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七章
最後の戦い⑤
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屋上へと続く扉もやはり簡素なものだった。特徴のないビジネスライクな扉。
俺はそのドアノブに手を掛ける。
―――かちゃり。
抵抗なくドアノブは回転した。こちらも鍵は掛かっていなかった。
キィィィィィ―――……
乾いた金属音が下の階にまで響く。
隙間から月明りが差し込み、暗闇の中にいた俺の姿をぼんやりと映し出す。
「………だ、れ……?」
扉が半分くらいまで開いたとき、蚊の鳴くような弱々しい声が聞こえた。
目を凝らし、声のした方向を見る。屋上の真中辺りに誰かいるのがわかった。
その人物はパイプ椅子に座っていたが、身体は白いロープのようなもので縛られており、目には布のようなものが巻かれていた。
まさか―――
恐る恐る、俺は声を掛ける。
すると、
「だれ……時坂君……?」
救いを求めるような細い声が返ってきた。その声に、俺は聞き覚えがあった。つい数時間ほど前に聞いた声だった。
「無事だったんだな!」
生きている……。
よかった。間に合った。
俺は、急いで彼女の元へと駆け寄る。
彼女はザイルロープで身体を椅子に固定されていた。それを解こうと俺は彼女の身体に手を伸ばす。
が、その時、
「ユウ、君?」
「―――ッ⁉」
すぐ後ろから、そう呼びかけられて俺の身体は硬直した。
冷たい汗が背中を伝う。心臓がドラムを鳴らすみたいに、早鐘を打ち始めた。
どうして、あいつの声がこんな所で―――
そんな疑問がグルグルと頭の中を回る。
視界が歪む。世界が反転してしまいそうだった。
俺は錆びついたロボットのようなぎこちない動きで、ゆっくりと後ろを振り返る。
そこには、
「みら……い……?」
制服姿のみらいが、腕を後ろに回し入口扉横の壁にもたれるようにして立っていた。
「やっぱり、来ちゃうんだね……ユウ君は……」
彼女は哀しそうに微笑んだ。
信じたくなかった。この場に彼女が立っていることを、俺は信じたくなかった。
「何で、お前がここにいるんだよ……犯人は初音なんじゃ……」
やっとの思いで、俺はそう訊ねる。
だが彼女の次の言葉で、俺は更に深い絶望の底へと突き落とされた。
「そっか……初音ちゃんのことはもう、知ってるんだね」
「……ッ⁉ お前、あいつのこと知ってたのか?」
みらいが、ゆっくりと頷く。
「……そんな、どうして……」
俺は彼女に近づこうとする。だが足が動かない。
まるで膝から下を石膏で固められたように、俺はその場から一歩も動くことができなかった。
「何で、か……」
小さな声でそう言うと、みらいは自分の方から俺に近づいてきた。
「それはね、ユウ君―――」
両手で俺の頬を優しく包みこむ。
そして、彼女はじっと俺の両眼を覗き込むと、
「私と初音ちゃんが、今回の事件の首謀者だからだよ」
淀みない口調でそう言った。
「―――ッ⁉」
脳天をハンマーで殴られたような衝撃が全身を貫いた。手先とつま先が、感電したようにビリビリと痺れる。
彼女の声が、頭の奥でわんわんと反響していた。
目の前の彼女が、何を言っているのかわからなかった。思考が混濁する。
すると、彼女は俺の顔からそっと手を離し、
「二年前……ユウ君の家で起きたあの事件のこと、覚えてる?」
突然、そんなことを言ってきた。
「……あ……ああ」
一拍遅れて俺は答える。
忘れない。忘れるはずもない。俺の脳裏に、夕陽と血の赤に染まったリビングの光景が、鮮明に映し出されてきた。
しかし、
「あの時、ユウ君の目の前で初音ちゃんを殺してたのは、私なの」
風が頬を掠めるように、彼女はさらりとそんなことを言った。
「………は?」
素っ頓狂な声が俺の喉から洩れる。
今度こそ、目の前の彼女が何と言ったのか理解できなかった。
