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第16話 私の主人はエリーゼ様
「旦那様。花街の華王館に参りたいのですが、お許しは頂けますか」
執務室にいたシメオンさんにお伺いを立てた。
花毒に直接、効果的な薬ではないが、自己の治癒力を高める薬の試作が出来上がった。メイリーンさんに届けたい。ただし、アランブール伯爵夫人なる者が花街に出入りしていると噂されては困ると言われればそれまでだ。
「花毒の薬ができたのか?」
「え――いえ」
許すか許さないかの返事か、または毒薬はできたのかと促されると思っていたので、花毒の治療薬のことを問われて少し戸惑う。
「試作段階の薬です。直接治療できるものではないのですが、発症予防や進行予防が期待できます。――もちろんご命令を受けた薬の開発も進めております」
「そうか。許可するが、一人、伴をつけてもらう」
意外にもあっさりと許可が出たことに拍子抜けしてしまう。
「何だ?」
「いえ。伯爵夫人が花街に出入りするのは体裁が悪いと、許可が出ないかもしれないと思っておりましたので」
「福祉に力を入れていると言っただろう。それの一環だ。貧民層だけではなく、それは花街の人間も含まれる」
「そう、ですか……」
私を買い取った時はご主人様にもずいぶんと不遜な態度を取っていたから、あの界隈の方々を見下げていたのかと思っていた。
「意外か? 花街は情報収集の場でもある。密偵としてはとても重要な場所だ」
確かに色んな人間が出入りする場だからそうなのだろう。しかしやけに説得力のある言葉だ。
「旦那様も通われたことがあるのですか?」
「え?」
「――あ、いえ。何でもありません。では私はこれで失礼いたします」
私は一体何を聞いてしまったのか。なぜ聞いてしまったのか。
無意識に尋ねていた自分に気付いて、慌てて礼を取って身を翻した。すると、二、三歩進んだところで。
「私は行っていない」
シメオン様は私の背に言葉を投げかける。
足を止めて振り返ると、彼は久々に私を真っすぐに見つめていた。
「先日、初めて足を踏み入れた」
「……そ、そうですか。失礼いたしました」
私は軽く礼を取って逃げるように部屋を出た。
私の供となったのはクラリスさんだ。馬車が屋敷から離れてから少しした頃、向かい側に座る彼女に話しかける。
「もしかしてクラリスさんもシメオン様の――アルナルディ侯爵家の配下に当たる方ですか?」
「え」
目を丸くする彼女に私は首を振った。
「困らせるようなことを言って、申し訳ありません。きっとこんなお話は許されていないですよね」
「……エリーゼ様」
彼女は少し考えた後、意を決したように口を開く。
「いえ。エリーゼ様のおっしゃる通りです。確かにうちの家系もアルナルディ侯爵家の配下であり、私はアランブール伯爵に雇われている身です。しかし私はエリーゼ様の専属侍女になれと命を受けました。ですから今の私の主人はエリーゼ様です。エリーゼ様の命に従います」
「……ありがとうございます、クラリスさん」
ということは、屋敷にいる人たちも皆、アルナルディ侯爵家の配下となる家系に属して何らかの能力を持っているのだろうか。危険な仕事を請け負う一族だから、屋敷内で何かあった時にすぐ対処できる人間を周りに揃えているのかもしれない。
「私は下っ端で密偵としての能力値も低いので、なぜ専属侍女にしていただいたのかは分からないのですが」
「クラリスさんは初対面でも親しみやすく、安心感を抱かせてくれる雰囲気をお持ちだからではないでしょうか。クラリスさんになら何でも話してしまいそうですもの。密偵の何たるかも知らない私が言うのはおこがましいですが、それはとても大事なことではないでしょうか」
だから……なのだろうか。この屋敷で少しでも私が心安らかに過ごせるようにと。シメオン様の配慮なのだろうか。
「そ、そう言っていただけますと」
照れた様子のクラリスさんに私ははっと我に返る。
「そうです。それにクラリスさんは美容の素晴らしい腕前をお持ちですし。今日は先日と違って落ち着いた上品な貴婦人のように仕上げていただいており、感動しております」
「あ、ありがとうございます。――あ! ですがエリーゼ様のことは全身全霊でお守りいたします!」
「ええ。ありがとうございます。……ところで」
ふと気付いたことがあって尋ねてみることにした。
「アランブール伯爵家の門衛さんは交代制で行われているのですよね。以前、お見かけした門衛さんをここに来てから一度もお見かけしないのですが、門衛さんもたくさんいらっしゃるのですか?」
「どの方でしょうか」
「お名前は存知ないのですが、二十代前半くらいなのに威圧感があって――あ、そういえば目元だか口元だかにほくろがあったかしら」
私は右側の口元に人差し指を当てながら説明する。
「ああ。その人ならもしかしたら解雇された方かもしれませんね」
「解、雇されたのですか?」
「エリーゼ様が屋敷に初めてご訪問された日に解雇を言い渡されたと記憶しております」
「そう……ですか」
まさかあの時、私が訪問したのに、訪問者はなかったと嘘をついたから?
