ソレイユの秘密

紺乃 藍

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蜜愛パラドクス

Morning kiss before Rouge.

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「……みなと

 鏡越しにじっとこちらを見ている恋人の名前を呼ぶ。『ん?』と優しい声を鼻から漏らした湊の瞳を、菜摘なつみもじっと見つめ返す。

「見られてるとやりにくい」
「あ、お気になさらず」

 指を揃えて手のひらをピッと立てて『大丈夫』と意思表示する湊の態度に、ついむうっと頬を膨らませてしまう。気にするなと言われても、菜摘は気になる。

「珍しく早起きだと思ったら……」

 現在、朝7時32分。9時始業の会社に余裕を持って到着するために、バス通勤の湊は8時に、電車通勤の菜摘は8時5分にソレイユを出る。そのため準備にかかる時間を逆算して、湊はいつも7時頃に、菜摘はいつも6時半頃に起きるが、今日の湊は珍しく菜摘とほぼ同時に起床した。

「菜摘のおかげで昨日はぐっすり眠れたから、今日は清々しい朝だったよ?」

 ベッドに腰掛け、にこにこと笑う湊の顔をドレッサーの鏡越しに睨む。

 朝食を食べ、顔を洗い、着替えも済ませた湊はもうそのままの状態で出勤できる。まだ化粧が済んでいない菜摘とは違って。

 化粧をするところ。
 できれば湊には見られたくはない。

 本当は化粧をする前の顔だって見られたくない。次に誕生日が来れば菜摘は29歳。お肌の曲がり角と言われる25歳を通過し、今まで使っていた化粧品がある日突然、肌に合わなくなった。

 そんな現実に直面して以来、出来るだけ湊に素顔を直視されないよう、意識や視線を逸らそうとしている。だからいつも、湊がご飯を食べて顔を洗っている間に菜摘は化粧を済ませてしまう。なのに今日は早起きして時間を持て余している湊に、こうしてメイクアッププロセスを観察されている。本当は、恥ずかしいから見ないで欲しいのに、

「いつもスマホゲームしてるじゃない。それやれば?」
「今やったら通勤中のルーティーンが崩れる」
「いや、知らないわよ」

 とこんな感じで、結局は鏡の中をじっと見られてしまう。

 諦めてドレッサーの引き出しを引くと、中にはお洒落に必要なあれこれが収められている。あおいはほとんど化粧をしないし、深月みづきもナチュラルメイク派なのでこれほどのメイク用品を所持しているのは菜摘ぐらいだろう。

「すごいね。こんなに色々使うんだ」
「そーよ。全部大事なの」

 関心する湊に、女子の大変さを説く。

 導入美容液、化粧水、日中用乳液兼日焼け止め、化粧下地、ファンデーション、パウダー、チーク。肌の調子が悪いのを誤魔化すときはコンシーラーも。肌だけでも、これだけ。

 その他に眉や目元にはブロウとラインとシャドウ。マスカラはまつエクをしてるので少しだけ。リップも顔の印象を左右するには大事なポイントだ。

 菜摘はこれを全部盛り込んで、ようやく完璧に武装できる。逆に、これを1つでも欠かすと自信を持って仕事に臨めない。

 洗面所で顔を洗った直後に、導入美容液と化粧水は済ませてしまう。ここは秒単位で差が出るタイミングなので、部屋に戻るまで待っていられない。化粧水を馴染ませながら部屋まで戻り、乳液以降の工程は全てドレッサーの前で。だからここに腰を降ろしてからが本番だと言うのに、湊が興味深げに凝視してくるものだから、今日は中々手が進まない。

「湊は、お風呂上りも顔洗った後も何もつけてないよね?」

 ふと恋人の顔を眺めて呟く。

 菜摘より2歳年下の恋人は、男のくせに肌がきれいだ。彼が肌ケアをする様子は一切見たことがない。以前見た雑誌に男性と女性は肌の新陳代謝が違うと書いていたが、それにしても湊の肌は綺麗だと思う。

「お酒飲むし、甘いもの食べるし、夜更かしするし。なのにそんな肌すべすべなんて意味わかんない」

 納得できない。
 菜摘はこんなに一生懸命に肌ケアに力を入れているというのに。

「菜摘も肌キレイだよ?」
「これは努力の結果なの~~! 何もしてない湊と一緒にしないで~~!」

 ふうん、と納得する湊の声に溜息をついて、再び鏡の中に向き直る。きっと女子のお洒落と努力に対して興味のない湊には、どんなに説明しても平行線なんだ。だから、もういい。

 UVカット成分が入った日中用乳液の次は、透明感をプラスしてくすみを消すためのパープルの化粧下地。その後は皮脂くずれを防止するための下地を仕込み、次はリキッドファンデーション。愛用ブランドの肌なじみのいいクリームを厚塗りにならないように薄く広げながら、ふと思う。

