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序幕&第一幕
吸血鬼の王は天使を<誘惑>する
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序幕
真円を描く月は、不吉に紅い。
異様なほどに明るい、血も滴るような色の月光が、少年を照らし出す。
少年は、大地に膝をつき、手を動かしている。繊細な指先には白墨が握られており、彼は地面に何かを描いていた。それが、終わったのだろう。
立ち上がり、白墨を投げ捨て、月を見上げる。
禍々しくも麗しい月明かりを浴びるのにふさわしい、妖しい美貌だった。
年の頃は、十をいくつか過ぎたばかりだろう。艶やかな漆黒の髪は、最高級の絹のような光沢を放っている。肌の色は、その髪色がよく映える処女雪の純白。
一流の名工の手による芸術品のような容姿だが、眼差しの苛烈さが、作り物めいた印象を打ち砕く。
長いまつ毛の下、燃えるように爛々と輝く双眸は、その年の子どもには有り得ないほど不敵で不遜だった。
少年にしては朱の色味の強い唇が、に、と笑う。それだけで、空気の色さえ変える。
「条件は整った。」
つむがれた声音は、声変わり前の透明なものだったが、幼さとは無縁の、意志の強さと冷酷さが含まれていた。
少年は、視線を落とし、自分が描き上げたものを睥睨する。その眼差しは、王のごとく自信に満ち溢れていた。
少年が描いたものは、複雑極まる図形だった。
幾重にも円が重なり、それを六芒星が囲んでいる。周囲は、文字や図形で隙間なく埋まっていた。
魔法の知識のある者が見れば、これが魔法陣であるとわかるだろう。しかも、難易度では最高位の。何十年も修行した魔法使いであっても、ここまで精緻な魔法陣は、教本がなければ描けないだろう。
しかし、この年端もいかない少年は、何も見ることなく完成させた。
幼さを裏切る、高い技術を持つ魔法使いなのだと証明している。
「シェリ・マルクト・ヴェ・ゲブラー・ヴェ・ゲドラー・ル・オーラム・エイメン。」
そして、完璧な発音の詠唱が、夜の闇を震わせ。
封印が解かれた。
真紅の閃光。
それは、あらゆるものを切り刻む、光の刃。
縦横無尽にかけ巡る。
漆黒を払拭して、全てを鮮血の紅へと。
「っ…。」
全身をズタズタの切り裂かれる激痛を抑え込み、少年は吠える。
「オレに従え!」
光の刃をその手につかむ。
「ケテル・ネツァーク・ホド!!」
指が落ちる恐怖を叩き潰す。
二つの力が、せめぎ合う。
異形の力と、少年の魔法が。
今、ここに力のある魔法使いがいたならば、凄まじい力の激突を目にすることができただろう。
少年は、ばきり、と刃を折った。
同時に。
真紅の光が、少年に吸い込まれて、消えた。
ぷつんっと、全てを断ち切ったように、周囲は再び、暗黒へ。
少年は、肩で大きく息をした。荒い息遣いだけが、闇を満たす。それでも、膝はつかなかった。
少年は気づいていた。近づいて来る気配に。
バサバサッ。
せわしない羽音。
翼が起こした風に、少年の漆黒の髪が大きくなびく。
頬を流れ落ちる血を、珠にして散らした。
周囲が真昼の明るさで照らされた。
先程の真紅の光とは真逆。澄み切った、清廉な輝きをまとって顕現したそれを、少年は冷ややかに細めた目でねめつけた。
広げられた、純白の翼。
頭上に輝くのは、闇を払う光輪。
「間に合わなかったっ…。」
絶望した声でさえ、鈴の音のように透明だった。
その打ちひしがれた表情を嘲笑うかのように、少年が片頬を歪ませる。
「残念だったな?天使サマ。」
天使はビクリと細い肩を震わせた。
可憐な少年の姿をしている。
対峙する魔法使いの少年と、同じくらいの年ごろに見える。方向性は真逆だが、類まれなる美貌も共通だ。
魔法使いの少年が持つのは、王者の美貌。見る者を屈服させ、魂を支配する。
天使の少年は、天の御使いと聞いて想像する通りの、一切の汚れとは無縁の清らかな美貌。大きな瞳は、星を浮かべたよう。震える珊瑚色の唇。
保護欲と征服欲を同時に刺激する。見る者によって、どちらが上かは異なるのだろう。
果たして、魔法使いの少年にとっては、どちらが強いのか。
「人の子よ、あなたは、自分のしたことがわかっているのですかっ!?」
翼を広げ、宙に浮いたまま、天使は叫ぶ。
「その力は、人が手にしてはならないものです。今からでも遅くありません。その力を手放してください。それは、禁断の。」
「人の子、ね。」
天使の言葉を遮った少年の声は、冷え切っていた。天使が無意識に空中で後ずさった。
「なあ、そう言って、文字通り天から見下ろして満足か?おキレイな天使サマ?」
少年の切れ長の瞳は、刃のように鋭利に、氷のように冷たく、天使の視線を縫いとめる。
「そんな、ボクは…。」
肌を突き刺して魂まで貫く少年の視線にさらされて、天使は怯え、声を掠れさせる。
それは、本来なら有り得ないことだ。
神の代理たる天使が、人の子に気圧されるなど。だが、少年の、尊大さが板についた態度は、天使に疑問を抱かせる暇を与えなかった。
ふ、と少年が妖しく笑う。
天使がドキリと頬を赤く染めた。
十かそこらの少年が、どうやってそこまでの色香をまとうのだろう。妖艶な、吸い込まれそうな眼差し。
その色は、鮮血の真紅。
血塗れの少年が、今まさに全身にまとう色。流れる血さえ、少年に凄艶な美を与える。
「教えてやろうか?」
と、少年が誘う。
「なに、を…。」
頼りなく呟いた天使は、自分がすとんと、大地に足をつけたことに気づいていない。
