吸血鬼の王は天使を<誘惑>する

火威

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第三幕

吸血鬼の王は天使を<誘惑>する

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第三幕

「三大魔王が封印されたのは、だいたい千年前だと言われている。古代魔法が全盛期の頃だな。魔王封印以降、種族によって差はあるが、魔族は衰退した。天使たちの勝利に見えるが、天界が払った犠牲も大きく、全天使の半数近くが消滅したとも言われている。天界は、魔王の復活を恐れて、その力を細かく分けて封印し、封印を守るために、天使を地上に降ろす。」
「え?魔王の力が封印されているって言われている場所は、大陸の各地にいくつもありますから、細かく分けて封印したという説に合っていますけど…そこに天使がいるなんて、聞いたことないですよ?」
「正確には、人に転生した天使だな。天使のままでは物質界に与える影響が大きいから、人間の赤ん坊として生まれるとされている。」
「それって、天使の記憶があるまま、人間のふりをしてるってことですか?」
「そうなるな。」
 頷くアディスに、リヒトは(この人は何でも知っているんだなあ…。)と、感心した。
 名門、シュトゥルウム魔法学院始まって以来の天才児の名は伊達ではない。実技だけではなく、座学も抜きんでている。恐ろしいほど博識だ。
 そもそも、三大魔王が封印される以前の歴史、「古代史」は、現存する書物が少ない上に、古代語で書かれているので、研究が進んでいない。当然、その知識があるのは一握りの研究者に限られている。高等部の生徒であるアディスが、ここまで詳しいのは、本来は有り得ないことなのだ。
 リヒトは、おそるおそる
「もしかして、アディスは、古代語が読めるんですか。」
と聞くと
「当然だ。」
と、いともあっさり言われたが、こうなると大学教授並の知識を持っていることになる。
 リヒトは、月光に照らされるアディスの白皙の美貌を仰ぎ見た。今夜の月は、禍々しくも美しい、紅い満月。アディスが浴びるのにふさわしい色だと思う。
(こんなすごい人に、どうしてあんなこと言えたんだろう…?)
 ふだんの自分は、集団の中で小さくなっている、思い切った行動などできない性格なのに。アディスのことになると、頭に血が昇って、らしくない言動ばかりしている気がする。
(まあ、でも、そのおかげで、今、アディスと一緒にいられるんだけど。)
 夜中にたびたびこの森を訪れて、魔族狩りを行っているアディス。リヒトは、そばにいることを許されて、それを見守っている。
 だが、今夜のように、なかなか魔族が現れない夜もあり、アディスも退屈なのか、リヒトが聞いたことに、こんな風に答えてくれる。そして、そのたびにリヒトは彼の豊富な知識に驚く。
「アディスは。」
と、リヒトが話しかけようとした時。
 ふいに、森を包む気配が変化した。
 一気に空気の清浄さが増した。空間そのものが洗い清められたような。
「アディス、これって。」
「おまえも気づいたか。」
 アディスが、唇の端で笑う。
「結界が張られたな。」
「結界?」
 何が起きているのか理解できないリヒトは、無意味にアディスの言葉をくり返す。
 アディスは笑みを浮かべたまま、空を見上げた。まるで、これから起きることを全て予想しているかのように。
「来やがったぜ。」
 アディスの視線を追って顔を上げたリヒトは、森の上空に、光り輝く魔法陣が描かれているのを目にする。
 この森のあちこちに描かれる魔法陣とよく似ているが、決定的に違う点が一つ。円の外側の星が、六芒星ではなく、五芒星であること。
 けれど、魔法陣には違いない。そこから出現するなら、それは、この世のものではない。リヒトは、ビクリと肩を震わせた。無意識のうちに、アディスの袖口をつかんでしまう。アディスは、それを引きはがすことはしなかったが、口調は冷ややかだった。
「オレは、おまえがどうなろうと責任はもたないと言ったはずだが?」
「す、すみません。」
 リヒトは謝ったが、アディスから離れられない。アディスは
「まあ、いいさ。それより、よく見ておけ。」
と、リヒトにつかまれていない方の手で、空を指す。
 魔法陣から最初に出てきたのは、一枚の羽根だった。
 純白の羽根が、ひらりと舞う。
 そして、まばゆい光が満ちて、周囲は真昼の明るさで照らされる。
 一瞬、何も見えなくなり…視力が回復したとき、リヒトは信じられないものを目撃する。
 太陽かと思えるほど眩く輝く光輪。
 光輪の下にいるのは、三対の純白の翼を広げた天使。
 膝裏までの黄金の髪、大海の青い瞳の美貌の少年が、白い衣をなびかせながら下りて来た。
 リヒトの正面に。
 向かい合うと、長身のアディスよりもわずかに背が低いが、見た目の年は同じくらいに見える。
「て、天使!?」
 リヒトは上ずった声を上げ、ますますアディスの袖口をぎゅっとつかんでしまう。アディスは、それを横目で見て、からかうような笑みを浮かべた。不思議なことに、アディスの方は、この事態に全く驚いていなかった。リヒトは動転しすぎているので、それに気づかない。
 しかし、さらにリヒトの度肝を抜くことが起きた。
「やっと見つけました。どうして、連絡を絶ったのです!?」
と、天使に呼びかけられたのだ。
「はい?それ、もしかして、ボクに言っています…?」
 天使の視線はぴたりと自分に据えられている。それでもリヒトには何かの間違いにしか思えず、そう返してしまう。
「当たり前でしょう!何を言っているのです。」
 戸惑ったように眉をひそめ、一歩踏み出した天使に対して。
「そこまでにしてもらおうか。」
と、アディスがリヒトを背に庇った。
