『この悪役令嬢、すべてを許しすぎて逆に怖い』

白石あかね

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夜の帳が静かに降りた寮の一室。フィリオ=ルクレインは机に向かい、薄いノートの一ページ目を丁寧に開いた。

そこには、ひとつの名前が記されている。

《アズナ様の言葉》

“赦すことは、相手を理解する第一歩ですわ”  
“香りは意志を縛るものではなく、心を解きほぐす鍵”  
“わたくしは、皆さまのお気持ちを否定いたしません”

それは彼女が、断罪席にあったあの日から今までに口にした、何気ない言葉の記録。けれどフィリオにとっては、どれもが“忘れてはならない気づき”だった。

「……あの方の言葉には、芯がある。柔らかくても、曖昧じゃない」

書きながら、胸の中に浮かんでいたのは、安堵だった。

かつてアズナを告発し、そして自らその訴えを撤回した罪悪感。あの出来事の意味を問い続けた日々。その苦しみのなかで、彼女の香りと微笑は、ただ静かにフィリオの中の“恐れ”を溶かしていった。

それを認めるには時間がかかった。

けれど、今なら書ける。

――わたしが救われたのは、あの香と微笑のおかげ。

そして、気づけばこのノートには、同じような記録を書き留めている生徒たちが、何人も現れ始めていた。

「それ、アズナ様の言葉記録でしょ? わたしもやってるの」

「“微笑まれた日はよく眠れる”って、ほんとだった」

「“アズナ様語録”って、図書室の裏棚にもコピーあるの知ってる?」

まるで、風邪薬の効能でも語るかのように、誰もが自然に“あの人の言葉”を口にするようになっていた。

その中心にいたのが、マリアンヌ=クラレットだった。

かつて、校内で問題視され断罪寸前に追い詰められた少女。だが、アズナのたった一言――

「あなたを誰が裁いたとしても、わたくしは否定しませんわ」

――その言葉に涙を流して以降、マリアンヌは変わった。

「アズナ様の言葉には真理があるのです」

彼女はそう言って、休憩時間ごとに小さな集まりを作るようになった。中庭の隅、講義の合間、香塔前の階段。どこにいても、アズナの名がささやかれ、言葉が回覧される。

それはもはや“礼儀”でも“感謝”でもなかった。

“信仰”だった。

「救われた」  
「許された」  
「見つめられた」  
その記憶を持つ者は、皆一様に“語り部”となり始めていた。

けれど――どこかが、おかしかった。

それを誰も口にしないだけで、フィリオにも分かっていた。

「まるで……私たち皆が、彼女に見られていたくて、彼女に微笑まれたくて、それ以外の何かを……忘れ始めてるみたい……」

そう、誰も“対等な人間”としてアズナを見なくなっている。

その事実に、薄く寒気を覚えながらも、それを言葉にする勇気はなかった。

信じていた。信じている。救われた。だから、否定したくない。

けれどその“思い”こそが、すでに自分たちを縛っているのかもしれないと――  
フィリオは、まだ知らなかった。
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