まるで、少年に引き寄せられたように。
視界の高さが逆になる。
少年の方が、天使よりも頭一つ分は背が高い。
少年は、天使に向かって手を伸ばす。視線を絡めたまま。
天使は、魅入られたように少年を見上げたまま、抗うことすら忘れている。
少年の細く長い指が、天使のあごをとらえて上向かせる。
まつ毛が触れ合うほどの距離から、天使を見つめ、少年は、たった今手に入れた力を、いともたやすく行使する。
「おまえたちが、怖れ、封印した、吸血鬼の王の力の真髄を。」
輝く赤い瞳。
獲物を引き寄せ、操る力。
古き書物を紐解けば、<誘惑>の名で記される。
魅入られたら最後、獲物は自らその身を差し出す。
天使の瞳が、焦点を失っていく。それなのに、その頬は上気し、うっとりと細められた目は熱く潤んでいく。
少年は、視線を絡めたまま、冷酷に残忍に、同時に極上の甘さで、天使に向かってささやいた。
「その身を喰われて堕ちる、快楽を。」
天使の細い首筋に、少年の牙が突き刺さる。
「-っ!!」
天使は、声にならない悲鳴を上げる。
天使の羽根が一枚、ふわりと儚く舞い散った。
☆
ゆっくりと崩れ落ちる華奢な天使の体を抱き留め、魔法使いの少年は、喉の奥でくつくつと笑う。
十かそこらの、声変わりも済んでいない少年が、魔王のように禍々しく。
少年の瞳と同じ色の、赤い満月だけが全てを見ていた。
第一幕
リヒトが、はっきりと彼を意識したのは、一年前。その日は、中等部の生徒が高等部の授業を見学する日だった。入学前に高等部の授業の雰囲気を知り、心構えを促すという目的で、毎年行われている。
いくつか教室を見て回ったときに、中等部の生徒が集まっている教室があり、興味を惹かれて足を止めた。
「魔法は、けして万能の技術ではない。そう考える根拠は、以下の三点である。」
明瞭な声で、堂々と紡がれた声に、リヒトは教授が話しているのだと思ったが、それにしては声が若すぎた。
黒板の前で話しているのは、午後の明るい陽射しを浴びて、金色に縁どられた、艶やかな黒髪、夜の闇より深い、漆黒の瞳の美貌の少年だった。
「まず第一に、呪文の詠唱が不可欠であること。現代の魔法は、自然界の火や水、風、光などに働きかけることで、魔法使いの望んだ効果を得るもの。自然界に呼びかける言葉なくして成り立たないということは、何らかの手段で声を封じられた場合に、魔法を発動することができない。魔法を使う際には、周囲の警戒を怠らないことが肝要だ。」
彼が背にしている黒板に書かれている文字からすると、今行われている授業は、レポートの発表会らしい。しかし、彼は、手にした紙にほとんど視線を落とすことなく、聴衆を見据えて話している。クラスメイトたちが、「現代の魔法」という言葉に引っかかりを覚えたことに目敏く気づいたようで、
「現代の魔法とは、古代魔法と区別したときの魔法体系だ。古代魔法は、複雑な魔法陣が不可欠で、さらに呪文の詠唱において、発音まで正しくなければ発動することができなかったと言われている。その難易度の高さゆえに、失われて久しい技術だが、その威力は現代の魔法を凌ぐと言われている。」
と、補足した。
「そして第二に、威力が安定しないこと。同じ魔法でも、使い手が違えば、威力が異なる。これは、剣や弓と同じだ。同じ武器を使っても、同じ強さを得られるわけではない。使い手の技量に左右される。また、同じ魔法使いの同じ魔法でも、体調が悪い場合や集中力を欠く場合は、威力が大きく下がる。」
わかりやすいようにたとえも入れながら、論を展開させていく。
「第三に、魔法力というものは、体力と同じで、限界があるということ。威力の強い魔法を連続して使用した場合、回復するまでは魔法が使えなくなる。威力の強い魔法を使いこなす技術以上に、魔法力の容量を増やすことが、魔法使いの修行には不可欠だ。魔法の目的に最たるものは、魔族の駆逐だが、魔族の強さを見極めて魔法を発動させなければ、無駄に魔法力を消費することになる。今まで述べた三点の理由から、魔法は万能の技術ではないという結論に至る。以上だ。」
発表を終えた少年は着席し、教室は、水を打ったように静まり返った。教授が、ほう、と感心したため息の後に、手を叩き、
「すばらしい、ヴァイスハイト。魔法の特性だけではなく、弱点への対処まで盛り込んだ、大変優れたレポートです。」
と賞賛したことで、慌てて拍手が巻き起こる。
高等部の生徒だけではなく、中等部の生徒も。それに混じりながら、リヒトは、(こんな人がいるんだなあ。)と、食い入るように、その少年を見つめていた。
初等部から、このシュトゥルウム魔法学院に在籍していたから、彼のことは知っている。初等部の頃から神童と呼ばれていた。けれど、あまりにも遠い世界の人だったので、今まで何の接点もなかった。
(これからだって、無いんだろうけど。)
と、リヒトはツキリと痛んだ胸を押さえた。
☆
色とりどりの、かぐわしい花々が咲き乱れ、果物は豊富に実っている。
さんさんと降り注ぐ、暖かな日差し。頬を撫でる風は柔らかく、微睡を誘う。
楽園と呼べるような場所に、そこにふさわしくない、悲愴な声が響いている。
「ラミエル、答えなさい、ラミエル。私の声が聞こえないのですか。」
すらりとした長身の美丈夫。まばゆい金の髪に、紺碧の瞳。
頭上には光輪が輝き、背中には三対の純白の翼。
「ラミエル、なぜ、このメタトロンの呼びかけに応えないのです!吸血鬼王の封印が破られた上、貴方からの声が途絶えて、こちらは混乱しています。早急に報告を!このままでは、私自ら、貴方を裁くために、下界に降りねばなりません。」
