奇跡な男(ひと)

仁木 羽陽

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 ピピピ……と、耳障りな音で目が覚めた。
 腕の中で眠っていた温もりが、ごそりと動く。

「んぅ……Hot暑い……」

 まずい。つい無意識に抱き締めていたようだ。五十嵐は慌てて腕の拘束を緩めた。

「ぅげ」

 蛙が潰れたような声。本田が覚醒する前に、誤魔化すように彼の上に乗り上げて、五十嵐は自分の反対側、ナイトテーブル代わりにベッド傍に置くようになった、ヴィンテージのアイアンウッドチェアに手を伸ばす。
 鳴り続ける男の携帯アラームを止めると、そのまま本田の胸元にその携帯電話スマホを押し付けた。

 せっかくの休みだというのに、本田の朝は早い。継続してアメリカの病院関係者とも密に連絡を取り合っている彼は、時差の関係で、現地時間がまだ動いている夕方のうちになるべく急ぎの仕事は済ませようと努めているのだ。

 寝転んだまま寝ぼけ眼でメールボックスを確認している男の姿を、半身を起こした五十嵐はぼんやりと見つめた。眼鏡がないから見えにくいはずなのに、何をやっているんだか。
 寝起きで髪はボサボサ。眼鏡一つないだけで随分若く見える。思ったより睫毛が長く、思わず魅入ってしまった。

 五十嵐は口元を隠すように顎を撫で、小さく深呼吸をしてベッドから降りた。少しバスルームに篭って出てきたら、本田はまだベッドの上で胡座をかいていて、携帯電話スマホとにらめっこをしている。ちゃんと眼鏡をかけて難しい顔をしているから、何か問題があったのかもしれない。

 カプセル式の本格な珈琲をボタン一つで淹れながら、自分もノートパソコンで仕事の確認──主に逢坂からの報告に目を通す。通常の連絡事項に加え、昨夜、ナイトクラブで酔っ払った外国人同士の喧嘩があったと追記があった。従業員のJJが穏便に? 追い出したらしいが、変な薬も陰で流行っていることだし、海外からの旅行客、または在住外国人の来客が増えていることも踏まえ、用心棒バウンサーをもう一人増やすことを提案される。それに諾の返事をして、明日には店に顔を出すことを伝えた。

 珈琲のいい匂いが部屋に充満する頃には、本田も顔を洗ってリビングに移動してきた。深煎りされた豆をダブルショットで淹れて、少し薄めてアメリカーノ風にして飲むのが二人の朝の定番だ。彼の前に湯気の立つカップを置いてやると、携帯電話スマホからタブレットに持ち替えた本田が少しだけ顔を上げた。

「ありがとう」

「何か問題でも?」

 思わず聞いてみる。何かを返信する素振りもなく、彼が朝のこの時間にずっと画面を睨みつけているのは珍しい。

「え?」

「いや、ずっと難しい顔して見てるから」

「ああ。問題というかね、学会の新しいスケジュールが送られてきたんだよ。医師免許を更新するためにも行かなきゃいけないんだけど、スケジュールをどう調整しようかなと思って」

「更新? え、無期限というか、生涯免許じゃないのか?」

「日本はね。でもアメリカは、うちの州だと2年に一回更新しなきゃいけない。そのために学会とかに参加して、ポイントを稼がなきゃいけないんだ」

「へー」

 国が変われば制度も変わるものだ。2年に一回更新だなんて面倒だなと、五十嵐は単純に思った。まあ、人の命を預かるのだから、それも納得できる決まりではあるのだが。

「そのうち、サマーバケーションを取るよ。日本の夏は暑すぎて、出来れば逃げたいし」

 現在の日本人のほぼ全員が思っていることを口にして、本田はへへっと笑った。

 確かに昨今の夏の暑さは異常だ。
 聞けば彼の出身地ホームタウンは北海道と同じぐらいの緯度なので、夏は涼しい上に湿度も低めで快適らしい。代わりに冬は、それなりに厳しいらしいが。

