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9.祝福すべきこと
しおりを挟む「高校生の姿で恋愛をする、そのためだけにわたしは魔女になって若返ったの」
奈智子の言葉には、得も言われぬ高揚感と熱が籠っていた。
奈智子の瞳は鋭く爛々と輝いている。溌溂とした少女が迷い無い情熱と歓喜を発散する挑発的なほどに健気な表情。
「なに……、ソレ?」
恋愛をするためだけに若返った?
意味が解らない言葉に戸惑いながら、それ以上にそれを口にする奈智子の高揚した様子に気圧されていた。
わたしと同じ年の人間に、こんな表情が出来る事が信じられなかった。本当に、子どもみたいな表情をする。
その、目を見張るような切実さを秘めた表情に、若干の羞恥心を押し殺しているのは微かに感じられた。
しかしこの時わたしは気付かなかった。
彼女の宣言がどれほど異常で、わたしの自動車の助手席に座るまでにどれほどの花も嵐も踏み躙って来たのかを、全く想像も出来ずにいた。
恋愛するためだけに若返った。そこに至るまでの道筋は想像も出来なかったが、思わずフリーズして何も考えられなくなる程度には異常だというのは本能的に理解した。奈智子はまごついたままのわたしの顔を覗き込みながらわたしのリアクションを待っている。
焦りと混乱から、あまり深く考えないまま頭にふと浮かんだ事柄をほぼそのまま口にしてしまう。
「それは……、瀬河玲くんに関係あるの?」
奈智子の瞳を丸く見開いた表情から、もしかしたら言ってはいけないことを言ってしまったかも、という恐れに冷や汗が出そうになった。
が、途端、奈智子の表情が気の抜けたように和らぎ、「えー、ふふふ、玲くんはどうだろー」とプリーツスカートの太腿の間に両手を添え、くすぐったげに身体をもじもじとさせた。
予想外に、うきうきと楽しげな様子を見せる。
「玲くんと付き合うのはぁ、まあアリっちゃアリだけどね?」
フロントガラスの向こうの夕闇の駐車場に視線を向けながら、脳内で自分と瀬河玲との『恋愛』を想像しながら話しているようだ。
……いや、何故かわたしの質問は奈智子の中で『恋バナ』として変換されてしまっているらしい。
噓でしょ、まさか本当に瀬河長幸の息子と恋愛するために……?
「てかさ! 昼休みはとぼけてたけど!」
いきなり何かを思い出したような弾ける口調で、わたしの方にキラキラした眼差しを向ける。
「玲くん、お父さんにメチャクチャそっくりじゃない! 長幸くんの印象そのまんまじゃん!」
「……え、……うん」
半ば不自然な程にはしゃいで見せる奈智子にわたしは内心混乱させられた。
彼女の口から平然と『長幸くん』の名前が出てきたことではなく、楽し気な奈智子の様子が余りにも学生時代の彼女そのままで、自分も高校生に戻ったように錯覚させられたのだ。
しかしいまのわたしは高校教師で、いま居るこの場所もわたしが給料で買った車の中なのだ。
時間の絶対的な隔たりといま見ている光景/奈智子から喚起させられる幼い日々のちぐはぐさに、脳がバグる。
「……うん、似てると思う。わたしも驚いた」
素直に同意するしかなかった。
自分の立ち位置を定められないまま、取り敢えず奈智子を『学生時代ぶりに再会した知り合い』として扱おうと定める。
実際それは、罰に間違いでは無い訳だし。
「同じクラスで顔を見るたびに未だにちょっとドキッとする。格好良いとか長幸くんに似てるからとかじゃなくて、強制的に懐かしい気持ちにさせられる。わたしは新しく高校生始めたつもりだったけど玲くんを見ていると、いまの自分も当事者なのに、青春時代の思い出の中に囚われているみたいな……」
「……いまのわたしの気分がまさにそんな感じなんだけど?」
そう言ってやると奈智子は嬉しそうに爆笑した。
「いやー、ははは、そうだよね。ああそうだ、ずっと言いたくて言えなかったことがあった」
「なに?」
「再会の言葉。改めて久しぶりだね」
「え……? ああ、久しぶり?」
急に律義な感じだな。
「大学の時以来?」
「ええ、そうね」
「あれ、なんか一度、小学校で同窓会無かったっけ? 来てなかった?」
「…………いえ、仕事が忙しくて参加しなかったわね」
言えない。
その同窓会は同級生の結婚報告をちらほら訊いていた最中で開催されたので、その辺つつかれるのが恐ろしくて参加をスルーしたなんて言えない。
「てか、そうだ! もっと大事なヤツが有った!」
「え?」
「みのりぃちゃんと学校の先生になってるじゃん!」
「え……?」
「いや、夢叶えてるじゃん! すごいでしょ! おめでとう!」
「あ……、ええ、ああ、うん」
急に祝福されて即座に反応を返せなくて、曖昧に変な返事をしてしまった。
わたしが教育学部に在籍していたことや教師も目指していたことも確かに大学時代の彼女も知っていた。応援された記憶もある。
わたしが教師になりたての頃は、割と褒めてくれたり祝福してくれる知人も多かったのだが、わたしとしては結局子どもの頃から教師になる以外の何にも興味が持てなかったなんて負い目もあって、しかも「教師になるのが目的ではなくて、教師になって何をするかの方が重要じゃないのか」なんて生意気なことを内心思っていたので、夢を叶えたと祝福されても、実は心から嬉しく思えた記憶が思い当たらない。
ただ、気付いた。
いまわたしは、奈智子に夢を叶えた事を祝福され、ちょっと嬉しいと感じている。
30代に入った辺りからかつての学友と再会する機会がめっきり減った(みんな自分達の生活があるしね、仕事とか、家庭とか……)のも理由だけど、20年以上会っていなかった『憧れの女の子』たる奈智子が、当時のわたしの夢を未だに覚えていたこの瞬間に密かに感動してしまっていた。
「……うん、ありがとう」
感動してしまった理由は恥ずかしくて伝わってもらいたくは無かったが、嬉しい気持ちは伝えたかった。
「ああ、でも、『夢を叶えた』っていうのはわたしも同じなのかも」
奈智子はわたしから視線を外し独り言のように呟く。
「夢って……なに?」
「だから、高校生の姿で恋愛すること」
「……」
本当に本気なのか、それ……?
