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後篇
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それから何があったのか、よく覚えていない。
いつの間にかみなみはアメリカに旅立ち、私はひとりになった。
何回か手紙が届いたけれど一度も開封していないし、勿論返事も書いていない。その内私は近場の高校で無味乾燥な学生生活を送って、そして大学に進学した。
右斜め前の家には新しい家族がやってきて、もうみなみの存在はどこにもないはずなのに、ふとした瞬間に思い出してしまう。
小学3年生の頃、おしゃべりに夢中で帰るのが遅くなり、一緒に親に怒られたこと。
小学5年生の頃、好きだった男の子に振られた私の話をずっと聞いてくれたこと。
中学1年生の頃、プチプラのメイク道具を買って、初めてふたりでメイクしたこと――数えきれない程の記憶が、私の中に眠っていた。
でも、最後に見たみなみの表情が、その思い出を全て悲しい色に塗り潰してしまう。
――だって、私はみなみにあんな酷いことを言ってしまった。
「三浦智佳さん――君は、中川みなみさんのことが大好きだったんだ」
榊先生の言葉で、ふっと意識が引き戻される。
私は公園のブランコに座ったままだった。目の前には、私を見下ろす榊先生が立っている。
「思い出は美しい――だが、それに浸ってばかりではだめだ。俺達は現在を生きる存在なのだから。過去の中川さんではなく、現在の彼女と向き合わなければ――」
「ほっといて!」
瞬間的にかっと血が熱くなり、私は立ち上がった。ブランコが耳障りな音を立てて軋む。
そして足を踏み出そうとした次の瞬間――ずるりと嫌な感触が足を舐めて、私はその場にくずおれた。
「……え?」
状況が理解できず、私は自分の足を見る。
その足には、鈍色の鎖が巻き付いていた。
いつの間にこんなものが生えてきたのだろうか。
「――時間がない、今の状況を手短に説明する」
頭上から声が降る。
見上げると、榊先生が厳しい表情でこちらを見下ろしていた。
「君がロストフラワー・プロジェクトを使用してから既に2ヶ月が経過している。長く過去に囚われてしまえば、そのまま目覚めない危険性もある――それを防ぐために、俺達はこうして使用者の元を訪れるんだ。あてのない夢を終わらせるために」
その言葉を聞いて、私は息を吐くように笑う。
「――夢? 違う、これは記憶。実際にあった思い出そのものだよ」
「いや、これは夢だ」
目の前のその人はきっぱりと言った。
「君は見たいものしか見ていない――だから、さっき彼女から逃げたんだろう。あの後に何を言われるかわかっていたから」
榊先生の言葉が、私の胸を刺す。
何も言い返せない。先生の言う通りだ。
――本当は、わかっていた。
中学生の頃、みなみと過ごした日々が楽しくて――いつかこの時間が終わってしまうことを、受け入れられなかった。
「……現在のみなみに、逢うことなんてできないよ」
ぽつりと言葉が零れたけれど、榊先生の表情は変わらない。
「折角手紙くれたのに、私ずっと無視してたから――あの子、怒ってる。目覚めたところで、私にできることなんてない」
自分の都合の良い夢に逃げ込んでなお、そんな弱音しか吐けない自分が虚しかった。
榊先生の視線を痛く感じて、思わず俯く。
足に纏わり付く鎖は所々錆びていて、こんな私にお似合いだとも思った。
――その時、私の視界の中に一通の封筒が差し出される。
その封筒に書かれた文字には見覚えがあった。
「君への預かり物だ」
榊先生がぽつりと呟き、私は震える指でそれを掴む。
封を開いて取り出した手紙には、懐かしい文字達が穏やかに佇んでいた。
『智佳ちゃんへ。
お久し振りです。
あれからもう5年経つけれど、お元気ですか? 私は元気です。
急に連絡してごめんなさい。
今更だけど智佳ちゃんにきちんと謝りたくて、この手紙を書いています。
初めて逢った時から、私は智佳ちゃんのことが大好きでした。
引っ込み思案で人見知りの私に智佳ちゃんが明るく話しかけてくれて、不安だった毎日がぱっと色付いたことを覚えています。
いつも元気な智佳ちゃん。あなたと過ごした日々は、私にとって救いでした。
でも、私には小さい時から世界で活躍できるジャーナリストになりたいという夢があり、できるだけ早くアメリカに行きたいと思っていました。
智佳ちゃんにそれを伝えられなかったのは、私が弱虫だったからです。
伝えてしまったらこの関係性が変わってしまうような気がして、いつ言おうか悩んでいる内にあの日になってしまいました。
智佳ちゃんと積み重ねて来た日々を考えれば、そんなこと心配する必要なかったのに……智佳ちゃんが怒るのも当然だと思います。
あの時は、本当にごめんなさい。
実は、最近ロストフラワー・プロジェクトを使って、記憶の中の智佳ちゃんと逢うことができました。
あの頃の智佳ちゃんと過ごす日々は勿論楽しかったけれど、だからこそ現在の智佳ちゃんに逢いたいです。
だって、私達はまだ幸運にも同じ世界にいるのだから。
もし智佳ちゃんが嫌でなければ、逢いに行ってもいいですか?