☆
「助けてっ!」
どんっ、とぶつかってきた十歳ほどの子どもは、コウモリの翼、鉤のある尻尾、とがった耳をしていた。髪も瞳も、暗紫色。本来は生意気な顔をしているはずだが、今は泣き出す寸前だ。
「え、小悪魔!?」
と、ぶつかられた少年が目を丸くする。
初夏の午後の、爽やかな風の中、芝生の上でうとうとしているところへ、突然の急襲を受け、思わず立ち上がってしまった。おかげで、夢の余韻も吹き飛んだ。
中性的な美貌の、愛らしい少年だった。小柄で華奢で儚げで、男子の制服姿でなければ、少女に間違われるだろう。
小悪魔よりもいくつか年上に見えるが、幼い子どものような、純粋な瞳をしている。色は、アメジストの紫。その瞳に影を落とすまつ毛は、プラチナの銀。
「助けてくれよ!おまえも魔法使いなんだろっ!?」
小悪魔は、少年の腕にすがって、言い募る。
「助けてって、一体、何から。」
「そいつを渡してもらおうか。」
少年の声を遮って、低い美声が響いた。
「ひいっ!」
と、小悪魔が悲鳴を上げて、少年の背中にしがみつく。
少年が、目を見開いた。澄み切ったボーイソプラノが震えながら、相手の名をつむいだ。
「アディス・ヴァイスハイト…。」
ほお、と彼は唇の端に、面白そうな笑みを刻んだ。ひどく酷薄な印象の。
銀髪の少年より一つ二つ年上に見える。十五、六といったところだろうか。
妖艶ささえ漂うほどの、絶世の美貌だった。目が合えば、虜にされて支配され、地獄に突き落とされそうな、危険な香りをまとっている。
均整のとれた長身、処女雪の肌、艶やかな夜闇の髪、計算しつくされた美術品のように華やかな顔立ち。
爛々と輝く双眸は、この世の全ての光を吸い尽くしても染まらぬほどに深い漆黒。まるで、闇の深淵をのぞきこんだかのような怖れを、見る者に感じさせる。
事実、銀髪の美少年の胸は、早鐘を打っている。
アディスと呼ばれた少年は、相手の心情を読んだ上で、意地悪く尋ねた。
「オレを知っているようだな。」
銀髪の少年は、必死で声を搾り出した。答えるのも怖いが、黙っていると取って食われそうで、もっと怖かった。
「こ、この学院で貴方を知らない生徒なんていませんよ。シュトゥルウム魔法学院始まって以来の天才児、千年に一人の逸材、ですよね。」
「同時に、悪い噂の絶えない異端児、だろ。」
フンと鼻で嗤う。悪い噂の方こそを喜んでいるような、ひねくれた性根が透ける笑みだ。
「言ってみろよ。どんな噂を知っている?」
上からのぞきこまれ、距離を詰められた。日差しを遮って落ちる影。
少年は、正直に言うべきか悩みつつ、誤魔化す方が機嫌を損ねそうだと判断し、正直に知っていることを答える。
「禁断の黒魔術に手を出しているとか、その力で賢者の地位を手に入れようとしているとか…。」
「はっ。」
と、アディスはつまらなそうな顔になる。
「賢者の地位ごときを手に入れるのに、黒魔術なんぞに頼る必要はねえよ。」
「…でしょうね。貴方なら。」
と、少年は、べつに追従でもなく答えた。
学年は違っても、有名人であるアディスが魔法を使う姿を見たことは幾度かある。現役の宮廷魔道士である教師たちを手玉にとる、鮮やかな技の冴えに、思わず見惚れた。賢者は、全魔法使いの数パーセントしか、その位に登りつめることが叶わない、魔法使いの最高ランクだが、この少年ならたやすく手にできるだろう。
アディスは、薄い刃の笑みを刷いた。
「オレを知っているなら、逆らったらどうなるかも当然知っているな?」
す、目をすがめただけで、空気がずん、と重くなったようだった。
「そいつを寄越せ。」
重ねて命じられ、少年の肩がビクンとはねた。
敵う相手ではない。そして、彼の才能に嫉妬し、因縁をつけてきた上級生達が、発狂寸前の恐怖を味わって休学した、という噂も聞いたことがある。その話に、どこまで信憑性があるかは謎だ。しかし、傲岸不遜なアディスに対して反感を覚える上級生は多くても、それ以来、彼に面と向かって文句を言う輩はぱったりいなくなったのだから、案外真実なのかもしれない。
(だけど、この子が。)
小悪魔は、悪魔の中でも最下級で、悪戯程度しかできない種族なのだ。悪魔や吸血鬼などの魔族全般を退治するのは魔法使いの仕事だが、放っておいても害が無い種族である。何より、背中にしがみついて震えている相手を差し出すことなどできなかった。
少年が、ぐっと腹に力を入れる。血の気の引いた顔で、それでも言い切った。
「お断りします。」
アディスの冷たい眼光にひとにらみされ、あわてて、しどろもどろで付け足す。
「こ、この子が何か貴方に失礼なことをしたというなら、きちんと謝らせます。だから。」
「我が敵を切り刻め、氷雪刃。」
絶対零度の吹雪が吹き荒れた。
小悪魔を抱えて横に跳ぶのが、一瞬でも遅かったら、二人まとめて全身ズタズタに切り刻まれていただろう。
芝生は、無惨に切り裂かれて凍りつき、キラキラと午後の日射しを乱反射している。
少年の表情も凍りついた。
「なっ…。」
抗議の言葉すら出てこない。
アディスは、氷よりも冷たい声で言った。
「警告は一度だけだ。」
次は外さないと。
「もう一度だけ言う。そいつを渡せ。」
ぷち、と。
頭のどこかで何かが切れた音がした。
ふだん、温厚な方だと言われているし、そう自覚もしている。どうしてこの時に限って、後先考えない行動に走ったのか、自分でも理解不能だ。だが、この時は完全に頭に血が昇っていた。
「我が敵を押し流せ、激流波!!」
ゴウッと音をたて、大量の水が、アディスに向かって突き進む。だが、アディスは、眉一つ動かさなかった。