だが、そんな俺を他所に、みらいは静かに首を横に振る。
「ううん、ごめん違う。私が殺したのは、初音ちゃんじゃない。初音ちゃんの身代わりになった女の子」
長年一緒に暮らしてきた彼女の存在が、とても遠いもののように感じた。
「初音ちゃんから、自分は死んだことにしてほしいって頼まれたとき、私すごく悩んだの。死体も出さずに、どうやって生きてる人間を死んだことにすればいいんだろうって……」
滔々と、みらいが語り始める。
「でもね、ある日、唐突に思い付いたの―――死体がなければ作ればいいんだって……」
全身に悪寒が走った。彼女のものとは思えない冷たい声だった。
「それから私は、初音ちゃんの代わりになりそうな子を、必死になって探した。髪の長さ、身長、体重、体格、肌の色―――それらすべての条件に合うような子を、血眼になって探した。そして―――ついに見つけたの」
みらいの顔に薄い影が落ちる。
ヒュー、と生ぬるい風が俺たちの間を通り抜けた。
「その子は、隣町に住むごく普通の小学生だった。都合の良いことに、その子はお婆さんと二人暮らしだったの。だから、連れ出すのにもほとんど苦労しなかった」
彼女の言葉を、俺はもう聞きたくなかった。
「適当な理由をつけて、私は学校帰りのその子を、ユウ君の家に連れ込んだ。そして―――」
そこまで言うと、みらいは辛そうに顔を歪めた。
「……あとは、ユウ君が見た通り。いくら外見が似てるっていっても、顔を見られたら別人だってばれちゃうから、鈍器で顔面を殴ってぐちゃぐちゃにしたの」
吐き出すようにして言った。
「でも、予想外に時間が掛かっちゃって………結果的に、ユウ君まで巻き込む形になっちゃった」
ごめんね、とみらいが苦笑しながら謝ってきた。
「……その後、初音ちゃんはちょうど空き家になってた私の家に匿うことになった。でも、不用意に外に出るわけにはいかなかったから、必要なものは全部私が用意した。食事もほぼ毎日私が持って行ってあげてた。そんな生活が、二年間も続いたの」
「ちょ、ちょっと待てよ」
そこで、俺は思わず彼女の言葉を制した。
「てことは何か? 初音はこの二年間ずっと、あの家で一人ひっそりと暮らしてたっていうのか?」
「……そうだよ」
みらいが首肯する。
「………ッ⁉」
「初音ちゃんはずっと、ユウ君の隣にいたの」
とても申し訳なさそうに、彼女は微笑んだ。だが今の俺には、その笑みがとてつもなく残酷なものに見えた。
「そん、な……」
全身から力が抜けていく。ふらっと倒れ込むようにして俺は地面に膝をついた。
思考が追い付かない。情報が纏まらない。あまりにも多くの真実を目の当たりにして、俺の頭の中はもうぐちゃぐちゃだった。
ただ、この二年間、自分が如何に無知で無能で惚けて過ごしてきたのかということだけは、十二分に理解できていた。初音が、誰もいない暗い家で一人隠れるようにして暮らしている間、俺は何も知らず、何も気付かず、ただ悲しみに暮れるだけで漫然と毎日を過ごしていたのだ。
不甲斐ない―――などという言葉では表しきれない。騙されたとはいえ、俺は妹である初音を守ってやることができなかった。俺は兄失格だ。
目の前がゆっくりと闇に侵食されていく。深い深い穴の中に引きずり込まれていくような感覚に襲われる。
眠りたいと思った。やっぱり真実なんて知らなくていい。全ての重荷を投げ捨て、目の前の真実に蓋をして、このまま永遠に眠ってしまいたいと思った。
もう、限界だ―――
………だが、現実から逃れようとしたその時、
ヴー、ヴー、ヴー……
ポケットの中で、携帯が震えた。
取り出すと、それはさよからの着信だった。
力なく、俺は画面に表示されていた通話ボタンをタッチする。それくらいの気力はまだ残っていた。
『時坂優。無事……ですか』
彼女の声が聞こえた。気のせいだろうか。彼女の呼吸が、心なしかいつもより少し荒いような気がした。
『聞いて……いますか?』