素直な気持ちを聞かせてください。お返事お待ちしています』
その文字達は優しい熱を孕み、いつしかそれらはぐらぐらと揺れ、崩れて行く。
視界が滲んで、手紙にひとつ、またひとつと染みを作っていった。
――謝るのは、こっちの方なのに。
みなみはこれっぽっちも変わっていない。私が意固地になっていただけだ。
「――さぁ、本物の彼女に逢いに行こう」
顔を上げると、榊先生が私に手を差し伸べている。
その顔には、初めて見る微笑が浮かんでいた。
私はゆっくりとその手を掴む。
途端に、足を締め付けていた感触がさらりと溶けていった。
一瞬バランスを崩した私の身体を、榊先生が優しく抱き止める。初めて感じるその力強さに、私は思わずどきりとした。
「大丈夫、このまま俺につかまっていればいい」
まっすぐに見つめられた私は、ただ頷くことしかできない。
夕暮れに沈んでいた空が割れて、差し込んだ光が世界をほの白く染め上げていった。
その明るさに思わず私は目を閉じ、そして――
――目を開くと、見知らぬ天井が映っていた。
「……あれ?」
思わず声を洩らす。身体を起こそうとしたところで、頭が随分と窮屈なことに気付いた。嵌められたヘッドギアを外して、枕元に置く。
まるで長い夢から醒めたような――そんな心持ちで、小さく息を吐いた。
その時――
「――智佳ちゃん、おはよう」
聞き慣れた声が私の鼓膜を揺らす。
私はゆっくりと声のした方に顔を向けた。
そこには、つい先程まで一緒にいたような――そんな不思議な懐かしさを纏った存在が立っている。
「――おはよう、みなみ」
私は笑顔で、親友の名を呼んだ。
***
――あれがもう3年前だというのだから、時の流れは速い。
病院で眠り続ける私の元を訪れたみなみは、あの後私が退院する前にアメリカにとんぼ返りしてしまった。
それからもなかなかタイミングが合わなかったけれど、来週みなみの一時帰国に合わせてようやく逢えることになった。
『日本で何か食べたいものある? お店探しとくよ』
SNSでみなみにメッセージを送ると、すぐにありがとうの札を持った猫のスタンプが返ってくる。
そして――思い直して、私はもう一件メッセージを追加した。
『ちなみに、みなみとどうしても行きたいお店があって』
そこまで打ったところで、乗っていた電車が会社の最寄り駅に着く。
私はメッセージを慌てて送信してから、スマホをポケットにしまった。
就職してもうすぐ半年が経つ。まだまだわからないことだらけで勉強の日々だけど、毎日が充実しているのはとても嬉しい。
自分のデスクに着き、カスタマーセンターから届いたメールを開く。今日は午後に1件、先輩と出張の予定が入っていた。
依頼人の状況を確認しておかなければ――そう思いながら朝ごはんのレーズンパンを取り出したところで、背後から「三浦、おはよう」と声が響く。
振り返ると、そこには先輩が立っていた。
「榊せんせ――じゃなくて榊さん、おはようございます」
やばい、思わず言い間違えてしまった。
そんな私に、榊さんがその鋭い眼差しを少しだけ和らげた。
「随分懐かしい呼び方だな」
「すみません、ちょっとあの頃のことを思い出しちゃって」
そう――私は今、ロストフラワー・プロジェクトを作った会社で顧客対応の仕事をしている。あの時榊さんに私が救われたように、私も過去に囚われてしまった人達を助けたいと思ったのだ。
人生には色々なことがあり、時には過去の思い出に癒されたくなることもある。だからこそ、この製品は爆発的に売れたのだろう。
しかし、それが使用者の健康を害したり、誰かを不幸にすることがあってはならない。
「榊さんのお蔭で、今の私がいますから」
正直にそう伝えると、「俺はそんな大したことしてないよ」と榊さんが隣の席に腰を下ろした。
「今の三浦がいるのは、三浦の中にかけがえのない思い出があったから。大切な記憶は現在を生きる力をくれる――だから俺は、一度羽を休めた人達がまた羽ばたけるように、ほんの少し手助けをしているだけだ」
確かにそうかも知れない。
大切なものは、いつもその人の中に在る――それは私も、みなみも、そして他の人達だって。
ポケットの中のスマホが震えた。取り出してみると、みなみからの返信だ。
『うん、私も行きたいお店あった。パフェを食べる約束、遅くなってごめんね』
私は小さく笑って、OKの札を持った猫のスタンプを送り返す。
すると、隣から榊さんの落ち着いた声が響いた。
「――ほら、9時からミーティング。朝ごはん食べるなら、急いだ方がいいぞ」
「えっ、もうそんな時間!?」
慌ててレーズンパンを食べ始めると、榊さんがふっと笑う。
何だか恥ずかしくなって、私はもぐもぐしながら榊さんを少しだけ睨んだ。
「……なんですか?」
「別に。俺、先行ってるから」
榊さんが荷物をまとめて立ち上がる。
遠ざかる背中を見ながら、私は口の中のパンをりんごジュースで流し込んだ。
――ふと、記憶の世界から戻る時、私を力強く抱き止めた榊さんのことを思い出す。
あのまっすぐな瞳に見つめられて、私の心は囚われてしまった――
「――なんて、思ってないんだから」
そう小さく呟いて、私は立ち上がる。
今日の出張、頑張ろう――決意を新たに、私はその背中を追いかけた。
(了)
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