吸血鬼の王は天使を<誘惑>する

火威

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第四幕&終幕

吸血鬼の王は天使を<誘惑>する

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第四幕

 リヒトは、ガバッと跳ね起きる。
「アディス!」
 叫んでも、返る声はない。
 アディスの姿は既に無かった。
 月の位置から、それほど長く気を失っていたわけではないとわかる。
 リヒトは、倒れている天使に駆け寄った。
「メタトロン様、しっかりなさってください!」
 金のまつ毛が震え、青い瞳が開かれる。
「ラミエル…記憶が戻ったのですか…?」
 リヒトは、唇をかみしめた。戻ったのではなく。
(無理やり、戻された。)
 けれど、唇にのせたところで、なんの意味ももたない言葉だった。リヒトは頷く。
「はい。」
 メタトロンに手をかざした。柔らかな銀色の光が金髪の天使を包み、その傷を癒していく。それは、魔法ではない。魔法は、一定の手順を必要とする技術だ。現代の魔法では呪文の詠唱。古代魔法は、それに加えて、魔法陣。だから、これは人の使う魔法ではなく、天使の起こす奇蹟。
 ほんの数秒で全ての傷が消えたメタトロンは、ゆっくりと身を起こした。
「ラミエル、説明を。」
「はい。」

 メタトロン様のご命令通り、十五年前、ボクは、吸血鬼王の封印の一つを監視する任を受けて、下界に降りました。人間の子として下界に生まれ、天使の記憶と力を持ったまま、普通の人間のふりをして封印を見守っていました。
 五年前の、満月の夜、封印の異常を察知して駆けつけましたが、間に合いませんでした。
 アディス・ヴァイスハイトは、封印を破り、シャルラハロートの力を手に入れていました。ボクは、獲物を意のままに操る<誘惑>によって、暗示をかけられ、天使の記憶を失くしました。
 アディス・ヴァイスハイトは、ボクがこの世界で死ねば、天界にもどるということを知っていたのだと思います。だから、殺さず、記憶を封じて放置した。
 彼が再び、ボクの前に現れた理由は…わかりません。
 アディス・ヴァイスハイトと、リヒト・ファナティクスが、たまたま同じ学院にいただけなのかもしれないし、全ては彼が仕組んだことかもしれません。
 再会したとき…アディス・ヴァイスハイトは、当然、リヒト・ファナティクスの正体に気づいていたと思います。どうして彼が、リヒト・ファナティクスを傍に置いたのか?
 わかりません。彼の考えは、ボクには、何一つ。
 メタトロン様は、天界にお戻りください。
 これは、ボクに与えられた使命です。
 アディス・ヴァイスハイトは、ボクのこの手で。

「メタトロン様は、天界にお戻りください。」
 そう告げたラミエルを、メタトロンは、信じられない思いで凝視した。
 あまりにも、違う。
 天界でのラミエルの姿と。
 メタトロンにとってラミエルは、部下であり、弟子であり…弟のようにも思っている天使だった。
 常に控えめで大人しく、よく、「もっと自信を持って顔を上げなさい。」とメタトロンが言い聞かすことも多かったラミエル。メタトロンは、ラミエルを下界に下ろすことを最後まで悩んだほどだ。
 自信なさげに俯いていることが多かったラミエルが、今は毅然と顔を上げ、正面からメタトロンを見ている。
 メタトロンは、戸惑いを隠せない眼差しで、ラミエルを見返した。
「確かに、この世界に与える影響を考えると、上級天使の私が、これ以上下界に留まるのは避けるべきですが…。」
 上級天使が、人間に転生せず、天使のまま下界に降りるのは、緊急事態限り、許されること。それでも、ほんのわずかな時間しか与えられていない。タイムリミットは、迫りつつあった。
「ですが、人の子が、吸血鬼の王の力を手にし、それを意のままにしている以上。」
「これは、ボクに与えられた使命です。」
 メタトロンが、ハッと息を詰めた。
 ラミエルが、上司であり師であるメタトロンの言葉を遮り、しかも真向から異を唱えるなど、初めてのことだった。
 その愛らしく可憐な容貌は、天界にいた頃と何一つ変わっていない。ちょうど、天界での、本来の姿に近い年齢になっていた。
 だが、見慣れた紫の双眸に宿る光は、苛烈と言っていいほど強く、メタトロンの知るラミエルとは別人だった。メタトロンが気圧されるほどの変貌を遂げたラミエルが、きっぱりと告げる。
「アディス・ヴァイスハイトは、ボクのこの手で。」