「……もう無理だよ。俺には……これ以上できない」
自分でも驚くほどの弱々しい声が出た。
『何……言ってるんですか。何があったんですか』
「………」
『時坂優?』
「………」
『時坂優‼』
突然、さよの甲高い声が俺の耳を貫いた。
ビクッと肩が跳ねる。思わず携帯を落としてしまいそうになった。
『しっかりしてください! そこから先は全てあなたにかかっています。そんな調子でどうするんですか!』
さよの怒声が針のようになって、俺の耳にグサグサと突き刺さってくる。
「そ、そんなこと言われなくたって……」
反射的に、俺は言い返していた。
『なら、そんな弱々しい声を出さないでください! いいですか! 私はあなたを信頼してその役目を任せたんですよ! 失敗なんてしたらただでは済ましませんよ!』
さよの荒々しい声が頭の中に響いてくる。茫然とした。
だが、そんな彼女の声を聞いている内に、何故だか不思議と心が落ち着いてくるのがわかった。思考がクリアになっていく。
ついさっきまで真暗だった目の前に、ほんの少しだけ光が射したようだった。
「……わかった」
今度こそ覚悟を決めた。
「やれるだけやってみるよ」
力強くそう言った。
『わかれば、いいんです、よ……』
しかし、依然さよの息遣いが荒い。やはりどこか苦しそうだ。今度は気のせいなどではない。
「おい、さよ、大丈―――」
―――プツッ―――!
だが訊く前に、彼女の方から通話を切られてしまった。
彼女のことは気になったが、俺は携帯をポケットにしまって立ち上がる。そしてみらいに向き直った。
「悪かった。俺は、今までお前がそんな重荷を抱えて生きていたことに、気付きもしなかったよ」
「ユウ君………?」
「初音がいなくなった時も、俺は取り乱すばっかりで、本当のことなんて何一つ見えてなかった。もっと俺がしっかりしていれば、今回みたいなことは防げたのかもしれないのに……。ほんと、俺は今まで、何をやってたんだろうな」
俺は自嘲するように笑った。
「………」
「……でも、だからといって、お前たちがこれ以上罪を犯すのを、黙って見ているつもりはない。人殺しなんてもっての外だ。悪いけど、全力で止めさせてもらう」
俺は、背後で椅子に縛り付けられたままの彼女を庇うように、みらいの前に立ち塞がった。
するとみらいは、少し驚いたようにその鳶色の目を見開いた。
「そっか……やっぱりユウ君は優しいね」
しかしすぐに、いつもの優しい表情に戻って、くすりと微笑んだ。
「みらい……?」
「ううん、何でもない。大丈夫。ユウ君は、自分の信じる道を突き進んだらいいと思う。私は何も言わない。邪魔もしないからさ……」
「いいのか……?」
「……うん」
ほんの少しの間の後、みらいが小さく頷く。
「お前、初音の共犯なんだろ? ここで俺を止めなかったら、初音を裏切ることになるんじゃないのか?」
俺が心配したように言うと、みらいは少し困ったような、そしてもうどこか疲れ切ってしまったような、微妙な表情を浮かべた。
「そうだね……。でも、いいの。私も、何が正しいのか、よくわからなくなっちゃったから……。初音ちゃんに協力することがユウ君たちの幸せに繋がるはずだって、この二年間ずっと信じ続けてきたけど……もしかしたら、間違ってたのかもしれない。他の道もあったのかもしれない」
みらいがそこで言葉を区切る。
「……だから、ユウ君がその人を助けるって言うなら、私はそれを邪魔したりしない。たとえそれが望まない未来に繋がったとしても、きっと私は後悔したりしない。だって、それはユウ君が選んだ道だから」
決意の籠った眼で彼女はそう言った。
「…………」
「だから、いいよ。早く彼女を解放してあげて」
「……わかった。後でちゃんと話聞くからな。そこで待ってろよ」
「……うん」
彼女が頷くのを確認すると、俺はみらいに背を向けて縛られている彼女に手を伸ばした。
しかし―――
―――パンッ!
