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3-4.
しおりを挟む呆れを含んだ物言いだ。
寧珀は、ぎゅっと肩をすぼめ、返事ができないまま、沈黙が落ちる。
その間に、景宵がさらに一歩、距離を詰めた。
「おい、聞いているのか、邵寧珀」
その声と共に、庭の低木を分け、手が伸びてくる。
「何をするつもりかは知らんが……これ以上は見過ごせん。無礼を重ねれば、罪に問われても文句は言えんぞ。今すぐ――」
(わぁ……だめだ……! 見られる!)
必死に後ずさるが、意味はない。
低木をかき分けた景宵の視線が、ついにこちらを捉えた。
――目が合った。
互いに、驚いたように硬直する。
焦る一方で、月明かりに照らされた景宵の尊顔の端正さに、ほんの一瞬、目を奪われてしまう。
だが、そんなことを考えている場合ではなかった。
「……おまえ……」
見開かれた、景宵の瞳。
その瞬間、寧珀の中で、張り詰めていたものが弾け、咄嗟に、『前脚』を振り上げた。
「ガウゥ――!」
「なっ――!?」
驚いた景宵が、反射的に身を仰け反らせる。
その一瞬の隙を突き、寧珀は彼の脇をすり抜けた。
襲うつもりなどなかった。
逃げるため、そう言えば聞こえはいいが、実際には混乱のまま、体が先に動いただけだ。
だから、次の瞬間にはもう、どこへ向かえばいいのかわからなくなっていた。
焦りのまま庭を駆ける。
だが、身を隠す術も、抜け道も思いつかない。
視界に飛び込んできたのは、開いたままの扉だ。
考えるより先に、寧珀はそこへ飛び込んだ。
「待てっ!」
背後から飛ぶ景宵の声に、胸が強く跳ねる。
ここは……。
気づいたときには、すでに遅かった。
(……ああっ! 何やってるんだ……!)
そこは、景宵の寝所だった。
逃げなければ、と思うのに、足がもつれる。
――ドンガラガッシャン!
慌てて動いた拍子に、室内の調度を押し倒してしまう。
耳障りな音が、夜の静寂を引き裂いた。
その物音を聞きつけたのだろう。
外から、駆け寄ってくる足音が重なる。
「殿下! どうされましたか?!」
声が、すぐ近くまで迫っている。
(まずい、まずい……!)
さらに焦った寧珀は、寝台の上を踏みしめた。
その瞬間、思いがけない柔らかさに足を取られ、寧珀は体勢を崩し、寝台の向こう側へ、どたりと落ちてしまった。
鈍い痛みが走り、息が詰まる。
寧珀は反射的に身を縮め、寝台の影へと転がり込んだ。
「大丈夫だ。問題ない」
入口に立つ景宵の声が響く。
そのすぐ傍に、兵の気配があった。
「ですが……かなりの音がしましたが……」
「構わん。珍客が入り込んだだけだ」
景宵の声音は落ち着いている。
だが、その手には、まだ鞘に収めたままの佩剣が握られているのが見え、寧珀の背筋は凍りついた。
(……こ、殺される……)
呼吸を殺し、震える体を必死に抑えながら、寧珀は闇の中で、ただ息を潜めていた。
――ギギッ。
木床を踏む、低い軋み音がする。
また、景宵がゆっくりと距離を詰めてきているのだ。
「殿下……危険です! 私が――」
「しっ。大きな声を出すな。怖がらせるだろ」
低く嗜められ、兵は息を呑んで口を閉ざす。
張り詰めた緊迫が、室内を満たした。
寧珀は必死に、暗がりの中へ視線を走らせ、逃げ道を探る。
景宵がこちらへ踏み込んだ瞬間、足元をすり抜けて走るしかない。
入口に控える兵をやり過ごせる確信などない。
だが、それしか活路はないのだ。
――そう、覚悟を決めた、その瞬間。
「――っ!」
ガバリ、と。
景宵が寝台へ飛び込み、布団を引っ掴む。
次の瞬間、その布団が、流れるように寧珀へと覆い被さってきた。
反応が、遅れた。
走り出そうとしたが間に合わず、寧珀は布団に包まれたまま、景宵に抱き込まれるように押さえられる。
「――っ!」
体を捩って暴れるが、布団越しに回された景宵の腕は、驚くほど確かで、逃げられない。
「殿下!」
「大丈夫だ……よしよし。いい子だ。傷つけたりはしない。落ち着いてごらん」
景宵の声音は、聞いたことのないほど、穏やかで優しいものだった。
布団越しに、背中をぽん、ぽん、と叩かれる。
その動きに、寧珀の抵抗は次第に緩んでいった。
抱き留める腕の圧は、どこか労わるようで、それが、思いのほか心地よいと気づいた、そのとき。
はらり、と、頭のあたりの布団が、少し捲れた。
すぐ目の前に、景宵の顔がある。
穏やかで、静かな眼差しだ。
こんな表情を、向けられる日が来るなど、思ってもいなかった。
寧珀は、腕に抱かれたまま、思わずその顔を見つめてしまう。
「……それは、なんです?」
少し緊張の解けた兵の声が、遠慮がちに響く。
その問いに、なぜか景宵は、どこか愉しげに答えた。
「猫だ」
(……猫――!?)
