『この悪役令嬢、すべてを許しすぎて逆に怖い』

白石あかね

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ライナス=グレイブは、教員控室の片隅で報告書の束を静かにめくっていた。

件名:《断罪裁定・記録抹消事件》  
提出者:フィリオ=ルクレイン  
対象者:アズナ=グランフォード

そこには証言の記録、撤回の経緯、生徒会議事録、そして生徒たちからの“感謝の声”までもが添付されていた。

だが、ライナスの目は、そこにあった“ある言葉の繰り返し”に引っかかっていた。

「……“救われた”……“救われた”……“救われた”……」

何度読んでも、皆が口にするのはその言葉ばかり。  
まるで、合言葉のように。

彼は報告書を閉じ、椅子を引いて立ち上がった。

その日の午後、廊下ですれ違ったフィリオを呼び止めたのは、まさにそんな瞬間だった。

「ルクレイン生。少し、いいか?」

「はい、ライナス先生」

彼女は笑っていた。以前よりも、表情は柔らかく、目も澄んでいるように見える。だが、ライナスはその笑顔を素直に受け取ることができなかった。

「アズナ様に、救われたのだな?」

「……はい。あの方の言葉と香りと……あの微笑が、私を変えてくれたんです」

「そうか。それは良かった」

少しの間を置いて、ライナスは言葉を継いだ。

「だが……それは“救い”なのか? 本当に、君自身の力で立ち上がったのか?」

フィリオの表情がわずかに揺れる。

「私は……あの時、壊れそうだった。あの香に包まれて、初めて“苦しみじゃない感情”で涙を流せた。……それが、救いでなくて、何だと言うんですか?」

その返答に、ライナスは頷いた。

「そうか。それが君の答えなら、ひとまずそれでいい。だが――“赦し”が常に正義であると、私は思わない」

フィリオは言葉を失ったまま、静かにその場を離れた。

夕刻、ライナスは講義室の奥にある特別個室へと足を運ぶ。

アズナ=グランフォードが、一人、読書をしていた。まるでこの対話を予期していたかのように、椅子を引く音にも顔を上げない。

「アズナ様」

「ごきげんよう、ライナス先生」

彼女は本を閉じ、優雅に一礼する。

ライナスは本題を切り出した。

「あなたの言葉と香りは、確かに人を癒す。しかし同時に、それは人から“自立の契機”を奪ってはいないか?」

「……と、おっしゃいますと?」

「あなたに赦された者たちは、皆、あなたに依存している。“救われた”と口にするたびに、“自ら立ち上がった”という誇りを失っている。あなたの存在は……悪気なく、人を“弱くする”」

その言葉に、アズナの微笑は少しも揺らがなかった。

「それでも、その方が“生きやすくなる”としたら……わたくしは、その役割を果たしても構いませんわ」

「……では問う。“許す”ことは、あなたにとって“正義”なのか?」

一拍の沈黙。やがて、アズナは静かに立ち上がった。

「正義かどうかは、わたくしが決めることではありませんわ。ただ、皆さまの苦しみが、ほんの少しでも軽くなるのなら……それは“悪”ではございません」

ライナスはその答えに、もはや言葉を返さなかった。

“無垢”という名の仮面は、否定の余地を与えない。  
それが、最も恐ろしい“支配”であるということを――  
彼女自身が、どこまで理解しているのかすら分からないままに。

「……ご忠告、感謝いたしますわ」

アズナはただ、いつものように、静かに、優雅に微笑んだ。
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