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一章

悪夢

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 目を開けると、俺は真っ暗な空間にいた。黒の絵の具を限界まで水に溶かし、それを四方八方に隙間なくぶちまけたような、ドロリと濃い粘り気のある黒い空間だ。
 何も見えない。何も感じない。ただただ底知れぬ無が目の前に広がっている。
 しかし俺は冷静だった。
 これが夢だとわかっていたから。もう何十回、何百回と見た、いつもの悪夢だと。
 悪夢というものは不思議だ。夢と認識できていても、そこから抜け出すことができない。まるで何かに自分の意識を縛り付けられているように、現実に戻ることができないのだ。
 はあ。
 思わずため息が漏れてしまう。
 休みたい。
 そう呟きかけた時、両足に何かが絡みついてきた。
 しかし、俺は取り乱したりはしない。冷静だ。
 いつものことだったから。
 目だけを動かして、俺はその正体を確認する。確認してしまう。確認しなければならないのだ。
 視線を下げると、細い四本の腕が俺の両足に纏わりついていた。血の気を感じさせない真っ白な四本の腕。それらは蛇のように関節をくねらせて、俺の両足をがっちりと拘束している。まるでここから逃がさないと言っているかのようだった。
 もぞりと腕の一本が動いた。それに応えるように、他の三本の腕も同時に動く。
 もぞり。
 もぞり、もぞり、もぞり―――
 四本の腕が、ゆっくりと俺の身体を上ってくる。
 俺はその様を呆然と眺めていた。恐怖という感情は消し飛んでいた。
 ……腕の先には二つの身体があった。
 幼い少女たちの身体だ。
 その少女たちは服を着ていなかった。全裸だ。闇の中に浮かび上がるような白い肌を惜しげもなく露出させて、俺の身体を這い上がってくる。
 ……一人は髪が短く、もう一人は長かった。その顔までは見えなかったが、俺は彼女たちの正体を知っている。
「……んで……たの……」
 髪の短い少女が何か言った。
 ひどくしわがれた声だった。
「……して……るの……」
 髪の長い少女も何か言った。
 こちらも掠れた声だった。
「な……んで……たの……」
「ど……して……るの……」
 また言った。
「なんで……たの……」
「どうして……るの……」
 声が鮮明になっていく。
「なんで……を……見捨てたの……」
「どうして……だけ……生きてるの……」
 耳を塞ぎたくなる。
 憎悪に満ちた彼女たちの声が、脳の中にまで染み込んでくるようだった。
「なんで……私たちを……見捨てたの……」
「どうして……お兄ちゃんだけ……生きてるの……」
 彼女たちの手が俺の肩にかかった。
 耐えきれなくなって、俺は目を閉じてしまう。
 ごめんなさい。
 俺は胸の内で謝った。
 気付かなくてごめんなさい。助けられなくてごめんなさい。心地いい嘘に浸ってしまってごめんなさい。
 二人が命を落としたのは、全て俺が不甲斐なかったせいだ。怨まれて当然。憎まれて当然なのだ。
「なんで、私たちを、見捨てたの……」
「どうして、お兄ちゃんだけ、生きてるの……」
 二人の声がすぐそこにまで迫っている。生臭い吐息が俺の鼻孔を突いた。
 ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい―――……
 俺は謝り続ける。今、自分にできることはこれくらいしかなかった。
 ……どれくらいした頃だろうか。
 まるで波が引くようにして、彼女たちの声と重量がゆっくりと離れていった。俺は恐る恐る目を開ける。
 ……いつもならここで夢が終わるはずだった。
 瞼を上げればそこは自室のベッドの上で、俺は汗だくになって息を荒くしている、はずだった。
 しかし、
 目を開けた先にあったのは、黒い四つの穴。周囲の闇よりも更に濃い四つの穴が、空中にぽっかりと空いていた。
 それが、繰り抜かれてがらんどうになった彼女たちの双眸であることに気づくまで、俺の脳は数秒の時間を要した。
「――――――⁉」
 悲鳴にならない声を上げて俺は後ずさる。
 しかしそんな俺を、彼女たちは自らの手足を絡めさせて、がっちりと拘束してきた。
「どうして、私たちを見捨てたの?」
「どうして、お兄ちゃんだけ生きてるの?」
 彼女たちの顔がすぐそこにまで迫っている。
 真っ白な顔の上にぽっかりと空いた穴が四つ、じっと俺を見つめていた。
