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講師棟の最上階、通常は使われることのない特別会議室に、静かな緊張が満ちていた。
重厚な扉が音もなく開くと、アズナ=グランフォードが、落ち着いた足取りで現れた。群青の制服に白のケープ、香を纏ったその姿は、どこか神殿の聖女を思わせる気品と静謐さを帯びている。
その場にいたのは、学院の中でも最上位の教師陣――
そして、倫理科担当のライナス=グレイブ。
彼が立ち上がり、アズナに向かって一礼したのは形式ではなかった。
もはや、彼女に対して敬意なく言葉を向ける者は、学院内にはほとんど残っていない。
「アズナ=グランフォード様。本日は、正式な協議のもと、お話を伺いたい」
「はい、喜んでお受けいたしますわ」
変わらぬ微笑。まったく揺らがない表情。
ライナスは、深く息を吸って切り出した。
「……ここ最近、生徒たちが“同じ夢”を見る現象が発生している。その原因と見られる香の成分を調査した結果、複数の感情誘導系物質が散布されていたと判明した」
アズナは首を傾げ、静かに答える。
「その香りは、わたくしが“癒し”のために調香したものです。人を操作する意図など、これまで一度も持ったことはございませんわ」
「意図があろうとなかろうと、あなたは今――確かに人を支配している」
ライナスの声が、少しだけ強くなった。
「生徒たちは、あなたに微笑まれたくて行動を選び、あなたの香りを模倣し、ついには“夢の中”にまであなたの姿を招いている。
それは、言葉を使わない支配だ。……君は、もう他者の意志の領域に踏み込んでいる」
その言葉に、空気が重くなる。
だが、アズナの顔色は変わらなかった。
むしろその笑顔は、さらに柔らかくなったようにすら見えた。
「――それでも、皆さまがその中で、安らかに過ごしておられるのなら。
わたくしにとって、それ以上のことはございませんの」
一瞬、会議室の空気が止まった。
その言葉には、偽りのない真摯さがあった。
無自覚なまま行われる“優しい侵食”。
善意から始まり、信頼によって強化され、ついには“誰も否定できなくなる”在り方。
ライナスは口を開きかけ、だが言葉を継げなかった。
アズナは支配を否定しない。
だが、それを“正義”とも“悪”とも名指ししない。
ただ、そこにあることを受け入れている。
「――わたくし、すべてを守ることはできません。けれど、誰かの痛みが少しでも和らぐならば、それが“支配”と呼ばれるものでも、構いませんわ」
その言葉に、教師たちは言葉を失った。
もはや止める術は、存在しないのではないか。
アズナが目指すのは統治ではなく、共感という名の“全体同調”。
それは命令より強く、恐怖より深く、疑問を飲み込んでしまう。
彼女の笑顔の前では、問いすら力を失うのだ。
ライナスは最後に目を伏せ、記録書にこう書き記した。
《微笑とは、最も穏やかな支配である。
彼女は、それを選んだのではなく――
もとより、そう“在る”ことを選ばれて生まれてきたのかもしれない。》
その日、誰よりも危機感を抱いた者の筆が、
その支配の輪郭を最初に描き出していた。
重厚な扉が音もなく開くと、アズナ=グランフォードが、落ち着いた足取りで現れた。群青の制服に白のケープ、香を纏ったその姿は、どこか神殿の聖女を思わせる気品と静謐さを帯びている。
その場にいたのは、学院の中でも最上位の教師陣――
そして、倫理科担当のライナス=グレイブ。
彼が立ち上がり、アズナに向かって一礼したのは形式ではなかった。
もはや、彼女に対して敬意なく言葉を向ける者は、学院内にはほとんど残っていない。
「アズナ=グランフォード様。本日は、正式な協議のもと、お話を伺いたい」
「はい、喜んでお受けいたしますわ」
変わらぬ微笑。まったく揺らがない表情。
ライナスは、深く息を吸って切り出した。
「……ここ最近、生徒たちが“同じ夢”を見る現象が発生している。その原因と見られる香の成分を調査した結果、複数の感情誘導系物質が散布されていたと判明した」
アズナは首を傾げ、静かに答える。
「その香りは、わたくしが“癒し”のために調香したものです。人を操作する意図など、これまで一度も持ったことはございませんわ」
「意図があろうとなかろうと、あなたは今――確かに人を支配している」
ライナスの声が、少しだけ強くなった。
「生徒たちは、あなたに微笑まれたくて行動を選び、あなたの香りを模倣し、ついには“夢の中”にまであなたの姿を招いている。
それは、言葉を使わない支配だ。……君は、もう他者の意志の領域に踏み込んでいる」
その言葉に、空気が重くなる。
だが、アズナの顔色は変わらなかった。
むしろその笑顔は、さらに柔らかくなったようにすら見えた。
「――それでも、皆さまがその中で、安らかに過ごしておられるのなら。
わたくしにとって、それ以上のことはございませんの」
一瞬、会議室の空気が止まった。
その言葉には、偽りのない真摯さがあった。
無自覚なまま行われる“優しい侵食”。
善意から始まり、信頼によって強化され、ついには“誰も否定できなくなる”在り方。
ライナスは口を開きかけ、だが言葉を継げなかった。
アズナは支配を否定しない。
だが、それを“正義”とも“悪”とも名指ししない。
ただ、そこにあることを受け入れている。
「――わたくし、すべてを守ることはできません。けれど、誰かの痛みが少しでも和らぐならば、それが“支配”と呼ばれるものでも、構いませんわ」
その言葉に、教師たちは言葉を失った。
もはや止める術は、存在しないのではないか。
アズナが目指すのは統治ではなく、共感という名の“全体同調”。
それは命令より強く、恐怖より深く、疑問を飲み込んでしまう。
彼女の笑顔の前では、問いすら力を失うのだ。
ライナスは最後に目を伏せ、記録書にこう書き記した。
《微笑とは、最も穏やかな支配である。
彼女は、それを選んだのではなく――
もとより、そう“在る”ことを選ばれて生まれてきたのかもしれない。》
その日、誰よりも危機感を抱いた者の筆が、
その支配の輪郭を最初に描き出していた。
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