「オレを喰いたいなら、喰わせてやる。」~比翼の有翼獅子~

火威

文字の大きさ
4 / 7
第二幕

「オレを喰いたいなら、喰わせてやる。」~比翼の有翼獅子~

第二幕

「おっちゃん、麦酒、もう一杯!あ、グラスじゃなくてジョッキで!あと、名前忘れちまったけど、この肉、うまかったから、もう三人前くらい持って来て!」
 声を張り上げて豪勢な注文をするレオーネに
「あいよっ!いやあ、兄ちゃん、いい呑みっぷりと食いっぷりだねえ!見ていて気持ちがいいや。」
と、飲み屋兼食堂の親父が、がはは、と笑って応じる。
 実際、レオーネの前には空になった皿やグラスでいっぱいだ。
「おい、レオ。」
と、正面に座るアクイラが、呆れたような諌めるような声で呼ぶ。レオーネは、叱られた子どものように、ちょっと肩をすくめて上目遣いで相棒を見る。すねたように、唇を尖らせた。
「いいじゃん。賞金たんまり入ったんだから、今日くらいハメはずしたってさあ。」
 武闘大会は、アクイラとレオーネの同時優勝で終わり、優勝と準優勝の分の賞金で懐は十分暖かい。そもそも、Sランクハンターであるアクイラとレオーネは、路銀には困らない。魔獣は、死ねば「核」を残して消滅する。その「核」は、人間には作り出せない成分を含んでおり、毒にも薬にもなる。レベルの高い魔獣の核ほど、含まれる成分の純度が高い。
 ハンターは危険と隣り合わせの、命がけの仕事だが、強くなれば莫大な富を手にできる。
「明日、二日酔いで地獄の苦しみを味わいたいなら好きにしろ。」
 アクイラの声は、絶対零度に冷たい。彼も、細身の身体のどこ入るのか、という量をたいらげているのだがー魔法、というものはかなりエネルギーを消費するものなのだー思慮深い彼は、相棒のような無茶苦茶な呑み方はしない。
「…わかったよ。」
 レオーネは、渋々グラスを置く。
 それを見て、アクイラの、鋭利な眼差しが和らぐ。レオーネにしかわからない、かすかなものでしかなかったが。しかし、ほころびかけた花の蕾が再び閉じたように、その変化は瞬時に消え失せてしまった。
「いやー、いいモノ見せてもらったぜ。チーム・有翼獅子グリフォンのお二人さん。」
 よく言えば陽気、悪く言えば軽薄なノリで、声をかけてきた男がいたからだ。
 レオーネは、肉の塊をごくんと呑み込んで振り返る。きょとん、とした顔で。
 アクイラは、警戒心の濃い表情で、ごくわずかに視線だけを動かした。
「この街の歴史に百年は残る名勝負だったぜ!さっすがSランクハンターサマだな!」
 アクイラの凍てつく視線を受けても、男に動じた様子は無かった。声の通り、見た目もチャラい。じゃらじゃらと派手な装飾品で身を飾っている。耳にずらりと連なる大ぶりのピアスが、特に目を惹く。
 光の加減でオレンジにも見える赤茶の髪を長く伸ばして紐で一つにくくっている。紐の色は銀色で、派手な髪の色との対比に目がちかちかする。ブルー・グレイの瞳は、ぎらついた生気に満ちている。顔立ちは下品というわけでもなく、どちらかと言えば整っている方なのだが、ハイエナじみた目つきが油断ならない男、という印象を与える。
(アークににらまれてもビビんねぇなんて、こいつ、すっげーな。)
と、レオーネはひそかに感心する。度胸が据わっているのか、ただの馬鹿なのか。
「オレは、名のある大会にゃあちこち足運んでんだけど、正式詠唱の魔法なんざ初めて見たぜ。使えるやついたなんて驚いたのなんのって。」
「へー、そっかあ。そりゃ。」
どうも、と愛想よく続けようとしたレオーネの足を、アクイラがドンッと踏みつける。
「いってえ!何すんだアーク!!」
 涙目で怒鳴る相棒を、一瞥さえ与えず綺麗に無視して
「要件は何だ。」
 水際立った剣の一閃のように。切って捨てる声で、アクイラが言う。
 男が、へぇ、という形に唇を動かした。
「話が早くて助かるねぇ。あんた、腕と顔だけじゃなくて、頭もいいんだな。」
 口調は変わらないが、軽佻浮薄な雰囲気ががらりと塗り替わる。
 つい、と持ち上げられた右手には、輝く真の銀ミスリル
危険なもうけ話ハイリスク・ハイリターンのお誘いだ。いっちょかまないか?チーム・有翼獅子?」

「明日までに返事をくれ。」
と、赤毛のハンターは立ち去った。
 宿の部屋に引き上げた途端、
「おもしろそうじゃん!!」
と、レオーネは、何も考えずに飛びついた。
 うさんくさい同業者ハンターの口ぶりから、敵は厄介な相手だと本能でかぎわけたらしい。それは即ち高位魔獣ということで。
「腕が鳴るよなあ、アーク!」
と、相棒も当然、賛成だと信じて疑わない。
「最近雑魚ばっかでつまんなかったからさ、ちょうどいいじゃん。な?」
と、わざわざアクイラの座っているベッドに乗り上げて、真横、しかも至近距離からアクイラをのぞきこんでくる。ちなみに、二人にとっては雑魚だが、ここ数か月で倒してきた魔獣は、Aランクがほとんどだ。世間一般のハンターからすれば、命がけの敵だ。
 自分のベッドに足を組んで座っていたアクイラは、ぐいっとレオーネの耳を引っ張ってやった。レオーネは目をむく。アクイラの指は、爪の形まで綺麗で、男の指とは思えないほどほっそりしている見た目のわりに、力は強い。
「痛って!いきなり何すんだよアーク!」
「貴様はどうしてそう考えが足りないんだ!」
と、アクイラが眉を逆立てて怒鳴る。
「ハンターが、分け前を減らしてまで、別のパーティーに助力を請うなんざ、Sランク魔獣か、それとも裏があるかのどっちかだ!」
 通常、ハンターへの依頼は、世界中に散らばるギルドが受け付けている。緊急を要するものは、ギルドから、近くにいるハンターに話が行く。もちろん、ランクに合わせて、その依頼が達成できると判断されたハンターに。
 急ぎでないものは、ギルドの掲示板に張り出され、仕事を求めて訪れたハンターは、そこから報酬と自分の力量に釣り合う依頼を受ける。
 依頼ではなくても魔獣の退治をして得た核は、ハンターが自分で売りさばくこともできるし、ギルドで換金することも可能だ。
 今回の場合は、ギルドから赤毛のハンターに依頼が来たということだった。ギルドが判断を誤って、あの男の手には負えなかったとか、あの男が怖気づいたとかならそれでいいが、何か裏があるのでは、と聡明で警戒心の強いアクイラは勘ぐっている。
 大人になっても天真爛漫さが抜けないレオーネは、
「あいつが単にビビッただけじゃねーか?」
と、あまり人を疑わない。
(こいつは、いくつになっても、ガキのまんまだな。)と、アクイラは呆れるが、それがレオーネなのだし、とも思う。
 そして。
「まあいい。裏があるにしろ。裏ごと叩き潰せばいいだけだ。」
 自分たちは強い。それは過信ではなく、確かな実力と経験に裏打ちされた自信だ。はかりごとがあるかもしれないとレオーネに釘はさした。(レオは、馬鹿ではないから、裏があることを考慮に入れた状態なら油断はせんだろう。)と、そこは信頼している。
 けしてレオーネに影響されているわけではないが。アクイラ自身も、強敵との遭遇は望むところなのだ。気分が高揚してきた自覚はあった。
 レオーネの顔が、パッと輝く。
 お預けを喰らっていたが犬が、ご主人様から「待て。」を解かれた瞬間のような笑顔だ。
「じゃあ、アーク。」
と、見つめてくる大きな瞳に、アクイラは不敵に笑って見せた。
「受けてやるさ。」
と。オレたち、チーム・有翼獅子グリフォンを騙そうとしたら、どんな報いがあるか思い知らせてやればいい、と。
(うわ。)
と、レオーネが目を瞠る。
 紅を差しているわけでもないのに、鮮紅色のアクイラの唇の両端がきゅっと上がり。
 最高級のサファイアを凌ぐ、深く鮮やかな紺碧の双眸が、危険な輝きをまき散らす。
 傲慢で、嫌味なくらい自信たっぷりで、でも、だからこそ目が離せない。
 レオーネは、魅了されたように、呼吸を忘れる。
 もう十年も一緒にいて、すっかり見慣れた美貌なのに、見惚れてしまう。
 どくどくと、心臓の音が、急にうるさくなる。
(わくわくしてきた。)
「おう!やろうぜ、アーク!!」
 レオーネがアクイラに拳を差し出す。
 遅い午後の陽光をきらりと反射する、真の銀ミスリルのリング。
 アクイラも笑って、拳を突きだす。
 指輪と指輪が、涼やかな音色を立てた。