「でも今日はなんか、お肌の調子いい気がする。なんだろー? 天気かな?」

 いつもより肌が引き締まっている気がするし、下地やファンデーションのなじみもいい。その上にミネラルパウダーを重ねるといつもよりツヤが出ている気がするし。

 そんな菜摘の呟きを聞いていた湊が、鏡の中でにこっと笑顔を作る。

「昨日たくさんシたからじゃない?」
「えっ……ふぁ!?」
「ほら女の人はエッチするときれいになるって言うじゃん。あ、それなら毎晩たくさんしたら、菜摘も化粧いらなくなるかも?」

 ベッドの上で長い足を組みながら頷く湊の顔を、思いきり振り返る。鏡越しではなく、ちゃんと目が合うとまたにこりと笑った湊だが、その眼からは無邪気さが消えていた。

「んな訳ないでしょ!!」

 どう思う? なんて首を傾げながらも菜摘の深層を窺うような視線に、つい勢いよく目を逸らしてしまう。

「もー、いいから早く行って!」
「まだ早いよ」
「1本早いやつで行って!!」

 スマートフォンを起動させて時間を確認しながら言い訳してきた湊に、ちょっと本気で怒る。朝から恥ずかしい事を言わないでほしい。ベースメイクを済ませてしまえば、顔を赤らめてもあまり表出はしないけれど。

 菜摘をからかう湊を無視すると、武装の工程を再開する。眉を整えて、アイシャドウをのせて、アイラインを引いて、睫毛を整えて。相手に好印象を与えるためには目元は大事。ぐっすり寝たからクマもなく、無駄にコンシーラーを重ねる必要もない。

「なるほど。早起きは三文の得ってほんとかも」

 ふとベッドから立ち上がった湊が、スツールに腰掛ける菜摘の隣にやってくる。そしてチークブラシを置いた代わりにグロスルージュを手にした手首をぐっと掴まれ、ルージュを塗ろうとしていた動きを阻まれてしまった。

「朝から菜摘の素顔と、可愛くなっていくとこまで見られて」

 一旦言葉を切った湊は、掴んでいた菜摘の手首を離すと、今度はゆっくり肩を抱く。そして反対の手をメイク用品が並べられたドレッサーの上につく。ふっと暗くなった視界に気を取られて『素顔』と『変化のプロセス』をじっくり観察されていた恥ずかしい事実がどこかへ消し飛んだ。

「それにキスする時間も出来るし」
「ちょ……、…ん……」

 くすくすと笑う危険信号に反応する前に、あっさり唇を重ねられてしまう。

「みな……!」
「ん。もっかい」

 すっと離れた唇は、またすぐに笑みを浮かべる。柔らかい感触が唇を撫でて思わず肩が竦むけれど、瞳を閉じた湊があまりにも気持ち良さそうな顔をするので、つい油断した。

「ふぁ、……む、…んうぅ…」

(えええぇ、なんで朝から舌入れるのおおぉ!?)

 今度は貪るように深く口付けられてしまう。激しいキスを受け、抵抗の余地を完全に見失う。

 湊の腕に縋りたくなる衝動に懸命に耐える。今スーツのジャケットを掴めば確実に皺になってしまう。けれどそんな理性も……次第に崩落していく。

「あ、ダメだ。これ以上可愛くなられたら、困るんだった」

 力が抜けそうになって焦っていると、湊が急に離れた。独り言のような、菜摘に言い聞かせているような言葉をぼそりと呟いて。

 にこりと笑う湊が、もう1度小さくキスを重ねる。

「じゃあ、先に行ってるから。また会社で」

 そしてまるで何事もなかったかのようにドレッサーから離れて部屋を出て行った湊の背中を、振り返って呆然と見送る。

 竜巻のようだ。
 突然発生して、蹂躙して、あっと言う間に去っていくその俊敏性と強い力は、菜摘にはとても止められない。

 はぁ、と大きな溜息が漏れる。指先で唇に触れると、まだ何も塗っていないはずなのにそこはグロスを重ねたように濡れている。

 せっかく完璧に仕上げたメイクを、あっという間に乱されてしまった気になる。もちろんドレッサーの中の鏡を覗いても、さほど大きな変化はないのだけれど。

「これでキレイになれたら苦労しないよ……」

 なんて口では言うけれど。でも確かに今日は化粧乗りが良くて、クマも無くて、肌ツヤがいい。

 だから毎日この調子を保てるなら。
 ずっとキレイでいられるなら。
 湊が他の可愛い女の子に目移りせずに、自分のことだけを見ていてくれるなら。

 ルージュの前なら―――毎朝キスしてくれてもいいのに。

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