確かに主人に盾突いたり、嘘をついたりする信頼できない部下は、側に置くことはできない。まして密偵という特殊な仕事を請け負っている一族ならば、人一倍周りの人間に気を付けなければならないのは当然のことかもしれない。だけど彼は私を思いやってくれた上での嘘だったから……胸が痛い。
「エリーゼ様?」
「――いえ。そうでしたか。以前、丁寧な対応を受けたのでどうされたのかな、と思っておりました。そうですか、お辞めになっていたのですね」
シメオン様は自分に歯向かう人間を瞬時に見極め、感情抜きでたやすく切り捨てられるのだろう。……私もいずれそうなるかもしれない。
改めてシメオン様の絶対的な忠誠主義を思い知った。
執務室にいたシメオンさんにお伺いを立てた。
花毒に直接、効果的な薬ではないが、自己の治癒力を高める薬の試作が出来上がった。メイリーンさんに届けたい。ただし、アランブール伯爵夫人なる者が花街に出入りしていると噂されては困ると言われればそれまでだ。
「花毒の薬ができたのか?」
「え――いえ」
許すか許さないかの返事か、または毒薬はできたのかと促されると思っていたので、花毒の治療薬のことを問われて少し戸惑う。
「試作段階の薬です。直接治療できるものではないのですが、発症予防や進行予防が期待できます。――もちろんご命令を受けた薬の開発も進めております」
「そうか。許可するが、一人、伴をつけてもらう」
意外にもあっさりと許可が出たことに拍子抜けしてしまう。
「何だ?」
「いえ。伯爵夫人が花街に出入りするのは体裁が悪いと、許可が出ないかもしれないと思っておりましたので」
「福祉に力を入れていると言っただろう。それの一環だ。貧民層だけではなく、それは花街の人間も含まれる」
「そう、ですか……」
私を買い取った時はご主人様にもずいぶんと不遜な態度を取っていたから、あの界隈の方々を見下げていたのかと思っていた。
「意外か? 花街は情報収集の場でもある。密偵としてはとても重要な場所だ」
確かに色んな人間が出入りする場だからそうなのだろう。しかしやけに説得力のある言葉だ。
「旦那様も通われたことがあるのですか?」
「え?」
「――あ、いえ。何でもありません。では私はこれで失礼いたします」
私は一体何を聞いてしまったのか。なぜ聞いてしまったのか。
無意識に尋ねていた自分に気付いて、慌てて礼を取って身を翻した。すると、二、三歩進んだところで。
「私は行っていない」
シメオン様は私の背に言葉を投げかける。
足を止めて振り返ると、彼は久々に私を真っすぐに見つめていた。
「先日、初めて足を踏み入れた」
「……そ、そうですか。失礼いたしました」
私は軽く礼を取って逃げるように部屋を出た。
私の供となったのはクラリスさんだ。馬車が屋敷から離れてから少しした頃、向かい側に座る彼女に話しかける。
「もしかしてクラリスさんもシメオン様の――アルナルディ侯爵家の配下に当たる方ですか?」
「え」
目を丸くする彼女に私は首を振った。
「困らせるようなことを言って、申し訳ありません。きっとこんなお話は許されていないですよね」
「……エリーゼ様」
彼女は少し考えた後、意を決したように口を開く。
「いえ。エリーゼ様のおっしゃる通りです。確かにうちの家系もアルナルディ侯爵家の配下であり、私はアランブール伯爵に雇われている身です。しかし私はエリーゼ様の専属侍女になれと命を受けました。ですから今の私の主人はエリーゼ様です。エリーゼ様の命に従います」
「……ありがとうございます、クラリスさん」
ということは、屋敷にいる人たちも皆、アルナルディ侯爵家の配下となる家系に属して何らかの能力を持っているのだろうか。危険な仕事を請け負う一族だから、屋敷内で何かあった時にすぐ対処できる人間を周りに揃えているのかもしれない。
「私は下っ端で密偵としての能力値も低いので、なぜ専属侍女にしていただいたのかは分からないのですが」
「クラリスさんは初対面でも親しみやすく、安心感を抱かせてくれる雰囲気をお持ちだからではないでしょうか。クラリスさんになら何でも話してしまいそうですもの。密偵の何たるかも知らない私が言うのはおこがましいですが、それはとても大事なことではないでしょうか」
だから……なのだろうか。この屋敷で少しでも私が心安らかに過ごせるようにと。シメオン様の配慮なのだろうか。
「そ、そう言っていただけますと」
照れた様子のクラリスさんに私ははっと我に返る。
「そうです。それにクラリスさんは美容の素晴らしい腕前をお持ちですし。今日は先日と違って落ち着いた上品な貴婦人のように仕上げていただいており、感動しております」
「あ、ありがとうございます。――あ! ですがエリーゼ様のことは全身全霊でお守りいたします!」
「ええ。ありがとうございます。……ところで」
ふと気付いたことがあって尋ねてみることにした。
「アランブール伯爵家の門衛さんは交代制で行われているのですよね。以前、お見かけした門衛さんをここに来てから一度もお見かけしないのですが、門衛さんもたくさんいらっしゃるのですか?」
「どの方でしょうか」
「お名前は存知ないのですが、二十代前半くらいなのに威圧感があって――あ、そういえば目元だか口元だかにほくろがあったかしら」
私は右側の口元に人差し指を当てながら説明する。
「ああ。その人ならもしかしたら解雇された方かもしれませんね」
「解、雇されたのですか?」
「エリーゼ様が屋敷に初めてご訪問された日に解雇を言い渡されたと記憶しております」
「そう……ですか」
まさかあの時、私が訪問したのに、訪問者はなかったと嘘をついたから?
確かに主人に盾突いたり、嘘をついたりする信頼できない部下は、側に置くことはできない。まして密偵という特殊な仕事を請け負っている一族ならば、人一倍周りの人間に気を付けなければならないのは当然のことかもしれない。だけど彼は私を思いやってくれた上での嘘だったから……胸が痛い。
「エリーゼ様?」
「――いえ。そうでしたか。以前、丁寧な対応を受けたのでどうされたのかな、と思っておりました。そうですか、お辞めになっていたのですね」
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