 翌日。
 朝霧の立ち込める林の中。
 意気揚々と、指定された場所に赴いたアクイラとレオーネは、そこで、赤毛のハンターの変わり果てた姿を発見した。
「ひっでぇな…。」
 レオーネが呟く。
 全身、至る所に、鋭利な牙や爪で深く切り裂かれ、抉られ、噛み千切られた跡がある。真っ赤に染まった凄惨な体は、赤い髪と同じ色と化していた。じゃらじゃらと全身につけていた派手は装飾品にも血がこびりついている。
 髪をまとめていた銀の紐は切り裂かれて風で舞ってしまったのか、見当たらない。そのせいで、顔に幾筋か赤毛がまとわりついているのが、血の筋と同化しているように見える。
 野心に燃え、生気の塊のようにぎらぎらと輝いていた灰青色の瞳は、その光を失い、虚無の空洞となっている。人相が変わるほど顔も傷だらけになっているせいもあって、まるで別人のようだった。
 冷静に死体を眺めていたアクイラは
「ただの獣じゃないな。」
と、断じた。
 死体から顔を上げてこちらを見てくるレオーネに
「食うために殺したなら、五体無事なのはおかしい。これは、殺すために殺したんだ。そんなことをするのは、人か、知性のある魔獣だ。」
 淡々と事実のみを告げる。昨日まで生きて動き、会話をした相手が、無惨な骸になっていようとも、その程度で動揺することはない。
「そして、おそらくは人じゃない。物取りなら、金目の物は奪うだろうしな。そもそも、ハンターを狙う命知らずの強盗などいないだろう。」
 昨日会った時と、男の装飾品は変わっていないように見える。大振りのピアスも、幾本もの指を飾る指輪もそのままだ。
 アクイラは、その指輪の一つを抜き取った。他の物に比べてひどくシンプルな作り。しかし、その輝きは、濃霧に遮られ、ぼんやりとした明るさしかないこの場所でも、くすむことはない。
 ハンターの証。真の銀ミスリルのリング。
 その内側には、ハンターの名前や所属するチーム、そしてランクが刻印されている。
「Aランクか。」
 ふっと、その唇の両端がつり上がる。
 ぎらりと、危険な輝きが閃くスター・サファイア。
 レオーネが息を呑んで見惚れる視線の先で。
「こいつを殺した魔獣は、間違いなく高位魔獣だということだ。」
 くくっと、喉の奥で愉しげに笑い。
「レオ。」
と、相棒を呼ぶ。
「面白くなってきたじゃないか。」
「…おめぇ、死体の傍でそりゃフキンシンだぞ。」
と言いながら、高揚する気持ちはレオーネにもある。
 チーム・有翼獅子の二人で立ち向かうのにふさわしい獲物だった。
 ガラガラガラガラ…。
 馬車の音が遠くから響く。霧に遮られ、姿はまだ見えない。
 鬼が出るか、蛇が出るか。
 アクイラとリオーネは、肩を並べて待ち受けた。

 重厚な作りの、四頭立ての馬車が、静かに止まる。
 馬車も、それを引く馬も、全てが黒一色。それでいて、施された細かな装飾や、紋章は黄金だった。
 降りてきた御者が、ドアを開ける。
 現れたのは、黒衣の貴婦人だった。
 年の頃は、四十手前だろうか。若さを失っても揺らぐことの無い美貌の持ち主だった。黒一色の地味な装いでありながら、消しきれない色香が漂う。結い上げた栗色の髪から、うなじにほどけた後れ毛や、愁いを帯びた紫の眼差しから。
 顔の前に垂らされたヴェールの奥から、暗紫の瞳が全てを見渡した。
「やはり、死人が出てしまいましたか。」
 深い諦念の滲む声音だった。何度も絶望を見てきたかのような、暗い響き。
「やはりって…あんたは、こうなることがわかってた、ちゅうことか?」
 問いかけたレオーネに、貴婦人は頷いた。
「はい。あなた方は。」
と、貴婦人は、赤毛のハンターの亡骸を指し示す。
「この方が助力を請うと言っていたSランクハンターの御二方ですね。わたくしは、依頼人のシュピンネ・フリュール。フリュール伯爵家の、先の当主の妻です。」
 フリュール伯爵家。それは、この一帯を統治する領主だった。先代、というからには、黒衣の貴婦人、シュピンネの夫は亡くなっているのだろう。ならば、黒衣は喪服だった。

 始まりは脅迫状でした。
 “フリュール家当主、リュシオルと、その許嫁、ファルファラ・マルールとの婚約を即刻破棄せよ。
 さもなくば、フリュール家は血の海に沈むであろう。“
 差出人の心当たり、ですか。
 わかりません。というより、多すぎてしぼれません。当家とマルール家の結びつきを阻止したい家も多うございます。おっしゃる通り、貴族社会とは、そういうものでございます。
 依頼は二つ。
 当家で預かっているファルファラ嬢の身の安全の確保と、脅迫状の差出人の特定を。差出人の特定は可能であるならば、で結構です。
 婚姻前になぜファルファラ嬢が当家に滞在しているか、ですか。当家の風習です。婚姻の半年前から、花嫁修業として、行儀作法や当家のしきたり等を学ばせております。ええ、わたくし自身も同様に。もう二十年は前になりますが。
 期限は、三日後の、婚礼の夜まで。式さえ無事に挙げてしまえればよいのです。その日までファルファラ嬢の身を守り抜いていただければ、報酬はお支払いたします。