「玲くんに関しては……、今はわからないかな? 見た目も性格も申し分無さそうだけど、まぁ……、実際付き合うかどうかは成り行きとかタイミングだからね~」
「その……、長幸くんの息子と付き合うのに葛藤は無いの?」
訊いた矢先、拙いことを訊いたかもという後悔以上に、こんな質問している場合ではないだろうという自分への呆れが襲い掛かって来た。
そして、『緋山奈智子』の前で『瀬河長幸』を下の名前で『長幸くん』と呼ぶ事に謎の背徳感を感じて内心恥ずかしくなった。
いやだって、文脈上『瀬河玲』と混同してしまうのを防がないとならないし! てか高校時代の同級生を下の名前で呼ぶくらいでドキドキしてるのが馬鹿馬鹿しい。
「そこは興味半分怖さ半分なんだよね。玲くんと付き合って長幸くんの面影を見出しちゃったらどんな気分になるのか、意外と想像出来ない。それにもしかしたら長幸くんの面影なんて全然感じられないかも知れないしね」
「なるほど……」
いやなるほどじゃねぇだろわたし。
「ねぇ、わたしが言うのもなんだけど」
そして急に神妙な顔をする奈智子。
「わたしのために時間を使わせて、申し訳ない気がしてきたんだけど」
「え……」
「具体的にはみのりぃが買った牛乳の鮮度とお弁当の鮮度の低下が気になってきた」
……どうやら、買い物中もがっつり観察されていたらしい。
「多分みのりぃも訊きたいことがたくさんあるだろうし、わたしもみのりぃの話を訊きたいからさ、今度休みの日にでも会わない? 都合の良い日でいいからさ」
ぐいぐい引っ張るな。
「わたしへの口止めはもういいの?」
「取り敢えず黙ってくれそうっていう判断だったんだけど? わたしの勘違い?」
屈託無く平然と言ってくれる。
「……いいえ、勘違いじゃない。ていうか判断を保留したい」
「わかった。ありがとう」
てか、わたしと同じ年の人物が恋愛をするために(本人談)魔法で若返って高校に入学しているなんて話、誰が信じるものか。
「あっそうだ、LINE交換しよ! 連絡先を下さい!」
そしてそろそろ車から降りそうな雰囲気を出していた矢先に大事なことを思い出したと言わんばかりにぱんと手を叩き、自身のスマートフォンを取り出す。
落ち着きの無い、無邪気にはしゃいだ様子は本当に女子高生のようで、わたしか奈智子のどちらかが本当はタイムスリップでもしているのではないかなんて、不合理な発想を抱かせた。
いや、魔法で若返っているなんて話も十分不合理だし、それを信じてしまっているわたしも負けないくらい不合理だ。
勢いに負け、そしてまぁ断る理由も特に思い付けずに言われるがままスマートフォンを取り出し、夕闇に車内のライトが滲む中でお互いの端末を重ね合わせた。
「それじゃ、またね!」
連絡先の交換を確認すると、奈智子は制服のプリーツスカートを翻し車を降り、窓越しに麗しく甘い少女の笑みをわたしに向けて手を振り、スーパーの過剰な明かりが届かない暗がりの先へと颯爽と歩き去っていった。
振り返した手をゆっくりと下ろしながら、呆然と見送るしかなかったわたし。
……瞬くような僅かな遣り取りで世界の見え方が一変する現象はそれなりの割合で遭遇し得ると思っていた。
今の奈智子との会話がまさにそれで、もはや、買い物のためにこのスーパーに寄る前の自分には戻れないだろう。
確信出来る。
あれは間違い無く緋山奈智子だ。
あまりにも高校生の頃の彼女そのままだった。
ただし同時に彼女は葉山ひなでもあり、『恋愛』をするために高校に入学して来たという。
不可解な点だらけだ。
考えの纏まらない頭を抱えながら、取り敢えず機械的に車を走らせ、スーパーの駐車場から脱出し、日常のルーチンワークを続けようとする自分の事勿れ主義ぶりが酷く馬鹿馬鹿しくなってしまった。
馬鹿馬鹿しくても割引シールの付いたお弁当の今日の深夜に訪れる賞味期限は迫ってきているし冷蔵ケースから取り出された牛乳が温くなっていく様は精神衛生上良くない。
兎にも角にもこれが、『魔女』が、わたしの生活に染み入る始まりだったのだ。
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