「我が敵を焼き尽くせ、劫火呪。」
真紅の炎が、流水に襲い掛かる。ぶつかって、周囲が湯気で真っ白になる。
「!?」
混乱した、その一瞬で。
足を払われた、と気づいた時には、そのまま押し倒されて、組み敷かれていた。
たちこめていた湯気は、数秒で霧散した。
「っ…。」
殺される、と思った。
後で考えれば、いくらなんでもそこまではしないだろうと思うのだが、この時は本気でそう感じたのだ。
間近で見ても、完璧に整った美貌は、だからこそ恐ろしかった。
おそらく、暴れても無駄だったろうが、微動だにできなかった。
ひた、と首すじに、長い指が置かれ。
その下の血の流れを嫌でも意識する。
呼吸さえ止まった数秒。
奈落の底のような、暗黒の瞳が何を考えているか、全く読めない。だから、
「おまえ、名前は?」
と訊かれて、ぽかんとしてしまった。
「リ、リヒトです。リヒト・ファナティクス。」
「じゃあ、リヒト。今回だけ見逃してやる。」
いともあっさり言われて、リヒトは呆気にとられた。
「え。」
と、リヒトが言ったときには、アディスはさっさとリヒトの上からどいて、すたすたと歩きだしている。
「え、ちょっと、アディス?」
驚き過ぎて、思わず立ち上がり、呼び止めてしまった。
アディスが、肩ごしに振り向く。
「オレに逆らうやつなんて、久しぶりだったからな。愉しませてくれた礼だ。」
にぃとつり上げられた唇が、ひどく艶めかしかったせいか、その笑顔が意外に人懐っこく見えたせいか。リヒトはかあっと赤面した。
紫の瞳が揺れる。
「おい、ちょっと、おまえ、だいじょうぶか?」
小悪魔に心配そうに聞かれて、
「だいじょうぶじゃない…。」
ずるずると座り込んでしまった。高熱が出たように、頬が熱い。
「心臓、破裂しそう…。」
☆
「おまえ、あの闇の貴公子に刃向って、よく無事ですんだなあ…。」
友人にしみじみと言われてしまい、リヒトは、
「ターク、それ言わないで。ボクもそう思ってるから…。」
と、嘆息しながら答える。
時は既に放課後。場所は、シュトゥルウム魔法学院の敷地内にある図書館だ。百万冊の蔵書を誇る、広々とした図書館なので、人気のない一画というのもあちこちに存在する。話がしたかったので、今いるのは、そういった、滅多に人の来ない書架の影だ。
シュトゥルウム魔法学院。
魔法国家、コーラリウム帝国でも三本の指に入る名門校。教師は全て、現役の宮廷魔道士を兼ねているのが最大の売り。ここを主席で卒業すれば、王族の近衛魔法使いにもなれるし、大陸の全魔法使いが加入している組合の幹部にもなれる。
当然、入学試験も厳しければ、入ってからの競争も熾烈で、進級試験に合格しなければ、容赦なく退学だ。初等部、中等部、高等部を部が上がるたびに、同級生の人数が減っていく。
リヒトは、高等部の第一学年。中の上くらいの成績なので、無事に卒業はできるだろうが、エリートコースが望めるわけでもない。
(そんなボクが、あのアディス・ヴァイスハイトに…。)
「思い出すと血の気が引くっていうか、顔から火が出そうっていうか。」
「いや、どっちなんだよ。」
と、つっこむのは、ターク・モーント。初等部からのリヒトの友人。よく言えば、穏やかでおっとり、悪く言えば、のんびりぼんやりしているリヒトとは対照的で、活発で好奇心旺盛で情報通で社交的。友人も多いが、自分とは真逆のリヒトを気に入っているのか心配しているのか、よく構ってくれる。リヒトにしてみれば、面倒を見てもらっている、という感じだ。
亜麻色の髪に、いつも生き生きと輝く若葉色の瞳をしている。
「まあ、いいや。んで、その発端になったこの小悪魔、一体、あのアディス・ヴァイスハイトに、何やらかしたワケ?」
と、タークは小悪魔を指さす。魔法が開発されたのは、人を襲う魔族を倒すためであり、魔法使いにとって魔族は退治する対象だ。しかし、たいした悪さもできない小悪魔レベルなら、見逃す魔法使いの方が多い。
「あ、オレ、ナハト。」
と、小悪魔は自己紹介をし、
「ちょっとからかっただけなんだよ…。まさか問答無用で魔法を喰らうなんて思わなかったぜ…。」
「ちょっとからかったって、きみ…。」
リヒトは呆れてしまう。死の恐怖を味わったナハトには悪いが、あまりにも無謀すぎる。
「彼がどんなに危険かわからなかったの?」
タークも同意見なのだろう。肩をすくめている。
「でもさあ。」
と、ナハトが反論する。
「リヒトの魔法とあいつの魔法は、同じくらいの威力だったじゃんか。」
リヒトの激流波と、アディスの爆炎呪が相殺されたことを言っているのだろう。だが。
「ちがうよ。」
リヒトは、きっぱりと否定した。
「あれは、アディスが、ボクの魔法と全く同じ威力になるように調節したんだよ。」
「え。」
と、ナハトが驚きの声をあげる。
「そんなこと可能なのか?」
一瞬で相手の魔法の威力を読み切り、ベクトルが逆の技を、全く同じ威力で放つ。
「魔法を読み解く能力も、コントロールする能力も、有り得ないくらい完璧なんだ。」
今でも肌が粟立つほどだ。あの凄まじい力は、対峙した者でしかわからないだろう。遠くから眺めていただけではわからなかった。
「彼は、本当の天才だよ…。」
白皙の肌が上気し、薄紅に染まる。
アメジストの瞳が潤んで、どこか遠くを見つめている。
タークは、ちょっとゾッとする。穏和なリヒトの、のんびりした表情を見慣れているタークには、熱をはらんだ目をしたリヒトが、別人のように見えた。
「そうそう、だから、あいつにはもう絶対関わるなよ。」