「……あ―――ぁ―――」
 声が出ない。身体中から冷たい汗が噴き出してくる。
 初めて体験する夢の続きに、俺の頭は完全にパニック状態だった。
 目を閉じようとしたが無理だった。瞼を縫い付けられているみたいに、俺の目は彼女たちの顔に釘付けになってしまう。瞬きすらできない。
 ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい――――――
 ひたすら胸の中で謝り続ける。彼女たちに赦しを請いながら。
 だがそんな俺の想いは、彼女たちには届いていないようだった。
 二人は、氷のように冷たい腕をおもむろに俺の首の後ろへ回してくると、自らの口を俺の肩口に近づけていった。
 何をしようというのか。
 得体のしれない恐怖が腹の底から湧き上がってくる。奥歯がガチガチと音を立てる。
 次に何が起こるかわからない状況に、俺は気がおかしくなりそうだった。
 彼女たちの吐息が両肩にかかる。
 彼女たちが息を吸う音が耳元で聞こえた。
「どうして私たちを見捨てたの?」
「どうしてお兄ちゃんだけ生きてるの?」
 地獄の底から響いてくるような、低く、怨念の籠った声が俺の鼓膜を震わせる―――と同時に、
 ズブリ。ズブリ。
「――――――ッ⁉」
 両肩に激痛が走った。
 首を巡らすと、彼女たちがパックリと大きな口を開けて、俺の両肩に喰らいついている様子が目に飛び込んできた。
 ……くちゃ……ぬちゃ……
 彼女たちが口を動かすたびに嫌な音が響く。俺の肉を喰らっている音だ。
「うわあああああああああああああああああああ!」
 ついに堪えきれなくなって、俺は叫び声を上げた。
 身をよじって彼女たちを引き剥がそうとする。
 しかし身体を動かすたびに彼女たちの歯が肉に食い込み、俺は鋭い痛みに悶えた。
「ぐっ……あああ……」
 驚くほどに彼女たちの喰らう力は強かった。
 もうどうすることもできなくなって、俺はその場に立ち尽くした。
 ……ぬちゃ……くちゅ……にちゃ……
 彼女たちは俺の肉を喰らい続ける。
 死にたい、殺してほしい―――
 そう願うほどの激痛なのに、俺は気を失うことすらできなかった。そんなことは許されないようだった。
 ……ぬちゃ……くちゅ……
 ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい――――――
 呪文のように唱え続ける。
 ……ぬちゃ……くちゅ……にちゃ……
 彼女たちが俺の肉を喰らう。血が流れる。
 ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい――――――
 ……ぬちゃ……くちゅ……ごりっ……
 彼女たちの歯が、骨にまで達した。
 そこまで来ると、もう痛みはなかった。
「ははっ……」
 不意に笑いがこぼれた。
 自らを嘲笑うような乾いた笑みが左右に動く。不思議なことに俺の心は満たされていた。
 なんと滑稽で哀れで醜い光景だろうか。
 こうなることを俺はずっとどこかで望んでいたような気がした。
 俺は彼女たちに痛めつけられたいのだ。傷つけられ、血を流すことで赦しを得たいと考えているのだ。
 夢には、その人の潜在意識が濃く現れるとよく言うが、まさにその通りかもしれない。
 現に俺は今安堵している。自分は相応な罰を受けているのだと満足している。
 全く愚かで歪んだ考えだ。一体いつから俺はこんなにも下劣な性格に落ちてしまったのだろう。
 ……俺は静かに目を閉じた。
 ……ぬちゃ……ごりっ……がりっ……
 ああ、脳に響く音が心地いい。罪を償っている実感が得られる。
 ごりっ……がりっ……ばきっ……
 罪悪感が和らいでく。彼女たちの憎悪を俺は正面から受け止めている。
 ばきっ……ごりっ……がりっ……
 こんなにも穏やかな気持ちになれたのは、一体いつ以来だろうか。
 ごりっ……ぬちゃ……ばきっ……
 意識が遠のく。
 ぐちゅ……ぼりっ……がりっ……
 ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい――――――
 謝り続け、でも確かに心が満たされていくのを感じながら、
 俺の意識は、深い深い闇の中へと落ちていった―――


 ―――朝。
 浮遊していた身体がゆっくりと降りていくような感覚を覚えながら、俺は自室のベッドの上で目を覚ました。
 意識がまだはっきりとしないせいか、視界が定まらない。