 メタトロンの姿が消えると、周囲が急に暗くなったようだった。
 彼は、九つある天使の階級のうちの最上位、熾天使セラフィムに属する天使なのだ。その威光は、実際の光として物質界に影響を与えていた。
 シャルラハロートの力の欠片を手にしていようとも、本当なら、ただの人間のアディスが太刀打ちできるはずがなかった。それなのに、アディスは天界最高位の天使を退けた。無論、メタトロンに油断はあっただろう。だが、その油断を誘ったのはアディスの策略。
 アディスは、シャルラハロートの力を使いこなせることを、完全に隠していた。それが有利に働くと知っていたから。戦いが始まるずっと前から、アディスは手を打っていた。
(やはり、貴方はすごい。)
 無意識に、首筋に指を這わせ、リヒトが心中で呟いたとき。
 ガサッと下草を踏み分ける、軽い足音がした。
「おっかねえやつが、ようやく帰ってくれたぜ。」
 そんな軽口を叩きながら現れたのは。
「…ナハト。」
 リヒトは、小悪魔インプの名を呼び、小さく嘆息した。
「きみ、いつから?」
「おまえの上司が出てきたところから。」
「最初からじゃないか。」
 苦笑しながら、リヒトは、ナハトが、もう一つの事実を指摘したことに気づいている。ナハトは、言った。メタトロンを、リヒトの「上司」と。
「…きみは、いつから知ってたの?」
「おいおい、何勘違いしてんだよ、オレがおまえの正体を知ったのは、たった今だっつーの!オレだって驚いたわ!」
 ナハトは、呆れたように両手を大きく広げた。
「人間に転生した天使が、力も記憶も失くしてたら、人間と区別つくわけねーじゃん。大体、知ってたら近づかねーよ。オレは一応魔族だぜ?」
 暗紫色の瞳は、つり上がっているが、丸くて愛らしい。そんな、元気で生意気な子どもの顔をしていても、羽根と尻尾がその正体を雄弁に語る。
「…そう。でも、きっと、あの人には、最初からわかっていたんだろうね…。」
と、リヒトは、ナハトから視線をそらし、空を見上げた。
 赤い満月を、薄紫の瞳に映しつつも、べつに月など見てはいないのだろう。焦がれるように、ただ一人を見ている。ここにはいないのに、その幻影を追っている。
(どこまでが、貴方の描いた筋書なのですか…?)
 そんなリヒトを、ナハトは眉をひそめて眺めている。
 一見頼りなく、けれど芯は強く、優しい人間だと思った。だから助けを求めた自分の勘は正しかったと、ナハトは思っている。
 けれど、今目の前にいるリヒトは、あの時のリヒトなのか、自信がない。
 正体が天使だったからではない。彼を変えたのは、もっと別の。
(だけど、おまえには、助けてもらった恩があるからな。)
「なあ、リヒト。オレは、昔、天使だったんだぜ。」
 リヒトのものよりも深く、暗い、紫の双眸の奥に、強い光が瞬いた。
「天使は、魔族に膝を屈すると、天から堕とされる。それが堕天使…悪魔族だ。」
 リヒトがナハトを見た。銀髪が揺れる。見開かれた瞳。
「ナハト、きみは。」
 ナハトが目を眇める。十歳くらいの少年の姿をしているのに、表情が急に大人びた。
「リヒト、天にもどりたいなら、<誘惑>に堕ちるなよ。」