突然何の前触れもなく、乾いた音が屋上に響き渡った。
俺はそのドアノブに手を掛ける。
―――かちゃり。
抵抗なくドアノブは回転した。こちらも鍵は掛かっていなかった。
キィィィィィ―――……
乾いた金属音が下の階にまで響く。
隙間から月明りが差し込み、暗闇の中にいた俺の姿をぼんやりと映し出す。
「………だ、れ……?」
扉が半分くらいまで開いたとき、蚊の鳴くような弱々しい声が聞こえた。
目を凝らし、声のした方向を見る。屋上の真中辺りに誰かいるのがわかった。
その人物はパイプ椅子に座っていたが、身体は白いロープのようなもので縛られており、目には布のようなものが巻かれていた。
まさか―――
恐る恐る、俺は声を掛ける。
すると、
「だれ……時坂君……?」
救いを求めるような細い声が返ってきた。その声に、俺は聞き覚えがあった。つい数時間ほど前に聞いた声だった。
「無事だったんだな!」
生きている……。
よかった。間に合った。
俺は、急いで彼女の元へと駆け寄る。
彼女はザイルロープで身体を椅子に固定されていた。それを解こうと俺は彼女の身体に手を伸ばす。
が、その時、
「ユウ、君?」
「―――ッ⁉」
すぐ後ろから、そう呼びかけられて俺の身体は硬直した。
冷たい汗が背中を伝う。心臓がドラムを鳴らすみたいに、早鐘を打ち始めた。
どうして、あいつの声がこんな所で―――
そんな疑問がグルグルと頭の中を回る。
視界が歪む。世界が反転してしまいそうだった。
俺は錆びついたロボットのようなぎこちない動きで、ゆっくりと後ろを振り返る。
そこには、
「みら……い……?」
制服姿のみらいが、腕を後ろに回し入口扉横の壁にもたれるようにして立っていた。
「やっぱり、来ちゃうんだね……ユウ君は……」
彼女は哀しそうに微笑んだ。
信じたくなかった。この場に彼女が立っていることを、俺は信じたくなかった。
「何で、お前がここにいるんだよ……犯人は初音なんじゃ……」
やっとの思いで、俺はそう訊ねる。
だが彼女の次の言葉で、俺は更に深い絶望の底へと突き落とされた。
「そっか……初音ちゃんのことはもう、知ってるんだね」
「……ッ⁉ お前、あいつのこと知ってたのか?」
みらいが、ゆっくりと頷く。
「……そんな、どうして……」
俺は彼女に近づこうとする。だが足が動かない。
まるで膝から下を石膏で固められたように、俺はその場から一歩も動くことができなかった。
「何で、か……」
小さな声でそう言うと、みらいは自分の方から俺に近づいてきた。
「それはね、ユウ君―――」
両手で俺の頬を優しく包みこむ。
そして、彼女はじっと俺の両眼を覗き込むと、
「私と初音ちゃんが、今回の事件の首謀者だからだよ」
淀みない口調でそう言った。
「―――ッ⁉」
脳天をハンマーで殴られたような衝撃が全身を貫いた。手先とつま先が、感電したようにビリビリと痺れる。
彼女の声が、頭の奥でわんわんと反響していた。
目の前の彼女が、何を言っているのかわからなかった。思考が混濁する。
すると、彼女は俺の顔からそっと手を離し、
「二年前……ユウ君の家で起きたあの事件のこと、覚えてる?」
突然、そんなことを言ってきた。
「……あ……ああ」
一拍遅れて俺は答える。
忘れない。忘れるはずもない。俺の脳裏に、夕陽と血の赤に染まったリビングの光景が、鮮明に映し出されてきた。
しかし、
「あの時、ユウ君の目の前で初音ちゃんを殺してたのは、私なの」
風が頬を掠めるように、彼女はさらりとそんなことを言った。
「………は?」
素っ頓狂な声が俺の喉から洩れる。
今度こそ、目の前の彼女が何と言ったのか理解できなかった。
だが、そんな俺を他所に、みらいは静かに首を横に振る。
「ううん、ごめん違う。私が殺したのは、初音ちゃんじゃない。初音ちゃんの身代わりになった女の子」
長年一緒に暮らしてきた彼女の存在が、とても遠いもののように感じた。