声を張り上げたのは、ナハトだけではなく、リヒトにも言い聞かせるためだった。
真円を描く月は、不吉に紅い。
異様なほどに明るい、血も滴るような色の月光が、少年を照らし出す。
少年は、大地に膝をつき、手を動かしている。繊細な指先には白墨が握られており、彼は地面に何かを描いていた。それが、終わったのだろう。
立ち上がり、白墨を投げ捨て、月を見上げる。
禍々しくも麗しい月明かりを浴びるのにふさわしい、妖しい美貌だった。
年の頃は、十をいくつか過ぎたばかりだろう。艶やかな漆黒の髪は、最高級の絹のような光沢を放っている。肌の色は、その髪色がよく映える処女雪の純白。
一流の名工の手による芸術品のような容姿だが、眼差しの苛烈さが、作り物めいた印象を打ち砕く。
長いまつ毛の下、燃えるように爛々と輝く双眸は、その年の子どもには有り得ないほど不敵で不遜だった。
少年にしては朱の色味の強い唇が、に、と笑う。それだけで、空気の色さえ変える。
「条件は整った。」
つむがれた声音は、声変わり前の透明なものだったが、幼さとは無縁の、意志の強さと冷酷さが含まれていた。
少年は、視線を落とし、自分が描き上げたものを睥睨する。その眼差しは、王のごとく自信に満ち溢れていた。
少年が描いたものは、複雑極まる図形だった。
幾重にも円が重なり、それを六芒星が囲んでいる。周囲は、文字や図形で隙間なく埋まっていた。
魔法の知識のある者が見れば、これが魔法陣であるとわかるだろう。しかも、難易度では最高位の。何十年も修行した魔法使いであっても、ここまで精緻な魔法陣は、教本がなければ描けないだろう。
しかし、この年端もいかない少年は、何も見ることなく完成させた。
幼さを裏切る、高い技術を持つ魔法使いなのだと証明している。
「シェリ・マルクト・ヴェ・ゲブラー・ヴェ・ゲドラー・ル・オーラム・エイメン。」
そして、完璧な発音の詠唱が、夜の闇を震わせ。
封印が解かれた。
真紅の閃光。
それは、あらゆるものを切り刻む、光の刃。
縦横無尽にかけ巡る。
漆黒を払拭して、全てを鮮血の紅へと。
「っ…。」
全身をズタズタの切り裂かれる激痛を抑え込み、少年は吠える。
「オレに従え!」
光の刃をその手につかむ。
「ケテル・ネツァーク・ホド!!」
指が落ちる恐怖を叩き潰す。
二つの力が、せめぎ合う。
異形の力と、少年の魔法が。
今、ここに力のある魔法使いがいたならば、凄まじい力の激突を目にすることができただろう。
少年は、ばきり、と刃を折った。
同時に。
真紅の光が、少年に吸い込まれて、消えた。
ぷつんっと、全てを断ち切ったように、周囲は再び、暗黒へ。
少年は、肩で大きく息をした。荒い息遣いだけが、闇を満たす。それでも、膝はつかなかった。
少年は気づいていた。近づいて来る気配に。
バサバサッ。
せわしない羽音。
翼が起こした風に、少年の漆黒の髪が大きくなびく。
頬を流れ落ちる血を、珠にして散らした。
周囲が真昼の明るさで照らされた。
先程の真紅の光とは真逆。澄み切った、清廉な輝きをまとって顕現したそれを、少年は冷ややかに細めた目でねめつけた。
広げられた、純白の翼。
頭上に輝くのは、闇を払う光輪。
「間に合わなかったっ…。」
絶望した声でさえ、鈴の音のように透明だった。
その打ちひしがれた表情を嘲笑うかのように、少年が片頬を歪ませる。
「残念だったな?天使サマ。」
天使はビクリと細い肩を震わせた。
可憐な少年の姿をしている。
対峙する魔法使いの少年と、同じくらいの年ごろに見える。方向性は真逆だが、類まれなる美貌も共通だ。
魔法使いの少年が持つのは、王者の美貌。見る者を屈服させ、魂を支配する。
天使の少年は、天の御使いと聞いて想像する通りの、一切の汚れとは無縁の清らかな美貌。大きな瞳は、星を浮かべたよう。震える珊瑚色の唇。
保護欲と征服欲を同時に刺激する。見る者によって、どちらが上かは異なるのだろう。
果たして、魔法使いの少年にとっては、どちらが強いのか。
「人の子よ、あなたは、自分のしたことがわかっているのですかっ!?」
翼を広げ、宙に浮いたまま、天使は叫ぶ。
「その力は、人が手にしてはならないものです。今からでも遅くありません。その力を手放してください。それは、禁断の。」
「人の子、ね。」
天使の言葉を遮った少年の声は、冷え切っていた。天使が無意識に空中で後ずさった。
「なあ、そう言って、文字通り天から見下ろして満足か?おキレイな天使サマ?」
少年の切れ長の瞳は、刃のように鋭利に、氷のように冷たく、天使の視線を縫いとめる。
「そんな、ボクは…。」
肌を突き刺して魂まで貫く少年の視線にさらされて、天使は怯え、声を掠れさせる。
それは、本来なら有り得ないことだ。
神の代理たる天使が、人の子に気圧されるなど。だが、少年の、尊大さが板についた態度は、天使に疑問を抱かせる暇を与えなかった。
ふ、と少年が妖しく笑う。
天使がドキリと頬を赤く染めた。
十かそこらの少年が、どうやってそこまでの色香をまとうのだろう。妖艶な、吸い込まれそうな眼差し。
その色は、鮮血の真紅。
血塗れの少年が、今まさに全身にまとう色。流れる血さえ、少年に凄艶な美を与える。
「教えてやろうか?」
と、少年が誘う。
「なに、を…。」
頼りなく呟いた天使は、自分がすとんと、大地に足をつけたことに気づいていない。
まるで、少年に引き寄せられたように。
視界の高さが逆になる。
少年の方が、天使よりも頭一つ分は背が高い。
少年は、天使に向かって手を伸ばす。視線を絡めたまま。