 馬車は進む。等間隔で、美しく形を整えられた並木道を。その先に、豪奢な屋敷が見えてくる。尖塔をいくつも備えた白亜のそれは、城と呼んでも差し支えない大きさと重厚さだった。
 馬車が止まる。御者が、扉を開ける。
 降り立ったアクイラ、レオーネは、屋敷にふさわしくない、騒然とした空気に、何かが起きたことを感じ取る。
 レオーネが、アクイラの耳元でささやいた。彼だけに聞こえるように、ぎりぎりまで声を絞り、ほとんど吐息だけで紡ぐ。
「アーク。血のにおいがする。」
 アクイラは表情を変えなかった。かすかに頷く。
 フリュール伯爵夫人も、予感めいた何かを感じ取ったのだろう。固い表情で、暗紅色に塗られた唇を震わせる。
 バタンと、獅子の口を象ったノッカーのついた扉が開け放たれた。
「奥方様…ファルファラ様がっ…。」
 駆け寄って来た初老の執事は、そこから先を言うことができなかった。しかし、必要はなかった。
 大きく開け放たれた扉からのぞく、大広間。吹き抜けの天井から吊り下げられたシャンデリアに刺し貫かれた遺体が、はっきりと見えていたのだから。
 百舌鳥の速贄のように、串刺しにされた乙女。真珠をいくつも縫い付けた、桃色の華やかなドレスは、ところどころ真っ赤に染まり、床に血だまりを作っていた。死の直前に感じたであろう、苦痛と恐怖によって、カッと見開かれた眼。断末魔の叫びが聞こえてきそうな表情からは、生前の顔立ちが想像できない。
 誰もが凍りつき、身動き一つとれなかった中で。
「風の第四位、飛翔翼!」
 凛とした声が、呪文を詠唱する。さらっと、光の残像を描いてなびいた黄金の髪。
「アーク!!」
と、反射的にレオーネの視線が、アクイラを追う。
 その背に風で紡がれた翼を広げたアクイラは、一瞬でシャンデリアを見下ろせる高みにまで舞い上がっていた。
 シャンデリアの材質は、硝子ではなく、水晶。しかも、物質の硬度を高める魔法を施された特別な水晶で、流石は伯爵家の玄関ホールに飾られるだけのことはある。さらに、剣の形に加工されている。人の肉を貫くのもやたすかっただろう。
 アクイラは、いっそ冷徹、とも言えるほどの迷いのなさで、無惨な骸を眺める。感情の無い、それゆえに余計なものを持ち込まず、事実だけを見抜く目で。
 そんな相棒の姿に、レオーネも平静さを取り戻す。正義感の強いレオーネは、まだ少女の面影を残すほどの年若い令嬢が、無惨に殺されたことに憤っている。しかし、怒りでは何も解決しないのだと、レオーネの姿を見て悟る。情に流されず状況を見極める相棒の方が、事態を解決に導くのに長けている。
「アーク、死因、わかるか?」
 努めて冷静な声で呼びかけるレオーネに
「腹の傷以外に外傷は無い。」
 アクイラは端的に言う。
「生きたまま、ここに串刺しにされたということだ。」
 あまりにも残虐な真実に、ヒッと息を呑む複数の声と、上がる悲鳴。
 しかし、アクイラは、凄惨さの裏にある、もう一つの真実に気づいていた。
「このシャンデリアは下ろせるのか?」
「はい。鎖で吊ってありますが、下ろす仕掛けはございます。年に一度、点検と清掃のために下ろしております。」
と、震える声で答えたのは、伯爵夫人だった。隠しきれない動揺と混乱と絶望と悲嘆に、その声は震えている。しかし、血塗れの遺体から目を反らすことなく答える気丈さは、夫の死後、家を守り抜いてきた貴婦人の気概を感じさせた。
「ですが、仕掛けを動かす小部屋の鍵はわたくしが管理しております。」
「それはつまり…この人が殺された時に、このシャンデリアが下りていたわけじゃねえってことだよな…。」
と、レオーネが呟く。そういうことだろ、アーク、と、青い瞳を見上げる。考えることはあまり得意ではないが、アクイラにばかり任せてはいられない。役に立つところを見せなければと思っている。
 アクイラはレオーネの言葉に頷き、続けた。
「なら、考えられるのは三つだ。犯人は、被害者を抱えてこの高さまで何等かの手段で登った。あるいは、鍵を持つ者の犯行。もしくは、犯人は、被害者を下から放り投げる怪力の持ち主。」
 暗に、名指しで犯人とされたシュピンネ伯爵夫人は、動じなかった。
「依頼内容を変更致します。」
 喪服の貴婦人は、ファルファラの遺体を見つめた。男でも直視を避けたくなる凄惨な亡骸から目を反らさぬまま、
「ファルファラ嬢を殺めた犯人を突き止めてくださいませ。」
 そう告げる。金はいくらかかっても構わない。必ず、と言い添える。
「もちろんだ!こんなの絶対許せねえよ!な、アーク!!」
大きく首肯したレオーネに、アクイラは不敵に笑う。
「当然だ。チーム・有翼獅子オレたちを虚仮にしたことを、地獄の底で後悔させてやる。」
 瞳に青い炎を燃やすアクイラの表情に、レオーネの胸が躍る。亡骸の前で不謹慎なのは重々承知。けれど、獲物を前にしたアクイラの、猛禽の眼差しは、レオーネの闘志を煽る。
 シュピンネ伯爵夫人が、ふっと息を吐いた時。
「犯人?そんなの探すまでもない!」
 あはははは、と、惨劇の場を、死者を悼む空気を冒涜するかのような笑い声とともに、そんな言葉が放たれる。
 唐突な言動だが、シュピンネ伯爵夫人にとっては予想の範疇だったのか、落ち着いた声で窘めた。
「エフィメラ、おやめなさい。」
「なんでさ、母様。犯人なんてわかりきっているじゃないか!ハンターに依頼するまでもないことだよ。」
 と、声の主は言い張る。伯爵夫人を母と呼ぶからには、フリュール家の子息なのだろう。シュピンネ夫人と顔立ちもよく似ているし、ブラウンの髪や深い紫の瞳も同じだ。
 華美だが、けばけばしくはならない、上品な装いをしている。金糸銀糸で織柄が施されたウエストコート、レースとフリルがたっぷりと使われたシャツ、膝が隠れる長さのズボンの下は、真っ白な絹の靴下。
 年の頃は、アクイラやレオーネよりは年下に見える。十七、八くらいか。アクイラという、誰もが息を呑むほどの美貌の持ち主を見慣れているレオーネは、何とも思わなかったが、たいていの若い娘が振り向くであろう、整った顔立ちだ。ただ、自分の主張を強硬に押し通そうとするその言動ゆえか、わがままな子どものような、幼い印象がある。
 アクイラが、す、と碧玉の双眸を細めてエフィメラと呼ばれた少年を見据える。
 たったそれだけのことで、威圧を放つのがアクイラだった。エフィメラはかすかに息を呑む。
「なら、言ってみろ。貴様が考える犯人はどいつだ。」
(あっちゃー。)
と、その物言いに、レオーネは頭を抱える。いくら身分制度の外に位置するハンター、しかも、王族さえ頭を垂れて依頼することさえあるSランクハンターとは言え、伯爵家の子息にこんな言い方をするのは、アクイラだけだ。
(まあ、アークだったらこういうの、問答無用で押し通しちまえるんだよなあ。)
 有無を言わせない迫力がある。
 案の定、エフィメラは気圧されたようにせわしなく、何度も瞬きをする。無礼者!と怒鳴りつけることなど思いつかないようだった。しかし、くいっとあごを反らす。なかなか肝が据わっているようで、アクイラに答える。
「人狼さ。」
 瞬間、その場の空気が一気に冷えた。
 それは、フリュール家侯爵家にとって、いかなる意味をもつ言葉だというのか。ファルファラの遺体以上の衝撃に、気丈なシュピンネ夫人がよろめいた。
「エフィメラ!貴方はそのような。」
「母様だって、内心ではそう思ってるくせに!!」
 糾弾するようにエフィメラは続け、その場に膝をついた。
「兄様だって、そう思うよね…?」
と、耳元で囁いた相手は、先程から置物のようにじっとうずくまり、声一つ立てていなかった人物。最初からそこにいたにも関わらず、微動だにしなかったせいで、存在を認識されていなかった。
 エフィメラと同様の煌びやかな衣装に身を包みながらも、魂が抜けたように虚ろな表情で、半ば放心状態の青年。
 それも無理はない。エフィメラの兄ならば、この青年こそが、フリュール家の若き主であり、惨殺されたファルファラ嬢の、夫になるはずだった人物なのだから。
 弟の言葉にも、兄は全く反応しない。並んで立てば一目で兄弟とわかる、弟とよく似た顔立ちをしている。髪や目の色も、母や弟と同じだ。しかし、喚き散らしている弟と正反対の、生気の欠片もない様子のためか、容姿は似ていても、まとう雰囲気は真逆だった。
「リュシオル…。」
と、シュピンネ夫人が痛ましげにその名を呼ぶ。
 苛立ったように立ち上がったエフィメラが、声高に言い立てる。
「人狼さ!人狼の仕業だ。このフリュール家は、人狼に呪われているんだから!!」
 精神の均衡を欠いたような、ヒステリックな声が、広間にこだます。
 ふ、と珊瑚珠のような唇に弧を描いたのは、アクイラだった。爛々と輝く瞳の、強烈な眩さに、レオーネは目を奪われる。
(アーク…。)
「人狼、最高位の魔獣か。相手にとって不足はない。」
 星が煌めくような、否、爆発するような、危険なのに抗えない魅力でレオーネを虜にする、アクイラの青い双眸。
「レオ。」
と、呼んで、アクイラは、その眼差しをまっすぐに相棒に向ける。
「おう、腕が鳴るぜ!」
 レオーネも不敵な笑みで、それに応えた。