「初音ちゃんから、自分は死んだことにしてほしいって頼まれたとき、私すごく悩んだの。死体も出さずに、どうやって生きてる人間を死んだことにすればいいんだろうって……」
滔々と、みらいが語り始める。
「でもね、ある日、唐突に思い付いたの―――死体がなければ作ればいいんだって……」
全身に悪寒が走った。彼女のものとは思えない冷たい声だった。
「それから私は、初音ちゃんの代わりになりそうな子を、必死になって探した。髪の長さ、身長、体重、体格、肌の色―――それらすべての条件に合うような子を、血眼になって探した。そして―――ついに見つけたの」
みらいの顔に薄い影が落ちる。
ヒュー、と生ぬるい風が俺たちの間を通り抜けた。
「その子は、隣町に住むごく普通の小学生だった。都合の良いことに、その子はお婆さんと二人暮らしだったの。だから、連れ出すのにもほとんど苦労しなかった」
彼女の言葉を、俺はもう聞きたくなかった。
「適当な理由をつけて、私は学校帰りのその子を、ユウ君の家に連れ込んだ。そして―――」
そこまで言うと、みらいは辛そうに顔を歪めた。
「……あとは、ユウ君が見た通り。いくら外見が似てるっていっても、顔を見られたら別人だってばれちゃうから、鈍器で顔面を殴ってぐちゃぐちゃにしたの」
吐き出すようにして言った。
「でも、予想外に時間が掛かっちゃって………結果的に、ユウ君まで巻き込む形になっちゃった」
ごめんね、とみらいが苦笑しながら謝ってきた。
「……その後、初音ちゃんはちょうど空き家になってた私の家に匿うことになった。でも、不用意に外に出るわけにはいかなかったから、必要なものは全部私が用意した。食事もほぼ毎日私が持って行ってあげてた。そんな生活が、二年間も続いたの」
「ちょ、ちょっと待てよ」
そこで、俺は思わず彼女の言葉を制した。
「てことは何か? 初音はこの二年間ずっと、あの家で一人ひっそりと暮らしてたっていうのか?」
「……そうだよ」
みらいが首肯する。
「………ッ⁉」
「初音ちゃんはずっと、ユウ君の隣にいたの」
とても申し訳なさそうに、彼女は微笑んだ。だが今の俺には、その笑みがとてつもなく残酷なものに見えた。
「そん、な……」
全身から力が抜けていく。ふらっと倒れ込むようにして俺は地面に膝をついた。
思考が追い付かない。情報が纏まらない。あまりにも多くの真実を目の当たりにして、俺の頭の中はもうぐちゃぐちゃだった。
ただ、この二年間、自分が如何に無知で無能で惚けて過ごしてきたのかということだけは、十二分に理解できていた。初音が、誰もいない暗い家で一人隠れるようにして暮らしている間、俺は何も知らず、何も気付かず、ただ悲しみに暮れるだけで漫然と毎日を過ごしていたのだ。
不甲斐ない―――などという言葉では表しきれない。騙されたとはいえ、俺は妹である初音を守ってやることができなかった。俺は兄失格だ。
目の前がゆっくりと闇に侵食されていく。深い深い穴の中に引きずり込まれていくような感覚に襲われる。
眠りたいと思った。やっぱり真実なんて知らなくていい。全ての重荷を投げ捨て、目の前の真実に蓋をして、このまま永遠に眠ってしまいたいと思った。
もう、限界だ―――
………だが、現実から逃れようとしたその時、
ヴー、ヴー、ヴー……
ポケットの中で、携帯が震えた。
取り出すと、それはさよからの着信だった。
力なく、俺は画面に表示されていた通話ボタンをタッチする。それくらいの気力はまだ残っていた。
『時坂優。無事……ですか』
彼女の声が聞こえた。気のせいだろうか。彼女の呼吸が、心なしかいつもより少し荒いような気がした。
『聞いて……いますか?』
「……もう無理だよ。俺には……これ以上できない」
自分でも驚くほどの弱々しい声が出た。
『何……言ってるんですか。何があったんですか』
「………」
『時坂優?』
「………」
『時坂優‼』