天使は、魅入られたように少年を見上げたまま、抗うことすら忘れている。
少年の細く長い指が、天使のあごをとらえて上向かせる。
まつ毛が触れ合うほどの距離から、天使を見つめ、少年は、たった今手に入れた力を、いともたやすく行使する。
「おまえたちが、怖れ、封印した、吸血鬼の王の力の真髄を。」
輝く赤い瞳。
獲物を引き寄せ、操る力。
古き書物を紐解けば、<誘惑>の名で記される。
魅入られたら最後、獲物は自らその身を差し出す。
天使の瞳が、焦点を失っていく。それなのに、その頬は上気し、うっとりと細められた目は熱く潤んでいく。
少年は、視線を絡めたまま、冷酷に残忍に、同時に極上の甘さで、天使に向かってささやいた。
「その身を喰われて堕ちる、快楽を。」
天使の細い首筋に、少年の牙が突き刺さる。
「-っ!!」
天使は、声にならない悲鳴を上げる。
天使の羽根が一枚、ふわりと儚く舞い散った。
☆
ゆっくりと崩れ落ちる華奢な天使の体を抱き留め、魔法使いの少年は、喉の奥でくつくつと笑う。
十かそこらの、声変わりも済んでいない少年が、魔王のように禍々しく。
少年の瞳と同じ色の、赤い満月だけが全てを見ていた。
第一幕
リヒトが、はっきりと彼を意識したのは、一年前。その日は、中等部の生徒が高等部の授業を見学する日だった。入学前に高等部の授業の雰囲気を知り、心構えを促すという目的で、毎年行われている。
いくつか教室を見て回ったときに、中等部の生徒が集まっている教室があり、興味を惹かれて足を止めた。
「魔法は、けして万能の技術ではない。そう考える根拠は、以下の三点である。」
明瞭な声で、堂々と紡がれた声に、リヒトは教授が話しているのだと思ったが、それにしては声が若すぎた。
黒板の前で話しているのは、午後の明るい陽射しを浴びて、金色に縁どられた、艶やかな黒髪、夜の闇より深い、漆黒の瞳の美貌の少年だった。
「まず第一に、呪文の詠唱が不可欠であること。現代の魔法は、自然界の火や水、風、光などに働きかけることで、魔法使いの望んだ効果を得るもの。自然界に呼びかける言葉なくして成り立たないということは、何らかの手段で声を封じられた場合に、魔法を発動することができない。魔法を使う際には、周囲の警戒を怠らないことが肝要だ。」
彼が背にしている黒板に書かれている文字からすると、今行われている授業は、レポートの発表会らしい。しかし、彼は、手にした紙にほとんど視線を落とすことなく、聴衆を見据えて話している。クラスメイトたちが、「現代の魔法」という言葉に引っかかりを覚えたことに目敏く気づいたようで、
「現代の魔法とは、古代魔法と区別したときの魔法体系だ。古代魔法は、複雑な魔法陣が不可欠で、さらに呪文の詠唱において、発音まで正しくなければ発動することができなかったと言われている。その難易度の高さゆえに、失われて久しい技術だが、その威力は現代の魔法を凌ぐと言われている。」
と、補足した。
「そして第二に、威力が安定しないこと。同じ魔法でも、使い手が違えば、威力が異なる。これは、剣や弓と同じだ。同じ武器を使っても、同じ強さを得られるわけではない。使い手の技量に左右される。また、同じ魔法使いの同じ魔法でも、体調が悪い場合や集中力を欠く場合は、威力が大きく下がる。」
わかりやすいようにたとえも入れながら、論を展開させていく。
「第三に、魔法力というものは、体力と同じで、限界があるということ。威力の強い魔法を連続して使用した場合、回復するまでは魔法が使えなくなる。威力の強い魔法を使いこなす技術以上に、魔法力の容量を増やすことが、魔法使いの修行には不可欠だ。魔法の目的に最たるものは、魔族の駆逐だが、魔族の強さを見極めて魔法を発動させなければ、無駄に魔法力を消費することになる。今まで述べた三点の理由から、魔法は万能の技術ではないという結論に至る。以上だ。」
発表を終えた少年は着席し、教室は、水を打ったように静まり返った。教授が、ほう、と感心したため息の後に、手を叩き、
「すばらしい、ヴァイスハイト。魔法の特性だけではなく、弱点への対処まで盛り込んだ、大変優れたレポートです。」
と賞賛したことで、慌てて拍手が巻き起こる。
高等部の生徒だけではなく、中等部の生徒も。それに混じりながら、リヒトは、(こんな人がいるんだなあ。)と、食い入るように、その少年を見つめていた。
初等部から、このシュトゥルウム魔法学院に在籍していたから、彼のことは知っている。初等部の頃から神童と呼ばれていた。けれど、あまりにも遠い世界の人だったので、今まで何の接点もなかった。
(これからだって、無いんだろうけど。)
と、リヒトはツキリと痛んだ胸を押さえた。
☆
色とりどりの、かぐわしい花々が咲き乱れ、果物は豊富に実っている。
さんさんと降り注ぐ、暖かな日差し。頬を撫でる風は柔らかく、微睡を誘う。
楽園と呼べるような場所に、そこにふさわしくない、悲愴な声が響いている。
「ラミエル、答えなさい、ラミエル。私の声が聞こえないのですか。」
すらりとした長身の美丈夫。まばゆい金の髪に、紺碧の瞳。
頭上には光輪が輝き、背中には三対の純白の翼。
「ラミエル、なぜ、このメタトロンの呼びかけに応えないのです!吸血鬼王の封印が破られた上、貴方からの声が途絶えて、こちらは混乱しています。早急に報告を!このままでは、私自ら、貴方を裁くために、下界に降りねばなりません。」
☆
「助けてっ!」
どんっ、とぶつかってきた十歳ほどの子どもは、コウモリの翼、鉤のある尻尾、とがった耳をしていた。髪も瞳も、暗紫色。本来は生意気な顔をしているはずだが、今は泣き出す寸前だ。