 真円を描く月は、不吉に赤い。
 滴り落ちる鮮血にも似た月明かりに照らされていながら、まばゆい金の髪は一切の穢れなく美しい。
 領土争いのあった時代には見張り台として使われていただろう、城の尖塔に立ち、アクイラはその髪を夜風に遊ばせている。
 目も眩むような高さ、転落すれば即死の高さだが、飛翔の魔法を使えるアクイラは平然としている。空は彼の領土だ。
 こつっこつっと、控えめな、静かな足音が近づいて来るのを、アクイラは悠然と待ち受けている。
チーム・有翼獅子オレたちを、手紙一枚で動かすとは、いい度胸だな。」
 足音の主に、アクイラは傲然と告げる。気圧されたように、びくりと肩を震わせ、青年はかすれた声を搾り出す。
「非礼があったなら詫びます。しかし、誰にも気づかれずに、貴方と話がしたかったのです。」
 赤い月光の中には踏み出さず、影になった場所に佇んだまま、伯爵家の当主は言う。貴族らしからぬ、下手に出る物言い。生来、控えめな気質なのだろう。それに加えて、リュシオルの目の前に立つアクイラは、フリュール伯爵家の命運を握る存在だった。
 今朝方の惨劇から時間がたち、表面上は落ち着きを取り戻したように見えるリュシオル・フリュールだが、その瞳は虚無の闇に…二度と這い上がれない奈落に沈んでいるかのように暗い。もともと生気に乏しく、存在感が希薄な青年なのかもしれないが、惨劇がそれに追い打ちをかけたことは確か。
 アクイラは、レオーネとともにハンターとして世界を回り、様々な依頼をこなし、数多の人を見てきた。だから、この青年の絶望の深さはわかる。そして、憎悪も。必死で押し込めているその負の感情は、彼の精神を蝕み、いずれ崩壊させるかもしれないこともわかる。
 しかし、アクイラは、(オレは依頼をこなすだけだ。)と割り切っている。非情なようだが、依頼のたびに、関係者の感情に引きずられていては、仕事にならない。そして、ここで堕ちるか這い上がるかは、結局は本人次第なのだ。彼の相棒は、何度言っても、おせっかいで共感しやすく、誰彼構わず救いの手を差し伸べようとする癖が治らないが。
「弟の言うことは嘘です。」
 リュシオルは言い切った。
「人狼なんていない。」
「なぜ、そう思う。」
 アクイラは感情のない声で返す。
 人狼。
 人など一呑みにできるあぎと、骨まで砕く牙、たやすく肉を抉る爪、馬より速く駆ける四肢、そこらの剣では傷一つつかない剛毛に覆われた頑強な体躯。さらに知性があり、人に擬態することさえ可能。
 最高位に君臨する魔獣。魔王の眷属の中でも最強の一角。その魔獣の存在は、けして幻などではない。
 そして。
「フリュール伯爵家。聞いたことがある。呪われた伯爵家。歴代の当主及びその親族は、若くして変死する者が多い。死の間際には、人を襲い、その血肉を喰らう。死体は、犬歯が牙のように尖り、皮膚は獣のような剛毛に覆われる。最後には、先祖から受け継いだ血の呪いによって狂死すると。即ち。」
 アクイラの、よく通る美声が、空気を…リュシオル自身を鞭打つように非情に響く。
「フリュール伯爵家は、人狼の末裔。魔魂忌み仔を産む一族だと。」
 リュシオルは、呆然とアクイラを見返した。
「なぜ、Sランクとは言え、一介のハンターがそれを…。」
 それは、アクイラの言葉が真実だと白状したようなものだった。アクイラは軽く肩をすくめる。各国の王族や、有力な貴族の情報は、片手で足りる年から頭に叩き込んである。しかし、こちらの手の内をさらす気は無い。
 アクイラは無言で待つと、リュシオルは力なく項垂れた。
「ええ、そうです。死んだ父上も、魔魂忌み仔だったと、母上から聞きました。人狼の血に目覚めてしまえば、普通の人間の肉体では、それに耐えられず、発狂し、死に至る。ですが、私も弟も、狂ってなどいない。」
 絶望に打ちひしがれていた青年の瞳に、ほんのわずかに光が戻った。
「エフィメラは…。」
と、名を呼ぶ声には、確かな親愛の情がある。フリュール伯爵家の兄弟をほんの数分見かけた程度のアクイラにも、全く性格の似ていない二人に見えた。しかし、違うからこそ上手くいく関係というのもあるだろうと察せられた。
「私と違って明るく自由な子です。いつも自信に満ちて輝いている。陰惨な伝承など、あの子には一番似合わない。あの子は私の希望です。」
「だから、犯人は人狼ではく、人間だと。」
 アクイラはつ、と目を細めた。この若き伯爵の言うことには一応筋が通っている。しかし、全面的に受け入れることができない気がした。何かを見落としている気がする。それは、十代前半から実戦を積んできたアクイラの、ハンターとしての直感だった。
 ほとんどの人間は、魔獣の血に狂う。だが、すぐに死ぬ儚い存在であるのなら。
 魔魂忌み仔。
 その存在が、怖れられているのはなぜだ。「人に牙を剥きます。油断してはなりません。」と、そう語り継がれているのは。
 いや、何よりの証拠は、すぐ近くにある。アクイラにとって、最も近しい存在である彼は。
 沈みかけた思考を切り裂くように、遠くで光が奔った。
 雷光のように鮮烈に、アクイラを惹き付けるその輝きは。
「レオ!!」

 時間は、少し、遡る。
 月光は明るく中庭を照らしている。しかし、その色は、滴り落ちる鮮血のようで、夜の底に不安を積もらせていく。
 動物を模しているようで、植えられた木々は、複雑な形に刈り込まれている。自然そのままに奔放に伸びている様子はない。毎日手入れを怠っていないのだろう。この広大な庭を維持するには、庭師も相当数雇っているはずで、流石は歴史と由緒ある伯爵家だ。
 ただ、夥しい数の、獣の形の植樹は、今にも動き出しそうだ。囲まれていると、迷宮に迷い込んだような気分になる。
 陰影の濃い樹木の間を歩きながら、レオーネはぴくぴくと鼻を動かした。
「う~ん、やっぱ臭うなあ。」
 レオーネは鼻がきく。だから、この屋敷のぶ厚い扉が開かれる前から、ファルファラの血の臭いに気づいていた。
 この屋敷に着いた直後は、ファルファラの遺体から放たれる血の臭いでかき消されていたが、それが薄まってくると、気づいた。この屋敷全体を覆うように立ち込める獣の臭いに。
 アクイラにそれを告げると、彼は、レオーネにその出所を探れと命じた。レオーネが常々、(アークの頭ん中ってどうなってんのかなぁ。一回のぞいてみてぇ。)と感心するほど頭の回転の速いアクイラには、既にこの事件の全貌が見えているらしい。
 だったら、いっしょに探そうと提案したが、断られてしまった。『オレにはオレでやることがある。』と言う。(まあ、アークだから心配なんかねぇんだけど。)と、思いつつも、レオーネは少々複雑だ。アクイラの実力は、レオーネが一番よく知っているし、油断するような性格でもない。でも、この魔窟のような伯爵家で、別行動をしていると、不安になってきてしまう。
 レオーネは、ふと足を止めた。獣の臭いは、敷地全体に拡散しているのでわかりにくい。しかし、濃淡はあるようで。
「んー、こっちの方が臭い、強ぇんかな?」
と、首を傾げたとき。
「何の臭い?」
と、唐突に声がかかった。
 イヌ科の動物を象った木の陰から、声の主が姿を現す。こんな深夜だが、昼間と同様の煌びやかな貴族の装いで佇んでいる。陽の光の下では、若い娘が黄色い声を上げそうな、甘い顔立ちの少年に見えた。しかし、今は、赤い月光を浴びているせいか、得体の知れない不気味さが足元から背筋を這い上がってくるような印象がある。
 レオーネは、すうっと目を細めた。ふだんの、呑気ですっとぼけた顔が、ふいに精悍なハンターのものへ変わる。
「獣のにおいだよ。犬…んーちょっとちげぇか。狼だ。当たり、だろ?」
 鋭さを増す、蒼い双眸。
「おめぇからにおうもん。」
「あははは。」
と、フリュール伯爵家子息、エフィメラ・フォン・フリュールは、子どものように笑った。
「ずいぶん鼻がきくんだ。あなたこそ、獣みたいだ。」
 レオーネは、ぴくりと片眉を動かした。
「あっさり認めんだな。」
「だって、もうばれてるんだろ?だったらまどろっこしい騙し合いなんて無駄じゃないか。」
 開き直っている。それに、と余裕の笑みで続けた。
「どうせ、初めからあなた達は始末するつもりだったし。」
 と、笑う口元が、耳まで大きく裂ける。べろん、とはみ出した、真っ赤な舌。
「チーム・有翼獅子グリフォンの噂は聞いてる。遅かれ早かれ突き止められるんだろうなってわかってたからね。手は打ってたさ。」
 獣の臭いが、一気に濃くなる。
 ぐるるるるる…。
 暗闇にひそむもの達の、うなり声。
「行け、我が眷属たち!こいつを喰い殺せ!!」
 ドウッ!!
 大きく跳躍し、襲いかかってきた狼を
「光の第五位、閃光剣!!」
 光が弾け、夜闇を払う。金色こんじきの光の剣が、狼を刺し貫く。
 バシャッ!!と、血の雨が大地に降り注ぐ。その血溜まりをためらいもなく踏み越えて、新たな狼がレオーネに迫る。
 レオーネの顔に、焦りは無かった。
「おめぇたちじゃ、オレには敵わねえよ。逃げろって言いたいけど…あいつに逆らえねぇんか。」
と、牙を剥きだしてうなる狼の群れに問いかける。返る言葉などないとわかっている。
「同情するが、手加減はしねぇよ。オレには、守るもんがあるからな。」
 アクイラには、よく「貴様は甘すぎる。」と怒られるが、無駄な殺生はさけたい。それでも、向かってくる敵を屠ることに、ためらいは無い。レオーネは、自分が最優先するものを迷うことはないから。