 眠れない夜が明けた。
(何もかもが変わったのに、当たり前のように朝が来る。)
 リヒトは、泣きたいような笑いたいような気分で、結局どちらもできずにため息をつく。
 早朝の教室。
 昨日までと何一つ変わらない場所なのに、ガランとしているせいか、まるで知らない場所のようだ。
 さんさんと降り注ぐ日差しは明るく、空気は澄んでいる。若葉が目に眩しい、爽やかな初夏の朝。
 窓辺に立って、リヒトは校庭を見下ろした。
 大きな窓からは、ハイムヴェー・バルツまで見通せる。深い森は、昨夜あそこであったことを全て呑みこんで、昨日までと何一つ変わらず、ただ静かに木々の葉を風に揺らしている。
「リヒト。」
 扉が開け放たれ、制服姿の少年が姿を現す。
 明るい陽射しを浴びて、亜麻色の髪が金茶に透ける。意志の強さを感じさせる、ペリドットの瞳で、まっすぐにリヒトを見る。
「朝っぱらから呼び出して悪かったな。でも、おまえ、昨日の夜、部屋にいなかったから。」
 だから扉に手紙を挟んだのだと、タークは告げる。
「でも、よかったぜ。来てくれたってことは、おまえは、オレの友達でいてくれるってことだろう?」
 その顔に、いつもの、快活な笑みはなく。
「少なくても、今は、まだ。」
 と、タークは厳しい表情でリヒトの正面に立った。
「そんな風に言うってことは…タークは知ってるんだね。」
 リヒトは目を伏せる。
「ナハトがオレんとこに来た。半信半疑だったけど、今のおまえ見て、納得したぜ。」
 タークの新緑の瞳に映るリヒトの、容貌が変化したわけではないのだ。
 よく見ると整った顔立ちだが、いつも俯き加減でいるせいで、それに気づかれにくかった。少女めいた、線の細い少年。銀色の髪に薄紫の瞳、と色素が薄いせいか、どことなく儚げな雰囲気の。
 けれど今は、静謐でありながら底が知れない、深い湖のような気配をまとう。清らかでありながら…否、あまりにも汚れが見当たらないために、かえって近寄り難く思える。
 その変化が、リヒトの正体に起因するのか、心境の変化なのか、タークには判断がつかないが。
「ナハトの話の裏付け取りたくて、図書館の文献、漁ってきた。辞書と首っ引きでも古代語なんてほとんど読めなかったから、大分想像で補ったけどな。」
 簡単に言うが、図書館は夜間は閉館しているから、こっそり忍びこんだのだろう。やたら行動力があって、後で叱られるようなことでも、いざとなれば平気でやってしまえるところが、タークらしいなとリヒトは思う。かつて、自分とは全く違う、タークのそんな面が、少しうらやましかった。
「とりあえず、おまえが、ラミエルって天使の転生で、アディス・ヴァイスハイトが、吸血鬼王の力を手に入れてるってことはわかった。」
 で、とタークは一歩前に出て、距離を詰めた。
「おまえ、今から、アディス・ヴァイスハイトんとこ行くんだろ?」
 リヒトは答えなかった。その必要がなかった。タークは、リヒトの考えなど読んでいる。
「やめとけよ。」
 リヒトが顔を上げたのは、タークの口調が、初めて聞くものだったからだ。初等部からのつき合いだが、タークが、これほど容赦なくリヒトの考えを否定したことはない。意志が強く、周囲を引っ張るリーダー気質の少年だが、タークはけして威圧的ではない。
「ほっときゃいいじゃんか、闇の貴公子なんて。天使、ラミエルとしてはどうにかしなきゃいけないのかもしれないけど、人間のおまえには、そんな義務ねーだろ?」
 タークの柔らかな色の目には、真摯で優しい光がある。打算なく、心の底から友を案じて。
「そうすりゃ、おまえは今まで通りに。」
「ちがう。」
 リヒトは、きっぱりと、タークの言葉を遮った。
 顔を上げて、譲れない、強い意志をアメジストの瞳に宿して。
「ボクは、天使だからアディスのところへ行くんじゃない。」
 その名を唇に乗せただけで、心の深いところが震える。
「今まで通りになんて、生きていけるわけがない。」
 あの視線は、甘美な呪縛。四肢を強固に締め付けるのに、その痛みすら陶酔になるような。
「ボクは、もう、アディスと出会う前には、もどれない!」
 全身で叫んだリヒトが、息を整えるのを待って、タークは静かに訊いた。今までのリヒトなら、こんなに感情的になることはなかった。だから、答えのわかっている問いだった。
「それで全てを失ってもか?」
 その問いに、リヒトは極上の笑みで答えた。
 迷いのない、凪いだ湖面のように綺麗に澄んだ笑みだった。
「全て」の中には、タークとの友情も含まれていると知りながら。
「さよなら、ターク。今まで、ありがとう。」
 数年間の友情を、ただ一言で断ち切って、リヒトはタークに背を向けた。

