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32話
しおりを挟む現実逃避したいのに、シンティオが私の頭に顔を近づけてしきりに匂いを嗅いでくる。
顔を上げて指の間から覗いてみると、熱をはらんだ黄金の瞳と目が合った。
ちょっと待って。シンティオには婚約者がいるんだよね?
竜王はシンティオの帰りを熱望しているみたいだけれど、何か問題があったから彼は竜の国へ帰れないって言っていた。
つまり、もしここで不貞を働けば、竜王以外の仲間との関係がさらに悪くなってしてしまう可能性がある。
どうしたものかと考え込んでいると、ぬるりとしたものが手の甲に触れた。
「ひぇっ……!」
「ルナ、顔が舐められぬから手を除けるのだ」
……人の心配する暇があるなら、今は自分の心配をした方が良いのかもしれない。
だって、冷静に考えたら私……竜のシンティオに迫られてるんだよね?!
このまま押し倒されてことに及ばれたら……初めてが竜ってハードル高過ぎじゃないか?
体格差どころの話じゃない。まず常識的に考えて最後までなんて無理だ。そんなことがあれば確実に私は、死ぬ!
ルナ、享年二十三歳。死因は圧死。
何それ半端なくかっこ悪い! ふかふかのベッドで老衰する予定なのでその未来は是非とも回避させて頂きます。
頭の中で嫌な想像をしていたら、温かい息が耳元にあたって現実に引き戻された。低くて艶めかしい声色でシンティオは囁く。
「手を除けてくれ。孔雀石の様な瞳をもっとよく見たい」
あまりの色っぽさと耳にかかる息で私の顔全体が一気に熱くなった。きっと耳まで真っ赤になっていると思う。
「ルナ、恥じらう其方も愛らしいが焦らしてくれるな。早くしないと我はどうにかなってしまいそうだ」
それはこっちのセリフだわ!! 受け入れたら私がどうにかなってしまうわ!!
というか絶対死ぬに金貨十枚賭ける!!
「シ、シンティオ落ち着いて!」
私は両手を突き出して制止を促した。けれど、私の思いとは裏腹にシンティオの息は増々上がっていく。
できる限りシンティオを花粉が舞う池から離れるように誘導しつつ、何かないか思考を巡らせる。けれど、気持ちだけが焦っている私にはシンティオを正気に戻す妙案は浮かばない。
そうこうしているうちに、髪を弄ぶような風が吹き始めた。
運の悪いことにこちらに向いて吹く風が、宙を舞っていた花粉を乗せて容赦なく襲って来る。
ニルヌに『夜を統べる女王』なんて名前がついている所以、それは花粉を吸うだけでなく、肌に触れただけでも男の理性が吹っ飛ぶ効果があるからだ。
ニルヌは一般的に薬ではなく香水として売られている。しかし、白霧山の標高の高い場所にしか咲かないので、その価値はとても高く、到底庶民が手にできるものではない。よって、香水が買えるのは王族や位の高い貴族の女性たちだけだ。
表向きはリラックス効果をもたらす良い香りだと言って淑女たちはこぞって買っているが、実際は花粉の成分が含まれているため、意中の相手を落とす時に使うことがあるとか。きっと、ここぞという勝負時に使われているのだろう。
ていうか、上の人達どんだけ肉食なんですか!? 淑女の気品は一体どこへ!?
ニルヌにまつわる話を思い出していると、一段と強い風が吹いて大量の花粉が私とシンティオを襲いながら流れていった。
おかげで池の上を舞っていた花粉はなくなったけれど、シンティオがもう完全に理性を吹っ飛ばしてしまったので嬉しくない。
嗚呼、どうしてこう毎回追い打ちを掛けるのですか、神様? もしや魔王と結託して私を陥れようとしているのですか?
自身の悲運に嘆いていると、とうとう大きな巨体に押し倒されてしまった。押し潰されるかもしれないと覚悟して目を瞑ると、いつまで経ってもずっしりとした重い感覚は来ない。
不思議に思って目を開ければ、シンティオは私を潰さないように覆いかぶさっていた。
鋭い視線に捕らえられ、私はその黄金の瞳から逸らせないでいた。
いつになく鋭い縦長の瞳孔に恫喝されているみたいで動けなかったと言う方が正しい。完全に私は蛇に睨まれた蛙状態だった。
「……正式な、マーキングして良い?」
正式なマーキングが一体どんなものなのか少し気になるけれど、絶対私にとって良くないことが降りかかるっていうことだけは理解できる。
私の返事を訊く前にシンティオが手を伸ばしてきたので、慌てて半ば叫ぶように言った。
「それ以上何かしてみなさい、金輪際シンティオとは口きかないから!! それに白パンもあげない。ずっと固いライ麦パンを食べると良いわ!」
最後の方、何を口走っているんだろう私は。こんな状況でパンの話なんて関係ない。そう思った矢先、シンティオの動きがぴたりと止まった。
驚いてシンティオの目の前で手をひらひらと動かしてみるも、微動だにしない。
流石は三大欲求の一つ「食欲」。ありがとう食欲。
寧ろ、性欲より食い意地が張っているシンティオに礼を言うべきか。とにかく、動きが止まっている今が逃げるには絶好のチャンスだ。
すると、私が逃げる前にシンティオの方からさっと離れた。
「……嫌なのだ。ルナと二度と話せぬのは――……白パンが食べれぬことよりも嫌だ」
「……え?」
私はシンティオの表情を見て息を呑む。そこに立つ竜は今にも泣き出しそうな表情を浮かべていた。
「ルナの……傍にいたいのだ。……だから、嫌われ……たくな、い」
荒い息の中、途切れ途切れの言葉は悲痛がはらんでいた。
けれど、今までとは違う強い光が宿った黄金の瞳に、私の心臓は大きく跳ねた。それも何度も、シンティオに聞かれてしまうんじゃないか、というほど速くて大きな音だった。
その途端、蓋をして押し込めていたはずの感情がぱっと弾けて私の心の中で広がっていく。この感情が分かりたくなくて蓋をしたはずなのに、シンティオの言葉で自分の気持ちが分かってしまった。
「そっか……私はシンティオが――」
感情にのまれて立ち尽くしていると、地響きと共に地面が揺れた。
バランスを崩してその場に座り込み顔を上げると、シンティオが身体をしきりに地面にぶつけていた。
一瞬、シンティオの理解不能な行動に頭が真っ白になった。それが理性を保つために自身の身体を地面に叩きつけているのだと気づくと、私は表情を歪める。
「何とかするから、少しだけ我慢して!」
考えを捻り出そうとするけれど、先ほどと変わらず何も浮かばない。
せめてこの辺に解毒に使えそうな薬草があれば。だとしても薬ができるまでにシンティオの理性が持つかどうかも分からない。
一体どうすれば良いの? 肝心な時に何もできないなんて!
下唇を噛み締めて焦燥感に駆られていると、不意に囁く声が聞こえた。
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