 しばらく天井の染みを数えてある程度脳を覚醒させてから、俺はむくりと身体を起こした。布団をめくると灰色のスウェットが汗に濡れてじっとりと黒くなっていた。
 いつものことだ。
 小さく頭を振ってため息を吐く。
 ベッドから降りると、俺は濡れたスウェットを布団の上に放って、制服に着替えた。永遠と続くであろう、変わらない朝の一コマだった。
 部屋を出て階段を下りる。朝食を作るためだ。もちろん自分で。作ってくれる人などいない。
 一階に着くと、二階よりもひんやりとした空気が全身を包み込んできた。
 季節は冬。今は二月の上旬だ。冬真っただ中である。
 背中を丸めながら俺はリビングへと続く扉を開けた。
 中に入ると、俺は明かりも点けることなく、ダイニングテーブルの上に置いてあった袋から食パンを一枚取り出し、それを台所にあるトースターに突っ込んでつまみを回した。
 トースター特有のジリジリという音が、冷えきったリビングによく響いた。
 チンッという音とともに焼きあがると、俺はそれを皿の上に乗せてテーブルの上に置いた。それから昨晩沸かしておいた麦茶を薬缶からグラスに注ぐと、俺は椅子に座って、焦げ目の少ないトーストを食べ始めた。バターやジャムなどは付けない。面倒くさいし、なによりそんな調味料はこの家には置いていない。もちろん美味しいわけがない。ただ腹を満たすためだけの行為だった。
 シンと静かな空間に、俺が一人食パンを食する音だけが虚しく響く。
 最後の一切れを口に放り込むと、俺は麦茶でそれを胃に流し込み、椅子から立ち上がった。
 食器をシンクに持って行ったが、洗うのは億劫だったのでそのまま放置し、俺は再び二階へと上がった。帰ってきてから片付ければいいと思った。
 鞄に筆記用具と教科書、それからクリアファイルや財布などを無造作に放り込むと、俺は感覚だけで寝癖を直し、首に紺のマフラーを巻いて玄関に降りた。そして靴を履くと、俺は逃げるようにして家を出た。
 外に出ると、家の中のそれとは比べ物にならないほどの寒気が俺を襲った。思わずぶるっと身体を震わせる。
 今日はやけに分厚い雲が空全体に立ち込めている。風はそこまで強くないが、直射日光がほとんど届かないせいで、気温は氷点下を優に下回っているであろう。
 背中を丸め、マフラーに鼻先までうずめながら、俺はいつもの通学路を歩き始めた。
 途中で同じ学校の生徒たちが数人、何やら楽しそうに会話をしながら俺を抜かしていったが、ずっと下を向いて歩いていたために、それが誰かはわからなかった。
 校門を抜けると、昇降口を通って奥の階段を上る。
 教室に入ると、中にいる生徒達の数はまだまばらだった。時計を見ると、まだ予鈴までに二十分弱の余裕がある。
 俺は談笑する数人のクラスメイト達を横目に窓際にある自分の席に向かうと、机のフックに鞄をぶら下げて静かに椅子に腰かけた。
 頬杖を突いて俺はぼんやりと窓の外を眺める。空には相変わらず、こちらを圧迫するような灰色の雲が広がっている。
 そんな空を眺めながら、俺は今日見た夢の内容を思い返していた。
 あそこまでの夢を見たのは初めてだった。
 俺は自分の肩口に手を当てる。まだそこに彼女たちの歯が食い込んでいるような気がした。
 しかしあれは当然夢の中だけの出来事なので、手を触れた箇所に傷などないし、もちろん血も流れていない。そんな当たり前のことに、俺はほっと息を吐いた。
 しかし同時に、何とも言えない苦い味が口の中に広がってきた。
 夢の中の自分が、彼女たちから受ける痛みに快楽を覚えていたことに、これ以上ない嫌悪感を覚えたのだ。
 全く愚かで浅ましいことこの上ない。
 あんな思考を持っていた自分に心底嫌気が差した。
 あの程度のことで俺の罪は消えない。彼女たちに赦してもらえるはずがないのに。
「はあ……」
 俺は大きくため息を吐いてズボンのポケットに手を入れる。そこからあるものを取り出した。
 俺の掌に乗っていたのは、熊のマスコットがぶら下がった小さなキーホルダと、宝石部分が割れてしまっている銀色のネックレスだ。
 彼女たちの形見である。
「お前たちは俺に、どうしてほしいんだ?」
 それらに問いかけるように、俺は呟いた。
「教えてくれよ……」
 胸の辺りがギュッと締め付けられる痛みを感じた。
「初音……みらい……」
 今はもういない彼女たちの名前を呟いた。
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