 シュトゥルウム魔法学院は、森を切り開いて建てられた。切り開かれた森の名残が、ハイムヴェー・バルツ。しかし、名残というには森の面積は広大で、学院の敷地よりも数倍広い。
 五月の若葉でありながら、鬱蒼と生い茂って明るい陽射しを遮るせいか、この季節でさえも暗い印象の森だ。
 森の奥、樹齢数百年であろう大樹の枝に腰かけて、アディスは本を読んでいた。数メートルの高さにいるので、日射しを遮る葉は少ない。
 しかし、初夏の陽光をその身に浴びてさえ、彼がまとう空気は夜のもの。華やかな美貌と、神秘的で妖しい気配。矛盾なく合わせもって、帝王のように君臨する。
 木の下に立って、アディスを見上げ、リヒトはかすかな吐息をもらす。
 心の準備を整えて、声をかける前に。
「ほらよ。」
と、アディスは本を放り投げる。
「うわっ。」
 慌てて手を伸ばすリヒトの正面に。
「我が翼と成れ、翠風翔グリューン・ヴィント。」
 枝からひょいと身を踊らせたアディスが、風をまとって降り立った。
「アディス…。」
 瞳が引き寄せられるように、アディスを見つめてしまう。
 アディスの双眸は、見慣れた、夜闇の漆黒ではなく紅玉の真紅。滴り落ちる鮮血の色。
 リヒトは、無言で本を差し出す。アディスも無言で受け取って、無造作に木の枝に引っかけた。
 アディスはリヒトに向き直り、かすかに首をかしげる。艶やかな黒髪がさらりと揺れる。それだけのことで、リヒトはどきりと胸が高鳴る。
「で?何の用だ?天使サマ。」
(ずるい。)
 リヒトは唇をかみしめた。昨日の夜のことが嘘だったかのように、気安い振る舞いをして。そのくせ、アディスは、もう、リヒトの名前を呼ばないのだ。
 リヒトは、泣きそうになって、瞬きをした。必死で涙をこらえて、声を搾り出す。
「…貴方の望みを叶えに来ました。」
 かすれる細い声。
 アディスは
「ふうん?」
と、真紅の目を細める。獲物を追い詰める猛禽の、無慈悲な光が躍る目。
「おまえに、オレの望みがわかるのか?」
「はい。一晩、ずっと、貴方のことを、貴方のことだけを考えました。」
 食い入るように、すがるように、アディスを見つめて。
「貴方が、再会したボクを傍においたのは…ボクに貴方を憎ませるためですね?そのために、貴方はボクに優しくして、手酷く裏切った。」
 リヒトは言葉を切った。否定してほしかった。その可能性が、万に一つもないと知りながら、まだ期待している自分の愚かさを、未練を痛感しながら。
 けれど、アディスは無情に無慈悲に、無言のまま先を促す。
 赤い瞳は、ぴたりとリヒトに据えられ、刃のように冷たく光っている。
 リヒトは、震える唇で、アディスの望みを言い当てる。
「貴方は、敵が欲しいんだ。自分の力を思い切りぶつけられる相手が。憎しみに身を焼かれた天使なら、少しは楽しめるかもしれない。そう考えたんでしょう?」
「ははははははははっ!!」
 アディスが、高らかに哄笑した。
 リヒトの胸が、ズキリと痛む。
 アディスが声をたてて笑うのを聞いたのは、二度目。一度目は、「一緒にいさせて。」と詰め寄ったとき。
 アディスの笑い声は、あの時とまるで変わっていない、
 それが、リヒトには辛い。
 アディスは、唇に笑みを刻んだまま、からかうように聞く。
「それで、おまえはオレを楽しませる自信があるのか?」
「はい。貴方のためなら、ボクは何でもできる。」
 それが、戦いの開始を告げる、狼煙の代わり。
 リヒトが魔法を放つ。
「我が敵を射抜け、氷霜矢アイスライフ・プファイル!」
 アディス目がけて、百を超す、氷の矢が放たれる。アディスは、余裕。
「我が敵を切り刻め、氷雪刃シュネーシュトゥルウム・クリンゲ。」
 氷の矢は、氷の刃でズタズタに切り裂かれ、そのままリヒトに向かう。リヒトは、防御の魔法を展開させる。
「我が楯と成れ、金剛壁ディアマント・ヴァント!」
 最高の硬度を持つ、ダイヤモンドの盾。
 最高位の防御系魔法に、アディスの目の色が少しだけ変わる。
