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仮面舞踏会の夜 ①
絢爛豪華なシャンデリアからこぼれ落ちてくる蜂蜜色の光は、愛の女神がひと夜の戯れをお許しになった証のよう――
広いダンスホールの隅に寄り、天井から降り注ぐ煌めきをぼんやりと眺めたティアナ=シルヴァーノは、壁に背中を預けた状態のままふとそんなことを考えた。
しかしシャンデリアから視線を移動させ、壁の高い位置に掲げられた大時計を確認すると、はぁ、と重いため息をついて俯いてしまう。
直後、自ら発した音の湿っぽさにハッと我に返り、負の感情を抑え込むべく慌てて指先で顔に触れる。すると中指の先端が、固い素材にこつん、と当たる。無機質な温度に触れたことで、今の自分が『仮面』で素顔を覆っていることを思い出すと、急に現実を突きつけられた気がしてまたも大きな息がこぼれた。
(やはり、私には難しかったのでは……)
先ほどから幾度となく繰り返している固い決意と自信喪失の狭間で、ティアナの心が再びゆらゆらとせわしなく揺れ動く。一刻も早くどうにかしなければ、と焦る一方で、いくらなんでも無謀すぎたのでは、と逃げ腰になっている。
今夜ティアナが訪れているこの屋敷は、顔を仮面で覆うことを条件に参加が許される、秘密の夜会『月の仮面舞踏会』の開催場所だった。ここへやってきた目的は、ただ楽しくダンスを踊るためではない。素顔を隠し、身分や出自を秘し、単身この舞踏会へ乗り込んできた理由は、誰にも知られたくない〝事情〟があったからだ。
(無理よ……。今夜中に、乙女を失う――なんて……!)
ティアナの目的は、一夜限りの相手に『純潔を奪ってもらう』こと。早急に『処女を失う』ことにあった。
だが冷静になって考えてみれば、やはり無謀な計画に思えてならない。己の置かれた状況を再認識すると、ティアナの喉からはまた「うぅ……」と情けない声が漏れる。迷いと弱気は時間の経過とともに徐々に膨らんでいくが、相反するように決意の感情は萎んでいる気がする。
ダンスホールの中央では複数組の男女が優雅に円舞曲を楽しんでいる。ティアナと同じように仮面をつけているのは、華やかな円を描くように踊っている男女だけではなく、その奥で音楽を奏でているオーケストラ奏者も同じだ。
この『月の仮面舞踏会』では、互いの正体を知らない・明かさない・探ろうとしないことが、唯一にして絶対のルール。ならばティアナもあまり難しいことは考えず、一人でも多くの男性に声をかけ、一曲でも多くのダンスを踊り、一刻も早く同じ目的を持つ相手と巡り会わなければならないのだが。
(自分でも、選り好みしてる場合じゃないのはわかってるの……! でも……!)
おそらくティアナが誰かと身体を繋げるのは、これが最初で最後になる。たった一度、後にも先にも誰とも触れ合うこともない『人生で一度きり』の機会となるだろう。ならば多少わがままになってしまうのが、乙女心というもの。
とはいえティアナは、何としてでも今夜中に乙女を失わなければならないのだ。目的の達成を最優先に考えるのならば、相手を選んで慎重になっている場合ではない。
会話が続かない、香水の匂いがきつすぎる、ダンスが壊滅的に下手で足を踏まれた、身体に触れてくる手つきが汗ばんでいて不快、などと些細な不満を抱いている猶予なんてまったくない状況なのだ。
舞踏会の時間にもいずれ終わりがやってくる。ならばこれ以上夢を見るのは諦めて、次に目を合わせた人が『ティアナでもいい』と感じて『ダンスの先』に誘ってくれるのなら、もうその相手に身を委ねてしまった方がいいかもしれない。目的が果たせなかったら、友人に無理を言って、父の目を盗んで、極度の羞恥に耐えて、と数多の困難を乗り越えてここまでやってきた意味がなくなるのだから。
(よし……!)
覚悟を決めたティアナが、寄りかかっていた壁から勢いよく背中を浮かせた瞬間だった。
「あの」
「!」
フッと視界が暗くなると同時に、ごく近い場所から誰かに声をかけられる。びくっと驚きながら顔を上げてみると、銀の装飾があしらわれた黒の仮面で目元を覆った一人の男性が、すぐ隣からティアナをじっと見下ろしていた。
顔や名前はもちろん、年齢すらわからない。わかるのは、濃紺の生地に金糸の刺繍が施された彼のジュストコールが、一目でわかるほどの上質なものであること。それから、痩せすぎでも太りすぎでもない体格。ティアナよりも頭ひとつ分高い身長。仮面と同じ黒く艶やかな短髪と、こちらをじっと見据える青の瞳。あとは、彼がティアナに声をかけてきた理由だろうか。
正直、こんなにも広いダンスホールの隅に寄り、レリーフのように壁に貼りついたまま誰と踊ろうとも話そうともしない女性に、すすんで声をかけてくれる人がいるとは思わなかった。だから白い手袋を着けた手をスッと差し出された瞬間、思わず「え?」と声が出てしまう。
「よければ一曲、どうですか」
「! ぜ、ぜひ……!」
突然の申し出には少しだけ驚いたが、男性の誘いはすぐに受け入れることにする。早く夜の相手を――その前にまずはダンスの相手を、と気が急いていたところだったので、ティアナにとってはこれ以上ないほどありがたい提案だった。
豪奢な仮面の向こうでゆるりと目を細めた男性の手に、ドレスと同じ青色のロンググローブを着けた指先を乗せる。すると恭しく手を取った相手が、弱すぎず強すぎない力でティアナの手をくいっと引っ張った。
(ああ、よかった……。このまま終わってしまうかと……!)