「ね、猫……ですか? し、しかし……随分と大きいような……」
兵の戸惑いをよそに、景宵は確信に満ちた様子で、寧珀を抱いたままだ。
「異国には、大型の種もいると聞く。瞳も青いしな……おそらく、外来のものだろう」
「……はぁ……」
納得しかねる様子の兵に構わず、景宵は「よいしょ」と呟いて、そのまま寝台へ腰を下ろす。
「湯を持ってこい。かなり汚れている。拭って、怪我がないか確かめる」
「で、では……我々が――」
「よい。私がやる。……早く持ってこい」
有無を言わせぬ景宵の声音に、兵は一瞬ためらったものの、すぐに一礼し、慌てて室外へと下がっていく。
室内には、景宵と、布団に包まれた寧珀だけが残された。
(……猫、じゃないんだけど……)
言葉にできないまま、寧珀は身を縮める。
「おお……よしよし。顔は綺麗なままだな」
景宵はそう言って、寧珀の頭から首元にかけて、ゆっくりと撫でた。指先の動きは思いのほか慣れていて、力も柔らかい。
(き……気持ち、いい……)
意識するより先に、喉が震えた。
――ゴロゴロ……
しまった、と思う間もなく音が漏れてしまう。だが、寧珀は猫ではない。
白嶺山陵を守る民、邵族。
その一族は、白虎に連なる性質を持つのだ。
白虎の獣人であることを隠し、人として生きる民族。
遠い過去、連れ去られ、密猟され、見世物やよからぬ用途に使われたという伝承が残っている。そのため、正体が露見することは、今もなお危険とされていた。
父が怪我を負った理由も、それだ。
白虎の姿を密猟者に狙われたからだと、弟の手紙には記されていた。
ただ、寧珀は例外だった。
人の姿でも小柄なその体は、白虎に変じると、なおさら幼く見える。他の同族であれば、すでに成虎に近い体躯を持つ年頃だというのに、寧珀は虎としては小さいままだ。猫にしては大きすぎるが、虎としては未熟。その曖昧さが、今の誤解を招いていた。
ほどなくして、兵たちが湯と布を持って戻ってくる。さらに、物音を聞きつけたのだろう、替えの寝具を抱えた内侍も入室した。
「もうよい。あとは私がやる。皆、下がれ」
景宵は視線を外さぬまま、淡々と告げた。
戸惑いを浮かべながらも、兵たちは会釈し、内侍とともに静かに寝所を出ていく。主の視線が一切こちらを向いていないことに、理由を察したのだろう。
そんなに見つめられると、かえって落ち着かない。
景宵は寧珀を抱えたまま床に腰を下ろし、衣の乱れも気にせず、湯を張った桶に布を浸した。片手で絞り、もう片方で布団をゆっくりと捲る。
「……体が冷えているな」
そう呟きながら、濡れ布で、慎重に体を拭いていく。
温かく、優しい感触だった。
警戒よりも先に、力が抜けてしまう。
ひとまず、この姿を見て傷つけるつもりはないらしい。
それどころか、やけに丁寧で、どこか嬉しそうですらある。
寧珀は、抗う理由を見失い、喉を鳴らしながら、その腕に身を預けた。
「よし……手足は綺麗になったな。怪我もなさそうだ」
布は腹のあたりへと移る。
「ここも……拭いておくか」
――ゴロゴロ……
「……ふ、可愛いな」
言われた瞬間、甘えるように腹を晒してしまう。
「よしよし……なるほど」
景宵は一瞬、手を止めた。
「……男の子、か。通りで元気なわけだ」
――ゴロゴロゴロ……はっ……!
視線が、はっきりと股の方へ向いていることに気づく。
寧珀は慌てて足を閉じ、景宵の胸元へとぐりぐり顔を押し付けた。
(――恥ずかしい!)
「なんだ……甘えているのか?」
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