 リヒトはそれに目ざとく気づく。
「それ、いつまでもつ?」
 アディスが面白そうに問う。
 威力の高い魔法ほど、展開にも維持にも集中力と魔法力を消費する。魔法力は、無尽蔵ではない。
 事実、リヒトの金剛壁は、アディスに問われた直後に消える。
 すかさず、アディスは、再度魔法を使う。
「我が敵を切り刻め、氷雪刃シュネーシュトゥルウム・クリンゲ。」
「我が楯と。」
(間に合わない!)
 リヒトは、跳びのこうとして、それも失敗する。否、刃が迫るのが速すぎる。
 吹雪が荒れ狂う。
 純白の刃は、リヒトの肌を切り刻み、真紅に染まる。
「-っ!!」
 リヒトは、声にならない悲鳴を上げて、崩れ落ちる。
 全身の裂傷。
 ぱっくりと裂けた傷口から、どくどくと血が溢れる。
「もう、終わりか?」
 倒れたリヒトを見下ろすアディスの瞳は、どこまでも残忍。
「急所は外してやったぜ?」
 手加減していたぶっているのだと、言外に告げる。
 リヒトは、ぎりっと奥歯をかみしめた。
 よろよろと、身を起こす。座り込んだまま、それでも気丈にアディスを睨みつける。
「この程度で、終わるわけがないでしょう…!」
 バサリ、と風が起こった。
 リヒトの背に広がった、白い翼が起こした。
 陽射しが降り注いでいても、なお、薄暗かった森に、一筋の光が射す。
 リヒトの頭上に輝く光輪によって。
 間近に光源があるせいで、銀の髪が眩く煌めく。
 アディスは、短く口笛を吹いた。
 翼を広げて、天に座すリヒトに向かって。
「本性、出したか。」
「何にでもなりますよ。貴方を倒すためなら!」
 リヒトが吠える。
 その全身は血に濡れたまま。
 繊手が翻る。
 青空に閃光が奔った。
 バリバリバリバリッ!
 雷が落ちる。
 アディス目がけて。
「我が敵を打ち滅ぼせ、雷光槍ブリッツシュラーク・ランツェ!」
 アディスが魔法を放つ。
 雷と雷が激突する。
 ドオン!
 大地が鳴動する。
 全てが真っ白に染まる。
 リヒトは、意識が飛んだ。
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「我が敵を切り刻め、氷雪刃シュネーシュトゥルウム・クリンゲ。」
 アディスの放った、凍てつく剣に、再び全身を切り刻まれた。
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「ぐっ…。」
 リヒトは、両手を着いて、必死で身を起こす。もはや、全身が痛すぎて、どこが一番の深手なのかも判然としない。
 浮き出た脂汗が、鮮血と混じる。
 吐き気と眩暈で、意識が遠のく。いっそその方が楽なのに、リヒトは、必死で顔を上げる。
(くそっ…。)
 死ぬ気で挑んでも、天使の力を使っても、アディスには傷一つつけられない。
 けれど、この結果は当然だ。熾天使セラフィムのメタトロンが太刀打ちできなかったアディスに、リヒトが敵うはずがない。どんなに強い思いでも、圧倒的な実力差は、ひっくり返せない。奇蹟など起きない。
(そんなこと、わかっていた。)
 わかっていて、ここに来た。ナハトの忠告も、タークの制止もふり切って。
 視線の先、アディスの紅の目は、相変わらず嬲る色しかなかった。
 無造作に、リヒトに近づき、膝をつく。
 手を伸ばせば、届く距離から、つまらなそうに眺める。
「ここまでか。」
 つまらなそうに。壊れた玩具でも放り出すように。
「オレを心底憎んでも、この程度か。」
 ぷつり、と。
 リヒトの中で、音がした。何かが数本まとめて、断ち切られた音。
「ふざけるなっ…。」
 気が付いたら、全身でぶつかって、アディスの胸倉をつかんでいた。
「貴方は何もわかっていないっ!!」
 腹の底が煮えくり返る。
「本気で、ボクが貴方を憎んでいると、憎悪ゆえに戦いを挑んだと、そう思っているんですかっ!?」
 殺気を帯びるほどの怒りに、目の前が真っ赤になる。
 全身を責めさいなむ痛みさえ遠くなるほどの。