ダンスホールの中央へティアナを誘い出す男性を斜め後ろから見上げ、密かにほっと安堵する。
いくら仮面を身につけて顔や素性を隠しているとはいえ、やはり女性から男性に声をかけるのは勇気がいる。ましてティアナには男女の遊びや恋愛における駆け引きの経験がなく、上手く誘える自信は皆無だ。だからこうして男性側から声をかけてくれたことに、まずはひとつ安心感を覚える。
仮面を着けた人々の波間をすり抜けて広い空間に出ると、ほどなくして次の音楽が始まる。胸に手を当ててお辞儀をする男性の前で膝を落とすと、彼はすぐに左手でティアナの右手を、右手でティアナの背中を支えてくれた。
視線を上げると目の前の男性と目が合う。彼がティアナに向ける微笑みには、慈愛と友愛の感情が込められている気がした。
ゆったりと流れ始めた楽団の調べに反応して、相手がそろりと動き出す。最初の一歩を踏み出す瞬間に合わせてティアナも一歩踏み出すと、あとは身体が勝手に動いてくれた。
ティアナはさほどダンスが得意なわけではない。拍子を間違えて相手と動きがずれたり、ステップを誤って相手の足を踏みつけたりといった致命的なミスを犯すほどではないが、単純に最後にダンスを踊ったときから年月が経過しすぎているせいで、身体が上手くついていかない。何曲も連続で踊れるほどの体力もない。
だからこそ先ほど踊った別の男性のように、自分だけでなく相手までダンスが不得手だと、どうしても動きを合わせにくい。必要以上に疲れてしまう。場合によっては無様に転びそうになる瞬間もある。
それが、目の前の男性はどうだろう。
(丁寧なリード……触れ方も強すぎも弱すぎもなくて、とっても踊りやすいわ……!)
流れるような動きでホールの中央を移動する。一緒に踊るティアナにまで羽が生えているかのように、軽やかに足がついていく。優雅に鳴り響く音楽を彼が自らが指揮しているみたいに、音と動きと呼吸のタイミングが重なり合う。
くるりと回るターンも、身体を密着させながら踏むステップもなめらかで、美しい音色が身体の芯まで響き渡っていくような心地よさまで感じられる。
(楽しい……!)
王族や貴族が催す夜会で行われるダンスは、周囲の人々に互いの信頼や愛情、家同士の関係性や力の強さを誇示するという側面を持つ。もちろん、密着やふれ合いを通して腹の内を探るため、相手に近づくきっかけを作るため、という意味もあるだろう。
だがここに集う人々は皆、素性や正体を知らない者ばかり。互いの出自や身分は一切関係なく、単純に楽しむために踊ることを許されている。そんな当たり前すぎる前提を、今さらながらに認識する。
ちらりと視線を上げると、目の前の男性とぱちりと目が合う。すると黒い仮面に開けられた小さな穴の奥で、青い瞳が優しく揺れる。言葉こそ発しないが唇もやわらかく緩むので、踊りながらティアナに微笑みを向けてくれているのだとわかった。
どうしてだろう。互いの手を取ってステップをひとつずつ踏みしめるたびに、気分が高揚していく気がする。一音一拍ごとに、目の前の男性に惹かれていく気がする。
きっとティアナの背中を支える手のひらから伝わる温度が、じんわりとあたたかいからだ。まるでティアナが密かに抱えている不安を、少しずつ解きほぐしてくれるかのように。過去に受けた心の傷を、ゆっくりと癒してくれるように。
ああ、とても楽しい。この時間が終わってほしくない。――ダンスに不慣れなティアナなのだから、本当はもっと集中すべきなのに、余裕にもそんなことを考えてしまう。穏やかな笑みを浮かべたまま、時折ティアナをじっと見つめてくれる目の前の男性も、同じように思ってくれないだろうか、と思ってしまう。
けれど華やかな円舞曲も永遠には続かない。楽しかった時間は、ゆったりとした余韻を含みながら少しずつフィナーレに向かっていく。徐々に小さくなる音に合わせて、二人の動きも少しずつ緩慢になってゆく。
最後の音が空気の中へ溶けきったことを確認すると、辿り着いたその場所で再び膝を落としてダンスのお礼を示す。楽しい時間はあっという間に終わってしまうのが世の常だ。
「ありがとうございました」
「こちらこそ」
ティアナが丁寧に礼を告げると、青年も黒の仮面越しににこりと笑ってくれた。しかし涼やかな笑みをのせて礼儀に則った挨拶を返されてしまうと、あとはこの手を離すだけになってしまう。一曲のワルツで結ばれたぬくもりが散り消えてしまう瞬間は、もう数秒後に差し迫っていた。
唐突に名残惜しさを感じてしまう。もう一曲踊ってみたい、あと少しだけ話してみたい、という衝動に駆られる。ならばダメ元で、相手には断られてしまうことを承知で、自分から声をかけるべきだろうか、と考える。
――迷っている時間はない。
そう決断したティアナは、今度は自分から二度目のダンスに誘おうとした。
だがそれよりも一瞬早く、男性の方が「あの」と口を開いた。
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