『この悪役令嬢、すべてを許しすぎて逆に怖い』

白石あかね

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ル・グラシエ寮の一角、アズナ=グランフォードの私室には、今夜も静かな香りが満ちていた。

月光に照らされた天蓋ベッド、整然と並ぶ香瓶の数々、そして暖かな光をたたえたランプの下、アズナは香の調合記録を静かに書き留めていた。

その背後から、抑えきれない苛立ちの気配が近づく。

「……お嬢様、また今日も“あの方々”の言い分を、すべて受け入れて差し上げたのですか?」

声の主は、侍女のベアトリス。  
長年アズナに仕えてきた、辛辣で誠実な女だった。

アズナは微笑を崩さず、筆を止めぬままに応じる。

「皆さま、きっと精一杯の思いを伝えてくださっていたのですわ。わたくしにできることがあるなら、それを拒む理由はございません」

その返答に、ベアトリスの眉がつり上がる。

「それでは皆様に“利用されますわ”! ご自身の感情まで、差し出すおつもりですの!?」

強い口調。アズナの部屋では滅多に響かない言葉だった。

「……“赦し”も、“理解”も、限度というものがございます。お嬢様がどれほど理を語ろうと、そのお心まで明け渡してしまえば、ただの“従属”に過ぎません」

アズナは静かに振り返った。  
けれど、その瞳の奥には、いつも通りの揺るぎなさはなかった。

「……ベアトリス。それは、わたくしが間違っていると、仰るの?」

「ええ、はっきりと申し上げます。間違っておられますわ」

寮の静寂の中、侍女の声だけが鮮明に響いた。

「お嬢様は、皆様に“微笑み”を与えることで、ご自身の痛みをごまかしておいでです。  
けれど――お嬢様自身の心は、誰が守るのです? お嬢様を“赦してくれる”存在は、どこにおいでですの?」

その言葉に、アズナの瞳が一瞬、大きく開かれた。

答えを探すように視線が揺れ、口がわずかに動く――だが、返す言葉が見つからない。

その姿を、ベアトリスは静かに見つめていた。  
初めて見る、“微笑のないアズナ”。

それは、完璧であったはずの微笑の仮面に、ひと筋のひびが刻まれる瞬間だった。

「……わたくしは、皆さまに幸せでいていただきたいだけですわ」

ようやく絞り出されたその声は、どこか遠く、弱かった。

ベアトリスはため息をつき、そっと布をアズナの肩にかける。

「その言葉に、救われたふりをする方々は多くおいででしょう。でも……お嬢様に“泣くこと”を許す者は、ほとんどおりません」

アズナは何も言わなかった。  
香の揺らぎが、ふっと止まる。

その夜、香塔の香りは、わずかに“薄かった”。

誰のせいでもなく、何かが確かに揺らいだ、静かな夜のことだった。
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