突然、さよの甲高い声が俺の耳を貫いた。
ビクッと肩が跳ねる。思わず携帯を落としてしまいそうになった。
『しっかりしてください! そこから先は全てあなたにかかっています。そんな調子でどうするんですか!』
さよの怒声が針のようになって、俺の耳にグサグサと突き刺さってくる。
「そ、そんなこと言われなくたって……」
反射的に、俺は言い返していた。
『なら、そんな弱々しい声を出さないでください! いいですか! 私はあなたを信頼してその役目を任せたんですよ! 失敗なんてしたらただでは済ましませんよ!』
さよの荒々しい声が頭の中に響いてくる。茫然とした。
だが、そんな彼女の声を聞いている内に、何故だか不思議と心が落ち着いてくるのがわかった。思考がクリアになっていく。
ついさっきまで真暗だった目の前に、ほんの少しだけ光が射したようだった。
「……わかった」
今度こそ覚悟を決めた。
「やれるだけやってみるよ」
力強くそう言った。
『わかれば、いいんです、よ……』
しかし、依然さよの息遣いが荒い。やはりどこか苦しそうだ。今度は気のせいなどではない。
「おい、さよ、大丈―――」
―――プツッ―――!
だが訊く前に、彼女の方から通話を切られてしまった。
彼女のことは気になったが、俺は携帯をポケットにしまって立ち上がる。そしてみらいに向き直った。
「悪かった。俺は、今までお前がそんな重荷を抱えて生きていたことに、気付きもしなかったよ」
「ユウ君………?」
「初音がいなくなった時も、俺は取り乱すばっかりで、本当のことなんて何一つ見えてなかった。もっと俺がしっかりしていれば、今回みたいなことは防げたのかもしれないのに……。ほんと、俺は今まで、何をやってたんだろうな」
俺は自嘲するように笑った。
「………」
「……でも、だからといって、お前たちがこれ以上罪を犯すのを、黙って見ているつもりはない。人殺しなんてもっての外だ。悪いけど、全力で止めさせてもらう」
俺は、背後で椅子に縛り付けられたままの彼女を庇うように、みらいの前に立ち塞がった。
するとみらいは、少し驚いたようにその鳶色の目を見開いた。
「そっか……やっぱりユウ君は優しいね」
しかしすぐに、いつもの優しい表情に戻って、くすりと微笑んだ。
「みらい……?」
「ううん、何でもない。大丈夫。ユウ君は、自分の信じる道を突き進んだらいいと思う。私は何も言わない。邪魔もしないからさ……」
「いいのか……?」
「……うん」
ほんの少しの間の後、みらいが小さく頷く。
「お前、初音の共犯なんだろ? ここで俺を止めなかったら、初音を裏切ることになるんじゃないのか?」
俺が心配したように言うと、みらいは少し困ったような、そしてもうどこか疲れ切ってしまったような、微妙な表情を浮かべた。
「そうだね……。でも、いいの。私も、何が正しいのか、よくわからなくなっちゃったから……。初音ちゃんに協力することがユウ君たちの幸せに繋がるはずだって、この二年間ずっと信じ続けてきたけど……もしかしたら、間違ってたのかもしれない。他の道もあったのかもしれない」
みらいがそこで言葉を区切る。
「……だから、ユウ君がその人を助けるって言うなら、私はそれを邪魔したりしない。たとえそれが望まない未来に繋がったとしても、きっと私は後悔したりしない。だって、それはユウ君が選んだ道だから」
決意の籠った眼で彼女はそう言った。
「…………」
「だから、いいよ。早く彼女を解放してあげて」
「……わかった。後でちゃんと話聞くからな。そこで待ってろよ」
「……うん」
彼女が頷くのを確認すると、俺はみらいに背を向けて縛られている彼女に手を伸ばした。
しかし―――
―――パンッ!
突然何の前触れもなく、乾いた音が屋上に響き渡った。
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