「光の第五位、月光牙!!」
 三日月形の刃が、四方八方に飛ぶ。その度に、血飛沫が舞い、狼がばたばたと倒れていく。歪曲した刃は、標的をしとめた後も、ヒュンッと風を切って飛び、新たな獲物を切り刻んだ。果ての無い、殺戮の輪舞曲。周囲には、むせかえるほどの血の臭い。
(数が多い。あいつ、どれくらいの狼を…。)
 すでに百を超える狼を仕留めている。しかし、後から後から狼たちは姿を現す。広大な庭園を埋め尽くすほどの、獣の群れ。闇に隠れて、その全容は明らかではないが、もしかしたら、屋敷を囲む森にまで、狼がひしめきあっているのかもしれない。
 その予感は正しかった。
 ドドドドドドッ。
 地響きが轟いた。
 グルルルルルルルル…。
 腹の底に響く、重低音のうなり声が、幾重にも重なる。
 闇に底光りする、獣の目玉は、地上に落ちた不吉な星のように無数。
 ひそんでいた、全ての狼たちが、その姿を現し…。
 一斉にレオーネに跳びかかる。
 訓練された…というよりは、一個の意志に統一されたかのような、完璧な連携。
「光の第三位、金剛壁!!」
 夜闇を払い、強烈な光が炸裂した。
 周囲をまばゆく照らして出現したのは、ダイヤモンドの硬度を誇る、強固な防御壁。狼たちは、どん、どん、と次々に体当たりしたり、牙と爪をたてたりしているが、壁には傷一つつかない。かえって、狼たちの骨は砕け、牙と爪は折れて鮮血が壁に散った。
 無傷のレオーネが、ハッと息を呑んだのは、エフィメラの狙いに気づいたからだ。金剛壁を展開させたあの一瞬で、彼の姿は消えていた。
「!」
 レオーネが蒼ざめた。
 エフィメラは言った。初めからあなたは始末するつもりだった、と。ならば、エフィメラがどこへ向かったのか。
「アーク!!」
 アークが危ない、と、とっさに思ってしまった。他の全てがレオーネの中から抜け落ちる。レオーネの中では、いつだってアクイラが最優先だ。
(どうせ、この狼たちは全部雑魚だ。だったら。)
 多少傷を負っても、致命傷には至らない。防御など気にせず、一気に駆け抜けてーと、金剛壁を解いた、その瞬間。
 狼のうちの一匹が、一匹だけが凄まじい速さで突っ込んで来た。今まで、見事なまでに統率のとれた動きをしていたにも関わらず。
 そして、その一匹の動きは、苦も無く倒してきた今までの狼たちとは全く違っていた。
 ギュンッと、まるで伸びたかのようなスピードで、レオーネの眼前に迫った前肢。
 一瞬で間を詰められた。
 ガッと、首をつかまれて宙吊りにされる。
 レオーネの両足が、虚しく空をかく。
 ぎりぎりと、万力のように締め上げられる。骨が悲鳴を上げる。
 引き剥がそうと、腕に全身の力を込めても、びくともしない。
 この怪力なら、少女を一人放り投げ、シャンデリアに串刺しにすることなんて、赤ん坊の手をひねるより簡単だったろうな、と遠ざかる意識の片隅で思う。
 息ができない。
 視界が明滅する。
 レオーネはかすむ目で、その狼を睨む。
 声は出なかった。
「油断したねぇ、ハンターさん。」
 くすくすと、無邪気な笑い声。いまだ少年の透明感を残す軽やかな声が、獣の口から放たれる、その冒涜的なまでの違和感。
 レオーネの首を片方の前肢で締め上げている狼は、最初、他の狼たちと全く見分けがつかなかった。
 後ろ肢で立っているというという点以外は。それが、見る見るうちに、巨大化する。
 熊ほどの体躯。それに見合った巨大な牙と爪。
 しかしその眼には、人とは異なるものだが、知性がある。残虐で血を好むが、策略を巡らせ、罠を張り、人をそこに突き落とすことを可能とする頭脳を持っていた。
 人狼ワーウルフ
 魔王の魂もつ邪悪なる獣。
(魔魂忌み仔っ…。)
 レオーネが答えに辿り着いたことを読みとったのか、人狼はにい、と裂けた口で嗤う。牙を剥きだして。
「気づくのが遅かったねえ。それじゃ、地獄で後悔しなよ。」
 首の骨をへし折るつもりで、ぐ、と力を込めた、その太い前肢が。
「風の第三位、旋風斬!!」
 凛、と響いた艶やかな美声とともに、断ち切られる。
 どさ、と放り出されたレオーネは、激しく咳き込んだ。一刻も早く空気を取り入れようとする肺が軋む。血の混じった唾を吐きだし、喘鳴しながら、空を見上げる。
 紅い月光が照らす、上空に浮かぶ美貌の青年の姿。
 背中に広がる、うっすらと光を放つ、透明な風の翼。
 金の髪は、風になびくたびに、きらきらと光を降らせる。
 鮮烈な光で見る者を射抜く、スターサファイアの瞳。
 その双眸を鋭くすがめたアクイラは、天から優美に舞い下りた。
「アーク!!」
 と名前を叫ぶ相棒を
「情けないぞ、レオ。」
と辛辣に切って捨てる。傷の具合は、とか、もう大丈夫だ、とか、そんな甘い言葉は言ってくれない。あまりにもアクイラらしくて、レオーネは、思わず笑みをこぼした。
「悪ィ。」
 言ってから、立ち上がる。ぐい、と手の甲で口元をぬぐった。
「フン。」
 そんなレオーネを見て、アクイラは鼻を鳴らす。
「さあて。」
と、レオーネは、人狼に向き直った。
「仕切り直しといこうじゃねぇか。」
 人狼もまた、切断された前肢から、どくどくと血を流しながらも、立ち上がったところだった。無事な方の前肢で、斬られた前肢を拾う。傷口に押さえつけると…それがぴたりと結合する。普通の獣ではないという証を目の当たりにして、アクイラはかすかに目を細める。
 人狼は、声と口調だけは少年めいたそれのまま、クククと喉で嗤った。
「二対一なら勝てるって?おあいにくさま。」
 虚空に向かって呼びかけた。
「ねえ、いつまで高みの見物してるわけ?」
「わかってねぇなあ、おぼっちゃん。」
 アクイラとリオーネが、同時にハッと息を詰めた。
 聞き覚えがある声だった。しかし、それはありえなかった。なぜなら、その男の死体は、今朝、この目で確認したはずで。否―。
「こういうのはなあ、満を持して登場するものなんだぜ?」
 紅い月光に照らされて、色濃く見える赤毛。人を喰った表情。歩を進めるたびに、身に着けた装飾品がこすれ合う金属音。月光をはね返す、髪を飾る銀の紐。
「おめぇ、死んだはずじゃ…。」
 呆然と呟くレオーネに、既に冷静さを取り戻しているアクイラが言う。
「死体は替え玉だ。一度会っただけの相手だ。あれだけ派手に顔を傷つければ、疑われないと踏んだんだろう。」
 迂闊だった、とアクイラは自嘲する。死に顔なのだから、生前の顔とは別人のように見えても不思議はない、と思い込んでしまった。
「それで?ハンターが魔獣と組んでいやがるのはどういう理由だ?」
 あの指輪は本物の真の銀ミスリルだった。その精製方法は門外不出。ハンターのギルドだけが作れる指輪を所持している以上、目の前の男がAランクハンターであることだけは間違いない。
 くくく、と赤毛の男はひどく愉しそうに笑った。長く伸ばした髪が揺れ、月光を弾いて朱金を帯びる。
「うれしいねぇ。アンタがオレに興味を持ってくれんのは。」
 笑みを浮かべたまま、アクイラに一歩近づき
「でも簡単に教えるわけにゃ、いかねぇんだよなぁ。」
 アクイラは、顔をしかめる。軽薄を装っている目の前の男から、隠しきれない危険を感じる。修羅場をくぐってきたからこそ分かる。本能が告げる警告。この男の実力は、ランクA程度ではない。そして、狙いが読めない。
(何を、企んで。)
「そうだ!」
と、男は悪戯を思い付いた子どものように言う。
「アンタのことだから、指輪の名前は確認したよなあ?呼んでくれねぇ?オレの名前。ルナールって。あんたの声で名前呼んでもらったら、しゃべる気になるんだけどなぁ?」
 にやにやと、笑みを深める赤毛の男―ルナールを、冷ややかな目で見返すだけのアクイラに
「なあ。」
と、さらに近づこうとしたルナール目がけて。
「光の第三位、雷嚆矢らいこうし!!」
 バリバリバリバリッ!!
 夜空を裂いて、稲妻の形の矢が降り注ぐ。
 スパークするいかづちは、数瞬、周囲を真昼以上の明るさで照らした。
「アークに近づくな!!」
 雷の矢を放ったレオーネは、アクイラをその広い背に庇う。
「アーク、こいつ、なんかやべぇぞ。」
 ふだんは丸っこく人懐っこい印象の瞳が、別人のように鋭くすがめられている。レオーネもまた感じ取っているのだろう。本能が警告する危険を。動物的直感なら、レオーネの方がアクイラより鋭い。
「おー、こわ。いきなり第三位魔法ぶっ放すとか正気かぁ?言っとくけど、オレは正真正銘人間だぜぇ?」
 雷の衝撃で舞い上がった土埃で、ルナールの姿は隠され、その表情は窺えない。それでも、言葉とは裏腹に、その声には余裕の笑みがたっぷり含まれている。
「相棒にちょっかいかける奴は許せないってか?おっそろしいねぇ、その執着。」
「てめぇ。」
と、レオーネが低く唸る。ふだん、のほほんとしていて怒りや憎しみの感情は薄い方だが、アクイラが絡むとレオーネは人が変わる。
「…。」
 アクイラは、つ、と紺碧の目をすがめて。
 パシッ。
「痛てぇ!!」
 わりと容赦なく、レオーネの後頭部をはたいた。
「何すんだアーク!!」
「貴様の相手は人狼だ。」
「でも!!」
「こいつ相手じゃ、貴様は頭に血が上るだろうが。」
 視線を合わせられる。青と蒼。
 ふっと、青い瞳に悪戯っぽい光が閃いた。
「オレがこいつを倒すより先に、貴様が人狼を倒せたら、何か褒美をくれてやる。」
 レオーネの顔が、パッと輝いた。
「約束だぞ、アーク!」
「オレより先に倒せたら、だ。それから。」
と、アクイラがレオーネの肩に手をかけた。そのまま、背伸びして、レオーネの耳元に唇を寄せる。
「!?」
 男にしてはほっそりとした指先の感触と、耳朶をかすめるかすかに甘い吐息に、ドキリと息を詰めた。しかし、その動揺はすぐに驚愕に変わる。耳打ちされた内容に。
 念押しのように目配せし、アクイラはレオーネからすっと離れた。自分の敵に対峙する。

