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3〈弓削廉太郎〉と樫井真央の話
しおりを挟む「弓削さん、おとついのアレ、何だったんですかね?」
世田谷で老婆を襲った謎の生き物のニュースは、近くで起きた事件と言うこともあり2日経った今も弓削の仕事場ではホットな話題だった。
弓削廉太郎の勤める『AWAパッキング』は三軒茶屋に社屋を構え、中小ではあるが一部の業界(主に製菓業)向けのニッチな梱包機械製造販売を手掛ける会社だ。シェアはダントツで業界一位。機械自体が売れるのは年に一~二台だが、国内に競合がほぼ無い上に、梱包過程で弓削の会社が供給する消耗品が必要な為その販売と機械のメンテナンスで業績は安定している。決まった取引先が消耗品を定期的に購入し、あまり新規開拓が必要ない為に営業担当は少ない。弓削はそんな会社でオーダー梱包機の設計部主任という役職に就いていた。
「弓削さん、どぞ」
設計部後輩の佐中陸が紙のコーヒーカップを差し出す。
「おぅ、サンキュー」
中身は砂糖無しミルク入りのブレンドコーヒーだ。会社備え付けのフリードリンクなので佐中のおごりと云う訳ではない。佐中は身長164㎝と小柄だが日焼けしたガッシリとした体格で一見して固い岩の塊がそこにあるような印象の男だ。その印象とは逆に細かな点にもよく気付く性格で弓削のコーヒーの好みも一度で覚えて淹れてくれる。学生時代に体育会系だった習慣なのだろうか。
「密輸された希少動物の線が濃い、って言ってますよね」
同じく後輩の肥田慎二が前髪をかき上げながら言う。肥田は細身で長身、面長の痩せた顔に前髪を長く垂らしている。切れ長の一重が印象に残る男だ。江戸時代なら美青年として持て囃されただろう。
そんな世田谷の話題で後輩達と盛り上がる弓削廉太郎の元に部下の樫井がそっと近付いてきた。弓削のチームに配属されて9ヶ月になる樫井真央はクリっとした猫のような釣り目で、ぽってりとした唇が印象的な今年24になる女性だ。体躯はあくまでスレンダーだが、その唇のせいなのかやや褐色味を帯びた肌色のせいなのか健康的な色気を持っていた。チームの内外にも彼女を狙っている男性社員は多いと聞くが、彼女が設計部に配属された頃に昔の設計図の読み方が分からず、取引先に詰められていた処を助けて以来、弓削は彼女に懐かれていた。
「弓削さん」
後ろから廉太郎のシャツの肘の辺りを軽く引っ張りながら真央が呼び止めた。薄いブルーのシャツを着た真央は灰色のジャケットを手に持って上目遣いに廉太郎を見ていた。今日は随分とツヤ感のあるリップを塗っているのが気になる。
「おお、どした」
「昨日結構遅くまで飲んじゃったじゃないですか、だから今朝寝坊しちゃってヤバかったですよ」樫井真央は弓削にしか聞こえない小さな声で囁く。寝坊したのが弓削のせいだ、と軽く甘えるような責め方だ。肥田がこちらの様子をチラチラと窺っている。
妻と高二になる娘を長野に残し、単身赴任して1年になる廉太郎は昨夜真央と遅くまで二人きりで飲んでいた。半年ほど前に「仕事の事で相談にのって欲しい」と言われて二人でフランチャイズの居酒屋に行って以来、幾度か機会を重ね、最近では予約が必要な店ばかりを選ぶようになっていた。そして彼女の口から相談事が出る事も無くなっていた。
昨夜は道玄坂にある、良いワインを揃えたイタリアンダイニングバー
『La notte dei MOSTRI』に席を予約し、一線を越える積りで廉太郎から誘ったのだ。仔牛のサルティンボッカのソースの旨さに話が弾み、やがて程よく酒もまわり、真央がトイレに立った後ろ姿を見送りながら彼女が戻ってきたらホテルに誘おうと待ち構えている弓削の携帯が声を発した。
『お嬢様より伝言がございます』
娘からの着信専用に設定したボイス音の唐突さに慌ててメッセージを確認した廉太郎は、其の心から真央とどうこうする気持ちが霞のように《フアッ》と消え失せてしまったのを感じた。
タクシーに乗せて見送る時の真央の拍子抜けしたような、少し責める様な表情に僅かに後悔の念が残ったが、廉太郎にとって幼い頃からどんな時でも毎晩欠かさず絵本を読み聞かせて寝かし付けた愛する娘の事は、彼女が大きくなっても何よりも優先度が高かった。
「今日は来るの?」
娘からのメッセージに目を落とし、廉太郎は〈もちろん行くよ〉と心の中で呟いた。
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