【完結】悪徳領主の一途な偏愛

大河

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8章

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 案内された部屋は予想以上に広かった。

 執務にも使えそうな大きな机が部屋の中央に置かれ、部屋の奥には小型の暖炉が設置されている。寝台も二つあり、商人などが商談にも使えるような造りになっているようだ。

 旅の疲れを癒すには十分すぎるほど居心地の良さそうな空間だったが、エドガーは部屋の隅で立ち尽くしたまま、どう振る舞えばいいのか分からずにいた。さっきまでの道中とは違い、密室で二人きりになると、どうしても身分の差を意識してしまう。

 そんな彼を見て、サイラスは部屋の真ん中にあるテーブルに腰を掛けながら声をかけてきた。

「そんな隅で立ち尽くしていないで、こちらへ来たらどうだ」

 エドガーは迷いながらも、テーブルの前まで近寄った。だが、そこで立ち止まる。

 サイラスはそんな彼を見て、短く命令した。

「座れ」

 恐れ多い行為に慄きつつも、命令されては逆らうことはできない。エドガーはおずおずとサイラスの前の席に腰を下ろした。それに対し、サイラスはどこか機嫌よく微笑みながら口を開く。

「さて。今日は私の用事に付き合ってくれて感謝する。本当は一人で来るつもりだったのだが、お前がいたお陰で存外面白い行程になった」

 その言葉に、エドガーは首をかしげた。

「お一人でここまで? 従者をつけるご予定はなかったのですか?」

 サイラスはふっと鼻で笑う。

「私は領民に嫌われているからな。命令すれば従うだろうが、嫌々従う人間に同行されるよりは一人で行くほうが気が楽だ。それに、今日の予定は他の領民にはあまり知られたくないことだったからな」
「知られたくないこと、ですか?」

 つい聞き返してしまい、エドガーは慌てて頭を下げる。

「失礼いたしました、また不躾な質問を……」
「良い」

 サイラスは手をひらりと振る。

「お前も、あのガラス店で私が何をしていたか、気になっているだろう」

 探るような視線を向けられ、エドガーは知りたいという本音を隠すことができなかった。素直に頷く。するとサイラスはエドガーから視線を外し、窓の外を眺めるようにして話を続けた。

「お前は我が領地に来たばかりだから知らないだろうが、あの土地には昔、大きなガラス工房があったんだ。そこで作られた製品を王都の貴族たちに卸すことで、あの領地は経済的に潤っていた」
「そうだったんですか。いまはなくなってしまったのですか?」
「職人が他の領地に引き抜かれてしまってね。無人になった工房はそのまま朽ち果て、今では廃虚になった工房跡地が残るのみだ」

 その話を聞いて、エドガーはガラス店で店主と話していたサイラスの姿を思い出した。あの時の彼の真剣な表情が、今になって腑に落ちる。

「……もしかして、貴方は職人を勧誘しようと?」

 その問いに、サイラスは満足そうな顔をする。

「その通りだ。私はあの領地に、かつてあったガラス工房を再建したいと考えている」

 そこで改めてサイラスはエドガーに向き直った。

「お前も領民の一人だ。領主として説明する義務があるだろう。私が廃虚となったガラス工房をわざわざ再建させようとしている理由だが……お前、その理由は分かるか」

 唐突なサイラスの質問に、エドガーは考えを巡らした。

 廃虚となったガラス工房を再び使えるようにするには、職人を雇うにしても工房を立て直すにしても、それなりの金が必要になるのは当然だ。だが、それでも工房を復活させようとする理由があるとすると……。

「……資金調達が目的ですか?」

 サイラスはその返事に満足したように頷く。

「その通りだ」

 それからしばらく沈黙があった後、サイラスは再び口を開いた。

「あの領地は、工房を失ってから経済の柱を失い、どんどん貧しい土地になっている。開けた土地であるため防衛的な価値も低い。──その結果、どうなると思う?」

 その質問には答えられなかった。だが、サイラスは返事のない自分を気にすることなく続ける。

「その結果、わが領地はおそらく、いざというときに国に見捨てられてしまうだろう。現に、かつてあの地に賊が蔓延ったとき、父は国に援軍を要請したがその訴えは無視されてしまった。だから父は、私財を投げ打ちお前のような傭兵を雇ったのだ」

 彼の説明を聞いて、エドガーは当時のことを思い出した。確かにあの時は疑問に思ったのだ。どうして辺境伯のような立場の人間が、領地に現れた賊を退治するため、自分のような傭兵を雇うのか、と。

 国からの援軍を拒まれ、やむを得ず私財を投じて傭兵を雇った――そういうことだったのか。

 サイラスの話を聞き、彼がしようとしていることは理解できた。

 だが同時に、エドガーの胸には別の思いが渦を巻き始める。

 話を聞く限り、サイラスという男は領地のことをよく考えていることが分かる。

 だが、その反面、領民たちは彼のことを誤解し、悪徳領主だと疑いもしない。サイラスも、恐らくそんな領民たちの考えを理解した上で、それを訂正しようとは考えていないのだろう。