「見せつけてくれるねぇ。」
 相変わらず、ルナールの顔には、張りついたような、軽薄な薄ら笑いがある。しかし、その奥底には苛立ちと不満が入り混じった、本気の怒りがある。
 アクイラは、挑発に乗ることなく
「風の第四位、狂風槍!」
と、魔法を放つ。突風が、あらゆるものを貫く威力で四方八方からルナールを襲う。
「地の第四位、森羅鞭!!」
 大地を割って、無数の蔓が伸びた。しゅるしゅると体をくねらせて進む蛇のように、巧みに風の槍をかいくぐり、アクイラに迫る。
「風の第三位、旋風斬!!」
 しかし、太く強靭な蔓も、アクイラが新たに生み出した風の刃に、いともあっさり断ち切られていく。
 旋風は、防御から攻撃に転じ、ルナールに向かって突き進む。
「地の第四位、森羅鞭!!」
 再びルナールが蔓の鞭を出現させる。しかし、旋風斬の前では無力だった。次々と無惨に切り刻まれて空を舞う。アクイラは攻撃の手を緩めず、そのままルナールを仕留めるため、一歩踏み込んで新たな魔法を放つ寸前。
「この強さで確信した。さすがは、北の軍事国家、ヴァランガの王子。」
「っ!!」
 アクイラが動揺したのは、ほんの一瞬。しかし、その一瞬で、残っていた蔓の一本が、その腕に巻き付いた。ぎり、と食い込み、締め上げられる激痛。それに気を取られたのは、一秒にも満たなかったが、ルナールはそのわずかな時間で、新たな魔法を発動させていた。
「地の第三位、蝕呪花!!」
 蔓を埋め尽くすように、無数の蕾が出現した。
 全ての蕾が一斉に開花する。花弁の色は、どれも深く濃い紫。幾重にも花びらが重なった八重咲の花は、薔薇に酷似しているが、自然界にはけして咲かない。魔法で作られた猛毒の花だ。
 むせかえるような、濃密な甘い香りが充満する。強い酒のような酩酊を誘う。
 そして、一気に散る。
 視界が紫の闇に閉ざされる。
「風の第三位、清祓嵐!!」
 荒れ狂ったのは、一切を浄化する嵐。紫の花弁は一枚残らず吹き飛ばされ、視界が開けた。その先で。
「流石だねぇ。瞬時に毒と判断して清めたか。だが。」
と、ルナールは、にたぁ、と笑った。獲物が自分の手に堕ちてきたのを喜ぶ、嗜虐の笑み。
「多少は吸い込んだなぁ。」
 それで十分、と。
「っ…。」
 アクイラは、膝をつきそうになるのを気力で耐えていた。
 眩暈。吐き気。視界がぐるぐると回る。
 唇をきつくかみしめる。噛み切ってしまい、珊瑚珠のような薄紅の端に、ぷつっと、ルビーの真紅が散る。
「…いいな。」
 恍惚とした表情で、ルナールが目を細める。
「アンタのキレイな顔が、苦痛に歪むのは、最高の眺めだ。」
 ゆっくりと、一歩ずつ。追い詰めた獲物をいたぶるように、ルナールがアクイラに近づいて来る。触れられる距離。
 その細い首に、手を伸ばすー。
 ☆
 レオーネも人狼に向き直る。
 人狼は、なぜか、一連のやりとりをじっと眺めており、その間、攻撃をしかけてはこなかった。
「ねぇ。」
と、向けてくる視線は、ひどく人間臭い。それは、彼からけしてエフィメラという少年の人格が失われたわけではないことを示していた。
「ボクの相手、してていいの?キミの相棒が心配じゃないの?あいつ。」
と、ルナールを指さして言う。
「強いよ。」
 レオーネが、迷いの無い瞳で見返した。『情けないぞ。』と言われてしまったのだ。これ以上、アクイラにみっともない姿は見せるわけにはいかない。
「アークが、ああ言ったなら、絶対大丈夫なんだよ。」
「…。」
 人狼は、眩しいものを見たように、目を細めた。揺るがず、強固な意志。これは、何と呼ぶものだったか。
「それに、オレがとっととてめぇを倒してアークの加勢に行きゃいいだけの話だ。」
 すぐそばにいるのなら、さっきのように不安になることもない、と。
 レオーネは高らかに叫ぶ。
「光の第三位、煌星爆!!」
 ドンッ!!
 大地が大きく揺れた。
 それはまさに、星が爆発したような威力。
 むっとするほど濃い血の臭いがたちこめた。
 人狼は、片肢を派手に吹き飛ばされて、地に伏す。驚愕にその表情が凍りつく。
(なんで!?さっきより格段に強い…!!)
 アクイラは、ルナールと戦っている。けして、二対一になったわけではない。
(近くに相棒がいるだけでっ…。)
「ふうん。とっさによけたけど、かわしきれなかったって感じだな。」
 レオーネは一つ頷き
「光の第三位、日輪拘。」
と、新たな魔法を放つ。
 ヒュンッと、空を切って飛んできた、光の輪が、人狼の残った三本の肢にはまる。ぎりぎりと締め上げた。
「ぐっ…。」
 人狼は、苦悶の表情で身をよじり、必死に輪の拘束から抜け出そうともがく。しかし、その程度では、びくともしない。第三位は、Aランク以上のハンターしか使えないレベルの魔法。日輪拘は、殺傷能力はほぼ皆無だが、その分頑丈だ。
「あきらめな。」
と、諭すように告げたレオーネに、
「詰めが甘いんじゃない?ハンターさん。」
 人狼がニタリと嗤った。
 その、耳まで裂けていた口が、小さくなっていく。
 牙が引っ込み、ピンと立っていた耳が丸く。獣毛が消えていく。
 その太い肢も、見る見るうちに、細身の少年のものになった。
 エフィメラにもどった人狼は、ぶかぶかになった日輪拘を、カラン、と外す。
「どう?これですぐに人狼にもどれば。」
 その声が、表情が凍りつく。
 ガサッと、下草を踏んで現れた、その人物。
 何の力も無いがゆえに、今の今まで気づかれることがなかった。
「すっげえなぁ。アークの読み通りだ。」
 レオーネが驚いたように言う。相棒の、何手先まで読んでいるかわからないその思考には賞賛しかない。アクイラの耳打ち。『人狼に日輪拘をかけろ。奴は、人の姿に戻ってそこから抜け出す。そこを目撃させたい人間がいる。それができれば、この依頼は終わりだ。人狼を倒す必要もない。』
 エフィメラが、人狼であるという動かぬ証拠。
 それを突きつけるべき相手は。
「…兄さん。」
 震える声で呼びかけた弟も、そう呼ばれた兄も。兄弟は、同じくらい真っ蒼な、今にも倒れそうな悲愴な顔で向き合っていた。