「リヒト、おまえは下がってな。」
 有無を言わせない声だった。リヒトは反射的に
「はいっ!」
と答えて、その場から離れ、木の幹に隠れる。
 天使は、そこで初めてアディスを正面から見て、驚愕に目を見開いた。
「…貴方は…。」
 そして、何かを悟ったように、深く長く嘆息した。
「こんなに幼い人の子に、我らの封印が解かれたとは信じられませんが、貴方の持つ力は、まぎれもなく、の王のもの。」
 天使は、厳しい眼差しで、アディスを見据えた。
「それは、禁忌の力。幸い、貴方はまだその力を完全に自分のものにしてはいないようです。まだ間に合う。今なら、私は貴方を殺さずに済む。手放す気は?」
「無いね。」
 アディスは一言で切り捨てた。笑みさえ浮かべ、気負いの欠片もなく。
「では、仕方ありません。貴方を殺し、その力を取り出して、再び封印します。」
 天使の両手が眩しく輝いた。三対の翼が大きく広がり、長い黄金の髪と純白の衣が風をはらむ。
 瞬き一つの間に、大剣を手にした天使は、それを一閃する。
 大地に大きく亀裂が入る。
 地震かと思うほどの揺れに、リヒトは木につかまって
「アディス!!」
と叫ぶ。その様子を目にした天使は、ひどく複雑な顔になる。しかし、その表情は一瞬で強張った。
 天使の剣の間合いから、瞬時に離れていたアディスが、高らかに叫ぶ。
「我が敵を殲滅せよ、千光刃タウゼント・シュトラール・クリンゲ!」
 白い光の刃が、雨のように降り注いだのだ。
 数えることもできないほどの刃が、大地を深く抉る。
 天使は必死で剣を振るって叩き落とすが、いくつかはその肌を裂き、純白の衣を赤く染め上げた。
 アディスは、笑うように目を細める。
「ふうん。熾天使セラフィムも血は赤いらしい。」
 天使は痛みよりも、傷を負った事実に衝撃を受けていた。
「そんな。いくら彼の王の力を得ているとは言え、人の子が私に…。」
 そして、アディスはその隙を見逃さない。
「我が敵を打ち滅ぼせ、雷光槍ブリッツシュラーク・ランツェ!」
 天空に稲妻が走る。
 ドォン、という衝撃とともに雷が落ちる。
 天使目がけて。
「くっ。」
 天使は、大剣で受ける。天使の力を総動員させているのだろう。バリバリバリッと音をたてて、雷が剣にまとわりついているが、次第にそれは威力を失っていく。
 抑え込んだ。
「…これは、手加減していられないようです。」
 天使の声が、スッと冷えた。
「アディス!!」
 ただならぬものを感じてリヒトが叫ぶ。
 しかし、アディスは動じない。
「そりゃ、負けたときの言い訳か?」
 漆黒の瞳を妖しく光らせて挑発する。
 天使が、三対の翼を大きく広げた。
 宙を舞い、一瞬で間合いを詰める。
 アディスは、斬撃を紙一重でかわす。
 半瞬でも気を抜けば、手足が、最悪、首が飛ぶ。天使のスピードは凄まじかった。呪文を詠唱できない。
 天使は剣を振るい続け、アディスはかわし続ける。
 膠着状態。
(どうしよう…。)
 リヒトは、震えながら、その光景を見ていた。
 あれは本物の天使だ。あの一滴の濁りもない清廉さと、アディスと互角の強さは、天の御使いでしかありえない。けれど、天使は魔族の対極、正しい者、聖なる者のはずなのだ。
(どうしてアディスを。)
 それは、アディスが罪を犯しているということなのか。天使は、「禁忌の力」と言っていた。噂通りアディスは、禁断の黒魔術に手を染めているということなのか。これは、天の裁きなのか。
(でも。)
(アディスが間違っているのだとしても。)
 ザンッ。
 血飛沫が飛んだ。
「…あ…。」
 リヒトの目に映った光景は、胸を貫かれたアディスが、ゆっくりと崩れ落ちる姿。
 天使の青い目は、どこまでも無慈悲。
 剣を一気に引き抜いた。
 鮮血がほとばしる。
 天使は、ゆっくりと、再び剣を構える。
 リヒトは、気が付いたら天使の前に飛び出していた。
「やめて!!」
 アディスを背に庇って、絶叫した。
「お願いです、アディスを殺さないで!!」
 天使のサファイアの瞳が燃え上がる。
「なぜ、貴方がその者を庇うのです!?」
「こいつは、全てを忘れているからさ。」
 答えたのは、リヒトではなかった。
「アディス!?」
 血塗れのアディスが、平然と立ち上がり、唇から流れる鮮血の一筋を、親指でピッと払った。
「なぜ。」
 凍りついた天使の隙を、アディスは見逃さない。
「我が敵を殲滅せよ、千光刃タウゼント・シュトラール・クリンゲ!」
 光の刃が、目にも止まらぬ速さで、天使に降り注ぐ。
「うぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
 天使は絶叫した。全身を切り刻まれる激痛。
 両膝をつき、苦しげにあえぐ。
 純白の衣も翼も、真っ赤に染まって。
 天使を見下ろし、アディスは傲然と告げる。
「忘れたのか?不死族の傷は瞬時に塞がる。オレは、とっくにシャルラハロートの力を自分のものにしているんだ。」
 リヒトは、ただ、アディスだけを見つめていた。
 引き寄せられるように、魅入られたように、アディスの瞳から、一瞬たりとも目が離せない。
「アディス、貴方の、その、目。」
 夜の闇より深い、漆黒だった瞳。
 今は、鮮血よりも鮮やかな、艶やかな真紅だ。
 最高級のルビー、ピジョン・ブラッドの双眸。
「ああ。」
 アディスは、天使から目を離し、リヒトの紫水晶の瞳を見つめる。
 ザッと風が吹き抜けた。木々の葉を、下草を揺らしていく。血のにおいをまとった、不吉な風が、リヒトの銀髪とアディスの黒髪なびかせる。
 紅の月光を浴びるアディスは、唇の端をつり上げて笑う。真珠の色の、鋭く尖った犬歯が見えた。まるで、牙のような。
 深く響く美声は、冷酷で残忍なのに、ひどく甘い。
「吸血鬼王の力の証だ。思い出したか?天使サマ。」