「ボクは貴方が好きだから、認めてもらいたいから、この命を懸けている!!」

 限界まで叩き付けた声で、肺の空気が空になった。
 ぜいぜいと、肩で息をする。
 目が熱い。
 ぼろぼろと涙が溢れて、視界がかすんだ。
(何をやっているんだろう、ボクは。)
 この上なく惨めで、救いがたい愚者だと自分でも思う。絶対に手に入らないものを欲しがって、無駄と知っていて足掻いている。
 心を奪われてから、ずっとずっとアディスを見て、アディスのことだけを考えてきたリヒトには、アディスの心がわかる。
 アディスは、退屈なのだ。もともと天才的な魔術の腕と、古代語さえ自在に操る明晰な頭脳を持っていて、さらにそれを駆使して、吸血鬼の王の力を手にしてしまった。アディスは強くなりすぎて、もう誰も適わない。最高位の熾天使でさえも。
 彼が欲しいのは、自分とつり合う敵だけ。
(ボクがどんなに慕っても、無駄なんだ…。)
 す、と、暖かいものが頬に触れた。
 流れ続ける涙ではない。熱い涙よりも少し低い、やわらかい温度。
「え。」
と、顔を上げたとき、涙の雫がこぼれ落ちて、視界がクリアになった。
 アディスが、もう一度、親指でリヒトの目の下をぬぐった。リヒトに胸倉をつかまれたまま。
 リヒトがぽかんとその顔を眺めてしまったのは、アディスが初めて見る表情をしていたから。
 困ったような、途方にくれたような、迷子のような。
 いつも自信に満ちて不敵で不遜なアディスには、全くふさわしくない顔。
「アディス?」
 リヒトが、おそるおそる尋ねる。
 アディスは、眉をひそめている。いつもより幼く見える顔で。
「おまえ、変なやつだな。」
 ぼそっと呟く。
「オレは、おまえを弄んだだけだぞ。」
「知ってますよ。」
 リヒトは、ちょっとふて腐れたように答える。
「それでも、全部ウソだってわかっても、貴方の笑顔が、どうしても忘れられないんだから、しかたないじゃないですか。」
 思えば、ほんの短い間だったけれど、アディスにとっては、ただの戯れに過ぎなかったけれど。それでも、まるで友達みたいに傍にいられた時間が、あまりにも幸福で。全てが偽りだとわかった今も、どうしても切り捨てられない。
「…。」
 無言になったアディスを、胸倉をつかんだまま見上げて、リヒトは言う。
「アディス、ボクの血を吸ってください。」
「?」
 見開いたアディスの真紅の瞳に、初めて広がる驚愕。なぜか、リヒトはそれが愉快だった。初めて、彼の思惑をひっくり返せたようで。
「自ら血を差し出せば、吸血鬼の王に膝を屈したことになり…ボクは堕ちる。堕天使という魔族に。そしたら、今より強くなれる。きっと、貴方を満足させてみせる。」
 紫の瞳に燦然と輝く、挑戦的な光。
 今持つ全てを捨てて、力を望む。
 アディスに追いつくために。もう、リヒトには、初めて会ったときの怯えた様子は微塵もない。
「…面白い。」
 アディスの唇が、ゆっくりと三日月の形につり上がる。真っ白な牙がのぞいた。
 アディスが、リヒトの細く白い首筋に唇を寄せる。
 吐息がかかり、びくりと震えるリヒトの肩を、アディスがつかむ。
 アディスの牙が、リヒトの肌を突き破った。
 ズキン、と鋭い痛みが走る。体の芯に響く痛み。
(つっ…。)
 上げそうになった声を押し殺す。全身切り刻まれて、既にどこもかしこも痛いのに、今さらどうして痛みを覚えるのか。
 痛くて、熱い。
 ふっと、遠のく意識。
(ああ、あの日と同じだ…。)
 初めてアディスに血を吸われたあの夜と、同じ熱さに身を焼かれる。全身の血が沸騰しそう。
 それなのに、アディスの唇だけは、優しくリヒトに触れている。
 ぐるぐると、視界が回る。
 崩れ落ちる瞬間、アディスの腕に抱えられた気がしたのは、ただの願望か。
「じゃあな、リヒト。強くなったら、追いかけて来な。」
 耳もとでささやかれた言葉も。

