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純愛リフレイン
癒しの泡アワー
しおりを挟む「怒らないでくれる?」
「いや、絶対に怒る」
渋い顔をして既に怒っている千里に小首を傾げて『ごめんなさい』をするけれど、返ってきた言葉と態度には、不安も不満もだだ洩れていた。
もちろんそれが本気の怒りではなく、ただの心配であることは理解しているけれど。
「とりあえず脱がせて確認してからだ」
「ふぁーい」
リビングで『脱がせる』などと破廉恥な言葉を口にしても誰も一切動じないのは、そこに下心がないとわかっているから。そして、いつもの事だから。
無表情のまま身を屈めた千里の首に腕を絡める。そうすると彼はいつものように葵の身体をひょいと軽く抱き上げる。足の不自由な葵の入浴に付き添うのは、恋人である千里の大事な時間だ。
脱衣場まで抱かれて運ばれると、そこに置いてある椅子のとなりに降ろされる。左片足で立ち、ワンピースの紐を肩から外して下に落とすと、あとは座りながらシャツや下着を順番に自分で脱いでいく。
全て脱ぎ終わると、同じように全ての服を脱ぎ去った千里に再び身体を抱き上げられる。真っ裸で抱き上げられるなど恥ずかしい状況この上ないが、相手が愛しい恋人なので『嫌だ』とは感じない。
千里は慣れた手順をほぼフルオートでこなし、洗い場の介護用シャワーチェアの上に葵を座らせてくれた。
浴槽には既にお湯が張られており、浴室内にふわりと広がった蒸気が素肌に当たると、夏の湿った熱気を彷彿とさせて少し鬱陶しい。そんな不快感を表情に出す前に、葵の背後に立った千里が鏡越しに視線を合わせてきた。
「で、どこぶつけた?」
耳元に顔を近付けてきた千里に、じっと睨まれる。大きな鏡の中の千里は葵よりも余程不快そうな顔をしているので、苦笑しながら、
「左肩の後ろかな。あと耳の上のところ」
と申告すると、男らしくゴツゴツ骨張った指先が、言われた場所の探索を始めた。
肩は見ればすぐにわかるはず。反対に見た目だけでは一切わからない側頭部は、髪をかき分けながらたどたどしい手つきで撫でられる。
葵は昨日の夜、1人でお風呂に入ろうとして、ちょっとだけ失敗した。滑るかもしれないから慎重に……と思っていたのに、力が抜けてよろめいた。その瞬間に、側頭部を可動式のシャワーヘッドフックに、肩をそのバーにぶつけてしまったのだ。
「頭は大丈夫そうだな。肩は赤くなってるから、あとで冷やそう。痛みは?」
「全然ないよ」
心配そうに眉の端を下げた千里に笑み返すと、呆れたように溜息をつかれた。
でも本当に、痛みは一切ない。
炎症というのは赤くなって、痛くなって、熱を持って、腫れる順番で起こるんだぞ、赤くなってるだけならまだ初期段階かもしれない、と真面目な説教をする恋人に苦笑する。そういえば救命救急の資格も持ってるんだっけ。
千里の苦言を耳に入れつつも、置いてあったシャワーラックの1番下からバスバブルを取り出し、浴槽のなかに中身を数滴落とす。そこに勢いよくお湯を注げば泡風呂が出来上がるのだ。
「だから、それ滑るから止めろ」
「今日は千里がいるから大丈夫だよ」
泡風呂が出来上がるのを待っている間に、洗髪と洗体と洗顔を済ませてしまう。座って安定していればそれらは全て自分で出来る。
そうしてさっぱりした身体を抱かれて2人で浴槽の中に身を沈ませると、お湯が豪快に揺れて中身が少しだけ外に溢れた。落ちていたスポンジが水位でちょっと浮き上がるのを横目に、ほうっと息を吐く。
「はー……、良い湯だねぇ……」
「この泡、邪魔じゃないか?」
「えー。なんで、これが楽しいでしょ。ほら、えいっ」
香りと使用感が好きで購入したバスバブルだが、使用頻度はあまり高くない。千里が夜勤の時は、菜摘か深月が葵の入浴に付き添ってくれるが、女子同士で遊び出すとつい長湯になったり話し込んだりしまって、後がつかえるのであまり使用しないようにしている。だからこの泡風呂は千里と入浴するときだけの密かな楽しみなのに。
「風呂ぐらい大人しく入ってくれ……」
再び呆れたように呟かれたのが面白くなくて、大量の泡を手で掬って千里の顔に投げつける。
「ぶ、」
「あ、ごめん。口に入った?」
至近距離でクリーンヒット。ぺしゃっと水と泡が弾ける音がして、短くカットした千里の髪からぽたぽたと泡と水分の混合物が滴り落ちてきた。
「あーおーいー!」
掌で自分の顔全体を拭って乱雑に泡を落とすと、膝の間で座っていた葵の腰を抱き寄せる。水圧でゆっくりとしか近づけなかった葵の身体が完全に自分の身体と密着すると、千里は葵の顔を覗き込んで口の端を吊り上げた。
「いう事を聞かない葵にはお仕置きが必要だな」
「えー、千里のえっちぃ」
普段は無表情なくせに時折見せる雄々しい表情にドキリとしながらも、唇を尖らせてその変化は見つけられなかったフリをする。葵の表情に苦笑した千里だったが、浴槽の端に頬杖をついて葵の顔を眺めながら発した言葉には、下心など含まれていなかった。
「あんまり、無茶しないでくれ」
「大丈夫だよ、たんこぶぐらい」
「ぐらい、じゃない。手は商売道具なんだろ。それに頭を打ってこれ以上能天気になられたら、俺は本気で困る」
「あ、ひどい」
冗談交じりに言われるが、実際は本気で心配していることはちゃんと理解している。本当は毎日一緒に風呂に入れれば、こんなことを心配する必要などない。だが、千里には仕事で帰宅できない日がある。24時間勤務ではどうしても常に葵の傍にはいれないので、それならばせめて、一緒に同居している他の女性を頼って欲しいというのが千里の本音だ。
その本音を泡沫の中に垣間見て、葵もちょっと反省する。今回は打撲と発赤で済んだが、千里の言う通り大けがをする可能性だってある。
唇を尖らせて謝罪の言葉を呟いた葵に、千里はふっと笑顔を作った。
「確かに俺はひどいかもな」
「せんり……?」
そんなところで説教の時間は終了する。
ここからはただの恋人同士の戯れだと、その指先が能天気な葵にも教えてくれる。結局、雄々しい表情を再発見せざる得なくなった葵は、目線だけで千里の言う『ひどい』の意味を訊ねる。
「葵がぼーっとしてるおかげで、葵に仕置をする口実が出来るなーと思ってる」
「……ばか!」
なんて悪態をつきながら頬を膨らませてみるけれど、降りて来る優しい口付けは拒まない。
本当は心の底から心配してくれているのを、知っているから。
*****
「怒らないでくれるか?」
「いや、絶対に怒る」
遊び過ぎてのぼせた葵を椅子に座らせ、下だけ履いた千里が脱衣場から声をかけると、それを聞いた菜摘が水の入ったコップを持ってやってきた。
渋い顔をして既に怒っている菜摘に申し訳なさそうな顔をしてみるが、千里の顔を見ても菜摘の言葉と態度には不安と不満がだだ洩れていた。
もちろんそれが本気の怒りではなく、ただの心配であることは理解しているけれど。
少し前にこれと同じ会話をしたばかり。
ただし今度は、千里が怒られる側だ。
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