直前で、本郷の手が止まった。
「……もう、戻れなくなる」
「その瞬間を……ずっと、待ってたんです」
その言葉で、最後の理性がほどけた。
本郷は櫻井に向かい合い、腰を下ろす。頬に触れ、確かめるように親指を滑らせた。
逃げないか、拒まれないか──何度も確かめるように触れた、そのとき。櫻井の手が、静かに本郷の背へ回った。
「……櫻井」
名前を呼ぶ声が、微かに震えていた。
「はい。本郷さん」
「……キス、していいか」
「もちろん」
それ以上、言葉はいらなかった。
櫻井は本郷を抱き寄せ、ゆっくりとベッドへ導く。触れる指先は優しく、それでいて、もう迷いはない。
この夜が、自分たちで選んだ結果だと、互いに分かっていた。
夜のざわめきが、遠くへ引いていく。今、世界には、二人しかいないみたいだった。
目を覚ますと、人の温もりがあった。
まだ眠っているはずなのに、本郷がわずかに身体を動かすと、腰に回された腕の力が、きゅっと強くなる。
離れることを、許さないとでも言うように。
幸せな朝だった。これが、自分の欲しかったものなのだと──本郷は、はっきりと実感していた。
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