 リュシオル・フォン・フリュール。
 フリュール伯爵家の若き当主にして、惨殺されたファルファラの婚約者。人狼の魔魂忌み仔だったエフィメラの兄。
 少女たちに騒がれそうな、甘く華のある美貌の弟と顔立ちはよく似ている。並んで立てば一目で兄弟とわかる。しかし、貴族の子弟にありがちな高慢な表情が多かった弟に対して、兄の方は影があって線が細い。妻となる少女を無惨に殺された状況下では当然だが、アクイラに対する物言いからも、控えめな性格が窺えた。
「…エフィメラ…どうして、ファルファラ嬢を…ああ、そんなことを訊いても無駄なんだね。魔魂忌み仔だから、呪われた血に狂ったんだ…。」
 魔獣が人を殺すことに、理由などない。それが、本能だから。魔王は、命を蹂躙するために、魔獣を生み出したのだから。
「…ははっ…。」
 一人で納得した兄の呟きに対して、弟は、乾いた笑みを吐き出した。
「…おめでたいなぁ、兄さんは。なぁんにも、気づいていなかったんだね。」
 エフィメラは、おかしくてたまらない、というように、甘く整った顔立ちを大きく歪めて嗤う。呪うように、致死量の毒をまき散らすように、今まで隠していた全てをぶちまけた。
「ボクがあの女を殺したのはね。」
 暗く淀んだ紫紺の瞳。それは、夜に沈む寸前の夕空を思わせた。黄昏の儚い光が完全に消え失せた逢魔時を。
「兄さんを、取られたくなかったからさ!」
「!!」
 その言葉が、完膚なきまでに破壊したものは、一体何だったのだろう。もう二度と元に戻らないほど、ズタズタに引き裂かれて踏みにじられたものは。
「ボクの1番は兄さんだ。ずっとそうだよ。それなのに、兄さんの1番は、どうしてボクじゃなくなるの?そんなのは裏切りだ。許さない。絶対に!!」
 独占欲をふりかざす幼児か。
 妄執にとり憑かれた狂人か。
 リュシオルは、逃げるように後ずさる。
「…化け物…!!」
 知らない、と思った。
 生意気だけれど明るく利発で、どんなことでも上手にこなす。整った容姿は人形のように愛らしくて。
 自分が伯爵家の次期当主としては頼りないことを自覚していたから、聡明な弟が、無邪気になついてくれるのが嬉しかった。かわいい弟だった。
 何より、陰にこもりがちな自分とは真逆の、陽の気質は、陰惨な伝承を否定してくれるようで心強かった。自分たちは大丈夫なのだと、そう信じるよすがだった。
 何が裏切りだ、と思った。
 騙されていたのは、自分の方だと思った。
「私たちは、狂ってなどいない。そう信じていた。おまえは、私の希望だったのに…!!」
 鏡で映したようにそっくりな、暗く淀んだ紫紺の瞳で、リュシオルは弟を見た。
「呪われた伯爵家。そう呼ばれるわけがようやくわかった。おまえのような化け物を生み出すのなら、フリュールの血は穢れている。」
「そう。」
 短く頷いたエフィメラからは、完全に何かが抜け落ちていた。
 彼を人に留めていた、最後の砦が、崩れ落ちた瞬間だった。
「ボクを否定する兄さんは、いらないよ。」
 振り上げた拳。その腕だけが、瞬時に狼の前肢へと変わる。人の体など一撃で骨を砕き、肉を抉り、致命傷を与える一撃をー。
 がっちりと食い込んだ日輪拘が食い止めた。
 魔法は、永続の属性を持たせていれば、一度解かれても再び作用する。人間から人狼に戻った部分に、正確に反応した。
 その隙に、リュシオルはその場から逃走している。人狼エフィメラが本気で自分を殺そうとしたこと、ハンターの魔法がそれを阻止しなければ、その目的はいともあっさり達成されていたであろうことは明白だった。
 人狼は、憎々しげにレオーネを睨んだが、レオーネは得意がるでもなく、どこか痛みをこらえるような表情でエフィメラを見ていた。何か言おうと口を開いたがー。
 視界の隅で、ひら、と舞った紫の花びらに、ハッと息を詰める。そこから漂う毒の香に。
「アーク!!」
 相棒の危機を察して駆け出す。レオーネが優先すべきは常にそれだった。

 アクイラの白い首を狙って近づいてくる、ルナールの指。
 それが触れる寸前で。
「風の第五位、砕嵐弾!」
 爆撃のような暴風が荒れ狂った。
 第五位魔法と言えど、至近距離で喰らえば致命的。しかし。
「…はぁ。やるねぇ。自分自身を餌に、ぎりぎりまでオレを引き付けたか。」
 しかも、蝕呪花の毒に侵された状態で、と心底感心したように呟く声には、余裕があった。
 ルナールの右腕はズタズタで、血塗れだ。治癒の魔法をかけなければ、使い道にならない。しかし、とっさに急所を避けたのだろう。命には関わらない。
 訓練を積んだ者の身のこなしだった。
「なぁ、王子様。」
と、ルナールは無事な方の手を差し伸べる。
「オレと一諸に来てくれ。」
と、誘う声は、本気の熱を孕んでいる。
 アクイラは、毒に侵され、霞みがかった視界で、それでもルナールをきつく睨み据える。碧玉の双眸に宿る鋭さは変わらない。研磨された剣の輝きで敵を射抜く。死んでも屈する気はない。
 その誇り高さに、
「ぞくぞくするねぇ。」
と、ルナールは恍惚とした表情になる。ほの暗い熱を宿した瞳が、視線で絡め取るようにアクイラを見る。
「アンタには、もっとふさわしい場所が。」
 甲高い、破裂音に似た音が響きわたった。
 力任せに手を打たれ、ルナールがよろめく。
 ルナールの手を、容赦なく振り払ったのは、
「アークに触んな。」
 底冷えのする冷たさで言い放つレオーネ。
 崩れ落ちる寸前だったアクイラを、片腕に抱きとめて、ルナールを見据えている。
 レオーネの全身から吹きだし、ルナールに向かって叩き付けられているのは、痛みを感じるほどの殺気だった。
 見えない刃で精神をズタズタに切り裂いていくような。
「…降参。」
と、ルナールはおどけた仕草で、無事な方の手を上げる。
「二対一じゃ勝ち目ねぇーわ。」
 アクイラも、まだ、魔法の一つや二つは発動できるだろうと、ルナールは見抜いている。そして、今の状態のレオーネは、何をしでかすかわからない、危険な存在だった。簡単に言えば、完璧にキレている。
(王子様は本当に惜しいが…まあいい。いくらでもチャンスはある。)
 ルナールは、さっと闇に身を躍らせる。
「てめぇ、待。」
 言いかけたレオーネは、ハッと言葉を途切れさせた。腕の中のアクイラの重みが増した。とっさに、両腕で抱え直す。
 白皙の肌に血の色が透けている。触れている肌が熱い。浅い吐息も。
「アーク!?」
「毒で発熱しているだけだ。たいしたことはない。ガキの頃から耐性はつけている。」
「でも、アーク!」
 アクイラは、自分でもこんな状況で、と思うが、くすっと声をもらした。こいつ、図体はでかくなったくせに、迷子になったガキみたいな顔をする、と思ったら笑えてしまった。
 アクイラの細い体を支えているレオーネの両腕が、すがるように力を増す。
 何度か耳元で名前を呼ばれるのを聞きながら、アクイラはレオーネの腕の中でゆっくりと意識を手放した。

