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凍える瞳の玲瓏少女
しおりを挟む玄関のドアを閉じ、外側からカギをかけた。
マンションの廊下を歩きながら右目を閉じ、下の駐車場のところでゴミ袋を出しにいく住人を視界を隅で見ながら、何とか流血が止まった左目の視力を確認する。視力は別に下がっていないようだ。どこにも異常はない。
時刻は7時。
アザミはエレベーターに乗ろうとボタンに手をかけるがその手を止めて、少し考えてから階段で降りることにした。最近、特にこのようなおかしな現象が起こっている最中において、エレベーターなどの自室以外の密室空間は自然と避けるようになっていた。ドアが閉じられ、再びドアが開けられたところで、そこから見える景色がいつものものだとは限らない。箱の中にいる限り、外の世界がどうなっているかは分からないのだから。それがたった数センチの鉄の壁だったとしても、外を見ることができない。観測できない限り、外のあるものを確定することはできない。生と死が重なり合う猫は存在しないとしても。
階段を下りて、いつもの住宅街の小さな車道に出た。黄色い帽子を被った小学生の集団が、ポツポツと見え始めている。それ以外にも車庫から出てくる車や、黄色い旗を持った保護者がミラーのない交差点で見張っていたり、いつもの光景が広がっていた。
ふいに、電柱の影に塀の2倍はある人影が、その隣を歩く児童を上から訝しげにのぞいている気がして、思わず二度見した。
そこに人影はない。
無いものを在るように見えてしまうのは、見えないものに怯えているからだ。アザミは胸に手を当て深呼吸する。ここは安全だ。ここには、誰もいない。
最初は普通に歩き出した。しかし早歩き、小走り、と速度が上がっていき、息が上がってきた頃には例の寂れた雑居ビルに着いていた。
その2階の窓に大きく『貸しコンテナ ムカカト』と張り出されたビルは、全ての階が貸しコンテナルームに改装されており、時間帯も相まって雰囲気すら冷たい。歩道を通る人々が見向きもせずに通り過ぎていくそのビルへ、ガラス戸を押して入った。窓はブラインドで仕切られているため、屋内の電灯がついていることに気づく人はいない。
「やあ。おはよう」
アザミが入ると、閉じられたノートパソコンだけが置かれている質素な白い机の上に腰を下ろしていた女性が、凍り付いた瞳で笑った。それを見るたび、アザミはここに来たことを後悔するほど、その瞳が嫌いだった。それを見続けていると、いつか知らないうちに凍死してしまうのではないかという、根も葉もない心配が増幅するのだ。長い黒髪が、雪女を連想させているせいなのかもしれない。
机に座る行儀の悪い者に遠慮する必要はない。アザミは勝手に隅に立てかけてあったパイプ椅子を引っ張ってきて、女性の前に置くと座った。そして一息つく。ここは安全だ、それだけは事実だった。
「それ、誰の血だい?」
はっとして顔を上げると、眼前にはすでに女性の顔が近づいていた。見上げたアザミの頬を彼女の白い指が伝い、左目まですーっと上っていく。それから下まつげに到達すると指を顔から離し、その手を口に持ってきてペロリと舌で舐めた。
気持ちが悪い。が、アザミはなんだか肩の荷が降りたような、不気味な安心感にとらわれていた。彼女になでられた部分を、自分の指の軌道で上書きするように撫でると、彼女の凍える瞳をじっと見つめる。
「血が、流れていたんですか」
「いや。透明な血がついていたんだよ」
彼女の言葉にゴクリと唾を呑んだ。かつて彼女の言った言葉が頭の中に響く。
――『人を斬ると血が出るのに、幽霊は斬っても血が出ないというのは間違いだ。人の子として生きた者なら、その理に沿って血が通うものなのさ。見えるかどうかは別としてね』。
アザミだって彼女の言うこと一つ一つを信じているわけではない。しかし、彼女は普通の人とは違う何かであることは以前のとある事件から分かっていた。だから、少なくても今はその言葉を飲み込むようにしている。例え、納得のいかないことでも。
「話を聞いてくれますか」
「ん~? どうしようかな。ちょっと待ってね」
彼女はそう言ってジーンズのポケットを探り始めると、困った顔をして体を反転させ、机の引き出しに手を伸ばした。1段目を探り、次の2段目の引き出しにお目当てのものがあったのか、勢いよく1段目と2段目の引き出しをしまうと、再びアザミと向き合った。
手の中にあるのはボイスレコーダー。
「いいよ」
ボイスレコーダーのスイッチを押し、彼女はアザミの言葉を待つ。この人はアザミの話を一語一句保存するつもりなのだ。これは彼女の常とう手段で、何かあるとすぐに音声として保存するクセがある。そして何故か携帯のボイスメモ機能ではなく、決まってボイスレコーダーを引っ張ってくるのだ。
アザミが夢の中で奇妙な電車に乗っていたこと、その夢が妙にリアルであったこと、そしてその話の顛末から、目が覚めた後の目の流血について全てを話し終えると、彼女は話が終わったのにも関わらず、レコーダーで録音したまま、数秒の間黙っていた。聞こえるのは壁に立てかけられた業務用の時計のカチカチという秒針の音のみ。アザミが沈黙に耐え切れなくなったところで、彼女はボイスレコーダーを止めた。
「とりあえず、病院に行った方がいいな。目が見えなくなるということは、いや、とにかく行った方がいい」
考えていたようなオカルト的なものではなく、現実的でまともなアドバイスを受け取って、アザミは思わず面を食らった。女性は続ける。
「2駅先の眼科にかかるといい。今すぐに。電車に乗って、200円ちょいでいける」
話は終わりだ、と言わんばかりに彼女はテーブルから降り、電灯を消す。しかしアザミは何だか腑に落ちなかった。
あの夢の中でのことも、目が覚めたあとのことも、全てそういう現象とは無関係というのだろうか。夢で遭ったことは本当にただの夢で、朝に流れた血は本当にただの目の不良なのだろうか。いいや、それだけは絶対に違う気がする。夢とその後の出来事はリンクしているし、今もその影響から逃れられていないと、そう実感できるからだ。
アザミは思わず叫んだ。
「スクナさん!」
「話は終わり。はよ病院行け」
それからはロクに取り合ってもらえず、最終的に雑居ビルの1階から追い出されたのだった。
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