「え、小悪魔!?」
と、ぶつかられた少年が目を丸くする。
初夏の午後の、爽やかな風の中、芝生の上でうとうとしているところへ、突然の急襲を受け、思わず立ち上がってしまった。おかげで、夢の余韻も吹き飛んだ。
中性的な美貌の、愛らしい少年だった。小柄で華奢で儚げで、男子の制服姿でなければ、少女に間違われるだろう。
小悪魔よりもいくつか年上に見えるが、幼い子どものような、純粋な瞳をしている。色は、アメジストの紫。その瞳に影を落とすまつ毛は、プラチナの銀。
「助けてくれよ!おまえも魔法使いなんだろっ!?」
小悪魔は、少年の腕にすがって、言い募る。
「助けてって、一体、何から。」
「そいつを渡してもらおうか。」
少年の声を遮って、低い美声が響いた。
「ひいっ!」
と、小悪魔が悲鳴を上げて、少年の背中にしがみつく。
少年が、目を見開いた。澄み切ったボーイソプラノが震えながら、相手の名をつむいだ。
「アディス・ヴァイスハイト…。」
ほお、と彼は唇の端に、面白そうな笑みを刻んだ。ひどく酷薄な印象の。
銀髪の少年より一つ二つ年上に見える。十五、六といったところだろうか。
妖艶ささえ漂うほどの、絶世の美貌だった。目が合えば、虜にされて支配され、地獄に突き落とされそうな、危険な香りをまとっている。
均整のとれた長身、処女雪の肌、艶やかな夜闇の髪、計算しつくされた美術品のように華やかな顔立ち。
爛々と輝く双眸は、この世の全ての光を吸い尽くしても染まらぬほどに深い漆黒。まるで、闇の深淵をのぞきこんだかのような怖れを、見る者に感じさせる。
事実、銀髪の美少年の胸は、早鐘を打っている。
アディスと呼ばれた少年は、相手の心情を読んだ上で、意地悪く尋ねた。
「オレを知っているようだな。」
銀髪の少年は、必死で声を搾り出した。答えるのも怖いが、黙っていると取って食われそうで、もっと怖かった。
「こ、この学院で貴方を知らない生徒なんていませんよ。シュトゥルウム魔法学院始まって以来の天才児、千年に一人の逸材、ですよね。」
「同時に、悪い噂の絶えない異端児、だろ。」
フンと鼻で嗤う。悪い噂の方こそを喜んでいるような、ひねくれた性根が透ける笑みだ。
「言ってみろよ。どんな噂を知っている?」
上からのぞきこまれ、距離を詰められた。日差しを遮って落ちる影。
少年は、正直に言うべきか悩みつつ、誤魔化す方が機嫌を損ねそうだと判断し、正直に知っていることを答える。
「禁断の黒魔術に手を出しているとか、その力で賢者の地位を手に入れようとしているとか…。」
「はっ。」
と、アディスはつまらなそうな顔になる。
「賢者の地位ごときを手に入れるのに、黒魔術なんぞに頼る必要はねえよ。」
「…でしょうね。貴方なら。」
と、少年は、べつに追従でもなく答えた。
学年は違っても、有名人であるアディスが魔法を使う姿を見たことは幾度かある。現役の宮廷魔道士である教師たちを手玉にとる、鮮やかな技の冴えに、思わず見惚れた。賢者は、全魔法使いの数パーセントしか、その位に登りつめることが叶わない、魔法使いの最高ランクだが、この少年ならたやすく手にできるだろう。
アディスは、薄い刃の笑みを刷いた。
「オレを知っているなら、逆らったらどうなるかも当然知っているな?」
す、目をすがめただけで、空気がずん、と重くなったようだった。
「そいつを寄越せ。」
重ねて命じられ、少年の肩がビクンとはねた。
敵う相手ではない。そして、彼の才能に嫉妬し、因縁をつけてきた上級生達が、発狂寸前の恐怖を味わって休学した、という噂も聞いたことがある。その話に、どこまで信憑性があるかは謎だ。しかし、傲岸不遜なアディスに対して反感を覚える上級生は多くても、それ以来、彼に面と向かって文句を言う輩はぱったりいなくなったのだから、案外真実なのかもしれない。
(だけど、この子が。)
小悪魔は、悪魔の中でも最下級で、悪戯程度しかできない種族なのだ。悪魔や吸血鬼などの魔族全般を退治するのは魔法使いの仕事だが、放っておいても害が無い種族である。何より、背中にしがみついて震えている相手を差し出すことなどできなかった。
少年が、ぐっと腹に力を入れる。血の気の引いた顔で、それでも言い切った。
「お断りします。」
アディスの冷たい眼光にひとにらみされ、あわてて、しどろもどろで付け足す。
「こ、この子が何か貴方に失礼なことをしたというなら、きちんと謝らせます。だから。」
「我が敵を切り刻め、氷雪刃。」
絶対零度の吹雪が吹き荒れた。
小悪魔を抱えて横に跳ぶのが、一瞬でも遅かったら、二人まとめて全身ズタズタに切り刻まれていただろう。
芝生は、無惨に切り裂かれて凍りつき、キラキラと午後の日射しを乱反射している。
少年の表情も凍りついた。
「なっ…。」
抗議の言葉すら出てこない。
アディスは、氷よりも冷たい声で言った。
「警告は一度だけだ。」
次は外さないと。
「もう一度だけ言う。そいつを渡せ。」
ぷち、と。
頭のどこかで何かが切れた音がした。
ふだん、温厚な方だと言われているし、そう自覚もしている。どうしてこの時に限って、後先考えない行動に走ったのか、自分でも理解不能だ。だが、この時は完全に頭に血が昇っていた。
「我が敵を押し流せ、激流波!!」
ゴウッと音をたて、大量の水が、アディスに向かって突き進む。だが、アディスは、眉一つ動かさなかった。
「我が敵を焼き尽くせ、劫火呪。」
真紅の炎が、流水に襲い掛かる。ぶつかって、周囲が湯気で真っ白になる。
「!?」
混乱した、その一瞬で。