「去年は何だかんだあって、クリスマスに帰れなかったからね。そろそろ家族の顔も見たいし」

「ふーん……」

 五十嵐は虚に呟いた。言われて改めて、そのことに気づいてしまった。

 本田にはが別にある。アメリカ人の彼にとって、日本は所詮、仮初めの止まり木だ。員として仕事をしているだけで、いつかは国に帰ってしまう。

 その事実をまざまざと思い知らされて、五十嵐は静かに、苦く感じる珈琲を飲み込んだ。



 右に左に。フットワークも軽く、スタンドから吊り下がったサンドバッグを叩く。

 早くに第二次性徴を迎えた五十嵐は、小学校高学年の頃から身長がぐんぐんと伸びて、体格も中学生、いや、高校生と見紛うほどに成長した。反抗期も重なって荒れる感情が向かった先が、喧嘩だ。別に弱い者いじめをしたわけじゃない。見た目も態度も生意気だとイチャモンをつけられて、街中で年上から売られる喧嘩を買っただけだ。
 そんな抜き身のナイフみたいな五十嵐に声をかけてきたのが、近所でボクシングジムを経営していた男だった。そんなに暴れたいのなら、合法で殴れるスポーツで鬱憤を発散しろと。

 数ヶ月後に行われるアンダージュニアの大会で入賞したら小遣いをやると言われて、五十嵐はやる気になった。結果は見事優勝。
 それからはジムの客寄せパンダみたいな扱いをされたが、中学時代ずっと無料で指導してくれたことには感謝している。体を動かして勝つことに夢中になっている間は、確かに日常の嫌なことを忘れられたから。

 ジムの会長は五十嵐金の卵をプロのボクサーにしたかったようだが、高校生になると飲食店でバイトを始めたので、五十嵐はボクシングから遠ざかった。毎日行っていたトレーニングが週3、やがて週1、ゼロになり。散々引き止められたが、五十嵐にも家庭の事情というものがある。新しく付き合い始めた男の影響か、母親が本格的に金を家に入れなくなったのだ。

「圭吾。水分を摂るのを忘れないで」

 先ほどまでタブレットを見ながらエアロバイクで運動していた本田が、自家製のスポーツドリンクを差し出してくる。揺れるサンドバッグを受け止めて、五十嵐はグローブを脱いだ。

「サンキュー」

 タオルで顔に滲んだ汗を拭いながら、素直にボトルの中身をあおる。思ったより喉が渇いていたようだ。
 隣で本田が、軽くサンドバッグを叩く真似をした。

「すごく真剣だったね。今日初めて気づいたけど、もしかして本格的にボクシングをやっていた?」

「そうだな、昔、20年ほど前に始めて数年やってた。今はこうやってバッグを叩くぐらいだよ」

「へえ……え、20年? それって10歳ぐらいじゃない?」

「それぐらいかな。小学校5年生の時だったから。すごくムシャクシャしていて、気晴らしで始めたんだ。でも色々あって、5、6年ほどで辞めた」

 クズのような男ばかり引き当てる母親が嫌いだった。小さい頃には暴力を振るわれたこともある。
 もちろん、可哀想に思ったのだろう。食べ物をくれたりする大人も少数人いたけれど、常に『水商売の子供』と周りに蔑まれる日々。
 五十嵐は自分の置かれた環境に辟易していた。ボクシングを始めて少し落ち着いたけれど、世間を冷めた目で見ることはやめられなかった。

「その頃ショウは、もう大学に行ってたんだよな。凄いな、苛々してスポーツとはいえ人を殴っていただけの俺と違って、ちゃんと勉強していたんだもんな」

「勉強、していなかったよ。勉強さえしていれば、周りはそっとしておいてくれたからね。あの頃は特に周りと上手くコミュニケーションがとれなくて、自分から距離を置いていたから。今思えば、私も何か運動をすればよかったのかも」

 頭が良い故に同年代とは気が合わず、飛び級をして同等の知性を持つ大人達に囲まれるようになったが、そこではその年齢差ゆえに孤立したのだろう。学業関連の必要最低限の用件以外で、大人が子供の相手をするわけがないのだ。お年頃の大学生によくある、特に下ネタなどの話を子供に聞かせるわけにはいかないのだから。

 状況は違えど、五十嵐と本田、二人は共に少年時代は周囲から浮いた存在だった。

「例えばサッカーとか……いや、チームワークが必要なやつはやっぱりダメだな。うーん、こんな風に、圭吾みたいに私もボクシングをしていたら、少しはストレス発散になったのかも」