 アディスは、その日のうちに、シュトゥルウム魔法学院から姿を消した。

終幕

 風が吹く。
 対峙する少年の間を、吹き抜けていく。
 一面の荒野。
 漆黒の瞳に、鮮やかな真紅の瞳、朱を佩いたような唇から牙をのぞかせた少年が、不敵に言い放つ。
「いい顔になったじゃないか、リヒト。」
 眩いプラチナの髪、アメジストの瞳の少年が、ふ、と笑みを返す。
「おかげさまで。」
 彼の背に広がるのは、翼。
 対峙する少年の髪と同じ色に…夜闇に染め上げられた、黒き翼を広げ、リヒトはまっすぐにアディスを見つめる。
「やっと見つけた。」
 声音は甘いのに、その双眸は、獲物を見つけた狩人のように、爛々と輝いて。
「始めましょう、アディス。ここにいるのは、貴方の待ち望んだ、最強の敵です。」
                                           終
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突然ですが質問です。 あなたは【真実の愛】を信じますか? そう聞かれたら私は『いいえ!』『No!』と答える。 だって・・・そうでしょ? ジュリアーノ王太子の(名目上の)父親である若かりし頃の陛下曰く「私と彼女は真実の愛で結ばれている」という何が何だか訳の分からない理屈で、婚約者だった大臣の姫ではなく平民の女を妃にしたのよ!? それだけではない。 何と平民から王妃になった女は庭師と不倫して不義の子を儲け、その不義の子ことジュリアーノは陛下が側室にも成れない身分の低い女が産んだ息子のユーリアを後宮に入れて妃のように扱っているのよーーーっ!!! 私とジュリアーノの結婚は王太子の後見になって欲しいと陛下から土下座をされてまで請われたもの。 それなのに・・・ジュリアーノは私を後宮の片隅に追いやりユーリアと毎晩「アッー!」をしている。 しかも! ジュリアーノはユーリアと「アッー!」をするにしてもベルフィーネという存在が邪魔という理由だけで、正式な王太子妃である私を車裂きの刑にしやがるのよ!!! マジかーーーっ!!! 前世は腐女子であるが会社では働く女性向けの商品開発に携わっていた私は【夢色の恋人達】というBLゲームの、悪役と位置づけられている王太子妃のベルフィーネに転生していたのよーーーっ!!! 思い付きで書いたので、ガバガバ設定+矛盾がある+ご都合主義。 世界観、建築物や衣装等は古代ギリシャ・ローマ神話、古代バビロニアをベースにしたファンタジー、ベルフィーネの一人称は『私』と書いて『わたくし』です。

冤罪で辺境に幽閉された第4王子

satomi
ファンタジー
主人公・アンドリュート=ラルラは冤罪で辺境に幽閉されることになったわけだが…。 「辺境に幽閉とは、辺境で生きている人間を何だと思っているんだ!辺境は不要な人間を送る場所じゃない!」と、辺境伯は怒っているし当然のことだろう。元から辺境で暮している方々は決して不要な方ではないし、‘辺境に幽閉’というのはなんとも辺境に暮らしている方々にしてみれば、喧嘩売ってんの?となる。 辺境伯の娘さんと婚約という話だから辺境伯の主人公へのあたりも結構なものだけど、娘さんは美人だから万事OK。

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