 かつん、かつん、と一人分の足音が近づいて来る。重厚な鉄格子の前で、それが止まった。
 頑丈に作られた地下牢だが、長い年月のうちに天井や壁に劣化は生じている。それでも、できた隙間は小さい。そこから差し込む地上の光は、ごく細い線でしかない。
 しかし、人狼の目にはその程度の光源でも、自分を見下ろす相手の顔ははっきり見えている。
 唇を引き結んだ表情は、何かに耐えているかのようだった。
 なんで、そんな顔をするんだろう、とエフィメラは思った。彼は勝者で、自分は敗者だ。
「なんか用?ハンターさん。」
「おめぇは、一生ここから出られないって聞いた。」
 レオーネの言葉に、エフィメラは軽く肩をすくめた。人狼の姿ではない。まだ幼さが抜けきらない、少年の肩。
「殺されなかっただけマシだよ。家の名誉が一番大事、なんて顔してるくせに、母様は情を捨てきれない人だからね。」
 こうしていると、正体が人狼だなどとは信じられない。魔魂忌み仔でさえなければ、社交界で耳目を集める貴公子になっていたはずの少年。
「安心してよ。脱走して、キミたちに恨みを晴らしに行こうなんて思ってないから。」
 ハンターたちさえ来なければ、自分が牢に繋がれることはなかったかもしれない。しかし、兄の気持ちはハンターの存在とは何の関係もない。望んだ者が手に入らないという事実は変わらない。
「それに、ここは、魔法で強力な封印が施されているんだ。相棒から聞いてるんだろ?フリュール伯爵家の呪われた血のことは。」
 エフィメラは、鉄格子の隙間に手を入れようとした。
 とたん、その手から血が噴き出す。不可視の刃に切り刻まれたように。
「ね?」
と、エフィメラは血塗れになったその手をひらひらと振ってみせる。
 レオーネは、苦いものでも口に突っ込まれたような顔で沈黙している。
 エフィメラは淡々と続ける。
「ここはさあ、一族の中で、人狼の血に目覚めても死ななかった、ボクみたいなやつを生涯幽閉しとくとこなんだよ。何百年前か知らないけど、その時代の超一流のハンターに極秘に依頼して作ってもらったんだってさ。」
「兄貴の嫁さんになる娘を殺さなきゃ、おめぇは人狼ってバレなかっただろ。ここに入れられることもなかった。」
 エフィメラは、フッと笑った。その笑顔は、清々しいほど晴れやかだった。人一人の命を奪った罪の意識はない。十代の若さで死ぬまで自由を失ったことへの悲嘆もない。自分の犯した罪に後悔はない。
「他人から見たら馬鹿みたいだよねぇ。でも。」
 その暗紫の瞳の中に、底光りする輝きが宿った。宵の空に明星が浮かんだようだった。一説には、魔王の象徴ともされる不吉な星が。
「どうしても兄さんを奪われたくなかったんだから、しょうがないじゃん。」
 そして、その思いは報われなかった。だからエフィメラには、この先の人生に一切の未練が無いのだと…レオーネは理解してしまった。
「ま、わかってもらえなくていいけどね。」
「わかるさ。」
 レオーネの迷いのない即答に、エフィメラが瞬きする。虚を突かれたように。
「オレも、おめぇと同じだからな。」


感想 0

あなたにおすすめの小説

『病弱な幼馴染を優先してください』と言った妻が消えた翌日、夫は領地の会計書類が全て白紙になっていることに気づいた

歩人
ファンタジー
侯爵家に嫁いで五年。ルチアは夫エミルの領地会計・社交・使用人管理を全て一人で担ってきた。だがエミルはいつも幼馴染のアリーチェを優先する。「アリーチェは体が弱いんだ、お前とは違う」——その言葉を百回聞いた日、ルチアは微笑んで離縁届に署名した。「ええ、私は丈夫ですから。どうぞ幼馴染様をお大事に」。翌朝、エミルが目にしたのは——税務報告の締切、領民からの陳情の山、そして紅茶の淹れ方すら知らない自分。三ヶ月後、かつて「地味な妻」と呼ばれたルチアは、辺境伯の財務顧問として辣腕を振るっていた。

(完結)醜くなった花嫁の末路「どうぞ、お笑いください。元旦那様」

音爽(ネソウ)
ファンタジー
容姿が気に入らないと白い結婚を強いられた妻。 本邸から追い出されはしなかったが、夫は離れに愛人を囲い顔さえ見せない。 しかし、3年と待たず離縁が決定する事態に。そして元夫の家は……。 *6月18日HOTランキング入りしました、ありがとうございます。

娘を毒殺された日、夫は愛人と踊っていた――聖女と呼ばれた私は、王家を静かに崩壊させる

唯崎りいち
恋愛
異世界に転移し、“聖女”として王太子ジークフリートに嫁がされたフェリシア。 愛のない結婚の中で、唯一の救いは娘シャルロットだった。 しかし五歳の娘は、父から贈られたネックレスによって毒殺される。 娘が死んだ日。 王宮では祝賀会が開かれ、夫は愛人と踊っていた。 誰も娘の死を悲しまない世界で、ただ一人涙を流したのは、第八王子リュカだけだった。 やがてフェリシアは知る。 “聖女は子を産んではならない”という王家の禁忌と、娘の死の裏にある政治的思惑を。 ――これは、娘を奪われた聖女が、王家を静かに崩壊へ導いていく物語。

もしかして寝てる間にざまぁしました?

ぴぴみ
ファンタジー
令嬢アリアは気が弱く、何をされても言い返せない。 内気な性格が邪魔をして本来の能力を活かせていなかった。 しかし、ある時から状況は一変する。彼女を馬鹿にし嘲笑っていた人間が怯えたように見てくるのだ。 私、寝てる間に何かしました?

愛していました。待っていました。でもさようなら。

彩柚月
ファンタジー
魔の森を挟んだ先の大きい街に出稼ぎに行った夫。待てども待てども帰らない夫を探しに妻は魔の森に脚を踏み入れた。 やっと辿り着いた先で見たあなたは、幸せそうでした。

婚約破棄されたけど、逆に断罪してやった。

ゆーぞー
ファンタジー
気がついたら乙女ゲームやラノベによくある断罪シーンだった。これはきっと夢ね。それなら好きにやらせてもらおう。

「お前の泥だらけの手で触るな、気持ち悪い」と追放された令嬢——王宮の食器が一枚も焼けなくなった

歩人
ファンタジー
「お前の泥だらけの手で触るな、気持ち悪い」——王宮御用達の食器を焼く伯爵令嬢エルザは、婚約者の第二王子に手の荒れを嗤われて追放された。十二歳から十年間、王宮の全ての食器を手ずから焼いてきた。彼女の食器は特殊な土と焼成技術で魔力を通し、毒に触れると色が変わる。料理の温度も保つ。追放から三ヶ月後、晩餐会で新しい食器を使ったところ、毒が検知されず隣国の大使が倒れた。外交問題に発展する中、第二王子が「食器くらい誰でも焼ける」と窯に立った結果、出来上がったのは歪んだ灰色の皿だった。

「お従妹様の看病で五年、夜会に出ておりませんの」

歩人
ファンタジー
侯爵令嬢イレーネは婚約者アーロンの要請で、五年にわたり彼の「病弱な従妹」クレアを看護してきた。夜会も社交も諦め、毎晩クレアの枕元で看護した。だが二十三歳の誕生日、医師会の抜き打ち健診でクレアは「むしろ同世代で最も健康」と診断される。イレーネが見せてもらった五年分の薬代明細には、存在しない薬品と架空の処置が並んでいた。アーロンは慌てる。「誤解だ。クレアは本当に弱くて……」イレーネは微笑んだ。「では、五年分の看護費と、わたくしが失った社交時間を、具体的な数字にして頂戴いたしましょう」。医師会長が断言する。「詐病誘導と医療費架空請求。司法に回します」。