足を払われた、と気づいた時には、そのまま押し倒されて、組み敷かれていた。
たちこめていた湯気は、数秒で霧散した。
「っ…。」
殺される、と思った。
後で考えれば、いくらなんでもそこまではしないだろうと思うのだが、この時は本気でそう感じたのだ。
間近で見ても、完璧に整った美貌は、だからこそ恐ろしかった。
おそらく、暴れても無駄だったろうが、微動だにできなかった。
ひた、と首すじに、長い指が置かれ。
その下の血の流れを嫌でも意識する。
呼吸さえ止まった数秒。
奈落の底のような、暗黒の瞳が何を考えているか、全く読めない。だから、
「おまえ、名前は?」
と訊かれて、ぽかんとしてしまった。
「リ、リヒトです。リヒト・ファナティクス。」
「じゃあ、リヒト。今回だけ見逃してやる。」
いともあっさり言われて、リヒトは呆気にとられた。
「え。」
と、リヒトが言ったときには、アディスはさっさとリヒトの上からどいて、すたすたと歩きだしている。
「え、ちょっと、アディス?」
驚き過ぎて、思わず立ち上がり、呼び止めてしまった。
アディスが、肩ごしに振り向く。
「オレに逆らうやつなんて、久しぶりだったからな。愉しませてくれた礼だ。」
にぃとつり上げられた唇が、ひどく艶めかしかったせいか、その笑顔が意外に人懐っこく見えたせいか。リヒトはかあっと赤面した。
紫の瞳が揺れる。
「おい、ちょっと、おまえ、だいじょうぶか?」
小悪魔に心配そうに聞かれて、
「だいじょうぶじゃない…。」
ずるずると座り込んでしまった。高熱が出たように、頬が熱い。
「心臓、破裂しそう…。」
☆
「おまえ、あの闇の貴公子に刃向って、よく無事ですんだなあ…。」
友人にしみじみと言われてしまい、リヒトは、
「ターク、それ言わないで。ボクもそう思ってるから…。」
と、嘆息しながら答える。
時は既に放課後。場所は、シュトゥルウム魔法学院の敷地内にある図書館だ。百万冊の蔵書を誇る、広々とした図書館なので、人気のない一画というのもあちこちに存在する。話がしたかったので、今いるのは、そういった、滅多に人の来ない書架の影だ。
シュトゥルウム魔法学院。
魔法国家、コーラリウム帝国でも三本の指に入る名門校。教師は全て、現役の宮廷魔道士を兼ねているのが最大の売り。ここを主席で卒業すれば、王族の近衛魔法使いにもなれるし、大陸の全魔法使いが加入している組合の幹部にもなれる。
当然、入学試験も厳しければ、入ってからの競争も熾烈で、進級試験に合格しなければ、容赦なく退学だ。初等部、中等部、高等部を部が上がるたびに、同級生の人数が減っていく。
リヒトは、高等部の第一学年。中の上くらいの成績なので、無事に卒業はできるだろうが、エリートコースが望めるわけでもない。
(そんなボクが、あのアディス・ヴァイスハイトに…。)
「思い出すと血の気が引くっていうか、顔から火が出そうっていうか。」
「いや、どっちなんだよ。」
と、つっこむのは、ターク・モーント。初等部からのリヒトの友人。よく言えば、穏やかでおっとり、悪く言えば、のんびりぼんやりしているリヒトとは対照的で、活発で好奇心旺盛で情報通で社交的。友人も多いが、自分とは真逆のリヒトを気に入っているのか心配しているのか、よく構ってくれる。リヒトにしてみれば、面倒を見てもらっている、という感じだ。
亜麻色の髪に、いつも生き生きと輝く若葉色の瞳をしている。
「まあ、いいや。んで、その発端になったこの小悪魔、一体、あのアディス・ヴァイスハイトに、何やらかしたワケ?」
と、タークは小悪魔を指さす。魔法が開発されたのは、人を襲う魔族を倒すためであり、魔法使いにとって魔族は退治する対象だ。しかし、たいした悪さもできない小悪魔レベルなら、見逃す魔法使いの方が多い。
「あ、オレ、ナハト。」
と、小悪魔は自己紹介をし、
「ちょっとからかっただけなんだよ…。まさか問答無用で魔法を喰らうなんて思わなかったぜ…。」
「ちょっとからかったって、きみ…。」
リヒトは呆れてしまう。死の恐怖を味わったナハトには悪いが、あまりにも無謀すぎる。
「彼がどんなに危険かわからなかったの?」
タークも同意見なのだろう。肩をすくめている。
「でもさあ。」
と、ナハトが反論する。
「リヒトの魔法とあいつの魔法は、同じくらいの威力だったじゃんか。」
リヒトの激流波と、アディスの爆炎呪が相殺されたことを言っているのだろう。だが。
「ちがうよ。」
リヒトは、きっぱりと否定した。
「あれは、アディスが、ボクの魔法と全く同じ威力になるように調節したんだよ。」
「え。」
と、ナハトが驚きの声をあげる。
「そんなこと可能なのか?」
一瞬で相手の魔法の威力を読み切り、ベクトルが逆の技を、全く同じ威力で放つ。
「魔法を読み解く能力も、コントロールする能力も、有り得ないくらい完璧なんだ。」
今でも肌が粟立つほどだ。あの凄まじい力は、対峙した者でしかわからないだろう。遠くから眺めていただけではわからなかった。
「彼は、本当の天才だよ…。」
白皙の肌が上気し、薄紅に染まる。
アメジストの瞳が潤んで、どこか遠くを見つめている。
タークは、ちょっとゾッとする。穏和なリヒトの、のんびりした表情を見慣れているタークには、熱をはらんだ目をしたリヒトが、別人のように見えた。
「そうそう、だから、あいつにはもう絶対関わるなよ。」
声を張り上げたのは、ナハトだけではなく、リヒトにも言い聞かせるためだった。
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