『この悪役令嬢、すべてを許しすぎて逆に怖い』

白石あかね

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春風がやさしく吹き抜ける中庭で、花びらが静かに舞っていた。

フィリオ=ルクレインは、木漏れ日の中に佇むひとりの女性の姿を見つめていた。

アズナ=グランフォード。  
かつて断罪席に座らされ、名指しで告発されたにもかかわらず、最後にはその笑顔一つですべてを無化した存在。  
そして今、彼女は何事もなかったかのように、学院の日常に戻っていた。

だが、フィリオの中には“何かが終わった”という感覚ではなかった。むしろ、始まったのだと感じていた。  
彼女の目には、怒りも敵意も映っていなかった。  
なのに――いや、だからこそ、何もかもが赦されてしまったのだ。

「……おはようございます、アズナ様」

声をかけるのに、勇気がいった。自分がかつて、彼女を告発したことを忘れたわけではない。ただ、それ以上に、どうしても訊いてみたかったのだ。

アズナはゆっくりと振り返り、いつものようにやわらかく微笑んだ。

「ごきげんよう、フィリオ様。今日も良いお天気ですわね」

その瞬間、胸が温かくなる。呼吸が深くなり、肩の力がふっと抜けていく。  
ああ、この香りだ。あのときと同じ、甘くも苦くもない、けれど不思議と安心する空気。

「……その、お話ししたくて」

フィリオは、手にしていた小さな便箋を差し出した。拙い筆跡で、ただ「ありがとう」とだけ書かれたものだった。

「あの時、救われたのは……きっと、私の方だったと思うんです」

アズナは受け取ることなく、ただ言った。

「そのお気持ちを、言葉にしてくださったことが、わたくしにとっての贈り物ですわ」

優雅に、まるでそれが日常の一環であるかのように。

「……あの香り、どうしてあんなに心が楽になるのですか?」

ふと浮かんだ疑問が、思わず口をついて出た。

アズナは少しだけ首を傾げ、目を細めた。

「それはきっと、あなたの心が、そう感じる準備をされていたからですわ。香りは、きっかけにすぎませんもの」

言葉に、力はなかった。けれど、その分だけ、自然だった。

フィリオは深く息を吐いた。

「……私も、誰かにそんな空気を届けられる人になりたい」

ぽつりと零したその言葉に、アズナは小さく頷いた。

「そう思われたなら、きっともう、あなたはその一歩を踏み出しておられるのですわ」

そのやりとりを、少し離れた場所から見ていた生徒たちがいた。

誰も言葉にはしなかったが、その空気は確かに伝播していた。  
“ああして微笑まれるというのは、特別なことなのかもしれない”と。

講義室でも、香塔の前でも、徐々にそれは形になっていった。  
アズナに挨拶をするときの声が、どこか上擦る。  
香塔に近づいた生徒が、立ち止まって深呼吸をする。  
彼女の隣に座れた生徒が、密かにその日を記録に残す。

“アズナ様に微笑まれた”という事実が、静かに、だが確実に学院の中で“価値”として立ち上がっていった。

赦された者は語る。「救われた」と。  
許された者は記す。「尊敬している」と。  
見つめられた者は呟く。「あの笑顔が忘れられない」と。

アズナは変わらず同じ微笑を浮かべる。誰に対しても平等に、穏やかに、やさしく。

けれど、皆が望み始めていた。  
“自分が、彼女の微笑の対象であってほしい”と。

その瞬間、彼女の笑顔は権威となり、  
学院の空気そのものに――支配のように溶け込んでいった。
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