 どうして彼は、そんな風に孤独を選ぶのだろうか。

 エドガーの胸に疑問が浮かぶ。評判のいい先代領主を父に持ち、貴族として何不自由なく生きてきたはずの彼は、どうしてそんな風に孤独に生きようとするのか。

 そんなことを考えていた時のこと。エドガーは部屋のどこかから、何かが不規則に軋むような音が聞こえてくることに気づいた。

「奇妙な音がしますね。……様子を見てきます」

 立ち上がったエドガーに、サイラスは軽く頷く。

 エドガーは周囲に不審な点がないか探った。すると、物音は隣の部屋のほうから聞こえてくるようだった。

 しばらく壁際でおかしな気配がないか探っていたが、やがて、その奇妙な音と共に隣の部屋から、あ……あぁ……っ、と切羽詰まったような女性の声が漏れ聞こえてきた。

「これは……」

 エドガーは言葉を詰まらせた。そして、顔を覆う。

 どうやら、あの不規則な軋みの正体は、隣の宿泊客たちの高揚した営みの音だったらしい。

 しばらくすると、軋みの音はますます激しさを増し、女性のあられもない声が壁越しに響き渡る。

「……どうやら、隣の部屋は実に盛り上がっているようだな」

 サイラスは面白がるように口の端を上げ、ちらりとエドガーを見た。

 視線が合った瞬間、エドガーはいたたまれず、思わず目を逸らす。

「宿の主人に言って、部屋を変えてもらいましょう」

 だがサイラスは笑って首を振った。

「別に構わん。どうせ私たちも、これからあれと同じようなことをする予定なのだから」

 その言葉を聞き、エドガーは一瞬黙ったあと、尋ねる。

「この宿でも……なさるおつもりですか」

 サイラスは軽く眉を上げた。

「当然だ。お前だってそれを期待していたところはあるのだろう」

 その言葉に、エドガーは返す言葉を失った。図星だったからだ。

 同じ部屋に泊まると知った時から、彼の手が触れる瞬間を、ずっと思い描いていた。

 だからこそ、隣のあの声が、妙に心を落ち着かなくさせる。

 ここで、隣の部屋から「ああっ!」ひときわ高い悲鳴が響いてきた。

 部屋の中に奇妙な沈黙が落ちる。

 気まずさをごまかすように、エドガーは口を開いていた。

「……サイラス様。一つ、伺ってもよろしいでしょうか」
「何だ」
「貴方は、どうして領民たちに誤解されたままでいるのですか。貴方が領地のことを考えて動いているのだと、領民に説明する気はないのですか」

 踏み込み過ぎはよくないと思いつつ、彼のことを知りたいという欲求に抗えず、ついそんな質問をしていた。その問いに、サイラスは少しの間、黙って窓の外を見つめていた。やがて、静かに口を開く。

「別に、領民たちに理解してほしいとは思っていない。……私は、実の父にすら理解されなかった男だからな」
「先代領主様に? それは、どういう……」
「父は私のことを嫌っていた。……いや、正確には失望していたのだろうな」

 エドガーは黙って彼の言葉を待った。

 隣の部屋から、相変わらず女性の悩ましい声が聞こえてくる。その方向にサイラスは軽く目を向けながら、自嘲するかのように小さく息を吐いた。

「父は、私を嫌悪していた。……私は浮気性の母に顔がよく似ている上に、女を抱けない男だったからな」

 サイラスの唐突な告白に、エドガーは返事をすることができなかった。

 サイラスの表情は、一見すると普段と変わらない平静を保っているように見える。しかし、隣室から女性の喘ぎ声が聞こえるたび、彼の眉間にわずかな皺が刻まれるのをエドガーは見逃さなかった。

 何も言えずにいるエドガーに対し、サイラスは乾いた笑いを浮かべて言葉を続けた。

「父は世継ぎを望み、私に妻を持つよう勧めた。そして父は私に、何度も女性を宛がった。……しかし、私は彼女らを抱くことができなかった」

 淡々と続けるサイラスの声色には、どこか自己を嫌悪しているような響きがあった。

「そのことに父は絶望し、ますます私を避けるようになった。……実の父親ですら私を理解しなかったのだ。領民が私を理解するわけがない」

 彼と先代領主が不仲であることは噂で知っていたが、そんな深い確執があったとは。

 先代領主は領民からは慕われていたが、サイラスから見たらどうだったのだろうか。

 彼の孤独を思い、エドガーは衝動的に、サイラスの頬にそっと手を触れた。

(この人も、俺と同じように──誰にも理解されず、孤独に生きてきたのか)

 そう思った瞬間、理性が効かなくなっていた。

 背後から、いよいよ感極まった女性の嬌声が聞こえてくる。その声に触発されるように、エドガーはサイラスの唇に自身のそれを重ねていた。

 初めは突然のことに少しだけ身体を固くしていたサイラスも、次第にその深いキスを受け止め、舌で答えてくれるようになる。

(ダメだ。これ以上近づいてはいけないと、分かっているのに──)

 自分で自分を戒めながらも、止まらない。この人の孤独を埋めたいという衝動が、自分を守るための壁を突き崩していく。

 長い口づけをかわして唇を離すと、サイラスは熱に浮かされたような瞳でエドガーを見上げていた。

「随分と積極的だな。……隣の声に毒されたか」

 からかうような口調に、エドガーは改めて自分に言い聞かせる。

 ──そうだ、これは隣の女性の声に触発されたせいで、衝動的に動いてしまっただけ。だから仕方ない。

 そう心の中で言い訳を重ねながら、彼は再び唇を重ねた。サイラスの心を知りたいという、もっと深い衝動には蓋をしたままに。

 そのキスは、言い訳も、蓋をした想いも、すべてを溶かしてしまうほど──狂おしいほどに甘く、官能的な味がした。
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