 パシパシとサンドバッグにお遊びのパンチを入れて、本田が自嘲気味に呟く。五十嵐は即座に首を横に振った。

「ダメだ」

「え?」

 本田の手首を掴み、動きを止める。少し骨ばった細い指を掬い上げ、五十嵐はじっとその手のひらを見下ろした。

「手は外科医の命だろう。人を殴るより、人の命を救う方がショウには合ってる」

 男が、己が医者であることを誇りにしていることを知っている。そのために多大な努力をしてきたことも。それが孤独だった故の結果だとしても、後悔はしていないはずだ。

 一瞬きょとんとして固まった本田だったが、やがて、ゆっくりと頬を持ち上げて静かに笑った。

「そうか……」

「ああ、そうだ」

「じゃあ、やっぱり拳を傷付けるようなスポーツは出来ないね。大人しくダンベルでも持ち上げておくか──」

 その時、ドアの向こうでドサっと物が落ちる音がして、二人は視線をそちらに向けた。トレーニングルームのドアは運動中の万が一のことを考えて、中が見えるように全面ガラスの大きな両開きドアになっている。勿論こちらからも、外の様子は丸見えだった。

 年若い小柄な男がしゃがみ込んで、ワタワタと落とした何か模型のようなものをかき集めていた。

「何やってんだ、お前?」

 本田から離れて大股でドアに向かい、五十嵐は乱暴にガラス戸を押し開けた。

「お、オーナー! おはようございます。すんません。ちょっと課題を取りに来ただけなんです。俺の部屋、置く場所なくって」

「大丈夫なのか、それ……」

 一部壊れたように見える『課題』とやらを見やって、五十嵐は眉を顰めた。男は「大丈夫っす」と首を縦に振りながら、猛烈な速さで落としたものを拾い上げていく。

「まだ仮止めなんで。最終的な仕上げは、構造を再確認しながら学校で調整するんで、平気っス」

 全ての部品を模型の外側の箱に収めて、男は「じゃ、お邪魔しました」と頭を下げて脱兎のごとく立ち去った。

「何だったの、彼?」

 いつの間にか背後に立っていた本田が、頭だけをひょこっと廊下に出して、五十嵐と並んで男の背中を見送る。五十嵐は押さえていたハンドルから手を離してドアを閉めた。

「あいつ、拓巳たくみっていうんだけど、大学の建築科に通っているんだ。金が要るってホスト志願で来たから話聞いたら、どうしても大学に行きたいんだと。だから下の階に住ませて、ほぼタダ働きでこき使ってる」

 代わりに衣料を除く食住の面倒と、大学の学費を五十嵐が全部出しているのだから、男──白石拓巳にしたら御の字だろう。なにせ東京の一等地に住めて、食事は下のバーで用意された栄養バランスの取れたものが食べられる。バーでのウエイターやその他の雑用、そしてホストクラブでも学業を優先に時間のある時にバイトをして、売り上げが良ければちゃんとお小遣いも貰えるのだから不満はないはずだ。
 ただやはり自室は6畳ほどしかないので、学校の課題で大きな建築模型を作らないといけない時は、この事務所倉庫の空きスペースを作業場兼、保管場所として利用していた。

「そういえばここの一つ下の階で、Staff従業員  がルームシェアしているって言ってたね。へえ、建築家?」

「将来な。無事に来年卒業出来ればだけど」

「ふふ」

 突然、本田が意味ありげに微笑んだので五十嵐は訝しんだ。

「何だよ?」

「何だかんだいって、圭吾はけっこう面倒見がいいね。私にもよくしてくれるし」

 それは……当然だろう。
 白石のことはその場の成り行きと将来性を見込んでの投資だったが、本田には純粋に自分の側にいて欲しいから世話を焼くのだ。

 五十嵐自身もここまで他人に入れ込むことができる自分自身に戸惑っていた。けれど彼の側に居たい、もっと独占したい願う気持ちに気づいてしまったので、いまさら離すつもりはない。

「とりあえず、今日はここまでにしようか。軽くシャワーを浴びて、昼メシにしようぜ」

 今日は何を作ってやろうかと冷蔵庫の中身を考えながら、五十嵐は再びドアハンドルに手をかけた。
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