 不吉に赤い満月に照らされて、美貌の少年が妖しく笑っている。
 血に濡れた姿が、ゾッとするほど凄艶。
 切れ長の瞳は、鮮血の真紅。
 ズキン、と痛みが走り、リヒトは思わず頭を押さえた。
 何かを、思い出しそうになる。
 アディスが距離を詰める。
 ルビーの瞳が近くなる。
 リヒトは、思わず後ずさった。
「思い出したら、オレが怖くなったみたいだな?天使サマ。」
 アディスが、嬲るように笑う。
「…ちがう。」
 リヒトは、弱々しく、首を振る。銀髪が、蒼ざめた頬に触れる。
 トン、と背中が木の幹にぶつかった。
「違う?何が?」
 アディスの腕が伸びる。追い詰めるように、リヒトを閉じ込めた。
「…怖いのは…思い出すことです…。」
 リヒトは、うまく呼吸ができなかった。細い声で、訴える。
 思い出してはいけないと、心の一番深い部分が叫んでいる。
(思い出したら、この時間が、終わってしまう。)
 アディスは、少しだけ目を見張った。意外そうな表情だった。
「なんだ、おまえ、まだ記憶がもどっていないのか。<誘惑>が効きすぎたな。」
 だが、すぐにそれは嗜虐の笑みへ変わる。
 長く白い指が、リヒトのあごをとらえて、上向かせる。
 息のかかる距離から、真紅の視線が、淡い紫の瞳を絡め取る。
「手伝ってやる。」
 赤い瞳が輝く。
 禍々しい光に囚われて、リヒトは目を伏せることさえできない。
「…いやだっ…。」
 菫色の瞳が潤む。
「おねがい、アディス…やめてっ…。」
 リヒトの瞳に、涙が盛り上がり、ゆっくりと頬をすべり落ちていく。
「思い出したら、ボクはアディスのそばに、いられなくなるっ…。」
 抵抗すらできず、震えながら泣くリヒトに、アディスはどこまでも酷薄だった。
 その姿は、伝説にある、吸血鬼の王、シャルラハロートそのもの。
 スッと笑みを消して、アディスはリヒトの耳元でささやく。
 心が凍りつくほどに冷たい声で。
「愚かな夢から覚める時間だ。」
「ア…。」
 リヒトの視界が、真っ白に染まった。

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