上 下
15 / 49

15.望郷であったモノ。

しおりを挟む
それからというもの、僕は先生ことアリディル先生にたくさんのことを教えてもらった。

『8×3=24、8×4…えっと、52!!』

『違いますよ、ジェシー?32です。…2で終わるのは合っているんですけどね~?…でも掛け算は頑張らないといけませんよ?お金の計算で一番使う割り算が出来ませんからね~。』

『んぅ~。難しいです…。』

『頑張りましょう。…ジェシー?もう少しの辛抱ですから。』

夕飯買い物をしながら僕は掛け算を先生と確認しながら復唱をしていた。当時の僕は8の段が特に苦手で9の段も苦手だが8が何となく難しいと感じていたのだ。また間違えてしまった僕は拗ねそうになってしまうけれど先生は懲りずに何度も優しく教えてくれた。…それが僕に勉強させる力を与えてくれたんだ。だから勉強に打ち込むことが出来た。だって正解をすれば、先生は明るい笑顔で頭を撫でてくれるから。
ひどく冷たい手は僕にとっては頑張っている僕の頭を休ませる心地よい手に変貌していた。とても嬉しかった。

僕の亡くなったお父さんはとても厳しくて、嫌な事があれば安酒を飲んでは僕をよくいじめていたものだ。お母さんのことがお父さんも大好きだったから、僕に取られて悔しかったのだろうと今では思う。だから戦争で兵士として行ってしまったお父さんに僕は失礼ながらも安堵したものだが、お母さんは悲しそうな顔をしていた。
…お母さんはお父さんの方が好きなんだ。僕じゃないんだ。…
約束した小指で紡がれた言葉の意味を子供ながらに理解し、それでもお母さんの帰りを待った。…でも帰ってきたのは両親が亡くなったという事実だけ。…僕は両親が居ても居なくても1人ぼっちだったのかもしれない。

…でも先生は違ったんだ。僕を見てくれて、勉強も教えてくれて、ご飯を食べさせてくれて、一緒に寝てくれる。…僕の大好きな物だけを先生は与えてくれた!先生が居てくれて、傍に居てくれて、僕は一生孤独を味わうことは無い!!!…そう信じていたのに。

書物と人間の平和条約を結ぼうと決議した際、人間は書物を”悪モノ”だと、”必要のないモノ”だという風評を纏わりつかせ、書物を焼き払っていた。暴動化し過激になっていく人間の行動を僕と先生は離れて見たのを覚えている。差別し弱いモノをつるし上げ、叩くことしか、皆で寄ってたかって書物を焼いていく光景に僕は初めて醜悪を晒した人間達の姿を焼きつけた。それは先生も同じであったのだろう。普段は微笑みを絶やさない先生が悲しげな表情を見せていた。…でも今、思えばそれだけでは無かったような気がしてならない今の僕が居る。だって先生はひどく冷めたような蔑むような目で焼き払っている人間を見て悲しそうに呟いたから。

『…やっぱり分かり合えないんですね。そっか…。僕も欲に塗れてしまったから、こんな感情、というのも手にしてしまったんですね。』

そして僕の顔を見て寂しそうに笑う。先生のそんな顔を僕は見たくない。

『…?せん…せい?どこか痛いんですか?』

すると先生は今度は普段の優しい笑みを見せて僕の頭を撫でてくれた。…やっぱりその白い手はとても冷たい。いつもよりもひどく冷たかった。まるで、僕が初めて触れた氷のような、痛みを伴っているような感覚を覚えたのを僕の記憶に残っている。

『痛い…そうですね。…じゃあ今度!この村の滝を見に行きましょう。…あの滝はとても美しい。そうすればこの裂けるような痛みは無くなるでしょう。』

『ほんとですか!??…だったら行きましょう!!!先生がそんな顔してたら、僕も嫌な気持ちになります。…先生が楽になれるのなら、僕はついて行きます!』

すると先生は驚いたような顔をしてから僕の頬に触れて笑った。…やっぱりその手はいつもよりも冷たい。それでも構わなかった。先生が楽になれるというのなら、僕はどこまでもついて行こうって決めたのだから。


『ジェシー。聞いて下さい。…僕は”枢要の罪”の1人なんです。君、いや。人間にとっては悪モノの存在です。』

『…えっ?』

美しい大きな滝の前で先生は僕の耳を疑うほどを言葉を残した。突然の先生の言葉に僕は戸惑いを見せる。枢要の罪は僕でも知っている。だって書物戦争の書物側の指揮を執っていたのは枢要の罪だというのをあなたから…先生が教えてくれたのだから。でも。そんなの嘘だって。先生が僕を笑わそうとして、茶化そうとして、冗談を言っているだけだと思って。だから僕は笑ってみせたのだが…先生は普段のように僕に微笑むことしかしない。それが不思議に思ったから僕はわざと先生に抱き着いて困らせてみようとしたんだ。そうすれば先生が何か言ってくれるのかなって。もしかしたら笑う以外にも怒ったりもするのかなって。でも先生が怒ったとしても怖くないだろうなって気がしたから。

…でも先生は微笑むことしかしない。僕が抱き着いても笑うことしかしない。しかも今度は先生が僕の両腕を取って…しゃがみこんで言ったんだ。それは僕にとっては記憶に刻まれるほどの”呪い”を。

『ジェシー?君は僕にとって大事で、かけがえのない存在です。』

『???先生。嬉しいけど、どうしたんです?』

嬉しい反面、別れを告げるような先生の発言に胸騒ぎがする。それを否定しようとするけれど先生は僕を離してからとある呪いの言葉を呟いた。
その言葉は当時の僕にとっては呪いよりもたちの悪い刻印でしかなかったが…今の僕にとっては違う。
だって次の言葉が今の僕を支える支柱なのだから。

『だから…僕を殺してください。心の無い、ただの書物へとなる為に。』

すると僕の手を取って立ち上がった先生は笑って僕に突き飛ばされていた。腕が勝手に動いてしまったのにも驚いたがそれよりも驚いたのは、先生の身体は羽のように軽く、真っ逆さまに宙へ放り出されてしまったという事実という名の別れであった。


僕はすぐに飛び起きた。時計を見れば30分も仮眠をしてしまったらしい。…しかも最悪な悪夢だ。…でも本当に不思議でならない。あの時の記憶が鮮明に覚えていた事実に。そして。

「…なんであの時助けられなかったのかな…。強欲の罪、アリディル。…僕にすべてを教えてくれた、でも捨てさせてしまった…。」

…強欲という名にふさわしいモノ

眼鏡を掛け直しシルクハットを置いてからルークは自身の気持ちを切り替えるように書類に目を通した。…恩師が再び復活をした理由を探す為に。
しおりを挟む

処理中です...